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僕と、勝負してください《5》

Author: 砂原雑音
last update Last Updated: 2025-05-19 19:33:28

金曜の夜は、仕事上がりにすぐに飯を食って一度家に帰り、風呂に入って出かける準備をして……時間が過ぎるのを待つ。

閉店間際に、ということだけど時間はいつも客次第で曖昧だ。

こちこちこち、と壁時計の秒針の音が気になって落ち着かなくて、結局俺はどう考えても早すぎる時間に、店に向かった。

今まで、この扉をこれほど重く感じたことがあっただろうか。

押し開けると同時に、音楽と人の声が流れてくる。

カウンターの中のその人は、俺に気が付くと少し目を見開いた。

「お、陽介来たな」

佑さんの声が聞こえたけれど、俺は慎さんから少しも目を離せない。

もしもまた、悲しい顔をされたらどうしようと思ったら、心臓が縮み上がりそうだったけど。

「いらっしゃいませ。どうぞ」

予測に反して彼女は、ゆっくりと苦笑いに変えてそう言った。

「慎さん、俺っ」

「閉店間際に、と言ったのに。仕方ない人ですね」

カウンターに早足で近寄った俺に、すっとオシボリが差し出され反射的に受け取った。

座るとすぐ、いつもなら何か作ってくれるのに。

「佑さん、ここお願い」

と言って、すぐに離れて行ってしまった。

今すぐ、出来る話じゃないことくらいはわかってる。

だけど早く謝罪だけでもしたかったのに、慎さんの方は今は何も聞くつもりはないということだろうか。

他の客の話相手をする慎さんの横顔を見て、酷く寂しくさせられたけど、少しだけ安心もした。

良かった、泣いてない。

いつもと変わらず、彼女はちゃんとバーテンダーを熟していた。

「見過ぎだっつの」

「佑さん」

「ちょっと飲んで落ち着けよ。何にする?」

……あれ?

作ってもらったモヒートは、いつもと少し違う気がした。

作り手によって違うんだろうか。

アルコールが、少し薄いように感じて首を傾げる。

「黙って飲んどけ」

佑さんが、ぼそっとそう言った。

この後話をするのだから、酔う訳にはいかないしそういう意味かもしれない。

納得して、ちびちびと、時間を潰すつもりで飲んでいて、時折慎さんを目で追うけれど少しも目を合わせてくれなかった。

慎さんが喋ってくれない。

それだけでこんなにも居心地が悪くなるのかと充分身に染みた、日付が変わってすぐの頃。

ちょうど客の切れ目になった時

「うし。閉めるぞ」

と、週末にしては随分早く佑さんの合図が入った。

「まだ早くない?」

「いいだろ別に。意地悪してないでち
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    金曜の夜は、仕事上がりにすぐに飯を食って一度家に帰り、風呂に入って出かける準備をして……時間が過ぎるのを待つ。閉店間際に、ということだけど時間はいつも客次第で曖昧だ。こちこちこち、と壁時計の秒針の音が気になって落ち着かなくて、結局俺はどう考えても早すぎる時間に、店に向かった。今まで、この扉をこれほど重く感じたことがあっただろうか。押し開けると同時に、音楽と人の声が流れてくる。カウンターの中のその人は、俺に気が付くと少し目を見開いた。「お、陽介来たな」佑さんの声が聞こえたけれど、俺は慎さんから少しも目を離せない。もしもまた、悲しい顔をされたらどうしようと思ったら、心臓が縮み上がりそうだったけど。「いらっしゃいませ。どうぞ」予測に反して彼女は、ゆっくりと苦笑いに変えてそう言った。「慎さん、俺っ」「閉店間際に、と言ったのに。仕方ない人ですね」カウンターに早足で近寄った俺に、すっとオシボリが差し出され反射的に受け取った。座るとすぐ、いつもなら何か作ってくれるのに。「佑さん、ここお願い」と言って、すぐに離れて行ってしまった。今すぐ、出来る話じゃないことくらいはわかってる。だけど早く謝罪だけでもしたかったのに、慎さんの方は今は何も聞くつもりはないということだろうか。他の客の話相手をする慎さんの横顔を見て、酷く寂しくさせられたけど、少しだけ安心もした。良かった、泣いてない。いつもと変わらず、彼女はちゃんとバーテンダーを熟していた。「見過ぎだっつの」「佑さん」「ちょっと飲んで落ち着けよ。何にする?」……あれ?作ってもらったモヒートは、いつもと少し違う気がした。作り手によって違うんだろうか。アルコールが、少し薄いように感じて首を傾げる。「黙って飲んどけ」佑さんが、ぼそっとそう言った。この後話をするのだから、酔う訳にはいかないしそういう意味かもしれない。納得して、ちびちびと、時間を潰すつもりで飲んでいて、時折慎さんを目で追うけれど少しも目を合わせてくれなかった。慎さんが喋ってくれない。それだけでこんなにも居心地が悪くなるのかと充分身に染みた、日付が変わってすぐの頃。ちょうど客の切れ目になった時「うし。閉めるぞ」と、週末にしては随分早く佑さんの合図が入った。「まだ早くない?」「いいだろ別に。意地悪してないでち

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  • 優しさを君の、傍に置く   なんでもかんでも明け透けに、喋ればいいと思うなよ!《5》

    「えっ、ちょっ、慎さん?」「時間的に中途半端じゃないですか。なんだかんだですぐ夕食の時間だし。カフェで無駄にお金使うことはないです」「いや、でも」「ああ、散らかってて見られたくない、とかなら」「そうじゃないですけど」「僕に気を使ってるだけなら、おきになさらずに」男が男の部屋に入るのに、何が怖いことがある。あるとすれば、陽介さんの暴走だけだ……いや、それが一番マズいのだけど。「それに、貴方は僕の嫌がることはしないでしょう?」階段途中で、半分振り向いてそう言うと、陽介さんがこくんと息を飲むのがわかる。そしてビシッと背筋を伸ばした。「しません、絶対!」「はい、信用してます」「こっちです!」うむ、扱いが大分わかってきた。信頼していると、常に伝えればいいのだ。張り切った様子で僕を追い越し、部屋へと先導してくれる。大きな背中がやたら可愛らしく見えて、こっそりと苦笑した。「どうぞ、ここ!」「はい」促されて、二人掛けのソファに座る。然程広くはないリビングだけれど、寝室は別のようでそこは遠慮なく安心した。コーヒーいれますね、と陽介さんの様子はどこか慌しい。散らかっている、というほどではないけれど、雑誌が読みの途中でテーブルに伏せられていたりする。今朝方飲んだんだろうコーヒーのカップも置いてあったが、それはさっき陽介さんが慌てて下げていた。生活感がある、と言えば良く言い過ぎかな。だけどそう思っておいてあげることにしよう。「そういえば、慎さん。今日は何時ごろまで一緒に居られるんですか」「特に……何もないですけど……」コーヒーカップを二つ持ってキッチンから戻った陽介さんが、その一つを僕に差し出しながら尋ねる。「じゃあ、晩御飯は外に食べに行って、その後送ります」「丸一日って約束だったけど、いいんですか」「このテンションで深夜に二人だと俺の理性が持ちません」「なるほど。帰ります」じゃあ休憩がてら洋画でも観ますかと、陽介さんがつけてくれたのは映画館の前で僕がテレビ放送を見損ねたと話していたタイトルのものだった。「観ながらディスクにもコピーしときますね」「ありがとうございます、嬉しいです」ソファから降りてラグの敷かれた上に座ると、背中をソファの足元に預ける。「ソファ座っててくださいよ、俺が床に座りますから」「実はぺたん

  • 優しさを君の、傍に置く   なんでもかんでも明け透けに、喋ればいいと思うなよ!《4》

    そこからは本当に、ゆったりとしたものだった。映画館の前を通れば、映画が好きかどんなジャンルが好きかを聞かれ、アパレルメーカーが並ぶ場所では好きなブランドを。洋菓子の本店が並ぶ通りではワゴン車の可愛いクレープ屋を見つけ、クレープはあったかいのが好きかアイス入りのが好きかを聞かれた。それよりも、僕は陽介さんのお祝いに何か、と思ったのだが。そう告げると、彼はそのクレープ屋を指差す。「じゃあ、そこのクレープ奢ってください」「そんなものでいいんですか」「いや、俺もパンしか買ってませんからね」確かに、そうなんだけど。なんか他にも、色々奢ってもらってるから、僕としては一度きちんとフラットにしておきたいのに。本当に他愛ない話ばかりを、散歩くらいのペースでゆっくりと歩く。様々なメーカーの本店がゆったりと土地を使って構えているその通りは、中心街ほど人が多くない。「ここら辺って、昭和の時代の服飾とか洋菓子のメーカーが本店とか本社を構えてて、土地の遣い方が贅沢なんですよね。小さい店がひしめきあってるとこって狭い場所に人も密集するけど、ここら辺なら慎さんも大丈夫かと思って」雰囲気の違う理由を、彼が教えてくれた。多分、それも調べてくれたんだろうか。「少しくらい大丈夫ですよ。苦手ってだけで」「でも、苦手よりは気持ちいいとこ歩きたいじゃないですか。あ、遊園地は好きですか」「まあ……昔行ったきりですけど、嫌いではないです」「じゃあ、今度寂れた遊園地探しときます」「寂れたって……酷いですね」僕が苦手だと言ったものを避けてくれようとするのはいいが、その徹底ぶりに可笑しくて肩を揺らす。「遊園地で人気のないのもあんまり寂しいでしょう。陽介さんの行きたいとこでいいですよ」「え」「でも、あれは苦手です。くるくるするやつ……ティーカップ? コーヒーカップ?」酔ったんですよね、と言いながら、空いた方の手の指をくるくる回す。隣を見上げると、驚いた顔で僕を見下ろしていて、意味がわからず首を傾げ「何か」と尋ねた。「いえ、別に。じゃあ、次の約束は遊園地で」ぶわっ、と幸せそうに笑顔になる。そうか、次の約束をしたことになるのかと気が付いて、照れくさくなって進行方向へ目を逸らした。降りた駅から、随分離れたと思う。もしかしたら、一区間以上歩いたんじゃないだろうか。疲れ

  • 優しさを君の、傍に置く   なんでもかんでも明け透けに、喋ればいいと思うなよ!《3》

    あの夜を境目に、僕がおかしいのか彼がおかしいのかわからないが。とにかくなんだか少し、今までと空気も違う。「楽しいですよ絶対」「……それに、休みも合わないし」ぐずつく僕も気持ち悪い。以前なら「無理に決まってるでしょう」で瞬殺だったはずだ。わかってても、なんだか元の自分にどうしても戻らないのだ。「そこなんすよね」「別にいいぞ、一日くらい休みやっても」「は?」突然割り込んだ佑さんの声に驚いて、ずっと俯いていた顔を上げる。そこにはいつの間に帰ってきたのか、にやあぁっと嬉しそうな、厭らしい顔をした佑さんが立っていた。「まじすか、いつ?!」「明日は?」「えっ、ちょっ……いきなり明日?! 土曜だろ、店休むわけには」「いいって、別に。それに陽介の誕生日の祝いで、本人に仕事休ませるのはおかしいだろうがよ」「ってかどこから話聞いてたんだよ!」「プレゼントはキスでいいですってとこから」さっさと声かけろよこのエロオヤジが!「じゃ、じゃあ! 明日まじで、いいですか!」「えっ、あっ、でも土曜は道場が」「んなもん、一日くらい休んだってかまわねーだろ。たかが習い事、そんな毎週真面目に行ってるやついんのか」「ぐっ」確かに。毎週きっちり来てるのは僕くらいかもしれないが。目の前で、陽介さんが目をキラッキラさせている。一日、一日中なんて、間が持つのか?僕に娯楽のスキルは皆無だぞ。加えて人の多いところは苦手だとか、扱いづらい性格なのは自覚がある。不安だしどうしても尻込みしてしまうが、尻尾をぶんぶん振り回してるわんころみたいな彼を目の前に、もう僕には「NO」と言うことは出来なかった。◇◆◇『どうしよう、どうしましょうか。デートと言えば待ち合わせ?』『あ、ああ、それでも構わないけど』『いや、やっぱ迎えに来ます! 一人で歩かせるわけにいかないし』『子供じゃあるまいし、別に一人で』『じゃあ朝に、いや昼前に迎えに来ます。あ、ご飯! ご飯は一緒に』『わかったからちょっと落ち着け!!!!』テンション上がりまくった陽介さんは、僕に早めに寝る様にとまで指示を出し、本人もデートに備えるつもりなんだろう、それからすぐに帰ってしまった。仕事柄夜型の僕は、佑さんに早めに休ませてもらってもすぐには寝つけず、落ち着かないままベッドに入ったが、それでもなんだか

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