限界OL、女風のナンバーワン〝レイ〟を指名したら上司の特等席でした

限界OL、女風のナンバーワン〝レイ〟を指名したら上司の特等席でした

last updateÚltima atualização : 2026-06-15
Por:  三毛沢しっぽAtualizado agora
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人一倍性欲が強いのに、長い間彼氏がいないドジOLの甘崎りと。マッチングアプリで手痛い失敗をした彼女は、意を決して女性向け風俗のサイトを開く。そこでりとが目を奪われたのは、昼間自分を冷たく叱りつける完璧主義の鬼上司・鷲尾冴臣に酷似したセラピスト〝レイ〟のプロフィールだった――。

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Capítulo 1

01.限界OL

「はぁ、はぁ……っ、ん……」

 お互いの吐息が混じり合う、狭くて、どこか安っぽいビジネスホテルの客室。

 部屋の明かりは落とされ、枕元のスタンドライトだけが、不気味にオレンジ色の光を放っている。

 甘崎あまさきりとは、見知らぬ男の身体の下に敷き調えられていた。

 男の硬い胸板が押し当てられ、鼻を突くのは、どこのものとも分からない安価な香水と汗が混じったような匂い。りとが望んでいた展開とは、あまりにもかけ離れた現実がそこにはあった。

「ねえ、もっと力抜いてよ。そっちから誘ってきたんでしょ?」

 男の濁った声が耳元で鼓膜を震わせる。

 太い指が、りとのタイトスカートの裾を強引に捲り上げていく。ストッキング越しの太ももを撫で上げる手のひらが酷く不快で、りとの背中に一瞬にして無数の鳥肌が立った。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 りとは長い間、定まった彼氏がいない。決してモテないわけではなく、何度か付き合った人はいたものの、天真爛漫でドジな性格のせいか、いざ交際が始まると相手から「なんか思ってたのと違う」とあっさり振られてしまい、いつも恋愛が長続きしないのだ。

 けれど、りとには誰にも言えない秘密がある。

 実は、人一倍、〝性欲〟が強いのだ。

 夜、ベッドの中でひとりで処理するだけでは、もう限界だった。身体の芯から湧き上がるような、疼くような渇き。誰かに強く抱かれたい、激しく愛されたい、甘やかされながらとろけるような快感を味わいたいという欲求が、風船のようにパンパンに膨れ上がっていた。

 その結果、理性を失った彼女が手を出してしまったのが、手軽なマッチングアプリだった。

 プロフィール写真がそこそこイケメンで、優しそうなメッセージを送ってきた男。

「まずはホテルでゆっくり話そうよ」

 その言葉の裏にある意図を分かっていながら、欲求に抗えなかった自分が馬鹿だった。ホテルに入った途端、男は本性を現し、言葉のキャッチボールすらなく強引にりとをベッドに押し倒したのだ。

「んっ……、ちょっと、待って……っ!」

 男の唇が、りとの首筋に押し当てられる。じっとりと湿った感触。ちゅっ、という生々しい水音が響き、その瞬間、りとの脳内に強烈な警報が鳴り響いた。

 違う。私が求めていたのは、こんな、ドロドロとした、ただ男の欲望をぶつけられるだけの行為じゃない。もっとこう、胸が跳ねるような、愛のある、あるいは極上の快感に溺れさせてくれるような洗練されたセックスのはずだったのに。

「待てないって。ほら、ブラ外すよ」

「いや……っ!」

 パチン、と下着のホックが外される音が部屋に響いた。

 その瞬間、りとの中で恐怖が性欲を完全に上回った。

 火事場の馬鹿力とはこのことだろう。

「うわっ!?」

 りとは渾身の力で男の胸を突き飛ばした。

 油断していた男がベッドの上に仰向けにひっくり返る。その隙を見逃さず、りとは乱れた衣服を掻き集め、ベッドから飛び降りた。

「おい! 何すんだよ、ふざけんな!」

「ごめんなさいっ……!」

 脱ぎ捨てられたパンプスを掴み、バッグをひったくるようにして、りとはホテルの部屋のドアを開けた。

 背後から男の汚い罵声が聞こえたが、振り返る余裕なんてない。エレベーターを待つ時間さえ惜しく、非常階段の重い扉を開けて薄暗い階段を駆け下りる。ストッキングがどこかで引っかかって伝線していくのが分かったが、構っていられなかった。とにかく、この男から離れなければという一心だった。

 ホテルのロビーを駆け抜け、夜の街へと飛び出す。

 冷たい夜風が、火照った頬と、恐怖でガタガタと震える身体を容赦なく叩いた。

 大通りに出て、ネオンの光が眩しい場所でようやく立ち止まる。

 乱れた亜麻色のショートヘアを必死に両手で整えながら、りとは大きく息を吐き出した。

「はぁ……、はぁ……。死ぬかと思った……」

 ぽつりと、夜の街の喧騒に言葉が消えていく。

 衣服を整え、パンプスを履き直し、トボトボと駅へ向かって歩き出す。

「やっぱ……、マッチングアプリはだめかぁ……」

 深く、深いため息が出た。

 手軽に寂しさと欲求を埋められると思った自分が浅はかだったのだ。あんな怖い思いをするくらいなら、一生ひとりで悶々としている方がマシかもしれない。いや、でもこの持て余した熱はどうすればいいのだろう。

 りとは自分の無謀さを深く反省しながら、満員電車に揺られて家路についた。

 ――そして、翌日。

 昨夜の事件のせいで完全に寝不足のまま、りとは重い足取りで出勤した。

 本人は疲労困憊だというのに、亜麻色のショートカットの髪はいくらブラッシングしても、頑固な寝癖がピョンと跳ねたまま直ってくれない。メイクも心なしかノリが悪い。

「おはようございます……」

 営業部のオフィスに入り、小さな声で挨拶をする。

 いつもなら「おはよう!」と天真爛漫な笑顔で周りを和ませるりとだが、今日ばかりは覇気がない。同僚たちが心配そうな視線を向けてくるが、まさか「昨夜ホテルから逃げ出して寝不足です」なんて言えるはずもない。

「おい、甘崎」

 自分のデスクに荷物を置き、パソコンの電源を入れようとしたその瞬間、頭上から絶対零度の声が降ってきた。

 りとはビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げる。

 そこに立っていたのは、営業部一課の課長――鷲尾わしお冴臣さえおみだった。

 少し長めの茶髪をきっちりと整え、黒縁メガネの奥にある切れ長の瞳が、冷ややかにりとを見下ろしている。口元の右下にある小さなホクロが、彼の透き通るような白い肌の上で妙に艶っぽく目立っていた。

 仕事がめちゃくちゃできて、社長からの信頼も厚いが、その分部下には容赦がない。社内でも恐れられている、いわゆる〝鬼上司〟だ。

「昨日頼んでおいた見積書、まだ俺のデスクに上がっていないんだが?」

「あ、えっと、それは……今すぐやります!」

「今すぐ、ではない。始業前に俺のデスクに置いておくのが、前日に指示された仕事の基本だろう。君の脳みそは、鳥のように三歩歩いたら忘れる仕様なのか?」

 痛烈な皮肉。相変わらず、言葉のナイフが鋭すぎる。

 いつもなら、「すみません……っ!」と心の中で泣いて縮こまるところなのだが、今日のりとは少し違っていた。

 じっと、鷲尾の顔を下から見上げてしまう。

 整った鼻梁、薄い唇。ネイビーのネクタイは寸分の狂いもなく締められ、仕立ての良いスリーピースのスーツが、彼の引き締まった身体のラインを強調している。無駄な脂肪の一切ない、洗練された大人の男の身体。

(……怖い。めちゃくちゃ怖い。でも……)

 ドクン、と心臓が変な音を立てた。

 昨夜、あの下劣な男に襲われかけた反動だろうか。鷲尾の持つ、圧倒的な清潔感と、その裏にある冷徹な大人の男のフェロモンが、ダイレクトにりとの脳を刺激する。ほのかに香るハイブランドの香水が、昨夜の安物の匂いとは対極にあって、ひどく心地よかった。

(この人、すごく冷たいけど……めちゃくちゃ色気あるんだよなぁ……)

 もし、この冷たくて薄い唇で激しくキスされたら。

 この書類を捲る綺麗な長い指先で、私の身体のあちこちをなぞられたら。

 いつもは冷酷に命令を下すその低い声で、耳元で甘く淫らな言葉を囁かれたら――。

 想像しただけで、下腹部の奥がキュンと甘く疼いた。昨夜満たされなかった熱が、ふつふつと蘇ってくるのを感じる。

 まさか、毎日のように怒られている鬼上司相手に、朝のオフィスから発情してしまうなんて。

「……聞いているのか、甘崎。俺の顔に何かついているか?」

「は、はいっ! いえ、何も! すぐに、すぐに見積書を提出します!」

 鷲尾の鋭い視線に射抜かれ、慌てて思考を打ち消す。りとは顔を真っ赤にしてパソコンに向かった。鷲尾は「五分以内だ」とフンと鼻を鳴らし、自分のデスクへと戻っていく。

 その真っ直ぐで美しい背中を見送りながら、りとは自分の頬が熱を帯びているのを自覚して、机に突っ伏したくなった。

 けれど、りとの不純な妄想は、彼女自身のドジによってすぐに打ち砕かれることになる。

 その日の午後。

 オフィスの通路を、大量の会議用資料の束を抱えて歩いていたときのことだった。

 昨夜の寝不足と、頭の片隅に居座り続ける鷲尾への邪念のせいで、りとの足元はおぼつかなかった。

「あ……っ」

 何もない平坦なカーペットの床で、パンプスの先が見事に引っかかる。

 お約束のように、りとの身体は前方に大きく傾き、バランスを崩した。抱えていた書類が手から離れ、宙を舞う。

 「うわあああ!」という情けない悲鳴とともに、りとが床に派手にスライディングする。

 バサバサバサッ、と乾いた音を立てて、オフィスのあちこちに散らばる重要書類。静かだった社内に響き渡る音に、全員の視線が一斉にりとへ注がれた。

「……何をやっているんだ、君は」

 目の前に、塵一つなく磨き上げられた黒い革靴が現れた。

 恐る恐る視線を上に滑らせると、そこには、般若のような、いや、氷の彫刻のように冷たい表情でこちらを見下ろす鷲尾が立っていた。黒縁メガネの奥の目が、完全に据わっている。

「す、すみません! すぐ片付けます!」

「これで何度目だ、甘崎。君は足元を見て歩くという、幼稚園児でもできることができないのか? それとも、社内に書類の雨を降らせるのが君の新しい趣味か?」

 鷲尾はため息ひとつ吐かず、ただ冷淡に、事実だけを突きつけるように言った。

 周りの社員たちが、同情と呆れの混じった視線をりとに向けている。

「この書類には、他社の機密情報や未発表のプロジェクト概要も含まれている。もし紛失したり、部外者に見られたりしたらどうするつもりだ。君の『ドジでした』という一言で済まされる問題じゃない。責任の重さを理解しているのか」

「はい……、本当に、申し訳ありません……」

 りとは床に膝をついたまま、真っ赤になって必死に書類をかき集める。

 鷲尾はそれを手伝うこともなく、ただ冷たく一瞥すると、「三十分後の会議までに一部の欠損もなく揃えておけ」と吐き捨て、そのまま会議室へと歩き去っていった。

(……かっこいいけど、やっぱり鬼だ〜〜〜!)

 さっきまでの〝ムラっとした気持ち〟はどこへやら、りとは心の中で血の涙を流した。

 あの徹底した冷徹さ。あの容赦のなさ。やっぱり、あの人は恋愛対象とか、そういう次元の人間じゃない。ただの仕事の鬼だ。隙なんて一ミリもない。

 書類を集め終え、自分の席に戻りながら、りとはこっそりとオフィスを見渡した。

 ……はぁ。

 社内を見回しても、ため息しか出ない。

 他の男性社員といえば、髪はボサボサでフケが落ちていたり、スーツのサイズが合っていなくてヨレヨレだったり、デスクの上はお菓子のゴミだらけだったり。優しくて話しやすい人はいるけれど、男としての魅力を感じるかと言われれば、正直、全員が冴えない。

(この会社には、あの鬼上司以外に、男として見られる人がいないんだよね……)

 それが、りとの悲劇だった。

 唯一、圧倒的な色気と男としての魅力を放っているのが、自分を毎日こっぴどく叱りつける鷲尾課長だけなのだ。

 でも、あの鬼に優しく抱かれる妄想なんて、現実逃避にもほどがある。絶対にあり得ない。

 結局、その日は一日中、仕事のミスを取り返すために走り回り、へとへとになって帰宅した。

 一人暮らしのオートロック付きアパート。

 お気に入りのふわふわの部屋着に着替え、ベッドに大の字になって寝転がる。

「疲れた……。でも……」

 身体は鉛のように重く疲れているのに、頭の芯はまだ、妙に冴えていた。

 昨夜、男に襲われかけて未遂に終わったあの感覚。そして、朝、鷲尾課長に感じてしまった、あのゾクゾクするような背徳的な色気。

 それらが混ざり合い、りとの中に眠る〝性欲〟の火に、たっぷりと油を注いでしまっていた。

 太ももの内側が、じわじわと熱を帯びてくる。下腹部が重だるい。

 自分で触ってみても、虚しさが募るだけなのは分かっている。誰かに、もっと極上の技術で、優しく、時には激しく、この身を溶かされるほどに満たされたい。

「はぁ……。手っ取り早く、この性欲を解消するなら……」

 りとは仰向けのままスマホを手に取り、ブラウザを開いた。

 そして、以前、深夜のネットサーフィン中にコラムか何かで見かけた単語を検索窓に打ち込む。

【女性向け風俗】

 画面には、たくさんの店舗のホームページがずらりと並んだ。

 女性向け風俗――通称、女風。

 女性が、お金を払ってイケメンのセラピストから極上のリラクゼーションと、疑似恋愛のような甘い時間、そして至高の快感を提供してもらうサービスだ。

「本当に、こういうのあるんだ……」

 りとはゴクリと唾を飲み込み、検索トップに出てきた、とある大手らしき高級店のサイトをタップした。

 黒とゴールドを基調とした、シックで洗練された高級感のあるデザイン。そこには、〝極上の非日常を貴女に〟というキャッチコピーと共に、数多くのセラピストたちのプロフィールが並んでいた。

「へぇ、みんなすごくイケメン……。あ、でも、顔ははっきり映ってないんだ」

 載っている写真は、どれも首から下のスーツ姿だったり、顔の上半分にボカシが入っていたり、あるいは口元だけがアップになっていたりした。さすがに副業だったり、プライバシーの関係で、セラピストの顔は完全には載せないらしい。

 けれど、衣服の上からでも分かる、引き締まった胸板や肩幅のライン。

 シーツを掴む綺麗な指先。男らしい鎖骨。ネクタイを緩める仕草。

 それらを見ているだけで、りとの心臓の鼓動がだんだんと速くなっていく。自分の奥が熱く疼くのを感じる。

「みんな、カッコいいなぁ……。ん?」

 スクロールしていたりとの指が、ピタリと止まった。

 あるセラピストのプロフィール写真。

 その人は、上質な白いシャツに黒いスラックスというシンプルな服装で、カメラに向かって少し斜めに構えていた。顔は鼻から上に薄いモザイクがかかっている。

 髪型は、少し長めの、きっちりと整えられた茶髪。

 そして――何より、りとの目を釘付けにしたのは、その口元だった。

 冷たそうに見える、けれど形の良い薄い唇。その右下に、小さな、けれど自己主張するような黒いホクロがあったのだ。

「え……?」

 りとはベッドの上でガバッと跳ね起きた。

 スマホの画面をピンチアウトして、その写真を極限まで拡大する。

(嘘……。この雰囲気……)

 モザイクで隠れていて黒縁メガネこそ確認できないけれど、その全体の佇まい、シュッとした輪郭、醸し出される冷たくて知的なオーラ、そして何より、あの特徴的な口元のホクロ。

(……鷲尾課長に、めちゃくちゃ似てる……!)

 まさか、そんなはずはない。

 あの仕事の鬼で、カタブツで、冗談一つ言わないあの鷲尾課長が、こんな夜の街で女性を甘く癒やすセラピストをしているわけがない。会社は副業禁止だし、そもそもあんな冷徹な男が女性に優しくサービスする図なんて想像もつかない。

 これはただの他人の空似だ。世の中には似た人が三人いると言うし。

 分かっている。頭では分かっているけれど。

 一度そう思ってしまうと、もう、そのセラピストから目が離せなくなってしまった。

 食い入るようにプロフィールを読む。

【ハイクラスコース担当:レイ】

【年齢:30代前半】

【特徴:クールに見えて、ベッドの上では非常に情熱的です。日頃のストレスを忘れさせる、大人の極上の癒やしをお届けします。Sっぽいプレイをご希望の方にも対応可能です】

「クール……Sっぽい?」

 特徴までどこかリンクしてしまうのは、自分の妄想が完全に暴走しているからだろうか。

 しかし、りとの中で限界を迎えている性欲と、昼間に課長に対して抱いた〝ムラっとした気持ち〟が、ここでガチリと危険な音を立てて噛み合ってしまった。

 もし、この〝レイ〟というセラピストが、本当に課長だったら――。

 いや、似ているというだけでいい。あの鬼上司そっくりの男に抱かれ、甘くとろかされるなんて、極上の背徳感を味わえるのではないか。普段は絶対に自分を見下しているだけの冷たい瞳が、欲情に歪む姿を想像してしまう。

 じわっ、と、りとの可愛いお気に入りのショーツが、自分の蜜でしっとりと濡れていくのが分かった。

 もう、我慢できない。

 昨夜の恐怖なんて、この圧倒的な好奇心と、抑えきれない欲望の前に跡形もなく吹き飛んでしまった。

「……よし」

 りとは、震える指先で【予約する】のボタンをタップした。

 希望日時は、今週末の土曜日の夜。コースは、たっぷりと堪能できる一番人気の百二十分コース。オプションで、ホテルのスイートルーム指定。

 画面に『ご予約が完了いたしました。当日をお楽しみに』という文字が表示される。

 りとはスマホを胸に抱きしめ、トクントクンと激しく打つ鼓動を聞きながら、ベッドに深く沈み込んだ。

 これが、とんでもない秘密の扉を開くことになるとは、この時のりとはまだ、知る由もなかった。

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01.限界OL
「はぁ、はぁ……っ、ん……」 お互いの吐息が混じり合う、狭くて、どこか安っぽいビジネスホテルの客室。  部屋の明かりは落とされ、枕元のスタンドライトだけが、不気味にオレンジ色の光を放っている。 甘崎りとは、見知らぬ男の身体の下に敷き調えられていた。  男の硬い胸板が押し当てられ、鼻を突くのは、どこのものとも分からない安価な香水と汗が混じったような匂い。りとが望んでいた展開とは、あまりにもかけ離れた現実がそこにはあった。「ねえ、もっと力抜いてよ。そっちから誘ってきたんでしょ?」 男の濁った声が耳元で鼓膜を震わせる。  太い指が、りとのタイトスカートの裾を強引に捲り上げていく。ストッキング越しの太ももを撫で上げる手のひらが酷く不快で、りとの背中に一瞬にして無数の鳥肌が立った。 どうして、こんなことになってしまったのだろう。 りとは長い間、定まった彼氏がいない。決してモテないわけではなく、何度か付き合った人はいたものの、天真爛漫でドジな性格のせいか、いざ交際が始まると相手から「なんか思ってたのと違う」とあっさり振られてしまい、いつも恋愛が長続きしないのだ。 けれど、りとには誰にも言えない秘密がある。  実は、人一倍、〝性欲〟が強いのだ。  夜、ベッドの中でひとりで処理するだけでは、もう限界だった。身体の芯から湧き上がるような、疼くような渇き。誰かに強く抱かれたい、激しく愛されたい、甘やかされながらとろけるような快感を味わいたいという欲求が、風船のようにパンパンに膨れ上がっていた。 その結果、理性を失った彼女が手を出してしまったのが、手軽なマッチングアプリだった。  プロフィール写真がそこそこイケメンで、優しそうなメッセージを送ってきた男。「まずはホテルでゆっくり話そうよ」 その言葉の裏にある意図を分かっていながら、欲求に抗えなかった自分が馬鹿だった。ホテルに入った途端、男は本性を現し、言葉のキャッチボールすらなく強引にりとをベッドに押し倒したのだ。「んっ……、ちょっと、待って……っ!」 男の唇が、りとの首筋に押し当てられる。じっとりと湿った感触。ちゅっ、という生々しい水音が響き、その瞬間、りとの脳内に強烈な警報が鳴り響いた。 違う。私が求めていたのは、こんな、ドロドロとした、ただ男の欲望をぶつけられるだけの行為じゃない。
last updateÚltima atualização : 2026-06-12
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02.メロウルーム
 土曜日の夜。 職場である都心のオフィス街から電車を乗り継ぎ、一時間以上離れた閑静なエリアにあるハイクラスホテル。 りとは広々としたスイートルームのふかふかの上質な絨毯の上で、落ち着かない様子でウロウロと歩き回っていた。 女性向け風俗、出張型リラクゼーションサービス〝メロウルーム〟。 予約を完了した日から今日まで、りとは仕事中も上の空になるほど、この日のことばかりを考えていた。下着も奮発して、少し透け感のある黒のレースのランジェリーを身につけている。上には、ホテルに備え付けられていた肌触りの良いバスローブを羽織っていた。(あの写真の人……本当に鷲尾課長なのかな。いや、まさかね。いくらなんでも、あの鬼が女風なんて……) ぐるぐると堂々巡りの思考を繰り返していると、不意に部屋のチャイムが鳴った。 ピンポーン。 ビクッと肩が跳ねる。心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく早鐘を打ち始めた。 りとは大きく深呼吸をして、バスローブの胸元をぎゅっと合わせると、ゆっくりとドアの方へ向かった。 冷たい金属のドアノブに手をかけ、ガチャリと音を立てて扉を開ける。「こんばんは。メロウルームの……」 そこに立っていた男の低い声が、途中でピタリと止まった。 甘く、けれどどこか冷たさを孕んだその声。 スーツではなく、上質な黒のタートルネックに、細身のスラックスという洗練された私服姿。少し長めの茶髪、黒縁メガネ。そして、口元の右下にあるホクロ。「……え」「……」 りとの口から、間抜けな声が漏れた。 目の前の男も、わずかに目を見開き、息を呑んでいるのが分かった。 ――間違いない。他人の空似でもなんでもない。 そこに立っていたのは、毎日オフィスで自分をこっぴどく叱りつけてくる直属の上司、鷲尾冴臣その人だった。(う、嘘でしょ!? 本当に課長!? なんで!?) りとの頭の中はパニックに陥った。副業禁止の我が社で、しかもよりによって女風のセラピスト!? しかも、それを部下である自分が指名してしまったという絶望的な状況。 気まずさで死にそうだった。いっそこのままドアをバタンと閉めて、窓から飛び降りてしまいたい。 しかし、お互いに硬直したのは、ほんの数秒のことだった。「……初めまして。メロウルームから参りました、〝レイ〟と申します。本日はご指名いただき、誠にあ
last updateÚltima atualização : 2026-06-15
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03.秘密にしましょう
 激しい波が何度も押し寄せ、ようやく静まり返ったハイクラスホテルのスイートルーム。 間接照明の柔らかな光の中、りとは真っ白なシーツにすっぽりと包まれながら、指一本動かせないほどの心地よい疲労感にどっぷりと浸っていた。「お疲れ様でした。少し、汗を拭きましょうか」 レイ――鷲尾課長の声は、昼間の冷徹さからは想像もつかないほど甘く低く、どこまでも優しかった。 温かいホットタオルが、りとの火照った身体を丁寧に拭い清めていく。その手つきには一切のいやらしさがなく、ただ大切なものを慈しむように扱われているという絶対的な安心感だけがあった。 ふわりと鼻腔をくすぐるのは、彼から漂う落ち着いた〝ウッディな香り〟。 昼間、オフィスですれ違った時にも微かに感じていたその洗練された大人の香りが、今は深いリラックス効果をもたらしてくれている。昨夜のマッチングアプリの男の、鼻をつくような安物の香水とは雲泥の差だった。 肌触りの良いバスローブをふわりと羽織らせてもらい、ふかふかのソファに深々と腰を下ろす。レイは手際よくミネラルウォーターをグラスに注ぎ、そっとりとに手渡した。「ありがとうございます……」「どういたしまして。……まだ少し、お時間がありますね。何か冷たいものでも頼みましょうか? それとも、温かいハーブティーのほうがよろしいですか?」 時計を見れば、百二十分のコース終了まで、まだ三十分ほど残っていた。あれだけ濃厚で、頭の芯が溶けるような夢の時間を過ごしたというのに、この絶妙な時間配分。プロフェッショナルの完璧な計算は見事としか言いようがない。「いえっ……お水で大丈夫です。あの、レイさん。いや、鷲尾課長……」「今はレイですよ、甘崎様」 レイはクスッと笑いながら、向かいのソファに腰を下ろし、長い脚を優雅に組んだ。黒縁メガネの奥の瞳が、面白そうにりとを見つめている。「じゃあ、レイさん……。ずっと気になってたんですけど、どうして、このお仕事をされているんですか?」 りとの直球な質問に、レイはグラスをテーブルに置き、少しだけ表情を引き締めた。「……軽蔑しましたか? 昼間は偉そうに部下を怒鳴り散らしている男が、夜は女風のセラピストなんて。いかがわしい二重生活だと思われても仕方ありませんが」「いえ! そんなこと全然ないです! むしろ、さっき……すごく、その、プロだな
last updateÚltima atualização : 2026-06-15
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04.ネギとスーツと隣の部屋
 ――そして、運命の週明け、月曜日。 朝からオフィスの空気は、いつも以上に重く感じられた。 いや、実際に重いわけではない。りとの心が、勝手にそう感じているだけだ。 亜麻色のショートカットを揺らしながら、りとは自分のデスクでパソコンの画面を見つめていた。しかし、タイピングする指はさっきから完全に止まっている。 視線の先にあるのは、斜め前に座る営業部一課の絶対的権力者、鷲尾課長の背中だ。 土曜日の夜の出来事が、フラッシュバックする。 あのホテルでの、甘く、熱く、とろけるような時間。あの冷徹な鬼上司が、夜はあんなにも優しく、情熱的に自分を愛撫してくれたのだ。 あの長くて綺麗な指先。首筋に落とされた熱いキス。そして、微かに香るウッディな香水……。(だめだめだめ! 思い出しちゃだめ!) りとは慌てて両手で自分の頬をパチンと叩いた。 周りの社員がビクッとこちらを見たが、気にしている余裕はない。 問題は、当の鷲尾本人が、どう見ても〝普通〟すぎることだ。 月曜の朝一番に行われた朝礼でも、鷲尾はいつも通り、氷のように冷たい表情で今週の目標数値を淡々と読み上げていた。りとの顔を見ても、眉毛ひとつ動かさない。 まるで、土曜日の夜のことなど、彼の脳内ハードディスクから完全に削除されてしまったかのようだ。(プロだ……。あの人、完全に仕事の顔になってる。っていうか、私だけがこんなにドギマギしてるの、なんか悔しい!) りとは唇を尖らせながら、立ち上がった。 先週の会議の議事録をコピー機に取りに行かなければならない。 歩き出しながら、つい鷲尾のデスクの方をチラリと見てしまう。その横顔の、口元の右下にあるホクロに視線が吸い寄せられた瞬間だった。「あっ」 またしても、何もないオフィスの床で、りとのパンプスが謎の引っ掛かりを見せた。 身体が大きく前へ傾き、今度こそ顔面から床にダイブする――! そう覚悟して、りとはギュッと目を瞑った。 しかし、予想していた鈍い痛みはやってこなかった。 代わりに、りとの腕を強く、けれど痛くない絶妙な力加減で引き寄せる感覚があった。「おっと」 頭上から降ってきたのは、低く落ち着いた声。 目を開けると、そこには、りとの身体を片腕でガッチリと受け止めている鷲尾の姿があった。 彼の胸板に顔が近づいた瞬間、あの夜にホテルのベッド
last updateÚltima atualização : 2026-06-15
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05.決戦前夜
 隣同士の部屋に住んでいることが発覚した、あの衝撃的な夜から一ヶ月が経過した。 あれから、鷲尾冴臣と甘崎りとの関係に大きな変化があったかといえば、答えは〝否〟である。 会社では相変わらず、完璧主義で冷徹な鬼上司と、それに怒られ続けるドジな部下という、圧倒的な縦社会の構図が維持されていた。 アパートでも、朝出くわさないようにゴミ出しのタイミングを見計らったりと、お互いに暗黙の了解で不可侵条約を結んでいる状態だ。 ただ一つ変わったことがあるとすれば、りとの心の中に「でもこの人、夜は〝あんなこと〟してるんだよなぁ」という、圧倒的な秘密の優越感が鎮座していることくらいだった。 そして、待ちに待った冬のボーナス支給日。 お昼休み、オフィスの自席でこっそりと給与明細のWEB画面を開いたりとは、思わず「おぉっ!」と小さな歓声を上げた。 画面に表示されていた振込額は、入社三年目の彼女が予想していたよりも、ずっと多かったのだ。どうやら、会社全体の業績が良かったことと、先月りとがなんとかまとめた新規プロジェクトの案件が評価されたらしい。(やった、やった! これなら……いける!) りとは素早くブラウザのタブを切り替え、すっかりブックマークの上位に定着してしまった女性向け風俗〝メロウルーム〟のサイトを開いた。 もちろん、お目当てはナンバーワンセラピストの〝レイ〟だ。 このひと月、高額な利用料金と自分の財布の紐との間で葛藤し、我慢に我慢を重ねてきた。しかし、ボーナスという強力な後ろ盾を得た今、迷う理由などどこにもない。(今度の土曜日……空いてる! 一番長い百五十分のコースにしちゃお!) 震える指で【予約確定】のボタンをタップする。 画面に表示された予約完了の文字を見た瞬間、りとの脳内にパァァッと花畑が広がった。 あの極上の快感、とろけるような甘い声、身体の奥まで満たされる感覚が蘇り、自然と口元が緩んでしまう。 午後になっても、りとのルンルン気分は収まらなかった。 コピー機から打ち出された資料をホチキスで留める作業すら、鼻歌交じりの軽快なリズムで行ってしまう。「甘崎。午後からの会議の資料は揃ったか?」 背後からかけられた低い声に、りとは「はいっ! ばっちりです!」と満面の笑みで振り返った。 そこに立っていた鷲尾は、あまりにも上機嫌なりとの様子に、怪訝そ
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06.シーツの上の個人面談
 翌日、土曜日の夜。 都内の喧騒から少し離れた、静かで豪奢なハイクラスホテルのスイートルーム。 りとは、ふかふかのソファに浅く腰掛けながら、落ち着かない様子で膝の上で両手を握りしめていた。 昨夜、壁一枚隔てた隣室から聞こえてくる彼のシャワーの音に、限界まで焦らされた身体。一晩中もんもんと過ごしたせいで、りとの中にある〝期待〟と〝熱〟は、すでに弾けそうなほどパンパンに膨れ上がっている。(もうすぐ……。もうすぐ、レイさんが来る……っ) わくわくするような高揚感と、張り詰めるような緊張感。 やがて、静寂を破るように、部屋のチャイムが控えめに鳴った。 ピンポーン。「はいっ!」 弾かれたように立ち上がり、りとは小走りでドアへと向かった。 深呼吸をして、冷たいドアノブを回す。「こんばんは、甘崎様。メロウルームのレイです」 そこには、完璧に整えられた少し長めの茶髪に、黒縁メガネをかけたレイが立っていた。 今日は、上質なネイビーのシャツに、スラックスというシックな装い。口元の右下にあるホクロが、廊下のダウンライトに照らされて艶っぽく見えた。「ど、どうぞ……!」 りとが部屋に招き入れると、レイは静かにドアを閉め、ボストンバッグを床に置いた。 そして次の瞬間、振り返った彼に腕を引かれ、りとはふわりと大きな胸の中に閉じ込められた。「あ……っ」「一ヶ月ぶりですね。お会いしたかったです、甘崎様」 ぎゅっ、と力強く、けれど大切に扱うような優しいハグ。 鼻先をかすめる、彼特有の落ち着いた大人の〝ウッディな香り〟。昨日オフィスで嗅いだのと同じ香りなのに、今はそれが、強烈な媚薬のようにりとの脳を麻痺させていく。 そのまま、レイの綺麗な指先がりとの顎をすくい上げ、重ねるように唇が落とされた。「んっ……」 羽のように軽い、挨拶代わりのキス。 たったそれだけなのに、りとの身体の奥底が甘く痺れる。(すごい……。やっぱり、プロだ……) りとは、胸の中で密かに感心していた。 オフィスの床で盛大に転びそうになった自分を氷点下の目で見下ろし、皮肉を言ってきた男と同一人物だとは到底思えない。 この完璧な切り替え。女性を最高にいい気分にさせる立ち振る舞い。 ――けれど。 あまりにも完璧な彼を見ていると、りとの中で、ふと昨日のオフィスでの出来事や、これまでの鬼
last updateÚltima atualização : 2026-06-15
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07.恋に落ちない誓い
 土曜日の夜、あの極上の時間をたっぷりと堪能し、日曜日は一日中泥のように眠って体力を回復させたりとは、月曜日の朝から驚くほど元気だった。「おはようございます!」 営業部のオフィスに足を踏み入れ、いつもよりワントーン高い声で挨拶をする。亜麻色のショートヘアも、今日はヘアアイロンで綺麗に内巻きにセットされていて、メイクのノリも完璧だった。 肌はツヤツヤ、足取りは軽く、まさに絶好調。 自分のデスクに鞄を置き、パソコンを立ち上げようとした――その時だった。「おい、甘崎。ちょっと来い」 オフィスの一番奥、窓際の特等席から、氷点下の声が響き渡った。 声の主は当然、営業部一課の絶対的権力者である鬼上司――鷲尾冴臣だ。「はいっ! なんでしょうか!」 いつもなら「ヒィッ」と肩をすくめるところだが、今日のりとは違った。小走りで鷲尾のデスクの横に立つ。 鷲尾は、パソコンのモニターから視線を一切外さずに、手元の書類をトントンと指先で叩いた。「金曜日に提出させた東和不動産向けのプレゼン資料だが。……君は、自社の製品価格の桁を一つ間違えるという、小学生以下のミスを犯したまま俺に提出したのか?」「……えっ?」「一千万のシステム導入費が、百万になっている。これでもし先方にそのまま資料が渡っていたら、我が社は九百万の損害を被るところだった。君の頭の中は、常にお花畑でも展開されているのか?」 冷徹な声と、鋭い言葉のナイフ。相変わらず、容赦というものを知らない。 しかし、りとは慌てて書類を覗き込み、「ああっ! 本当だ!」と小さく叫んだ。「す、すみません〜っ! すぐに直して再提出します!」「当たり前だ。十分以内に修正して持ってこい」 鷲尾は黒縁メガネの奥から、りとをジロリと睨みつけた。 その怒りのこもった冷たい瞳を見つめながら、りとは深く頭を下げた。……が、俯いた彼女の口元は、だらしなく緩みきっていた。(ふふっ、怖い顔して怒ってるけど……。でもこの人、一昨日の夜、ホテルのベッドで私のこと〝たっぷり可愛がってやる〟とか言って、あんなに激しくしてくれたのよね〜♡) 思い出すのは、自分の肌を這う熱い指先と、耳元で囁かれた色気たっぷりの低い声。 そんな男が、今はネクタイをきっちりと締め、眉間に皺を寄せて怒っているのだ。その圧倒的なギャップが、りとの中にある秘密の優越感
last updateÚltima atualização : 2026-06-15
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08.素直なありがとう
 親友の乃々羽と居酒屋で語り明かしたあの日から、さらに数日が経過した。 季節は十二月の中旬。街路樹には色とりどりのイルミネーションが点灯し、駅前の広場からは定番のクリスマスソングが絶え間なく流れてくるようになった。 すれ違う人々はマフラーに顔を埋めながらも、どこか浮き足立っているように見える。カップルたちは腕を組み、身を寄せ合って冷たい冬の風をやり過ごしていた。(こういう時期って、無性に人肌恋しくなるんだよねぇ……) マフラーをぐるぐると首に巻きつけながら、りとは小さく白い息を吐いた。 普段なら「私も早く彼氏作って、クリスマスデートしたい!」と切実に願うところだが、今のりとの脳内は、別のことでいっぱいだった。 予約さえすればまたあの極上のセラピストであり、壁一枚隔てた隣人でもある鬼上司に、とろけるほど愛してもらえる。その強烈な非日常が、クリスマスの寂しさなど吹き飛ばしてしまっていたのだ。 ――そして、出勤。 暖房の効いた営業部のオフィスに入り、りとはいつも通り「おはようございます!」と元気よく挨拶をした。 自分のデスクに鞄を置き、早速昨日頼まれていた見積書の束を持って、鷲尾のデスクへと向かう。「課長、おはようございます! 昨日ご指示いただいた見積書、お持ちしました!」 自信満々に書類を差し出すりと。 しかし、パソコンのモニターを見つめている鷲尾は、いつもなら即座に飛んでくるはずの鋭い指摘や冷たい視線を向けてこなかった。 ただ、眉間に深い皺を寄せ、ひどく怠そうに書類を受け取る。「……遅い。始業前にデスクに置いておけと、あれほど……」 声が、おかしい。 いつもの、周囲を震え上がらせるような氷点下のバスボイスではない。ひどく掠れていて、息を吐くたびに苦しそうな熱を帯びているように聞こえた。「課長? どうかしましたか?」「なんでもない。……それより、この項目の数字だが。君は……また、消費税の計算を……」 言葉が途切れる。 よく見れば、鷲尾の端正な顔立ちは、いつもより不自然なほど赤く染まっていた。黒縁メガネの奥の切れ長の瞳も、どこか焦点が合っておらず、トロンと潤んでいるように見える。「……課長、顔、真っ赤ですよ?」「暖房が効きすぎているだけだ。それより、早くこれを……」「ちょっと、失礼します!」 りとは見積書を強引に鷲尾のデス
last updateÚltima atualização : 2026-06-15
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09.デレる鬼上司
 あの高熱で倒れた鷲尾の部屋に強引に上がり込み、特製のお粥を作って看病した夜から、さらに数日が経過した。 カレンダーは十二月の下旬へと差し掛かり、街は完全にクリスマスムード一色に染まり上がっていた。 オフィスの窓から見下ろす大通りには、夜になればシャンパンゴールドのイルミネーションが煌びやかに点灯し、行き交う人々は皆、どこか浮き足立っている。 すれ違うカップルたちはマフラーを共有したり、腕をしっかりと組み合って寒さを凌いでおり、一人身の人間にとっては、無性に人肌恋しくなる――あるいは、強烈な疎外感を感じてしまう魔の季節だった。 ――しかし、今年の甘崎りとは違った。「高橋。君が提出したこのスケジュール表だが……、もしかして、サンタクロースにでも仕事を手伝ってもらう前提で組んでいるのか? どう計算しても、年内の営業日数と作業工数が合っていない。君の脳内はすでにクリスマス休暇に入っているようだな」 営業部のフロアに、絶対零度のバスボイスが響き渡る。 ターゲットとなった若手社員の高橋が「ひぃっ、す、すみません!」と直立不動で震え上がっていた。「修正は今日中だ。もし間に合わなければ、君のクリスマスは我が社のシュレッダーのゴミ捨て当番になると思え」 ピシャリと冷酷に言い放ち、スリーピースのスーツを隙なく着こなした鷲尾冴臣が、自分のデスクへと戻っていく。 その氷のような表情と、部下を震え上がらせる完璧な毒舌のキレ。 自分のデスクのパソコンの影からその様子をこっそりと窺っていたりとは、恐怖するどころか、口元をだらしなく緩ませていた。(おおお……っ! 見事なキレっぷり! よかったぁ、課長、完全に体調戻ったんだ!) 三十九度の高熱でぐったりとしていたあの夜の姿が嘘のようだ。 普通なら、上司の機嫌が悪くて怒鳴り散らしている姿を見れば胃が痛くなるところだが、あの弱り切った姿を間近で見てしまったりとからすれば、この通常運転の〝鬼上司〟ぶりが、たまらなく嬉しかった。 健康第一。やはり、鷲尾課長にはこうして元気に毒舌を吐いていてほしい。 そして何より、今のりとは、高橋がどれだけ怒られていようが、街を歩くカップルがどれだけ幸せそうだろうが、全く気にならないほどの〝超特大の楽しみ〟を控えていたのだ。 ――明後日は、いよいよクリスマスイブ。 りとは今年の自分へのク
last updateÚltima atualização : 2026-06-15
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10.遊園地デート
 クリスマスイブ当日。 抜けるような冬の青空の下、都心から電車で一時間ほど離れた場所にある大型遊園地のメインゲート前は、カップルや家族連れで溢れかえっていた。 どこからか流れてくる陽気なクリスマスソングと、遠くで響くジェットコースターの悲鳴。 りとは、新調した真っ白なファー付きのダッフルコートに身を包み、待ち合わせ場所の時計台の下でそわそわと周囲を見回していた。「お待たせいたしました、甘崎様」 ふいに背後から、耳を撫でるような低い声が降ってきた。 振り返ると、そこには息を呑むほど洗練された私服姿のレイ――鷲尾冴臣が立っていた。 上質な黒のチェスターコートに、首元を隠すダークグレーのタートルネック。 いつもはきっちりとワックスで撫でつけられている茶髪が、今日は無造作に下ろされており、黒縁メガネの奥の切れ長の瞳が色っぽく細められている。 すれ違う女性たちが、思わず二度見してしまうほどの圧倒的なオーラだった。「レイさん……っ! かっこいい……」「ありがとうございます。今日は一日、最高のクリスマスにしましょうね」 完璧なセラピストの微笑みを向けてくれる彼。 しかし、りとはコートのポケットの中で両手をぎゅっと握りしめ、意を決して顔を上げた。「あの! レイさん! 今日も、お願いがあるんです!」「……なんでしょうか」「この前のホテルみたいに、今日も……〝鷲尾課長〟として、私とデートしてください!」 ピタリ、と。鷲尾の完璧な微笑みがフリーズした。 ほんの数秒の沈黙の後、彼は黒縁メガネのブリッジを中指でスッと押し上げ、深い、深いため息を吐いた。「……正気か、甘崎。わざわざ高い特別料金を払ってまで、クリスマスの休日に上司から説教されたいのか」「はい! 私、課長と遊園地デートがしたいんです!」 満面の笑みで答えるりとに、鷲尾は「君の思考回路は本当に理解できん」と頭を抱えた。しかし、プロの矜持ゆえか、すぐに纏う空気を〝絶対零度の鬼上司〟へと切り替えた。「……いいだろう。なら、遅れずについてこい」「はいっ! よろしくお願いします、課長!」 こうして、世にも奇妙な〝鬼上司とドジっ子部下の遊園地デート〟が幕を開けた。 ゲートをくぐると、目の前には巨大なクリスマスツリーと、メルヘンチックな街並みが広がっていた。りとは完全にテンションが振り切れ、小
last updateÚltima atualização : 2026-06-15
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