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第843話

Author: 豆々銀錠
啓司は、逸之の甘えた声にも微動だにしなかった。

好きでもなければ、嫌いでもない。ただ、年齢に似合わず甘え続ける姿が、ひどくつまらなく思えただけだった。

「行かない」

啓司はそれだけを淡々と告げた。今は稲葉グループの買収後処理に追われ、私情にかまけている暇などなかった。

逸之は、父がまったく耳を貸そうとしないのを悟ると、心の中で小さく呟いた。

この頑固者、やっぱり無理かもな。

落胆を隠しつつ、わざとらしく口にした。

「わかった。来なくてもいいよ。エイリーさんと雷七さんが来てくれるし、一緒にテント張ったり、ご飯作ったりするから。エイリーさん、ママの料理すごく好きなんだって」

「......エイリー?」

啓司の眉がぴくりと動く。聞き覚えのない名前だった。

「......あさって行く」

突然、逸之の言葉を遮ってそう告げた。

「ほんと?」逸之の瞳がぱっと輝いた。

「ああ」

「じゃあ、早く寝てね」

電話が切れると、逸之はようやく安心して目を閉じた。最近は体の痛みも和らぎ、あさって家族で花見に行けると思うと、胸が弾んだ。

一方、黒木家に居候していた鈴は、ひそかに拓司へメッセージを送っていた。紗枝たちが桃山へ花見に行くと。

そして、約束の日がやってきた。

紗枝と梓は朝から準備に追われ、ようやく四つの大きな箱を詰め終えた。雷七はそのうちの二つを軽々と持ち上げ、頼もしい足取りで前に進んでいく。

「紗枝、このボディーガードすごいわね! こんな大きな箱を二つも一度に持てるなんて!」

梓が驚きの声を上げると、紗枝は微笑んだ。

「力だけじゃないわよ。腕も確かで、頼りになるの」

辰夫が彼を送り込んでくれたの、大正解だった。

「ほんとに......すごいわ」

梓は感心しながら、つい雷七にちらちらと視線を送った。もしかして、桃山で有名人に遭遇したりして?

そんなことを思いながら、準備を進めていると、鈴が箱を引きずってやってきた。

「お義姉さん、私も桃山に行きたいんだけど、いい?」

「ごめんね、車の席が足りないの。行きたければ、自分でどうにかして」

紗枝がそう言い終えるか終えないかのうちに、雷七がわざとらしく余った座席に箱を置いた。

一瞬、鈴の目に苛立ちが浮かぶが、口元には笑みを浮かべたまま答えた。

「わかった、自分でタクシー呼ぶわ」

紗枝
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