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第6話

Author: 豆々銀錠
一日中、紗枝から電話もショートメールも一つもなかった。

「どのぐらい我慢できるか見て見よう!」

啓司はスマホを置いて立ち上がり、厨房に向かった。

冷蔵庫を開けた瞬間、彼は呆れた。

冷蔵庫の中には、一部の食べ物を除いて、漢方薬が沢山入ってた。

彼は手にパックを取り、「不妊治療薬」と書かれた。

不妊…

啓司は漢方薬の臭い匂いを鼻にした。

以前、紗枝の体に漂っていた薬の匂いを思い出した。その由来をやっとわかった。

彼は心の中で嘲笑した。一緒に寝てないのに、どれだけ薬を飲んでも、妊娠することは不可能だろう!

薬を冷蔵庫に戻した。

啓司は今、紗枝が拗ねる理由を分かった。すぐ気が晴れてリラックスとなった。

メインルームに戻って寝た。

紗枝がいなくなり、今後、彼女を避ける必要はなく、帰るときに帰ればいいと思った。

啓司はぐっすり眠れた。

今日、和彦とゴルフの約束をした。

そこで、朝早くクロークでスポーツウェアに着替えた。

着替えた後、居間まで行き、いつものように紗枝に今日は帰らないと話しかけた。

「今日は…」

そこまで話して始めて気づいた。今後、彼女に話す必要がなくなった。

ゴルフ場。

啓司は今日いい気分で、白いスポーツウェアをしたため、ハンサムで冷たい顔がかなり柔らかくなった。

びっしりの体型で映画スターのように見えた。

スイングすると、ボールはまっすぐ穴に入った。

和彦から褒められた。

「黒木さん、今日は上機嫌だね。何か良いことでもあったのか?」

紗枝が離婚を申し出たこと、一日たって、周りの人たち皆知っていた。

和彦は知らない筈がなかっただろう?

彼はただ啓司から直接聞きたかった。ずっと待っていた葵を呼んでこようかと思った。

啓司は水を一口飲んで、さり気無く答えた。

「何でもない、ただ紗枝と離婚するつもりだ」

それを聞いて、和彦はまだ不思議と思った。

啓司の友人として、紗枝のことをよく知っていた。彼女は清楚系ビッチで腹黒い女だった。啓司に付き纏っただけだった。

もし離婚できたら、二人はとっくに別れていただろう。3年間待つことなかった。

「聾者が納得した?」和彦は聞いた。

啓司の目が暗くなった。「彼女が申し出たのだ」

和彦は嘲笑いした。「捕えんと欲すれば暫く放つって言うのか?

「このような女性を大勢見てきたぞ」

話し終わって、彼は微笑んで啓司に続けて言った。「黒木さん黒木さん、今日、俺からもサプライズを用意したぞ!」

啓司が戸惑った。

和彦が葵にショートメールを送った。

すると、遠くないところから、葵がベゴニア色のスポーツウェアを着て、啓司に手を振った。

しばらくすると、二人の前にやってきた。

和彦は気が利いて言った。「お二人はゆっくり話して、俺はちょっと用がある」

彼は離れて行ったた。

葵に言われ、二人は散歩に出かけることにした。

ゴルフ場を出て、かつて勉強した大学は遠くなかった。

葵は男を非常に分かっるので、紗枝の事一切触れず、彼ら昔のことだけを話しだした。

「黒木さん、この道を覚えてる?」

「昔、付き合っていたころ、よく来たよね!」

「その時、私の手を繋いで、ずっと歩き続けたいと言ったじゃん」

そう言って、葵は立ち止まり、細長い手を啓司に差し出した。

「啓司、また歩き続けようか?」

葵の手に触れた瞬間、彼は本能的に避けた。

葵はあっけにとられた。

啓司はいつも通り落ち着いた。「昔の事、忘れた」

読書、恋、結婚、仕事…

彼にとって、それは人生で経験しなければならないことだった。仕事を完成することと変わりはなかった。

初恋も同じだった。

葵の目は半分赤くなった。「まだ私のことを恨んでるの?」

「当時、あなたと別れたくなかったが、でも仕方がなかった。啓司の事大好きだった…」

「ここ数年、私がどうやって生き延びてきたかを知ってる?」

「私たちの過去を思い出しながら生きてきたよ。一生懸命働き、もっと優秀になり、そして戻ってきて、啓司に釣り合う存在になりたかったのだ」

この言葉を聞いて、啓司が眉をひそめた。

「俺は結婚してるよ」

「わかってる。でも彼女が離婚したいって」

葵は続けて話した。「啓司を返してくれて、彼女に感謝してるよ」

涙がぽつりぽつりと流れ落ち、彼女は啓司の腰に手を抱え込んだ。

「知ってるだろ? 私は紗枝をとても恨んでいた。彼女がいなかったら、私たちはこんなに長く離れていなかっただろう」

たぶん、私達人間は忘れっぽいの質だろう。

葵は忘れた。紗枝が啓司と婚約したのは、彼女が啓司と別れてからだった。

紗枝、紗枝…

啓司の頭に無意識のうちに、静かで優しい女性の姿が浮かんできた。

前に、お父さんが亡くなってから、彼女は目に涙を浮かべながら啓司に頼んだことがあった。「黒木さん、抱きしめてくれませんか?」

しかし、その時、紗枝の弟の太郎が、両家の縁談の約束を破って、黒木家からの結納金と夏目家が約束して譲渡するはずのすべての財産を独り占めにしたばかりの時だった。

だから、啓司は慰めの言葉もなく、紗枝の前を通って離れた。

女の悲しい様子が頭から離れず、彼は無意識のうちに葵を引き離した。

葵は引き離され、何かを言おうとした。

和彦が急いで走って来るのを見て、彼女は涙をこらえた。

気まずい雰囲気に気づき、それでも和彦は書類を啓司に渡した。

「黒木さん、見て」

書類を手にして、開いて見たら、財産譲渡契約だった。

「紗枝の弁護士から送ってきた。結婚三年間への賠償についてって」

和彦は紗枝からの賠償請求だと思って、早く駆けつけてきた。

書類を開けて、賠償じゃなく、譲渡契約だった。

啓司は信じられなかった。

最後まで読んで、金額は20億円を見た時、馬鹿だなと思った。

彼は誰だと思われたのか?

「20億円、このぐらいで夏目家を手放してくれと言いたいのか?許してくれっていうのか?」

葵はやっと分かって、皮肉に言った。

「聾者は無邪気と装って、20億円の資産を隠し持ってたのか」

「彼女の弟と貪欲なお母さんは知ってるのか?」

葵は和彦と啓司の会話を聞いて、紗枝への嘲笑いを抑えきれなかった。

もともと、啓司が紗枝の事が好きになると心配していたが、でも、今から見れば3年どころか、一生、啓司のような優れた男は、素朴な紗枝を好きにならないと思った。

紗枝は彼女のライバルになる価値はなかった。

向こう、薄暗いホテル。

紗枝は寝ぼけた目を開いて、頭が痛みを覚えた。周囲には非常に静かだった。

彼女は病状が悪化したことを分かっていた。

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