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第897話

Author: 豆々銀錠
「兄貴は以前、記憶を失ったことがある。たぶん、今も完全には治ってないんだろう」

拓司は、聖華高級クラブの最上階、眼下に夜の桃州を見下ろせるラウンジで、グラス片手に鈴へそう告げた。

「記憶喪失......?」

鈴は驚きの声を上げた。「道理で、今日私のことが分からなかったのね......」

「で、お前は彼と結婚したいのか?」

拓司は唐突に話題を変えた。

鈴は一切ためらうことなく即答した。

「ええ。小さい頃からずっと好きだったんです」

彼女にとって、啓司は黒木家でも、世間でも、誰よりも輝いていた存在だった。たとえ今、視力を失っても――いや、むしろ今なら自分でも釣り合えると、そう思っていた。

「なら、この期間を逃さない方がいい。彼が再び記憶を失ったら、今のことも全部......」

拓司はそこで言葉を止め、それ以上続けなかった。その沈黙が、かえって多くを物語っていた。

鈴は彼の意図を理解した。だが、それでも不安げに口を開いた。

「でも私、この町に残るために、わざと事故に遭ったふりまでしたのよ。それなのに、啓司さんは......私を引き留めてくれなかった」

「どうやら、お前はまだ冷酷になりきれていないらしいな」

拓司は呟くように言い、皮肉とも慰めともつかない微笑を浮かべた。

鈴はさらに何かを言おうとしたが、電話はすでに切れていた。

---

「稲葉家のお嬢様と、ずいぶん親しそうだな?」

その時、武田家の次男――陽翔が現れ、からかうように声をかけた。その顔にはどこか陰湿な笑みが浮かんでいる。

拓司はグラスを傾けながら、笑って否定もしなかった。

陽翔はさらに踏み込んで言った。

「あの子は怒らせると怖いぞ。母親の青葉は、うちの祖父でさえ三割は譲ったくらいの女だからな」

陽翔の目には、拓司が黒木グループのトップにいられるのも、その「義母となる女」の支援あってこそだと映っていた。

拓司はウェイターから新たなグラスを受け取り、静かに尋ねた。

「IMグループの背後にいる人間、分かったか?」

「さっぱりだ。外国人らしいという話は聞いたが......」陽翔は苦々しそうにグラスの酒を一気にあおった。「で、啓司さんは今何をしてる?」

拓司の声が低くなった。

「目が見えないやつに、何ができる?母親の指示で、会社に戻ってマネージャーをやってる。ずっとそ
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