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第526話

Author: 十一
陽一の目に暗い光が一瞬走った。

「庄司先生は忙しいと聞いている。毎日ほとんど実験室にいるそうだが、今日は早く帰ってきたね」時也が言った。

「聞いた?」陽一は淡々と口を開いた。「誰から?」

今日は授業があり、ちょうど生命科学研究科の代講だったが、教室にいたのは早苗と学而だけだった。

聞いてみると、凛は休みを願い出ていた。

実験室は確かに忙しく、陽一普段は授業を終えると食堂で簡単に昼食を済ませてすぐ向かい、この時間に家に戻ることはほとんどない。

だが今日は例外だった……

時也は唇を上げた。「もちろん、凛から」

陽一は無表情で言った。「では凛は君に、路地の入り口に駐車禁止だと教えたのか?」

「止めない。すぐに出る」時也は口元を上げ、アクセルを踏んで走り去った。

しばらく進んだところで、時也はふと我に返った。

さっき……

陽一は「凛」と呼んだのか?

……

遠ざかっていく車の後部を見送り、陽一は視線を戻して階上へと向かった。

ただ、頬の筋肉はわずかに強張り、瞳には冷たい光が宿っていた。

七階に着くと、彼はすぐに自宅のドアを開けず、隣の部屋のドアをノックした。

「凛、いるか?」

数秒待つと、「……はい、先生」という返事が聞こえた。

ドアが内側から開いた。

陽一は凛を上から下まで見回した。「大丈夫か?」

「……え?」凛は戸惑った。

「今日は授業に来なかったな。ほかの子から休みを取ったと聞いた」

「ええ。ちょっと用事を処理しに行ってました」

「実験室への改善要求に関係あるのか?」

「はい」凛は軽くうなずいた。

「進み具合はどうだ?」

凛は笑みを浮かべた。「あと一歩です」

「手を貸そうか?」

「いいえ、大丈夫です」

時也の言ったことは確かに正しかった。海斗が自ら望まない限り、誰も彼に署名を強制することはできない。

陽一は目を細めた。「さっき路地の入り口で瀬戸時也に会った」

「ああ、彼が送ってくれたのです」

「一緒に行っていたのか?」

「いいえ」凛は深く考えずに答えた。「偶然会っただけです。ちょっと困っていた時に、ちょうど彼がいてくれました」

陽一の目はますます深くなった。

「無事で何より。おじさんの作ったビーフジャーキー、とても美味しかったよ。ありがとうと伝えて」

凛笑った。「父が聞いたら、きっと有頂天になりま
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