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第900話

Author: 豆々銀錠
紗枝は、啓司がまだ嫉妬しているとは露ほども知らず、ただ小さくため息をついて文句をこぼした。

「まず、あなたの記憶喪失を治してくれない?発作みたいなの、ほんとにやめて」

本当に参っていた。啓司の過去の冷酷さを、紗枝は誰よりもよく知っている。だからこそ、ふいに現れるあの頃の彼に、心が疲弊していた。

啓司は、しゅんとしたように「うん」とだけ答えた。

やがて、あっという間にゴールデンウィークがやってきた。本宅に戻ることを考えるだけで、紗枝のこめかみはズキズキと痛み出した。

「寝よう......めちゃくちゃ眠い」

紗枝が布団に入ろうとしたそのとき、啓司はまったく眠気を見せず、長い腕をすっと伸ばして紗枝を抱き寄せた。薄い唇が、そっと彼女の額に触れた。

「お前は寝ていい。俺はまだ、眠くない」

夜の静寂に溶け込むような、低くかすれた声。

額、頬、首元へ。小さなキスが次々と落とされ、紗枝が目を開けると、啓司の整った顔が、至近距離にあった。

「やめて」

紗枝は顔を背け、手で彼を遮った。しかし啓司はその手首を優しく握り、さらに深く囁いた。

「いい子にして、俺の言うことを聞け」

どうしてか、紗枝はその夜の誘惑に抗えなかった。

目を覚ましたのは、翌日の午前11時だった。枕元はすでに空っぽで、啓司は会社に向かったようだった。

胎児は安定期に入り、多少無理をしても問題はないと医師には言われていた。

けれど、体はまだ少し重かった。熱いシャワーで体を温め、ゆっくりと身支度を整えて階下へ向かった。

リビングに入ると、すでに鈴がソファに座っていた。

紗枝の姿を目にした瞬間、一瞬だけ目に苛立ちを浮かべたが、すぐににこやかな声を上げた。

「お義姉さん、支えましょうか?」

その手には杖が握られていた。

支える?せめて仕返しされないだけでも感謝すべきなのに。

「結構です」

紗枝が冷たく言うと、鈴は肩をすくめて笑い、ぶどうを一粒、優雅に口へ運んだ。

階段の角を曲がろうとしたところで、視界の端に楽譜が映った。

鈴がページをめくっている。

紗枝は数歩戻り、彼女の手から楽譜を取り上げた。

「どこから持ってきたの?」

中身は、未発表の新作だった。

鈴は悪びれもせず、平然と肩をすくめた。

「ニュースで、お義姉さんが作曲の大家だって見て......音楽室から持ってき
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