拓司の言葉は一つ一つが啓司の心を突き刺した。啓司は黙り込んだ。その沈黙に気を良くした拓司は、さらに追い打ちをかけた。「兄さん、紗枝ちゃんは本当に兄さんのことを愛してると思う?僕への愛を、兄さんに向け変えただけなんだよ」「僕がいなければ、紗枝が兄さんと一緒になることなんてなかったはずさ」「知ってる?昔、紗枝ちゃんは僕の腕にしがみついて、ずっと一緒にいたいって言ってたんだ」「……」拓司の言葉が聞こえない紗枝には、啓司の表情が険しくなっていくのが見えた。長い沈黙の後、やっと携帯を返してきた。「何を話してたの?」紗枝は不思議そうに尋ねた。啓司は紗枝を抱き寄せ、どこか掠れた声で答えた。「なんでもない」紗枝は彼を押しのけようとした。「離して」周りの人の目もあるし、それに考え直したいと言ったばかり。そう簡単に元の関係には戻れない。しかし啓司は聞く耳を持たなかった。周りのボディガードたちは、一斉に背を向けた。啓司は低い声で囁いた。「紗枝、あの手紙に書いてあったこと、本当だったのか?」かつて紗枝は手紙で、自分は一度も啓司を好きになったことはない、ずっと人違いをしていたと書いた。紗枝は一瞬戸惑った。なぜ突然手紙の話が出てきたのか分からなかったが、否定はしなかった。「ええ」「じゃあ、昨夜は?」「薬を飲まされてたんでしょう?」紗枝は問い返した。薬の影響でなければ、あんなことにはならなかったはず。啓司の喉に苦い味が広がった。「じゃあ、海外から戻ってきてからは、どうして何度も……」「はっきり言ったでしょう?ただあなたを手に入れたかっただけ。だって今まで一度も手に入れられなかったから。三年も付き合ったのに、悔しくて」紗枝は言い返した。紗枝は啓司の記憶が戻った今こそ、別れ時だと思っていた。そもそも二人は、違う道を歩む人間だったのだから。「手に入れたら、もう出て行くつもりか?俺の子供を連れて」啓司は一字一句、噛みしめるように言った。紗枝は息を呑んだ。彼が言っているのはお腹の双子のことだと気付いて。認めたくなくても無駄だと分かっていた。妊娠中はほぼ毎日、啓司と一緒にいたのだから。「子供が生まれたら、会いに来てもいいわ」紗枝は夏目家の財産を取り戻さなければならず、当分は桃洲市を離れるつもり
紗枝の瞳が鋭く細まり、一瞬で緊張が走った。「何を言ってるの?あなた誰?」男は答えず、嘲るように言い捨てて電話を切った。「息子が一晩失踪しても気付かないなんて、随分と大らかな母親だな」一晩失踪?紗枝は反射的に逸之のことを思い浮かべた。すぐに電話をかけ直す。牡丹別荘では、逸之が家政婦の作った朝食を食べ終えたところで、やっと母からの電話を受けた。興味津々な様子で尋ねる。「ママ、啓司おじさん見つかった?」「ママ」という声を聞いた途端、紗枝の張り詰めていた神経が一気に解けた。連れ去られたのは逸之ではなく、澤村家で過ごしているはずの景之だったなんて、まったく考えもしなかった。「逸之、家で大丈夫?何もなかった?」「別に何もないよ?どうしたの?」逸之は首を傾げた。「ううん、何でもないの。大丈夫なら良かった。絶対に勝手に外に出ちゃダメよ。家政婦さんと一緒に家にいるのよ」紗枝は念を押した。詐欺電話だろうと考え、深く気にはしなかった。......とある工場の中。目覚めた景之は周りを見回した。廃工場のようで、人気はない。かすかに正門の辺りを巡回している数人の姿が見える。紗枝に電話をかけている男の声も聞こえていた。景之はやっと理解した。自分が誘拐されたのは、昨日のズボン事件とは関係ないらしい。眉を寄せながら、声を上げた。「トイレに行きたい」外の男たちは彼の声を聞きつけ、一人がドアを開けて入ってきた。顔に傷跡のある男だった。「うるせえな。そのままお漏らしすりゃいいだろ」傷跡の男は苛立たしげに言った。景之は声で分かった。母に電話をかけていたのはこの男だ。「お漏らしじゃ汚いし、こんな寒いのに凍え死んじゃうよ。僕が死んじゃったら、身代金どうするの?」景之は、なぜ自分が誘拐されたのか探りを入れようとしていた。傷跡の男は目の前の幼い子供を見て、警戒心もなく冷笑した。「身代金なんか要らねえよ。お前の母親、そんなに金持ちか?」身代金目的じゃない?「ママはお金持ちじゃないけど、パパはすっごくお金持ちだよ」景之は大きな瞳を見開いて男を見つめた。「お金じゃないの?なんでなの?テレビの誘拐犯は、みんなお金欲しがるのに」「はっはっは……」傷跡の男は思わず笑みを零し、小さな肩を叩いた。「坊主、おじさんを恨むなよ。
傷跡の男は即座に拒否した。「警察に通報しようってか?なかなか頭が回るじゃねえか、坊主」「おじさん、ゲームがしたいだけだよ。電話なんてしないって」景之の瞳には純粋な思いが宿っていた。傷跡の男はそう簡単には騙されなかった。「黙れ。もう喋ったら口を縫い合わせるぞ」景之は諦めざるを得なかった。周囲を見渡し、逃げ出せる機会を探った。だが現実は厳しかった……子供一人では傷跡の男にすら太刀打ちできない。ましてや他の仲間までいるというのに。今できる唯一の手は、自分のいる場所を和彦に知らせることだった。昨夜帰らなかった自分を、きっと和彦たちは必死で探しているはずだ。しかしこの非情な傷跡の男が通信機器を渡すはずもない。他の連中から何か方法を見出すしかなかった。......その日、澤村家は大騒ぎとなっていた。景之の失踪を知った澤村お爺さんは、桃洲市の街を裏返してでも景之を見つけ出せと厳命を下した。「誰だ、我が澤村家に逆らおうなどと。見つけ出したら、皮を剥いでやる」澤村お爺さんの目は凄みを帯びていた。そう言うと、今度は和彦を叱りつけた。「トイレに行ってから二時間も経っているのに、探しにも行かないとは。お前は随分と大らかじゃないか」和彦は今や心が掻き乱されていた。既に景之への愛着が芽生えていたことは置いておいても、景之は啓司の息子なのだ。啓司が息子の事件を知ったら、自分の皮も剥がれることだろう。「私の不注意でした」和彦は眉を寄せた。「どういうことなのか分かりません。誘拐といえば金目的のはずです。なのに連れ去ったきり、一度も連絡してこないとは……」「敵の仕業かもしれんな?」澤村お爺さんが尋ねた。和彦の敵となると、啓司以上に多かった……和彦の表情が一層険しくなる。もし自分の敵だったら、景之はもう生きてはいないだろう。すっかり取り乱していた清水唯を連れて外に出た和彦。「とにかく、黒木さんに報告しないと」「啓司さんに?」唯は目を丸くした。「他にどうする?うちの人間だけじゃ遅すぎる。黒木家の人間も総動員すれば、一日もあれば死体だって見つかるはずだ」死体……唯の顔が一層青ざめた。「あなたが注意を怠ったから、景ちゃんが連れ去られたのよ」「私も一緒に行けば良かった。あなたが止めるから……」
啓司は電話を切ると、すぐに先ほど紗枝にかかってきた番号の調査を命じた。そして和彦から送られてきた映像も入手し、昨日トイレに入った黒服の男たちを徹底的に捜索させた。和彦が告げる。「黒木さん、昨日は逸ちゃんもトイレに入ったんです。黒服の連中はその後に入っていきました」「つまり、逸ちゃんを狙っていたが間違えたということか?」「確信はありません。ただ、もし私の敵だとしたら、今頃は景之のことを私に知らせてくるはずです」啓司は朝、紗枝にかかってきた電話のことを思い出した。「分かった」紗枝は今日、なぜか落ち着かない気持ちを抱えていた。あの電話のことを考え、そして傍らにいる逸之を見ながら、ようやく景之のことを思い出した。頭を軽く叩きながら呟く。「妊娠してから頭が回らなくなったわ」紗枝はすぐに唯に電話をかけた。「唯、景ちゃんはそっちにいる?」和彦から「紗枝さんは身重だから、心配をかけないでくれ」と言われていた唯は、嘘をつくしかなかった。「ええ、いるわよ。どうしたの?」「今何してるの?電話代わってもらえる?」紗枝が尋ねる。「ちょっと無理かな。お爺さんと将棋をしているの」唯は答えた。「そう、わかったわ」紗枝は電話を切り、少し心が落ち着いた。......工場では、傷跡の男が紗枝からの折り返しの電話を待ちくたびれていた。立ち上がって外に出ると、鈴木青葉に電話をかけた。「ボスよ、この夏目紗枝という女は息子の命なんてどうでもいいらしい。昨夜子供を連れ出したのに、探しに来た様子もない。ただ……」「ただ何?」「澤村家の者たちが必死で探しているようです」傷跡の男は相当の手練れで、すぐに位置を特定されていることに気付くと、部下に命じた。「子供を車に乗せろ」青葉は彼を常に信頼していた。「澤村家なんて怖がることはないわ。紗枝が息子を気にかけないというのなら、橋から吊るして見せつけてやりましょう」「まさか、本当に子供の命を?」傷跡の男は信じられない様子だった。青葉は商界では冷酷な手腕で知られていたが、子供に手を上げたことはなかった。彼女が答える前に、傍らにいた昭子が口を開いた。「鈴木さん、子供を誘拐した以上、もう戻すわけにはいかないでしょう?あの女の子供を傷つけるなら、まず希望を与えるべきよ」
紗枝は、橋から吊るされた景之の小さな体を目にした。まるで次の瞬間にも川面へと落ちてしまいそうだった。その光景に、言葉を失った。「夏目さん、ボスからの伝言です。大人しく桃洲市を出て行けば、子供は解放する」「このまま居座るつもりなら、子供の命はないと」紗枝は一瞬の躊躇いもなく答えた。「分かったわ。出て行くから、景ちゃんを解放して」だが傷跡の男は昭子の指示通り、景之を解放しなかった。「そう簡単に信じられませんね」車を橋に向けて走らせながら、紗枝は問いかけた。「じゃあ、私に何をしろというの?」「ナイフは持ってますか?」紗枝は周りを見回した。「ないわ」「では何か尖ったもので、自分の顔を切りなさい」鈴木青葉に半生仕えてきた傷跡の男だが、子供を人質に女性に自傷行為を強いるのは初めてだった。心の中で深いため息をつく。女が簡単には応じないだろうと思っていたが、次の瞬間、電話の向こうから悲鳴が響いた。紗枝はピアスを外すと、右頬を深く切り裂いた。鮮血が流れ出す。「や、やったわ……早く息子を解放して、お願い!!」相手との確執が何なのかも分からない。今は景之の命だけが全てだった。顔どころか命さえも差し出す覚悟があった。ただ息子が生きていてくれれば。これこそが母親の本能。我が子のためなら、何も恐れない。「本当に切ったのか嘘か、分からないな。動画を送ってもらおうか」紗枝はハンドルを握りながら、動画を送信した。傷跡の男は送られてきた動画を見て、その女の決意の固さに感服せずにはいられなかった。すぐさまその動画を昭子に転送した。動画を見た昭子は、かつてないほどの喜びを見せた。「ママ、あの女の顔に傷が残れば、もう拓司を誘惑することもできないでしょう?」青葉は無表情で一瞥したが、どういうわけか胸が締め付けられた。おそらく、かつて自分も似たような経験をしたからだろう。「もういいわ、昭子。これで終わりにしましょう」だが昭雪は終わるつもりなどなかった。「左側の顔はまだ無傷じゃない。鈴木さん、左側も切らせて」傷跡の男は、このお嬢様は甘やかされすぎだと感じた。母親にこれ以上の苦痛を与えたくなかった。周囲を見渡すと、橋には救出の人々が迫っていた。「もう無理です。澤村家と黒木家の者が来ています」昭子は
啓司は今まさに大橋に向かおうとしていた。紗枝に電話をかけ続けるが、常に話し中だった。今や子供の事件がネットで話題になっており、紗枝はきっと目にしているはずだ。彼女に何かあってはならない!万が一の事態に備え、すでに多くの船が川に配置されていた。ヘリコプターもこちらに向かっている!時間が刻一刻と過ぎていく中、傷跡の男はヘリコプターを見上げながら、決断を躊躇していた。昭子もニュースを見つめながら言った。「馬鹿ね、ヘリコプターや船なんかじゃ、この子は助からないわ」「鈴木おじさんはまだロープを切らないの?たった数秒の作業なのに」鈴木青葉はネットニュースを見ながら、養女の様子を窺った。「昭子、あの子も何かあなたに害を与えたの?」昭子は一瞬動きを止め、自分の立場を思い出したかのように答えた。「ママ、あの子はもしかしたら黒木家の子じゃないかもしれないのよ」「黒木家の子じゃないというだけで、死ななければならない理由になるの?」青葉は理解できなかった。自分が育てた娘が、どうしてこんなにも冷酷になってしまったのか。昭子は言い返した。「ママ、あなたが教えてくれたじゃない?証拠は残さないって」「もし私たちがあの女の息子を解放して、その子が大きくなって、私たちが母親の顔を傷つけたことを知ったら?その子が私に復讐してきたらどうするの?」と昭子は言った。青葉は確かに娘に、証拠を残さないように教えていた。しかし、誰彼構わず殺せとは言っていない。紗枝は単に昭子の婚約者を誘惑しただけなのに、殺さなければならないのか。「昭子、これが最後よ」青葉は突然、今回は昭子の言葉を信じすぎたのかもしれないと感じ始めていた。子供がいて、その子供のためなら躊躇なく自分を傷つける女が、他人の婚約者を誘惑するだろうか。「鈴木おじさんに電話するわ。どうして電話に出ないの?」昭子は子供の死を目にしていないことにいら立ち、何度も傷跡の男に電話をかけ続けた。高所に立つ傷跡の男は、すでに決意を固めていた。「この子を害するわけにはいかない。こんなに幼い子に、何の罪があるというんだ」うんだ」これまで青葉に従い、彼らを傷つけた敵への制裁は何度も行ってきた。だが、目の前にいる景之は、明らかに罪のない子供だった。宙づりにされたまま、景之は諦め
紗枝は今、ただ景之の命が助かることだけを考えていて、自分の言葉の意味など考える余裕はなかった。ただ必死に啓司の手を掴んでいた。「啓司さん、景ちゃんを助けて。無事なら……もう離婚なんて言わないわ。私、ここに残るから……」彼女の涙が次々と零れ落ち、顔の血と混ざり合って啓司の手の甲に落ちた。啓司が手を伸ばして彼女の涙を拭おうとした時、顔の粘つきに触れ、はっと気付いた。「顔はどうしたんだ?」彼は紗枝の体から漂う血の匂いに気付いた。「あの人たち……私が顔を傷つければ、景ちゃんを解放すると言ったの。でも……」啓司の胸が急に締め付けられるような痛みを覚えた。傷は見えなくとも、手のひらに感じる血の粘つきが全てを物語っていた。「牧野!医者を呼べ!」彼らが来る時、緊急事態に備えて医療チームも同行していた。牧野も我に返った。「はい!」「大丈夫、医者なんて必要ないわ……」紗枝は拒否した。「言うことを聞け。必ず景ちゃんは無事だと約束する」啓司の約束に、紗枝は少し落ち着きを取り戻したものの、その場を離れたくはなかった。啓司はすぐに医者を呼び、診察させた。医者は紗枝の顔の傷を見て驚愕した。これほど深い傷痕は一体どうやって?医者は紗枝の傷の消毒を始めた。一方、ヘリコプターがようやく景之の真上に到着した。プロペラの風で子供を傷つける危険があるため、はしごを降ろして人力での救助を開始するしかなかった。和彦は緊張しながら救助を見守り、同時に傍らの紗枝のことも心配していた。景之は救助隊を見つけると、冷静に手を差し伸べた。ネットではライブ配信が行われていた。多くの視聴者が、息を詰めて見守っていた。この幼い子供の落ち着きぶりに、皆が驚嘆の声を上げていた。「すごい子供だな。俺なら足がガクガクになってるよ」「よかった、やっと抱きかかえられた!」救助隊員が景之を抱きかかえた瞬間、昭子以外の全員が安堵のため息をついた。昭子は画面の前で足を踏み鳴らしていた。「鈴木おじさんは何してるの?どうして電話に出ないの?なんであの子を助けるの?」青葉もその様子を見ていた。「昭子、もういいの。仕返しはできたでしょう」「これで紗枝も大人しくなるはず」その時、傷跡の男から電話がかかってきた。「ボス、申し訳ありません。あ
騒動が収まり、景之と紗枝は検査のため病院へ搬送された。景之に大きな怪我はなく、問題は紗枝の顔だった。「夏目さんの顔の傷は深刻です。治っても、おそらく痕が残るでしょう」医師は診察後に説明した。「後日、形成手術が必要になると思われます」紗枝は景之が無事なら、自分の顔の傷など気にならなかった。今、彼女が一番知りたいのは、誰が景之を誘拐したのかということだった。電話をかけてきた番号を調べたが、既に使われておらず、手掛かりは途切れていた。景之は記憶を頼りに、傷跡の男の似顔絵を描いた。「あの人は誰かに命令されていたの。電話で確認してたのを聞いたから」景之は一瞬躊躇してから続けた。「電話の向こうの人は、僕を殺すように言ってたみたい。でも、あの人は気の毒に思ったのか、そうしなかった」紗枝はそれを聞いて更に恐ろしくなり、首謀者を必ず見つけ出すと決意した。景之は紗枝の右頬を覆う包帯を見つめ、胸が痛んだ。「ママ、すごく痛いでしょう?僕が吹いてあげようか?」以前、包丁で指を切った時、ママはいつもそうやって痛いところを吹いてくれたのだ。紗枝は息子の優しさと思いやりに、頭を下げた。「ありがとう」景之は優しく吹いてあげた。「もう全然痛くないわ」紗枝は息子を安心させようとした。景之は決して鈍感な子供ではなかった。救助された時に見たママの顔の深い傷。あれだけの傷がどうして痛くないはずがあるだろう?一体誰がママの顔を傷つけようとしたんだろう?そして、自分の命まで狙って……病室の外では、啓司と和彦が今回の事件について話し合い、唯が医師から詳しい状況を聞いていた。状況を把握した唯は病室に入った。「紗枝ちゃん、ごめんなさい。私が景ちゃんをちゃんと見ていなかったから、こんなことに……」紗枝は彼女を責めなかった。「唯、これは誰のせいでもないわ。私が狙われていたのよ」傷跡の男は紗枝に電話をかけ、最初は桃洲市から立ち去るように言い、その後で自分の顔を傷つけるように要求した。紗枝は美希のことかもしれないと思った……景之を外に出してから、その推測を唯に打ち明けた。唯は信じられない様子だった。「でも、あの人はあなたの実の母親よ!景ちゃんの祖母なのに、そんなひどいことができるなんて」紗枝は苦笑した。「あの人は一度も私
紗枝は抵抗せず、天井を見つめながら、啓司に話しかけるような、独り言のような口調で続けた。「今でも分からないの。なぜあんなに私を憎んでいたのか……」「昔は、女の子が嫌いなのかと思ってた。冷血な人なんだって。でも今日見たの……」「病気で苦しいはずなのに、昭子にバッグを届けようとしてた。昭子が自分のことを嫌がってるって聞こえてたはずなのに、聞こえないふりをして……」「あんなに卑屈な様子、母らしくないわ」啓司は紗枝の手を強く握りしめた。「俺がいる」「もう怒ってないの?」紗枝は啓司の方を振り向いた。「相殺しないか?」啓司は問い返した。「相殺?」「俺が三年間冷たくした分と、お前が子供を連れて四、五年離れていた分。相殺して、やり直せないか?」啓司の声は静かに、しかし切実に響いた。紗枝は喉に込み上げるものを感じながら、啓司に向き直って抱きついた。突然の抱擁に啓司の体が強張る。やがてゆっくりと腕を回し、より強く紗枝を抱き寄せた。自制を効かせながら、紗枝の眉間に軽くキスを落とす。喉仏が微かに動いた。「これからは何かあったら、すぐに俺に言ってくれ。また突然いなくなるのは……」返事の代わりに、紗枝は顔を上げ、啓司の喉仏に唇を寄せた。その瞬間、啓司の理性は崩れ落ち、紗枝を押し倒した。......翌朝、朝食を済ませても両親が起きてこないことに、逸之は首を傾げた。声をかけようと部屋に向かおうとしたところを、家政婦に制された。「逸之ちゃま、お父様とお母様は昨夜遅くまでお休みになれなかったので、起こさない方が……」家政婦の部屋からは主寝室の明かりが見えるため、そう察していたのだ。「おばさん、母さんと父さん、昨日は一緒に寝たの?」逸之は小声で尋ねた。「ええ、主寝室の明かりだけでしたし、他のお部屋も使った形跡がありませんでした」昨夜は早く寝てしまい、両親を同じ部屋に寝かせるのを忘れていた逸之。でも両親が自然と同じ部屋で……まあ、毎日一緒に暮らしてるんだし、若い二人が……「おばさん、学校行ってきます!」逸之は嬉しそうな表情を浮かべながら手を振った。「いってらっしゃい」昼過ぎになってようやく目を覚ました紗枝は、昨夜のことを思い出して頬が熱くなった。何がそうさせたのか、啓司と話しているうちに、気付けば…
自分が愛だと思い込んでいたものの為に、本当に自分を愛してくれていた人を捨ててしまったことへの、深い後悔が。「あなた、私のことを恨んでいるでしょうね」涙を拭いながら、美希は呟いた。世隆は本当に忙しいのだ、昭子だって用事があるから付き添えないだけ——そう自分に言い聞かせた。ふと、スマートフォンを開いているうちに、古い家族グループを覗いていた。紗枝、太郎、自分、そして夫。四人家族のグループだ。そこには、夫が他界する直前に送ったメッセージが残されていた。「美希、娘の結婚式、このスーツで格好いいかな?」紗枝「お父さん、すっごくかっこいい!」美希「ダサすぎ」「じゃあ、別のにして驚かせるよ」これが、グループでの彼の最後の言葉となった。さらに上へとスクロールしているうちに、紗枝とのプライベートメッセージが開かれた。自分の命と引き換えに育ての恩を返した紗枝とのやり取りは、それ以来途絶えたままだった。スクロールしていくと、六年前の紗枝からのメッセージが目に入った。「お母さん、お誕生日おめでとう。今日買ったケーキ、食べた?」「お母さん、怒らないで。体に毒だよ。風邪引いてるみたいだから、梨の氷砂糖煮作ったの」「お母さん、離婚したい。もう人に頼らなくても大丈夫」「お母さん、私が働いて養うから。心配しないで」それらの温かなメッセージに対する自分の返信は、どれも冷たいものばかりだった。かつての紗枝からのメッセージを眺めながら、美希の脳裏には、幼い頃から今までの紗枝の姿が次々と浮かんでいった。母がバレリーナだと知った紗枝は、人一倍の努力を重ねた。ステージで踊る姿を見せて、母である自分を誇らしく思わせたいという一心で。今でも覚えている。舞台から降りてきた時の、血豆だらけの足を。あの旅行の時も。山で綺麗な花を見つけた自分が一言感心しただけで、紗枝は危険も顧みず摘みに行って、あわや足を折るところだった……数え切れないほどの思い出が押し寄せてきて、美希は慌ててスマートフォンの電源を切った。「あんな恩知らずのことなんて考えることないわ。所詮他人の子じも」「聴覚障害者なんて、何の才能も実績もない子が、どうして私の娘になれるっていうの?」独り言を呟く声が、空しく病室に響いた。布団に潜り込んでも、なかなか眠れない。
美希が一人で歩き出すと、後ろで介護士たちが小声で話し始めた。「可哀想に。あんな重い病気なのに、旦那さんも息子さんも来ないなんて。娘さんだってちょっと顔を出すだけで」「ほんと。あの娘さんったら、着飾ってはいるけど、お母さんがベッドを汚した時の、あの嫌そうな顔といったら」「お金があっても、幸せとは限らないわねぇ」後ろの介護士たちの会話が耳に入り、先ほど病院の入り口で昭子が言っていた言葉が脳裏に蘇った。「何を勝手なことを!」突然、美希は激しい口調で言い放った。「私の夫がどれだけ私を愛しているか。息子だって仕事が忙しいだけよ。娘だって毎日私のことを心配して見舞いに来てくれる」「あなたたち、ただの妬みでしょう!」介護士たちは即座に口を閉ざし、それ以上何も言えなくなった。病室のベッドに横たわった美希の耳には、先ほどの昭子の嫌悪に満ちた言葉と、介護士たちの心無い噂話が繰り返し響いていた。「もう最悪。ベッドで漏らすし、部屋に入った時は吐き気がしそうだったわ」「鈴木青葉の世話だってしたことないのに。実の息子も見向きもしないくせに」「ほんと。あの娘さんったら、着飾ってはいるけど、お母さんがベッドを汚した時の、あの嫌そうな顔といったら」プライドの高い美希が、娘の本心を認めるはずもなかった。それに、全ての望みをこの娘に託し、二度と踊らないという誓いさえ破り、夏目家の財産を鈴木家に譲るところまでしたのだ……美希は携帯を手に取り、世隆に電話をかけた。しばらくして、やっと通話が繋がった。「また何かあったのか?」苛立ちの混じった世隆の声。その語調に気付かない美希は尋ねた。「あなた、まだ仕事?いつ来てくれるの?一人は寂しいわ」「言っただろう?会社でトラブルがあって、今は本当に忙しいんだ。介護士も二人つけてやっただろう?暇なら彼女たちと話でもしていろ」美希が何か言いかけた時、世隆は一方的に電話を切った。かつての美しい妻が、今や病に侵された中年女性となった美希に、世隆はもはや一片の関心も示さなくなっていた。華やかな女性秘書が世隆の傍らで微笑んだ。「社長、そんなにお怒りにならないで」胸に手を当てて、なだめるように軽く叩く仕草に、世隆は秘書の手を掴んだ。「あの女が死んだら、君と結婚しようか?」二人の笑い声がオフィスに
太郎の言葉に、拓司は平静を保ったまま答えた。「紗枝さんの選択は、尊重すべきだ」今や太郎は、姉を拓司のもとに無理やりにでも連れて行きたい気持ちでいっぱいだった。「拓司さん、ご存じないでしょう。姉が啓司と結婚した時、あいつは義父の家を助けるどころか、逆に潰しにかかったんです。夏目家を破滅させたのは、あいつなんです」太郎には、夏目家の没落が自分に原因があるとは、今でも思えていなかった。かつて母親が黒木家に金を無心しに行ったことも、自分が会社と父の遺産を手放してしまったことも、すっかり忘れてしまっているようだった。「心配するな。これからは私がしっかりと支援しよう」拓司は静かに告げた。太郎は感極まった様子で大きく頷いた。きっと一流の実業家になって、自分を見下してきた連中を見返してやる――......一方、電話を切られた昭子は、激しい怒りに駆られていた。息子なのに母親の面倒も見ない太郎。なぜ娘の自分が世話をしなければならないのか。昭子は携帯を取り出し、父親の世隆に不満を漏らそうとした。しかし、昭子がバッグを忘れたのを気にした美希は、痛む体を押して追いかけてきていた。そして、昭子の言葉が耳に入った。「もう最悪。ベッドで漏らすし、部屋に入った時は吐き気がしそうだったわ」「鈴木青葉の世話だってしたことないのに。実の息子も見向きもしないくせに」「あの人の財産がなければ、とっくに……」言葉の途中で振り返った昭子は、すぐ後ろに立ち尽くす美希の姿を目にした。慌てて電話を切り、作り笑いを浮かべる。「お母さん!どうして出てきちゃったの?まだ歩いちゃいけないって……」昭子は心配そうに駆け寄った。先ほどの嫌悪感など微塵も感じさせない表情で。美希は一瞬、自分の耳を疑った。だが何も言わず、ただバッグを差し出した。「昭子、バッグを忘れてたから」昭子は何の気兼ねもなく受け取った。「ありがとう、お母さん。じゃあ行くわね。お体に気をつけて、早く部屋に戻ってね」車に乗り込んだ昭子は、ほっと胸を撫で下ろした。聞かれてないはず……だって聞いていたら、母さんが黙っているはずがない。昭子は何食わぬ顔で運転手に出発を命じた。二人とも、近くに停めてある黒い車に見覚えのある人物が乗っているとは気付かなかった。後部座席
病室には、紗枝が去って間もなく異変が起きた。激痛に耐えかねた美希の容態が急変し、昭子が部屋に入った時には、既に不快な臭気が漂っていた。「昭子……」美希は恥ずかしそうに娘を見つめた。「介護人を呼んでくれない?我慢できなくて……シーツを汚してしまったの」その言葉の意味を理解した昭子の顔に、一瞬、嫌悪の色が浮かんだ。「お母さん、まだそんな年じゃないでしょう。どうして……」「ごめんなさい。病気の後遺症なの。昭子……私のこと、嫌いにならない?」昭子の前での美希は、いつになく卑屈な様子を見せていた。昭子は知っていた。確かに美希は資産の大部分を鈴木家に持ち込んだものの、まだ隠し持っている財産があるはずだ。父にも知らせていない秘密の貯金を。その分も死後は自分のものになるはず――「まさか!実の娘があなたを嫌うわけないじゃない。ただちょっとびっくりしただけ。これからどうしましょう……」昭子は優しく声を掛けた。「すぐに介護人を呼んで、それから医師や看護師にも診てもらいましょう」「ありがとう……」美希は安堵の表情を浮かべた。目の前にいるのは自分の実の娘。きっと自分を嫌うことも、傷つけることもないはず――昭子は急いで部屋を出ると、介護人に電話をかけた。やがて介護人がシーツ交換にやって来た。かつての誇り高い名バレリーナが、こんな姿になるなんて――誰が想像できただろう。医師の治療を受けた美希の容態は、何とか持ち直した。昭子は消毒液の匂いが漂う病室に居たくなかった。適当な言い訳をして、すぐに外へ出た。美希の前で孝行娘を演じなければならないとはいえ、こんな場所に長居する気など毛頭なかった。外に出ると、やっと新鮮な空気が吸える。昭子は太郎に電話をかけた。すぐに電話が繋がると、昭子は姉らしい口調で切り出した。「太郎、お母さんが病気なの。いつ戻ってくる?」拓司の支援で自分の会社を持つまでになった太郎は、その話を一蹴した。「昭子、母さんに伝えてくれ。もうそんな古い手は通用しないって。紗枝姉さんが母さんを告訴しようとしてるからって、病気のふりをしたところで無駄だ」もう鈴木家に頼る必要のない太郎は、昭子の名前を呼び捨てにしていた。「今回は本当よ。子宮頸がんの末期なの」昭子は不快感を隠しながら説明した。がんが見つかってから
美希は一瞬固まった。紗枝の言葉に何か引っかかるものを感じ、思わず聞き返した。「どういう意味?」「お父さんの事故……あなたと関係があるんじゃない?」「何を言い出すの!」美希の目に明らかな動揺が走った。その反応を見た紗枝の心は、さらに冷めていった。紗枝が黙り込むと、美希は自らの罪悪感に追い詰められるように話し始めた。「あの人の遺書に……他に何か書いてあったの?」紗枝は目の前の女性を見つめた。この人は自分の実の母親で、父の最愛の妻だったはずなのに、まるで見知らぬ人のようだった。「どうだと思う?」紗枝は逆に問い返した。美希の表情が一変し、紗枝の手首を掴んだ。「遺書を見せなさい!」紗枝は美希の手を振り払った。「安心して。法廷で公開するわ」実際の遺書には、太郎が役立たずなら紗枝が夏目家の全財産を継ぐことができる、とだけ書かれていた。美希の悪口など一切なかった。でも、紗枝は美希に疑わせ、恐れさせたかった。また激しい腹痛に襲われ、美希の額には冷や汗が浮かんでいた。「このバチ当たり、恩知らず!育てるんじゃなかったわ!」紗枝は美希の様子を見て、確信した。本当に重病を患っているのだと。因果応報というものかもしれない。紗枝が部屋を出ようとすると、美希が引き止めた。「なぜ私が昭子を可愛がって、あなたを嫌うのか、知りたくない?」紗枝の足が止まる。「昭子はあなたより優秀で、思慮深くて、私に似てる。でもあなたは……吐き気がするほど嫌!」その言葉だけでは飽き足らず、美希は更に罵倒を続けた。「このろくでなし!あなたの父が『残せ』と言わなければ、とっくに捨てていたわ。人間のクズね。実の母親を訴えるなんて。その母親が病気になったら、嘲りに来るなんて。覚えておきなさい。あなたには絶対に、永遠に昭子には及ばないわ」「呪ってやる。一生不幸になれ!」紗枝は背後からの罵声を無視し、廊下へと出た。そこで向かいから来た昭子とばったり出くわした。「妹よ」昭子は紗枝の顔の傷跡に視線を這わせながら、内心で愉悦を感じていた。こんな醜い顔になって、拓司はまだあなたを望むかしら?紗枝は冷ややかな目で昭子を見据えた。「義姉さんと呼んでください。私と美希さんは、もう母娘の関係は終わっています」それに、昭子のような冷酷な女の妹にな
牡丹別荘で、切れた通話画面を見つめながら、紗枝は最後に美希と会った時のことを思い出していた。顔面蒼白で、腹を押さえ、全身を震わせていた美希の姿が。あの様子は、演技とは思えなかった。しかも、二度も癌を言い訳にするなんて、逆に不自然すぎる。そう考えを巡らせた末、紗枝は病院へ様子を見に行くことを決めた。市立病院で、紗枝が病室へ向かう途中、思いがけず澤村和彦と鉢合わせた。紗枝の姿を認めた和彦は、彼女がマスクを着用していても、右頬から口元にかけて伸びる傷跡がはっきりと確認できることに気付いた。「お義姉さん」以前、幼稚園で景之を助けてくれた一件があり、紗枝は昔ほど冷たい態度ではなかったものの、親しげでもなかった。「ええ」そっけない返事を残し、紗枝は急ぎ足で上階の病室へと向かった。和彦は不審に思い、傍らの秘書に尋ねた。「病気か?」秘書はすぐにタブレットで確認したが、首を振った。「いいえ」そして見覚えのある名前を見つけ、報告した。「夏目さんのお母様が入院されているようです」「夏目美希が?」「はい」「どういう容態だ?」秘書はカルテを開き、声を潜めて答えた。「子宮頸がん末期です」和彦の目に驚きの色が浮かんだ。末期となれば治療の余地はほとんどない。生存期間は長くて一年か二年というところだ。「偽装の可能性は?」和彦は美希の収監が迫っていることを知っていた。「当院の専門医による診断です。通常、偽装は考えにくいかと」秘書は答えた。和彦は金の力の大きさを痛感していた。「念入りに調査しろ。この件に関してはミスは許されん」「承知いたしました」......病室の前に到着した紗枝は、軽くノックをした。美希は昭子が戻ってきたのだと思い、満面の笑みを浮かべた。「何よ、ノックなんてして。早く入っていらっしゃい」しかし扉が開き、紗枝の姿を目にした途端、その笑顔は凍りついた。「なぜ、あなたが……」紗枝は、この急激な態度の変化を予想していたかのように、平然としていた。「昭子に電話をさせたということは、私に来てほしかったんでしょう?」美希は冷笑を浮かべた。「不孝者に会いたいなんて誰が思うもんですか。これで満足でしょう?本当に癌になって、余命は長くて二年よ」いつもプライドが高く、美しさ
そこへ追い打ちをかけるように、紗枝から新しい通達が出た。園児の送迎時の駐車場の使用方法から、その他の諸々の規則まで、全面的な見直しを行うという内容だった。「明らかに私への報復じゃない!」夢美は歯ぎしりしながら、紗枝にメッセージを送った。「明一は黒木家の長孫よ。私のことはいいけど、明一に何かしたら、黒木家が黙ってないわよ」紗枝は苦笑しながら返信した。「あなたが私の子供をいじめていた時は、彼も黒木家の人間だって考えなかったでしょう?」夢美は不安に駆られた。このまま他のクラスメートが明一を避けるようになったらどうしよう……「紗枝さん、あなたは明一の叔母なのよ。あまりみっともないことはしないで」紗枝は夢美の身勝手な言い分を見て、もう返信する気にもなれなかった。人をいじめる時は平気で、自分が不利になると途端に「みっともない」だなんて。紗枝は前から言っていた。誰であれ、自分の子供に手を出せば、必ず百倍にして返すと。それに、子供が間違ったことをしたなら、叱らなければならない。明一の親でもない自分が、なぜ彼の我儘を許さなければならないのか。紗枝は早速、最近自分に取り入ろうとしていたママたちにメッセージを送った。要するに、以前景ちゃんに対してしたことと同じように、明一くんにも接するようにと。ママたちは今、夢美に対して激しい憤りを感じていた。多額の損失を出し、夫の実家でも顔が上げられなくなったのは、全て彼女のせいだと。明一は景之ほど精神的に強くなかった。幼稚園で遊び時間になっても、誰も相手にしてくれず、半日も経たないうちに心が折れてしまった。この時になって、やっと景之をいじめたことが間違いだったと身をもって知ることになった。帰宅後、夢美は息子を諭した。「今は勉強が一番大事なの。成績が良くなれば、お爺様ももっと可愛がってくれるわ。そうすれば欲しいものだって何でも手に入るのよ」「遊び相手がいないくらい、大したことじゃないでしょう?」明一は反論できなかった。でも、自分は絶対に景之には及ばないことを知っていた。だって景之は桃洲市の算数オリンピックのチャンピオンなのに、自分は問題の意味さえ分からないのだから。夢美には言えず、ただ黙って頷くしかなかった。幼稚園での戦いがこうして決着すると、紗枝は夏目美希との裁判
「それで、どう返事したの?」紗枝が尋ねた。「『お義姉さん、私に紗枝さんと付き合うなって言ったの、あなたでしょう?もう私、紗枝ちゃんをブロックしちゃったから連絡取れないんです』って答えたわ」唯は得意げに話した。「うん、上手な対応ね」紗枝は頷いた。「でしょう?私だってバカじゃないもの。投資で損した金額を他人に頼んで取り戻せるなんて、甘すぎる考えよね」「いい勉強になったでしょうね」唯は親戚たちの本質を見抜いていた。結局、自分のことなど何とも思っていないのだ。それならば、なぜ自分が彼女たちのことを考える必要があるだろうか。「そうそう、紗枝ちゃん。澤村お爺さまが話したいことがあるって」「じゃあ、かわって」紗枝は即座に応じた。電話を受け取った澤村お爺さんは、無駄話抜きで本題に入った。「紗枝や、保護者会の会長に立候補したそうだな?」紗枝と夢美の保護者会会長争いは幼稚園のママたちの間で大きな話題となっており、澤村お爺さんも老人仲間との話の中で耳にしたのだった。景之のことだけに、特に気にかかったようだ。「はい……でも選ばれませんでした」紗枝は少し気まずそうに答えた。「なぜ私に相談してくれなかったんだ?」老人の声は慈愛に満ちていた。「会長の席など、私が一言いえば済む話だ。任せておきなさい」「お爺さま、そんな……」紗枝は慌てて断ろうとした。澤村お爺さんが景之を可愛がっているがゆえの申し出だということは分かっていた。「遠慮することはないよ。私が若かった頃は、お前の祖父とも親しかったのだからな」澤村お爺さんはそう付け加えた。紗枝には祖父の記憶がほとんどなかった。生まれてすぐに出雲おばさんに預けられ、三歳の時には祖父は他界してしまっていたのだから。「お爺さま、もう保護者会の会長選は終わってしまいましたから……」「なに、もう一度選び直せばいい。お前が選ばれるまでな」澤村お爺さんは断固とした口調で告げ、紗枝の返事も待たずに電話を切ると、すぐさま行動に移った。この件で最も難しいのは、黒木おお爺さんの説得だった。しかし、澤村お爺さんが一本の電話を入れると、間もなく園長から通達が出された。前回の保護者会会長選出に公平性を欠く点があったため、本日午後にオンラインで記名投票による再選挙を行うという。マ