LOGIN婚約者の西内一誠(にしうち いっせい)は、筋金入りの負けず嫌いだ。恋愛においてもそれは変わらず、ほんの一歩たりとも私、光岡璃子(みつおか りこ)に譲ることはなかった。 共に山へ登ったときもそうだ。息を切らしている私に手を差し伸べるどころか、「どっちが先に頂上に着くか、勝負しようぜ」などと言い出した。 喧嘩をして口もきかずにいた頃、私が急性胃腸炎で意識を失うほどの痛みに襲われたときすら、彼は私が自ら「負けだ」と口にするまで、決して病院へ連れて行こうとはしなかった。 そして、ふたりの結婚を祝うパーティーの夜。 誰かが、じゃんけんで負けたらデコピンという罰ゲームを持ちかけた。最後まで勝ち残った者は、願いをひとつ叶えてもらえるという。 一誠は次々と相手を打ち負かし、私も容赦なく三度、額を弾かれた。 けれど、私の親友、笹田繭香(ささだ まゆか)と向き合った途端、あれほど燃やしていた彼の闘志は、嘘のように消え失せたのだ。 1回戦。一誠はつい勝ってしまったが、繭香の額に、撫でるようにそっと指を弾いただけだった。 2回戦、3回戦。彼は明らかに手加減して、わざと遅れて手を出した。繭香は望みどおりに最後の勝者の座へ収まった。 皆にはやし立てられ、繭香はさらりと笑ってみせた。けれど、その瞳は一誠だけをまっすぐに捉えている。 「結婚式、挙げてみたいな。 私は結婚なんてするつもりないけど。親にくらい、ちゃんと晴れ姿を見せてあげたいじゃない」 一誠は口元をゆるめ、その眼差しを正面から受け止めた。 「負けは負けだ。仕方ないな」 ヒューヒューという冷やかしの声が上がり、あたりを包んでいく。 私は赤くなった額を押さえたまま、ただ黙っていた。 そして、ぼんやりと思った。 完膚なきまでに負けたこの恋はもう、ここで終わりにしよう、と。
View More繭香は、高校時代のいちばんの親友だった。卒業後、大学受験に失敗した彼女は地元の大学へ進み、私は都会の大学へ進学した。離れ離れになっても、私たちはずっとこまめに連絡を取り合っていた。1年前、失恋と失業が重なった彼女に、私は環境を変えてみないかとこちらへ呼び寄せたのだ。部屋探しに仕事探しにと、私は自分のことのように奔走した。友達がいなくて寂しいだろうと、自分から彼女を私の友人たちの輪へ招き入れた。一誠たちにも、わざわざよろしく頼むねと頭を下げてお願いしたほどだ。けれど、その「よろしく」という言葉はいつしか残酷に形を変えていった。そして気づけば、私のほうがすっかり部外者になっていた。物思いを振り払い、私は繭香へ電話をかけた。繭香はまるで予期していたかのように、一瞬だけ黙り込んだあと、ふいに笑い出した。「フフフ……聞きたいんでしょ。どうしてって。璃子、私、ずっとあなたが妬ましかったのよ。なんであなたばっかり、見た目も能力も何もかも上で、みんなに好かれるわけ?なんで受験に失敗するのも、仕事を失うのも、男に振られるのも全部私で、あなたはずっと順風満帆なのよ!私はただ、あなたよりちょっと運が悪かっただけじゃない。どうして私はいつもこうなの?あと少しで、本当に一誠と結婚できたのに!どうせあなたは、自分の潔白くらい簡単に証明できるんでしょうね。でも、少しでも嫌な思いをさせられたなら、私はそれで満足よ!ハハハハ!」狂気をはらんだ笑い声が響く。私は何も言わず、次第に箍が外れていく彼女の声を聞きながら、静かに電話を切った。真っ直ぐで純粋だと信じていた友情は、とっくの昔に、ぼろぼろに朽ち果てていたのだ。繭香の言うとおり、反撃の証拠はすでにすべて揃えてあった。本当は、もっとお互いに体面を保てる形で解決するつもりだった。けれど、そんな配慮に値しない人間もいるのだと思い知らされた。もう迷わなかった。集めた証拠のすべてと、今の通話の録音データをひとまとめにする。そして、ためらうことなく送信ボタンを押した。反論の余地のない決定的な証拠を前に、世論はたちまち手のひらを返した。ネット上の人々は、すぐに真相に気づいた。涙の謝罪は嘘で、醜い嫉妬こそが本心だったこと。純粋な友情は嘘で、一誠との曖昧な関係こそが真実
一誠は、死刑宣告を受けた囚人のように、ゆっくりと肩を落とした。顔面蒼白のままよろめき、もうひと言も発することができなかった。扉がふたたび閉ざされ、外の喧騒が一瞬で完全に遮断された。ホテルの外。一誠が追い出されるのを目の当たりにした親戚や友人たちは、困惑した顔を見合わせていた。人々の探るような視線とひそひそ話が、肌を刺すように感じられ、一誠は息が詰まりそうだった。よりにもよってそのとき、外で張り込んでいた記者たちが潮のように押し寄せてきた。「西内社長、なぜご自身の結婚式から追い出されたのでしょうか?」「影山社長は天星プロジェクトを勝ち取ったうえ、今度はあなたの婚約者まで奪ったわけですが、今のお気持ちは?」以前の一誠なら、負けず嫌いな性分が、誰かに後れを取ることなど決して許さなかっただろう。けれど今の彼は黙り込んだまま、魂が抜けたように閉ざされた扉を見つめるばかりだった。一誠の両親は、怒りと屈辱で顔をこわばらせていた。そこへウェディングドレス姿のまま駆けつけてきた繭香を見て、母親の目がぱっと輝いた。一誠の母は繭香の手を力強く引き寄せ、群がる人だかりに向かって声を張り上げた。「うちの息子が捨てられたなんて、誰が言ったの?西内家のほうが、光岡璃子みたいな女はお断りしたのよ!こちらこそ、うちの自慢のお嫁さん、繭香ちゃんです。一誠と婚姻届を出すために、ドレスのまま駆けつけてくれたんですから」カメラのフラッシュが一斉に繭香へ向けられる。「笹田さん、本当ですか?」まだ息も整わない繭香は、一瞬だけぽかんとした。けれどすぐに状況をのみ込むと、驚きと喜びを浮かべ、いかにも恥じらうようにうなずいた。「違う」一誠がようやく反応を見せた。ひどく硬い声だった。「俺が欲しいのは璃子だけだ。璃子以外の誰とも、結婚する気はない!」「結婚する気もないのに、なんで式なんか挙げたのよ」「あなたがどう思おうと関係ないわ。今日、西内家がかいた恥は、きっちり取り返してもらうからね!」一誠の母は、歯がゆくてたまらないという顔で、低い声で彼へ釘を刺した。一誠は不意に深くうなだれた。重い後悔と脱力感が、全身にのしかかる。繭香との結婚式は、ただ彼女の芝居に付き合ってやるだけのつもりだった。繭香が自分に向ける熱を
ホテルの宴会場、その壇上。司会者が滞りなく、式次第をひとつずつ丁寧に進めていく。新郎新婦の入場、誓いの言葉。そして、指輪の交換へ差しかかったときのことだ。重厚な扉が、バンッと勢いよく押し開けられた。一誠が飛び込んできても、私は少しも驚かなかった。入り口に立つ彼は前髪を振り乱し、息を切らして胸を激しく上下させている。彼が着ているタキシードは、私のウェディングドレスと一緒にオーダーして仕立てたものだった。ふたりで試着したとき、式場でこの衣装に身を包んだ私たちの姿を、幸せな気持ちで思い描いたこともあった。まさか、こんな形で目にすることになるとは思わなかったけれど。「璃子ッ!そいつと結婚するな!」一誠の声はひどくかすれ、かすかに震えていた。「こうして迎えに来ただろ。いくら気に入らないからって、結婚を遊びにするなよ……!」私は凛とした声で、その言葉を遮った。「結婚を遊びにしていたのは、最初から最後まであなたたちのほうでしょう。私と徹は、今日、婚姻届を出した正式な夫婦よ」私は、徹の薬指へそっと指輪をはめた。彼はそのまま私の手を包み込み、なだめるように指先を優しく撫でてくれる。おそろいの結婚指輪が並ぶのを見て、胸の奥にまた少し勇気が湧いてきた。私はあらためて一誠へ目を向けた。まるで見知らぬ人に話しかけるように、静かに告げる。「それと、西内さん。あなたを私たちの式へお招きした覚えはないわ」「……璃子っ」一誠の声は、喉の奥から無理に絞り出したかのようだった。彼は怒りを必死に押し殺し、ほとんど歯を食いしばるようにして言った。「繭香のことで俺に仕返ししたかったんなら、もう目的は果たしただろ。お前の勝ちだ。今すぐ一緒に帰ろう。そうすれば、何もなかったことにしてやる」私は一瞬だけ呆気にとられ、それから思わず乾いた笑い声を漏らした。これまで数えきれないほど、彼のばかげたゲームで一度でいいから勝ちたいと願ってきた。私が本当に彼を必要としたときくらい、勝ち負けなんて捨てて私を選んでほしい。たった一度でいいから。けれど現実は、そのたびに私へ思い知らせた。一誠のゲームのルールでは、勝ち負けのほうがいつだって私より大事なのだと。そして今、彼がようやく自分から頭を下げて負けを認めた。でも
一誠が状況をのみ込む間もなく、写真が次々と送られてきた。写真の中の璃子は、上質なサテンのウェディングドレスに身を包み、息をのむほど美しかった。そしてその隣。本来なら自分がいるはずの場所に誇らしげに立っているのは、宿敵の徹だった。一誠はスマホを握る手に、少しずつ力を込めた。「あれ、影山さんじゃない?」繭香の顔に、絶妙な驚きの表情が浮かぶ。「璃子ったら、どうして影山さんなんかと。いつの間にそんな関係になってたの?一誠と影山さんが犬猿の仲だってこと、知らない人なんていないのに。これ、本当にわざとじゃないのかな?だから今回、あんなに過敏だったんだ。もしかして、わざと騒ぎを大きくして、それを口実に影山さんと結婚するつもりだったとか?」繭香の放つひと言ひと言が、一誠の神経を激しく逆撫でしていく。限界を超えた怒りに、一誠の理性は跡形もなく吹き飛んだ。彼は車に飛び乗り、アクセルを床まで乱暴に踏み込んだ。車は猛スピードで走り抜け、背後ではクラクションと怒声が入り乱れる。ところが、ホテルが目前に迫ったところで、それまで順調に流れていた道路が急に渋滞しはじめた。まるで示し合わせたかのように、周りの車が彼の前へ次々と強引に割り込んでくる。一誠は怒りを必死に抑え込み、耳をつんざくほどにクラクションを鳴らし続けた。今、彼の頭にあるのは、ただひとつの思いだけだった。絶対に間に合わせる。このばかげた結婚式を、何としてでも止めてみせる。……披露宴が始まる少し前、新郎の徹は友人たちに囲まれ、さっそく冷やかされていた。「ところで徹、新婦とはいつ知り合ったんだっけ?」徹は少しも迷わず答えた。「大学2年の後期。土曜日にあったバスケの試合」「じゃあ、その時から?」友人のひとりがにやにやしながら聞く。徹は照れたように笑って、それでもはっきりとうなずいた。「ああ。一目惚れだった」その瞬間、周りから一斉に歓声が上がった。少し離れたところにいた私と目が合う。お互い、思わず笑ってしまった。胸の奥が、じんわりと温かく満たされていった。「新郎が新婦を口説くためにした、いちばん恥ずかしいことは?」「まともに顔も見られなかった頃に、1か月の間、毎日ラブレターを書いた」徹は照れ隠しのように小さく笑っ