Mag-log in翔也が手を伸ばしてきた瞬間、私は思わず後ずさった。翔也は伸ばした手を途中で止め、目を真っ赤にして言った。「悦美……俺が悪かった。なあ、そんなに避けないでくれよ……」あれほど偉そうにしていた翔也が、今はすっかり見る影もなくなっていた。それでも諦めきれないのか、もう一度私に手を伸ばしてきた。「もう一度だけ……頼む、もう一度だけチャンスをくれ……」私は翔也の後ろに並んでいる人たちを指さした。「すみません。本をお求めでないなら、次の方に順番を譲っていただけますか?」翔也は呆然と私を見つめたまま、何も言わなかった。私は翔也を脇に押しのけ、次の人が差し出した本にサインをした。その夜、家に帰ると翔也から電話がかかってきた。どうやって調べたのか、新しい番号まで知られていたらしい。電話に出ずにいると、今度はLINEで長いメッセージが届いた。何度も謝って、もう一度許してほしいと繰り返していた。私の両親が今も翔也の家に住んでいることまで書いてあった。私は返事もせず、そのまま削除した。それでも翌日、翌々日と電話は続き、あまりのしつこさに、とうとう出ることにした。「悦美……一度だけでいいから、会って話せないかな。少しだけでいいんだ……」少し迷ったけれど、最後に一度だけ会って、きっぱり話をつけることにした。待ち合わせは、今住んでいるマンションの1階にあるカフェにした。約束の時間にやってきた翔也は、サイン会の日と同じスーツを着ていた。前よりずいぶん痩せて、顎には剃り残したひげがあり、シャツの襟元もよれていた。あんなに身だしなみに気を使っていたのに、すっかりくたびれた様子だった。翔也は私の前にカフェラテを置いた。「悦美、これ好きだったよな」私はカップに手をつけず、そのまま押し返した。「今はもう好きじゃないの」翔也は私を見つめ、目を赤くした。「……前は好きだっただろ?」「うん。でも、好みって変わるから」翔也は何か言いたげに黙っていたが、しばらくして口を開いた。「……俺、もう萌花とは何の関係もないんだ。鑑定の結果も出た。佑人もお腹の子も、俺の子じゃなかった。ずっと騙されてたんだよ……」翔也は目を赤くして、私を見つめた。「悦美、本当に悪かった。今さらこんなこと言っても遅いかもしれないけ
私は慌ててドアから離れようとしたが、もう遅かった。翔也は萌花には目もくれず、私のほうへ駆けてきた。優はすかさず病室のドアに鍵をかけた。「悦美!開けてくれ!そこにいるんだろ!」翔也はドアを何度も叩いた。「頼む、開けてくれよ。ちゃんと話そう。家に戻ってきてくれないか?子どもは産んでほしいんだ。籍もすぐ入れる。約束するから……」私は何も言わず、サインした中絶手術の書類をドアの下の隙間から廊下へ滑らせた。ドアを叩く音がぴたりとやんだ。しばらく沈黙が続いたあと、翔也の声がした。「……悦美、嘘だろ……もう堕ろしたのか?なんで俺に相談してくれなかったんだよ……俺の子でもあったのに……」優は私をベッドに寝かせると、怒りに任せてドアを思いきり蹴った。「翔也!でたらめ言わないで!悦美は手術の予約票をベッド脇に置いていったでしょ!ちゃんと見たの?昨日の夜から悦美がいなくなってたのに、捜しもしない、電話もメッセージも一度もしない!それで今さら父親面?ふざけないで!悦美と付き合って結婚式まで挙げながら、裏では萌花と海外で籍を入れてたんでしょ?最低の浮気男!そのあげく自分が浮気されて、子どもまで2人とも別の男の子だったなんて!自業自得だよ!」それきり、翔也は何も言わなくなった。そっと窓から廊下をのぞくと、翔也はドアにもたれ、ずるずると崩れ落ちるように膝をついていた。通りかかる人たちが、膝をついた翔也を不思議そうに見ていた。少し先では、萌花と翔也の母がまだ怒鳴り合っていた。「ママ!」佑人の泣き叫ぶ声も聞こえてきた。最後は翔也の母が気を失って倒れ、ようやく騒ぎが収まった。翔也が病室の前からいなくなるのを待って、優が退院の手続きをしてくれた。病院を出ると、私たちはそのままタクシーで空港へ向かった。「大学の頃から付き合って、卒業してからも5年でしょ?あいつの家族の面倒まで見てきたのに、何もなしで終わりなんて納得いかないよ!せめて慰謝料くらい請求してよ!」優は自分のことのように怒っていた。私はその手をそっと握り、笑った。「大丈夫。このまま終わらせるつもりはないよ。そう遠くないうちに、報いを受けるから」「えっ、どういうこと?何かしたの?」優が興味津々で身を乗り出した。私は笑うだけで、
病院で目が覚めたのは、翌日のことだった。ベッドのそばには、大学時代のルームメイトで親友の柴田優(しばた ゆう)がいた。優は私の手をぎゅっと握り、心配そうにため息をついた。「悦美、大丈夫だよ。私がいるから」私はお腹に目を落とし、力なく笑った。「うん、平気。あんな男と縁が切れただけだし、何も怖くないよ」優はくすっと笑い、ベッド脇にあった水の入ったコップを差し出しながら、何か秘密を打ち明けるように顔を寄せてきた。「ねえ、さっき誰を見かけたと思う?」私は水をひと口飲んでから聞き返した。「誰?」優は顔をしかめた。「翔也。佑人くんを検査室に連れていくところを見たんだよ。もしかして、本当に自分の子かどうか調べてるんじゃない?」そう言うと、優は何か思いついたように、いたずらっぽく笑った。「萌花って、どうも信用できないんだよね。佑人くんだって、本当に翔也の子かどうかわからないし……」そのとき、廊下から女性の叫び声が聞こえてきた。病室の廊下側の窓を開けて顔を向けると、思いがけない光景が目に入った。あれほど萌花をかわいがっていた翔也の母が、その髪をつかんで怒鳴っていたのだ。「この恥知らず!翔也がどれだけあんたを大事にしてきたと思ってるの!ほかの男との子を翔也の子だなんて、よくも騙してくれたわね!ただじゃ済まさないわよ!」翔也の母は怒鳴りながら、萌花の頭を何度も壁に打ちつけていた。痛みに耐えきれなくなった萌花は、手を振り回して抵抗した。いつものおとなしい様子はすっかり消え、翔也の母に怒鳴り返した。「私がいつ騙したっていうのよ!佑人は翔也の子よ!全部悦美が仕組んだことじゃない!自分に子どもができないからって、佑人が翔也の子じゃないなんて言いがかりつけてるのよ!」翔也の母は呆れたように鼻で笑い、萌花の頬を何度も叩いて床に突き飛ばした。「まだ悦美のせいにする気!今回の検査は、あの子には内緒でやったのよ!佑人が翔也の子じゃなかったんだから、お腹の子だって怪しいもんだわ!」佑人は突然の騒ぎに驚き、しばらく動けずにいた。今朝まで優しかった翔也とその母が急に態度を変え、何が起きたのかわからなかったのだろう。それでも萌花が叩かれるのを見ると、翔也の母に飛びつき、その手首に思いきりかみついた。
翔也は中絶手術の予約票を握りしめ、悦美に電話をかけようとスマホを取り出した。そこへ萌花が入ってきて、翔也のスマホを取り上げた。そして翔也が握っている予約票をちらりと見て、小さくため息をついた。「悦美、私の妊娠がそんなに嫌だったんだね……。翔也を困らせるために、偽物の予約票まで用意するなんて」萌花は翔也を見上げた。「ねえ、翔也。私たちにはもう佑人がいるし、それで十分だよね。今回の妊娠だって予定外だったし……やっぱり、この子は諦めようか?」翔也は慌てて萌花の肩を抱いた。「何言ってるんだよ。佑人を産むとき、お前を一人にしたこと、今でも後悔してるんだ。今まで散々苦労かけてきたのに、これ以上つらい思いはさせたくない。堕ろすなんて言わないでくれよ。悦美だって今はカッとなってるだけだ。そのうち落ち着けば、わかってくれるさ」萌花は何も言わずに翔也を見つめ、目に涙を浮かべた。翔也は萌花を抱き寄せ、背中を優しくなでた。「大丈夫。俺がついてるから」そう言うと、手にしていた予約票をドアのそばのゴミ箱に放り込んだ。萌花からスマホを受け取っても、悦美には電話せず、そのまま画面を消してポケットにしまった。二人が部屋を出るとき、萌花がそっと尋ねた。「悦美、ホテルに泊まってるのかもしれないね。迎えに行かなくていいの?」翔也が部屋を振り返って迷っていると、リビングにいた翔也の母がリモコンをテーブルに放り出した。「迎えになんか行かなくていいわよ!ホテルに泊まりたいなら、好きにさせておけばいいの。少しは頭を冷やしたほうがいいわ。まったく、何かあるたびに騒ぐんだから!」母まで口を挟んだ。「そうよ、翔也さん。今までみたいに甘やかしちゃだめ。あの子にも少しは反省してもらわないと」結局、翔也は悦美を迎えに行かなかった。そのうち萌花が、翔也のスマホを借りていった。「佑人にアニメを見せるから」悦美がいなくても、家では何も変わらなかった。誰も悦美の帰りを待たず、いつもの時間に明かりを消して寝た。父が一度だけ悦美に電話をかけようとしたが、母がすぐにスマホを取り上げた。「まったく、悦美は本当にわかってないわね。みんな働かずに楽に暮らしたいと思ってるのに、わざわざくだらない文章を書こうだなんて。せっかく何不自由なく暮らせる
午後8時半。広告代理店から電話がかかってきた。出ようとした瞬間、翔也にスマホを取り上げられた。「これからは家のことをやれって言っただろ」そう言って、勝手に電源を切った。顔を上げると、翔也と目が合った。さっきまで怒っていたのに、今はどこか嬉しそうに笑っていた。私が黙っていると、翔也は私の腰に両腕を回し、声を和らげた。「母さんたちもいるし、佑人だってまだ小さいだろ。それに妊婦もいるんだ。お前が家にいないと心配なんだよ」「……どういうこと?」翔也は私の頬にかかった髪を耳にかけると、さらに嬉しそうに笑った。「萌花に、2人目ができたんだ」私はしばらく翔也を見つめ、ようやく声を絞り出した。「……萌花とは、もう終わったんじゃなかったの?」翔也の笑顔がわずかにこわばり、気まずそうに目をそらした。いつの間にか部屋に入ってきていた萌花が、慌てて口を開いた。「離婚した日の夜、翔也と2人で飲みすぎちゃって……」ドアの外にいた翔也の母まで口を挟んだ。「若いんだから、そういうこともあるでしょ」廊下からは、母が父に話す声が聞こえてきた。「産後ケアの資格、取っておいてよかったわ。やっと役に立つわね」私は何度も拳を握っては開いた。よほど顔色が悪かったのか、萌花が近づいてきて私の手を取った。いつもの甘い笑顔で、優しく言った。「悦美、安心して。私、翔也を取るつもりはないから。子どもが2人もいるんだから、私がその気になれば、翔也の奥さんになるのは私に決まってるでしょ?だから、もう騒がないでね。2人目が生まれるまではちゃんと私の世話をして。そうしたら翔也に頼んで、お小遣いも増やしてあげるから」私が何も言い返さずにいると、翔也は満足そうに笑い、部屋を出る前に私の肩をぽんと叩いた。「最初からそうやっておとなしくしてればよかったんだよ。あ、そうだ。あの葉酸のサプリ、もう飲まなくていいぞ」「……え?」すぐには意味がわからず、私は思わず翔也を見た。翔也は気まずそうに目をそらし、萌花の手を引いた。「あれ、葉酸じゃないんだ。避妊用のピルだよ」吐き気がこみ上げた。胃の奥がえぐられるように痛んだ。廊下にいた両親は、私にはひと言も声をかけず、部屋から出てきた萌花に笑顔を向けた。「萌花ちゃん、本当にしっかり
続いて、生活費の口座からも、お金がすべて引き出された。残高がゼロになっているのを見て、首を絞められたように息が詰まった。どれくらい時間が経ったのかもわからない。洗面所のドアが開き、翔也の母が私を見るなり顔をしかめた。「いつまでそんな顔してるの?さっさと出てってよ。見てるこっちまで気分が悪くなるわ」私はリビングに戻った。みんな、何事もなかったようにくつろいでいた。萌花は佑人にご飯を食べさせ、翔也は隣で牛乳を注いでいた。テレビでは子ども向けのアニメが流れていた。母はテレビをちらちら見ながら佑人の相手をし、父は眼鏡をかけてスマホを眺めていた。ソファに集まったあの人たちのほうが、私よりもずっと本当の家族らしく見えた。私が近づくと、さっきまでの笑い声がぴたりと止まった。「翔也、なんでこの家が萌花の名義になってるの?生活費の口座まで空っぽになってるし、どういうこと?」翔也は顔も上げず、冷たく答えた。「お前が謝らないから、俺がこうして萌花に埋め合わせしたんだよ。それと、これから家計は母さんに任せる。余計なものに金を使うのも控えてもらうからな」私は拳を握りしめた。「余計なものって、何?」翔也はようやく私を見た。「お前が買ってる小説とかさ。あと、コピーライターの仕事も俺が断っといたから」しかも、翔也は笑いながらそう言った。「私の仕事なのに、なんで勝手に断るの!?」信じられなかった。涙がにじみ、翔也がまるで別人のように思えた。翔也は鼻で笑うと、牛乳のグラスを置いて立ち上がった。「母さんたちももう年だし、佑人だってまだ小さいだろ。お前は家にいて、みんなの面倒を見ればいいんだよ」翔也は当たり前のように言い、さらに続けた。「それに萌花は胃が弱くて、外食だと調子が悪くなるんだ。これからはお前が昼飯を作って、会社まで届けてやれよ」あまりのことに、私は何も言えなかった。父まで、横から口を挟んだ。「家にいればいいじゃないか。わざわざ外で働かなくても、ちょっと家事をするだけで楽に暮らせるんだぞ」母はエプロンを壁に掛けると、私の腕を引いて少し離れたところで言った。「翔也さんがこんなに気遣ってくれてるのに、何が不満なの?どうせ働いたって大して稼げないんだし、家でみんなの世話をしてたほうがいい