Masuk「洋二、これからは私がそばにいられないから、どうか自分の体を大切にしてね。和也もよ」雪枝は目元を赤く潤ませ、名残惜しそうに言う。「今の裕也の頭の中は、絵里のことでいっぱいよ。親を捨ててまであの女に尽くすとは、ずいぶん立派な愛情ね。あの子にはもう何も期待できないわ。和也、これからはあなたが、お父さんのこと、しっかり支えてあげてね」和也はずっと傍らに立って黙っていたが、その言葉を聞いて頷き、約束する。「安心して、母さん。今は母さんの安全が第一だ。無事に海外へ出て落ち着いたら、俺たちもなんとかして会いに行くから」「ええ」しかし洋二は、首を横に振る。「この数日は、ここに残ってお前に付き添おう。長年連れ添ってきたが、こんなに長く離れ離れになるのは初めてだからな。次にいつ会えるか、わかったものではないし」雪枝の瞳の奥に、一瞬だけ拒絶の色が走る。「あなたたちがここにいたら、かえって見つかりやすくなるわ。それに、あなたの体調も心配だし」洋二は全く聞き入れる様子がなく、どうしても残ると言い張る。雪枝は彼がどうしてしまったのかわからない。以前はこれほどしつこくはなかったのに。半身不随になってから、男として、そばにいる女性をこれまで以上に大切にしたいと思うようになったのだろうか。本当に、役立たずな男。だが、残るのを拒むわけにもいかない。せいぜいあと二日、我慢すればいいだけのことだ。その夜、雪枝と洋二は二階の主寝室で休む。部屋には香が焚かれている。二人が話しているうちに、雪枝は次第に強い眠気に襲われる。まぶたが重くなり、やがてそのまま深い眠りに落ちていった。洋二は冷ややかな笑みを浮かべ、ナイフを取り出すと、雪枝の肩の後ろにある、かさぶたになった傷口を切り裂く。そして、ピンセットで小さなチップを取り出す。そのチップを見つめる洋二の瞳に、目的を果たした満足感が浮かぶ。彼は冷酷な眼差しで雪枝を一瞥する。翌朝早く、洋二と和也はそこを後にする。和也が不思議そうに尋ねる。「父さん、もう少し母さんのそばにいたいと言っていなかったか?どうしてこんなに早く発つんだ?」洋二は愛情深い夫の顔を取り繕い、ため息をつく。「昨夜、考え直したんだ。俺たちがここにいては、かえってお母さんの足手まといになるかもしれない。やは
裕也の静かな目の奥で何かが揺らぐが、すぐにまた元の静けさを取り戻す。「お前を助けた人間?」絵里は小さく頷き、胸の内に秘めていた推測を口にする。「あの時、誰かが私を水に突き落としたんじゃないかって疑ってるの。それに、私を助けた人も、誰かに仕組まれていたんじゃないかって」あるいは、その人は彼らに殺されてしまったのかもしれない。でなければ、和也を命の恩人だと十年間も勘違いし続けるはずがない。理由が何であれ、とにかくその人を見つけ出したかった。絵里の顔色は優れず、むしろ蒼白と言っていい。険しい表情にはわずかな青白さが混じり、どこか怒っているようにも見える。裕也は数年前に耳にしたある出来事を思い出し、ハンドルを握る手にぐっと力を込める。「考えすぎじゃないか?お前を助けたことが仕組まれたものだなんて、あり得るのか?」絵里は苛立たしげにこめかみを揉む。「とにかく、この件は絶対に調べ上げるわ。特に、雪枝が絡んでいるならなおさらよ」ただ、本当の恩人が無事であることだけを祈っていた。これほど長い間、和也を恩人だと思い込み、本当の命の恩人には「ありがとう」の一言すら伝えていないのだ。裕也の瞳に一瞬の躊躇いがよぎるが、絵里の機嫌が悪いことを察し、唇を引き結んで沈黙を守る。帰宅後、絵里は真っ先にバスルームへ向かう。裕也はバルコニーに出て、健に電話で指示を出す。「ボイスレコーダーが今誰の手にあるか調べろ。それから、南を探し出せ」「はい」健は余計な詮索は一切せず、電話を切るとすぐに調査の手配を整える。絵里はシャワーヘッドの下に立ち、熱い湯を浴びながら思考を巡らせている。この件はどこからどう見ても不自然すぎる。なんとかして和也の周辺から探りを入れる必要がある。さもなければ、田中が記憶を取り戻すのを待つしかないが、それではあまりにも受動的だ。ただ座して待つわけにはいかない。外はすっかり日が落ち、完全な闇に包まれている。和也は洋二を密かに病院から連れ出し、雪枝が身を隠している場所へと向かい、彼女と面会させる。雪枝は豪奢な緑色のサテンのオートクチュールドレスを身にまとっている。髪は一糸乱れず整えられ、高価なジュエリーを身につけている。どこからどう見ても、逃亡中の犯罪者には見えない。洋二はまだひどく
絵里は負った傷を思い出し、今でも背筋が凍る思いがしたが、素直にこくりと頷く。「わかったわ。もう、すっかり口うるさくなっちゃって」裕也はテーブル越しに彼女を見つめ、不快な顔ひとつせず、優しい眼差しで微笑む。「俺にとっては、お前の安全以上に重要なものはないからね」絵里の胸に温かいものが広がる。こうして誰かに気にかけてもらえる感覚は、ひだまりのように心地よい。ふとあることを思い出し、ボイスレコーダーの内容について彼に打ち明けようとする。その時、背後から修司のからかうような声が響く。「水原さんが俺の電話にも出ず、メッセージも無視するのは、焼けぼっくいに火がついたからだったのか」思考を遮られ、絵里が顔を上げると、修司はすでに彼らのテーブルのそばに立っている。裕也の瞳から先ほどの優しさは消え失せ、刃のように鋭く冷たい視線で彼の顔を射抜く。「星野さんはどうやら、俺たち夫婦の仲の良さが目障りらしい。どうした、自分の人生が思い通りにいってないのか?」修司は冷ややかな表情を崩さず、つまらなそうに吐き捨てる。「藤原さん、本当に仲のいい夫婦だとでも?もしそうなら、水原さんが泥酔して俺と一緒にホテルに現れるなんてことはないはずだがな」絵里は彼の言葉があまりにも下品だと感じ、冷ややかな視線を向け、微かな怒りを滲ませて言う。「星野さん、言葉には気をつけて。あなたが私を助けてくれたことに免じて黙っているけれど、勝手に私をホテルへ連れ込んで、ネットでデマを流したことだけでも、警察に通報できるのよ」絵里は昔から、受けた恩は必ず返す性格だ。修司には何度か助けられ、実際に命を救われたこともあるため、絵里は彼に対して比較的丁寧な態度をとってきた。だが、彼の最近の行動は度を越しており、到底容認できるものではない。それでも、完全に決裂するまでには至っていなかった。以前助けられた件について、絵里は報酬を渡して恩返ししようと考えたこともあった。しかし、修司のような人間は金に困っておらず、はなから多少の金で片付けられる相手ではない。「水原さんがこれほど薄情だとはね。自分の命の恩人に向かって、そんな態度をとるとは」修司は鼻で笑う。絵里は眉をひそめる。「命の恩人」という言葉を聞いて、少し苛立ちを覚える。彼女自身、ずっと自分の本当の
その夜、絵里と裕也はベッドで身を寄せ合い、とめどなく語り明かす。絵里は話し疲れ、いつの間にか彼の腕の中で眠りに落ちていた。翌日、治夫が目を覚ましたというニュースは、一夜にして社内に知れ渡っていた。上流階級のコミュニティでも、その話題で持ちきりだった。午前の会議が終わるや否や、悟史は待ちきれない様子で絵里のオフィスを訪れ、その件について尋ねてくる。「治夫様がお目覚めになられたというのに、お嬢様はどうして黙っておられたのですか?」悟史は普段、温厚で紳士的な振る舞いを崩さない男だが、この時ばかりはいつもより冷静さを欠いている。絵里は眉を寄せ、冷たく笑う。「私の祖父が目を覚ました。それを言わなかったからといって、わざわざ皆さんに報告する義務でもあるか?紫垣さん、もしかして祖父に目を覚ましてほしくなかったとでも?」彼女の瞳がスッと暗く沈み、表情から温度が消え失せる。悟史は自身の過剰な反応に気づき、すぐさま表情を取り繕う。「まさか。治夫様には日頃から目をかけていただいておりますゆえ、お目覚めになられたのは僕としても喜ばしい限りです」絵里はその白々しい言葉を意に介さず、オフィスチェアに深く腰掛け、冷ややかな視線を落とす。「祖父は静養が必要だし、会社の経営に関わることはない。引き続き私が全権を握るので、紫垣さんはご自身の担当プロジェクトにだけ専念してください」その言葉には強い警告が込められており、悟史に自分の立場を弁えさせるためのものだった。悟史は感情を隠す術に長けている。表面上は微塵も動揺を見せず、口角を上げて微笑む。「すべては、お嬢様の仰る通りに」悟史は背を向けて退室し、オフィスのドアを閉める。ドアが閉まった直後、今度は丈裕が慌ただしく入ってくる。「絵里様、S市に向かわせた者から報告が入りました」絵里は目を輝かせ、身を乗り出して尋ねる。「南には会えたの?」丈裕がS市に人を派遣して南を捜索させ、すでに二、三日が経過していた。丈裕は頷くが、その表情は少し重い。「はい、接触はできたのですが、ただ……」丈裕は報告の内容を絵里に伝える。南に会うことはできたが、彼女はボイスレコーダーの件については口を閉ざし、和也が美月を殺害した事実を意図的に隠蔽していることすらも頑なに否定したという
「どうしたの?そんなに怖い顔をして」裕也は身を乗り出して彼女を抱き寄せると、うつむいてその鼻先に軽くキスを落とす。それは情欲など微塵も感じさせない、ただ安心させるためのような口づけだった。絵里は顔を少し背け、上目遣いに彼を見つめる。「この間の事故のこと、どうして洋二のことを庇ったのか、理由を教えてくれないの?」事故が起きてから、彼が意図的に事実を隠していることに気づいていた。怒りを感じ、彼が信用できないと思って、ずっとその話題を避けてきたのだ。だが、あれほど自分を大切にしてくれる裕也が、いくら父親である洋二を庇いたいからといって、自分に理不尽な思いをさせるはずがないことも分かっていた。今日の出来事を経て、すべてをはっきりさせようと決心する。これ以上、こういった隠し事を二人の絆の障害にしたくなかった。裕也の瞳に微かな光がよぎる。彼は手を伸ばし、絵里の額にかかる後れ毛を優しく梳く。「知りたいのか?」「うん」「分かった」裕也は穏やかに微笑む。彼女を包み込む大きな手から、じんわりと温もりが伝わってくる。低く柔らかな声が、どこまでも心地よく耳に響く。そして、隠し立てしていた理由を包み隠さず絵里に打ち明ける。実は、洋二がグループの資金を不正に移動させようと企み、俊介と手を組んでいることを、裕也はとうの昔に突き止めていたのだ。事故に洋二が関与していることは判明していたが、決定的な証拠がない。警察に突き出したところで罪に問うのは難しく、かえって藪蛇になる恐れがあった。現在、洋二は百億ドルもの資産を握り、海外の口座に留め置いている。もし彼がこのG市を離れれば、藤原グループはいつでも致命的な危機に晒されることになる。絵里は背筋が凍るような思いがする。到底信じられない話だった。「だから小針を標的にしたのね。洋二に、この件はもう終わったと思い込ませて、油断させるために」絵里は腑に落ちたように言う。彼の真意を、ほぼ確信していた。「その通りだ。お前の安全と、藤原グループの存亡に関わることだからな。お前は真相を知らない方が安全だと思ったんだ」彼の口から直接その言葉を聞き、その顔を見つめていると、絵里の胸は急に締めつけられるように痛む。裕也はこれまで、どれほど多くのものを一人で背負い込んできたのだろう。
「じいちゃん」絵里はまぶたを震わせ、顔色をわずかに青ざめさせる。しかし、裕也は何かを察したのか、唇の端を軽く持ち上げる。治夫は眉をひそめ、やがてふっと笑い声を漏らす。「そんなに怯えるな。わしが本当に別れろと言ったら、お前は毎日泣き暮らすだろうが」絵里はハッとする。じいちゃんはわざとからかったのだ。「じいちゃんったら、私をからかうなんて」わざと怒ったふりをするが、心の中は喜びに満ちている。これでいい、じいちゃんは父の件でショックを受けておらず、少なくとも体調を崩すことはないだろう。治夫の先ほどの怒りはすっかり消え失せていた。会社に来る前、偶然ニュースを目にし、吉田を問い詰めて事の顛末を知った時は、危うく息が止まるかと思った。千佳が会社で大騒ぎしていると聞き、向かっている最中は怒り心頭だった。だが会社に着き、絵里の苦労を思うと、ただただ不憫で、怒りなどどこかへ吹き飛んでしまったのだ。先ほどあれほど激高したのは、裕也の姿を見て、彼の冷酷な母親である雪枝を思い出したからだ。だが結局のところ、子供たちに何の罪があるというのか。「絵里、お前は大人になった。会社も立派に切り盛りしている。わしはお前の選択を信じるよ。拓海も天国で、お前が自分のためにこれほど尽くしてくれたのを見て、きっと喜んでいるだろう」治夫は絵里を見つめ、心からの安堵を浮かべながら、その頬を伝う涙を愛おしそうに拭う。「絵里、もう泣くのはおやめ。お前はわしの宝物だ。おじいちゃんはただ、お前が平穏で幸せであってくれることだけを願っているんだよ」「じいちゃん……」絵里は一瞬で堪えきれなくなり、さらに激しく涙をこぼす。治夫の肩に頭を預け、泣きじゃくりながら言う。「私も、じいちゃんにはずっと元気でいてほしい。ずっとずっと、私のそばにいてほしいの」「ああ……わしはずっとそばにいるよ」治夫は彼女が悲しむのを見るに忍びなく、愛おしそうに宥めながら、朗らかに笑い声を上げる。赤く染まったその瞳には、一瞬の痛みがよぎる。裕也は二人の姿を見つめ、さらに笑みを深める。何かを思い出したのか、ふと目を伏せ、その瞳に微かな羨望が浮かぶ。今日は一日中振り回され、治夫も疲労困憊だった。絵里と裕也は一緒に彼を送り届け、休ませることにした。彼を送り届けた後







