世隆は手に入れた資金を即座に会社の運転資金に回した。最近の経営状態は異常だった。以前は大きな利益こそなかったものの、損失も出なかった。ところが近頃は、何を手がけても妨害に遭い、取引先のほとんどがIMグループに奪われていった。収支が徐々に悪化の一途を辿っていた。美希はまだ知らなかった。自分の金が昭子に持ち去られ、すぐに使い果たされていたことを。……翌日の早朝。「世界的バレリーナ、病気の義母をオペラへ」というニュースが、SNSのトレンドの首位に躍り出た。記事の内容は、昭子が献身的な看護で疲れも見せず、義理の母を劇場へ連れて行った美談だった。発作を起こした義母の世話も厭わず、自ら介抱して病院へ搬送したという。紗枝は目覚めてそのニュースを目にし、苦い笑みを浮かべた。昨夜、彼女の目の前で繰り広げられた光景は、まるで違った。昭子は美希に手を貸すどころか、その場から立ち去っただけだった。紗枝はすぐにページを閉じた。裁判に勝訴し、美希は二週間以内に資産を返還しなければならない。応じなければ強制執行となる。資産の隠匿を警戒した紗枝は、雷七に監視を命じていた。間もなく、雷七から写真と資料が送られてきた。「調査によると、美希の高額預金が今朝、世隆によって引き出されたそうです」紗枝の眉間に皺が寄った。やはり、返還の意思など最初からなかったのだ。「十五日間、待たなければならないのが残念ね」この証拠は、強制執行の際に資金の追跡に使えるはずだ。紗枝は雷七に返信した。「引き続き監視を続けて。証拠は見つけ次第、すぐに保存してください」「承知しました」電話を切った紗枝は朝食を取りに階下へ向かった。最近は食事量が増え、お腹もふくらみ、妊娠の兆しが少しずつ見え始めていた。朝食を取っている最中、スマートフォンが鳴った。紗枝が画面を確認すると、拓司からだった。「最近、調子はどう?」何気ない問いかけに、紗枝は丁寧に返した。「まあまあよ。何かあった?」「太郎くんから聞いたよ。美希との裁判のこと。返金を渋ってるんだって?太郎くんが一部、返すって言ってるんだ」拓司の声は落ち着いていた。太郎くん?「夏目太郎のことですか?」紗枝は思わず聞き返した。「ああ。話してみるか?反省してるって言ってるんだけど」幼
「お母さん、少しは楽になりました?」昭子はベッドの傍らに腰掛けた。美希は、こんな遅い時間まで付き添ってくれる娘を見て、先ほどまでの不満が霧のように消えていった。「ずいぶんマシになったわ。今日は迷惑をかけてごめんね」「何言ってるんですか。大切なお母さんなんですから、孝行するのは当然じゃないですか」昭子は母の手を握りしめ、一瞬躊躇してから続けた。「でも、ずっとお話ししたかったことがあるんです。言うのを躊躇っていたんですけど」「何かしら?言ってみなさい」「お母さんの今の状態を考えると、これからのことを、少し整理しておいた方がいいんじゃないかって……」できるだけ婉曲的な言い方を選んだ。「整理って……もしかして遺産のこと?医者も言ってたでしょう。治療さえ続ければ、あと二年は大丈夫だって」美希の声には焦りが混じっていた。「お母さん、興奮しないで。私だってお母さんに長生きしてほしいわ。でも、万が一のことは考えておかないと」「今日みたいなことがまた起きたら……お母さんの大切な物がどこにあるのか、私には分からないんです」美希は黙って娘の言葉を聞いていた。心の中で、また何かが冷たく凍りついていくのを感じた。「昭子……もう、そんなにお金は残ってないのよ」「お母さん、私のことを信用なさってないんですか?お金目当てだとでも?」昭子の声には怒りが滲んでいた。「忘れないでください。私は母さんと父さんの娘であると同時に、鈴木青葉の養女でもあるんです。青葉さんはもう遺言状も作ってあって、亡くなった後の財産は全て私のものになるんですよ」「鈴木家のあの財力と地位があるのに、どうして母さんのわずかなお金が欲しいなんて思うんです?」「それに、青葉さんは養母で、母さんは実の母なのに。まさか、実の母より養母の方がマシだということにするんですか?」最後の一言が美希の心を突き刺した。昭子を産んですぐ、世隆との関係がこじれて捨てた過去。ずっと昭子に対して後ろめたさを感じていた美希は、養母の方が良いと言われ、たまらない気持ちになった。「そんなつもりじゃないわ。私の部屋の金庫に預金証書があるの。銀行の角張支店長に会って……暗証番号はあなたの誕生日よ」まさか逆心理がこれほど効果的だとは、と昭子は内心驚いた。「分かりました。大切に保管しておき
幼い頃の記憶が蘇る。山の花を摘もうとして斜面から転げ落ちた時、腕を組んだまま美希は言った。「紗枝、自分で立ちなさい。自立というものを覚えるのよ」その時初めて紗枝は悟った。母の言う「自立」と、自分の理解する「自立」は、まるで違うものだったのだと。二人が背を向けると、美希の呪詛の声が追いかけてくる。「この畜生め、地獄に落ちろ……」他人である唯でさえ、その声に背筋が凍る思いだった。どんな母親が、実の娘に死を願うのだろう。外の冷たい夜風に当たり、紗枝は長い間佇んでいた。やがて通りかかったスタッフに一言。「中で転んでいる方がいるのですが」美希が助け起こされたかどうかは分からない。ただ、これで自分の良心は咎めることはない。「紗枝ったら、優しすぎるわ」唯は紗枝の腕にしがみついた。親不孝という言葉の意味を、唯は今まで理解できなかった。でも美希を見て、紗枝が助けなくても、それは仕方のないことだと思えた。漆黒の夜空を見上げながら、紗枝の瞳が暗く沈んだ。「ねぇ唯」静かな声が漏れる。「母は私のことをずっと、自分の娘らしくないって言ってた。弱すぎるって。そうね、その通りかもしれない」「あの人みたいに、冷酷になることは、私にはできないわ」唯は紗枝の腕にしがみついたまま、優しく声をかけた。「紗枝ちゃん、気にしないで。あの人、因果応報を受けてるでしょう?」紗枝は小さく頷いた。「うん、大丈夫。もう慣れたから」外の寒さに震えながら、唯は紗枝を車に誘導した。車内に落ち着くと、唯は少し躊躇いながら切り出した。「紗枝ちゃん、一つ聞いていい?」「なに?」「美希さんって……本当の母親じゃないんじゃない?」唯にも失礼な質問だと分かっていた。でも、実の子を憎むような母親が、この世にいるとは思えなかった。美希の昭子に対する態度は、まるで違う。出雲おばさんだって、血が繋がってないのに紗枝のために命を懸けられる。紗枝自身だって、景ちゃんのためなら死をも厭わない。「そんなことはないわ」紗枝は静かに答えた。「中学生の時に、内緒でDNA鑑定をしたの。間違いなく親子関係だって出たわ」紗枝は幼い頃から、母親に愛されていないと感じていた。だからこそ、専門機関で調べたのだった。唯は深いため息をつくしかなかった。「そう……なの
紗枝の目に映ったのは、群衆に囲まれ華やかな昭子の姿。そして隅に追いやられ、途方に暮れたような表情の美希。紗枝の瞳に一瞬の違和感が走ったが、すぐに目を逸らした。「帰りましょう」「うん」一方、群衆の中で居場所を失った美希は、昭子に助けを求めようとした瞬間、誰かに押され――床に倒れ込む。通りすがりの人々は一瞥するだけで、誰も手を差し伸べない。発作で腹部に激痛が走り、這い上がろうとしても力が入らない。昭子を見れば、まだサインや撮影に応じている最中。必死に這い上がろうとした時、頭上から声が響いた。「美希さん、お手伝いしましょうか?」美希は息を呑んだ。顔を上げると、紗枝の冷ややかな表情と目が合った。瞳孔が縮み、どこかに隠れたい衝動に駆られる。「なぜここに……あんたなんかの世話になるもんですか!」美希は紗枝を睨みつけた。「私の惨めな姿を見て笑いに来たんでしょう?」紗枝の目に、嘲りの色が浮かんだ。「美希おばさん」唯が慌てて説明する。「私たち、たまたまここに……」だが美希は信じる様子もない。惨めな姿を晒しながらも、紗枝を睨みつける。「よくもそんな芝居ができたものね。あんたたちの腹の中なんて見え見えよ!」紗枝は冷ややかに笑った。「今、私が考えているのは、実の娘があなたを放っておいて、一言の声掛けもしないことですけど」美希は昭子の方を見やり、怒るどころか嘲るような口調で返した。「昭子は気付いてないだけよ。あなたみたいな人間とは違うの」「あの子は世界的なダンサーなのよ!あなたなんて、不具者で、何の取り柄もない、ただのゴミ。比べものにもならないでしょう?」「あなたみたいなクズは、さっさと死んで生まれ変わればいいのよ!」唯は目を見開いた。母親が実の娘をここまで罵るのを、生まれて初めて目にした。自分の母は幼くして他界したが、最期まで唯を愛してくれた。こんな母親がいるなんて信じられず、思わず口を開いた。「美希さん、紗枝は昭子さんに劣らない方です。有名な作曲家で、以前はあなたも…」「唯、もういいの」紗枝の静かな声が、唯の言葉を遮った。唯は口を噤んだ。興奮のあまり忘れていた。紗枝が作曲家だということは、まだ国内では知られていないのだ。「笑わせないでよ」美希は嘲りの声を上げた。「あいつが作
美希は一晩中眠れず、翌朝、珍しいことに昭子が顔を見せた。「お母さん、体調はどう?」美希は娘の姿を見るなり、パッと表情が明るくなった。「だいぶ良くなったわ」昭子は金の話を切り出すタイミングを探りながら、母の機嫌を取ることにした。「今日は天気もいいし、お日様に当たりに行かない?私が付き添うわ」だが美希は首を振った。「昭子、ダンスが見たいの。いいかしら?」人生で唯一の大きな情熱だったダンス。でも、ある事情で途中で断念せざるを得なかった。「でも、具合が悪いのに…何かあったらどうするの?」昭子は遠出したくなかった。母は頻尿の症状があり、事故が心配だった。「先生も回復は上々だって。大丈夫よ、付き合って」美希の瞳は切なる願いを湛えていた。「分かったわ。夜の部のチケットを取るわね」昭子は仕方なく承諾した。……一方その頃。紗枝はエイリーから長らく連絡がなかったが、突然、劇場のチケットが二枚送られてきた。「紗枝ちゃん」メッセージが届く。「早く帰って食事でも、と思ってたんだけど、ブラック事務所の連中が新しい仕事を入れてきてさ。当分帰れそうもないんだ」「友人からチケットもらったんだ。もったいないから、僕の代わりに観てきて」エイリーは紗枝がミュージカルに興味があることを知っていた。「ありがとう」紗枝は短く返信した。チケットを手に、紗枝は少し考えてから、唯を誘うことにした。二人で遊ぶのは久しぶりだ。この機会に再会を果たそう。午後。紗枝が身支度を整えている間、父子は居間で待っていた。「なぜ僕と一緒に観に行かないんだ?」啓司は少し寂しげに尋ねた。「唯と会うの、随分久しぶりで……」「ママ、僕もダンス観たいな」逸之も甘えた声を出した。「ごめんね。今日はママの女子会の時間なの」最近、色々なことが立て続けに起きて、友達と話してリフレッシュする時間が必要だった。「うん、分かった。でも早く帰ってきてね」「もちろん」紗枝は名残惜しそうな父子の視線を背に家を後にした。唯が外で待っていた。車に乗り込むと、二人は久しぶりの再会を楽しみながら話に花を咲かせた。見慣れた車とすれ違ったことにも気付かないまま。程なく劇場に到着。観客は程よい数だった。薄暗い客席で、遠くに座る美希と昭子の姿に紗
「たかが20、40億円だと?」世隆は目を剥いて美希を睨みつけた。その視線に美希は不機嫌になった。「何よ?悪いの?」「いや、驚いただけだ」世隆は慌てて笑みを浮かべた。「お前の金だ。好きに使えばいい」その言葉で、ようやく美希の機嫌が直った。世隆にはまだ美希を恐れる理由があった。一つは昭子を産んでくれたこと。もう一つは、今の自分の全ては美希のおかげということ。そして最も重要なのは、美希を怒らせれば、自分の過去の悪事を暴露されかねないという恐れだった。「お前、もう遅いし、病状も重いんだ。休んで、明日また病院で診てもらおう」世隆は優しく微笑みながら、美希の肩を支えて階段を上がった。美希を寝かしつけた後、リビングに戻った世隆は、深いため息を幾度となく繰り返した。「お父さん」昭子が心配そうに声をかけた。「本当に紗枝に全額返すの?」「バカな話」世隆の慈愛に満ちた表情が一変し、暗い影を帯びた。一度懐に入れた金を手放すなど誰がするものか。それに、会社を売り払わない限り、そんな大金は用意できない。「昭子、よく聞けよ」世隆は声を潜めた。「裁判で負けたのは美希だ。返済義務があるのも美希だ。我々には関係ない」「でも、夫婦でしょう……」「それがどうした?あいつにどれだけの命が残ってる?とにかく早めに隠し金を手に入れろ。200億円は軽く超えているはずだ」「分かってる」昭子は頷いた。「お母さんは私を可愛がってるから、きっと私に渡してくれる」「だが、あの馬鹿な太郎に渡す可能性もある」「病気になっても見舞いにも来ない太郎なんかに渡すはずないわ。それに渡したところで、水の泡よ」父娘は頭を寄せ合い、どうやって美希の隠し金を騙し取るか、綿密な計画を練り始めた。二階の寝室で、美希は眠れずにいた。ここ最近、目を閉じると夏目氏との思い出が走馬灯のように蘇る。あの頃は、家族みんなが本当に幸せだった。夏目は家の財産や資産の管理を全て任せてくれた。だが今の世隆は、初恋の相手なのに、まるで見えない壁に隔てられているよう。彼の心が全く読めない。時計の秒針が無情に時を刻む。今夜は世隆が一緒に寝てくれると思っていたのに、「邪魔したくない」と隣の部屋で寝ている。明らかに世隆の愛は冷めていた。でも病気になる前まではこんな感覚なかっ
全て鈴木家に渡してしまった金を、どうやって紗枝に返せというのか。そもそも返すつもりなど、さらさらない。「紗枝ちゃん」背を向けて歩き出した紗枝を呼び止め、急に声を柔らかくした。「お金は全部鈴木家に渡してしまったの。返せるわけないでしょう」紗枝は足を止め、ゆっくりと振り返った。「そう。なら強制執行を申し立てるだけよ」美希と太郎が必ず隠し財産を持っているはずだと、紗枝は確信していた。美希は一歩一歩、紗枝に近づいた。かつての威圧的な態度は微塵も感じられない。「私を殺す気?もう長くないのよ!」紗枝は冷ややかな目で見据えた。「自業自得でしょう」「私はあなたの実の母親よ!全てを失ったら、あなたも地獄を見ることになるわ。分かってる?」美希は脅しをかけてきた。「ふん」紗枝は嘲笑うように言い返した。「私が今、幸せに暮らしてると思ってるの?」美希は言葉を失った。「脅しなんて効かないわ」紗枝は目を見開いて言い放った。「父の遺産は必ず取り戻す。父の代々の財産を、あなたの愛人に与えて恥ずかしくないの?」「父はあなたをあれほど愛していたのに、その気持ちに応えられたの?」「末期がんになったのも、天罰よ!」紗枝は言い終わるとすぐに背を向けた。美希はしばらく呆然としていたが、やがて紗枝の背中に向かって叫んだ。「この畜生!地獄に落ちろ!」周囲の視線が集まってきて、ようやく美希は声を潜めた。紗枝は車に戻っても、しばらく黙り込んでいた。啓司も、美希が娘を呪う言葉を耳にしていた。牧野は心の中で舌打ちをした。実の娘に死ねと言う母親などいるものか。娘を畜生呼ばわりする母親こそ、何者なのか。「二人とも降りてくれ」啓司は運転手と牧野に指示を出した。理由は分からなかったが、二人は黙って従った。車内に二人きりになってから、啓司は静かに告げた。「泣きたいなら、泣いていいよ」その言葉に、紗枝は啓司の腰に抱きついた。啓司の体が一瞬こわばる。紗枝は涙を見せず、小さな声で呟いた。「大丈夫。裁判に勝って、やっと父さんのお金を取り戻せる」「嬉しいの。お祝いしましょう」啓司は紗枝の肩に手を添え、優しく撫でながら「ああ」と応えた。お祝いのはずだった紗枝の行きつけのレストランで、彼女はほとんど箸をつけなかった。啓司には
夕食後、黒木おお爺さんは景之にいくつかの基礎的な問題を出題した。予想通り、景之は全問正解だった。澤村お爺さんと同じように、黒木おお爺さんも景之と将棋を指したがった。だが明日は学校があるため、それは次回の楽しみとなった。帰り際、綾子は玄関先まで見送りに出て、なかなか別れを惜しんだ。「また近いうちに来てね」「うん!」逸之と景之は揃って元気よく答えた。車が走り出し、すぐに黒木家の屋敷は遠ざかっていった。車内で逸之は景之の肩に寄りかかり、疲れて眠り込んでいた。紗枝は仲睦まじい兄弟の姿を見つめながら、柔らかな微笑みを浮かべた。明日は遺産相続の裁判が始まる。帰宅後、紗枝は岩崎弁護士から送られてきた書類を再度確認した。予期せぬ事態に備えるためだ。美希と鈴木家の者たちは、資産移転の証拠など何もないと高を括っていた。裁判なんて物ともしていない様子だった。だが誰も知らなかった。かつて夏目太郎が資産を移転した際の記録も、夏目家の全ての資料も、啓司が確かにバックアップを取っていたことを。翌朝、双子を幼稚園に送り出した後。啓司は紗枝を法廷の入り口まで送り、自身は車の中で待機することにした。「何かあったら、すぐに言ってくれ」啓司が静かな声で告げた。紗枝は頷いて「分かった」と答えた。紗枝が中に入ると、啓司は牧野に尋ねた。「鈴木グループの様子は?」「もう長くは持たないでしょう。ただ、鈴木青葉と拓司さまが手を差し伸べる可能性が気がかりです」世隆は経営の才がなく、ここ数年は夏目家の遺産で食いつないでいるだけだった。啓司は青葉と拓司のことを思い、眉間を揉んだ。「青葉の動きは徹底的に監視しろ。何か仕掛けてくる前に」少し間を置いて、「拓司のことだが」と続けた。「最近、武田家と近づきすぎている。必要なら、警告しておけ」武田家の連中は実力はないが陰湿で狡猾だ。時として、そういう小物の方が手強い敵より厄介になる。拓司が彼らと付き合うのは、まさに毒蛇の巣に手を突っ込むようなものだった。法廷にて。太郎の姿はなく、美希が独りで出廷していた。鈴木家の者たちは誰一人として姿を見せなかった。紗枝が勝訴するなど、眼中にないといった様子だった。美希は青ざめた顔で、病院で見た時よりも容態が良くなった様子はない。紗枝を見つける
「おじさま、おばさま方。そう慌てないでください。明一くんの転び方を見てください。最初の転び方と、今回とでは違いますよね?」景之の言葉に、その場にいた大人たちは一斉に黙り込んだ。転び方に何の違いがあるというのか?皆が首を傾げる。「この生意気な!」夢美は景之を睨みつけた。「人を突き飛ばしておいて、まだからかうつもり?このガキ、ただじゃおかないわよ!」「触るんじゃないで!」紗枝は景之の真意を悟り、強い口調で制止した。夢美は紗枝の鋭い視線に気圧され、手を引っ込めた。「どこが違うっていうの?」親族たちは首を傾げていたが、一人の若い女性が気づいた。「あれ?お父さん、お母さん、明一くん、最初は前のめりに転んだのに、今回は仰向けじゃない?」その言葉に、皆が気づき始めた。確かに明一は最初、前の泥水で汚れていたが、今度は背中が泥だらけになっている。でも、それが何を意味するというのか?「まあ、景ちゃんも悪戯が過ぎるわねえ」誰かが笑い声を立てた。「最初は顔から転ばせて、今度はお尻から。やんちゃ坊主め」景之は周囲の理解力の低さに内心で溜め息をつきながら、丁寧に説明を始めた。「おじさま、おばさま方。明一くんが転ぶ前の状況を覚えていらっしゃいますよね?彼は僕と逸之に向かって歩いてきて、お互い向かい合っていました。もし私が押したのなら、今回のように仰向けに転ぶはずです。でも、うつ伏せに転んだということは…」「前のめりに転んだのは、自分で滑って転んだからとしか考えられません」「皆さまにより分かりやすくお見せするために、小さな実験をさせていただきました」景之は明一の前に立ち、凛とした表情で続けた。「一回目は僕が押していないので、謝る必要はありません。二回目は押す前に謝りましたから、これで相殺です」その明晰な論理に、その場の大人たちは言葉を失った。監視カメラの有無に気を取られ、こんな単純な事実に気付かなかったことが恥ずかしく感じられた。逸之は小さく欠伸をしながら、緊張していた心をほぐした。先ほどまで兄が謝罪する意図が分からなかったが、今になって理解できた。「人の安全を実験に使うなんて!」夢美は諦めきれない様子で声を上げた。「もし明一に何かあったらどうするの?」今や正論を得た綾子は、夢美の駄々っ子のような態度を見過ごす