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最初の一歩(5)

last update publish date: 2026-10-05 23:57:10

 動揺する私を置き去りに、夫人は何やら霧吹きで謎の液体を髪に薄く拭いてから梳かしてを繰り返している。

「これはね、髪を綺麗にしてくれる魔法のお薬なの。私のお気に入りなのよ」

 えっ、なにそれこわい。薬…ってことは良いものなのかもしれないけど、髪を綺麗にするものなんて高いシャンプーくらいしか知らないよ。

 それに主人のものを使ってるなんて周りになんて言われるかわかんないじゃないか。私今日入ったばっかりの新人なんだけど!?

 いじめは勘弁して欲しいな…。

 そんな私の心情を知ってか知らずか、機嫌のいい夫人の鼻歌は続いている。

「私の気に入りの子は、みんなこうやっておしゃれを知っていくのよ」

 と言うことは、私以外に複数人こうやって夫人に世話を焼かれているってことだろうか。

 それなら正直視野の狭い発想だけど、一先ずいじめとかは心配はなさそう。我ながら現金だけど。

 でも日頃から行われてるなら、その姿は侍女も見ているはず。てっきりこの行いの為に侍女に席を外させたように感じていたのに。

「じゃ、じゃあ…どうして侍女の方々を追い出すような真似を…?」

「それはもちろん、貴方と“何も気にせず”お話ししたかったからよ?」

「…それは、ご配慮痛みい、入ります…?」

「ふふ、そうね?」

 私の記憶の中の夫人は、いつもにこやかで花も踏まない様な人だったと思うんだけど、こんなに配慮の届く人だったのかと感じる。でも人間の記憶なんてそんなものなのかも知れない。

 そして会話が途切れれば、すぐにまた鼻歌が部屋に響く。

 だけどこれはなんの曲だろう、聞き覚えがある気がする。繰り返し耳に揺蕩うこの音楽は、私の記憶の誰が奏でてくれたものなんだろう。

 気づけば髪が梳き終わったのか、今度は縛られる感触がある。

 夫人は手早く髪を整えると、私の体を自身と向かい合わせるように動かした。

「ちょっと目を閉じていてね?」

「へっ、うあっ」

 プシュ、と額に冷たいものを感じて反射的に目を閉じる。すぐさま前髪を梳かされる感触があって、夫人の言う魔法のお薬とやらを噴霧されたんだとすぐにわかった。

「はい、出来上がり」

 その言葉にそろりと目を開けると、目の前には手鏡が。そしてそこに映った自分の姿に私は驚愕した。

「わ…」

 目の前に映っていたのは、少し見違えた自分の姿。

 まとめ直された後ろ髪は自分でやるよりずっと綺麗だし、前髪なんて少し艶めいているように見える。

 髪が綺麗に整うって、こんなに印象が違うんだ…そう感心できるほど変わったように感じる自分には素直に驚いてしまう。何も全部が綺麗になったわけじゃないのに。

「うん、これで綺麗。本当はお化粧もしてあげたいけど…時間的に今度かしらね」

 そう笑う夫人の表情は、嬉しそうと言うよりは寂しそうに見えた。

「あ、ありがとうございました。自分の髪でないみたいです」

 終わったのならソファに座っているのは良くないのですぐさま立ってお礼を言う。

 夫人の寂しげな表情の理由はわからないけど、私としてはこんなに良くしてもらっていいのだろうか…とそれはそれで不思議な気分。

「良いのよ。私の我儘をきいてもらった様なものだもの」

「そんな、こんな良いものを使ってもらって…」

 私としては申し訳ないほどだけど、夫人は私の言葉に優しく笑うばかりでこれ以上深く話す気はない様だった。

 その態度に私がどうしたものかと次の言葉を待っていると、夫人は明るい笑顔を向けてくれる。

「さて、フィンを待たせてるわね。あの子の所へ行ってらっしゃい」

 夫人は椅子から立ち上がると私を扉の方に向けて軽く背中を押す。私がそれに少し驚いていると、彼女は私の耳元で一つ囁いた。

「…あの子をよろしくね」

 切に迫ったようなその声に、私は思わず言葉の真意を探ろうと振り返る。しかしそこにあったのはまたも優しく笑う夫人の姿があるばかりで、この言葉の真意を知ることは出来そうにないと、私は悟った。

 あの微笑みはきっと何を言ってもはぐらかされてしまう類の表情で、孤児院の院長がそうだったと思い出す。

「…失礼いたしました」

 私はうすもやりと霧のかかった様な心のまま夫人の部屋を出た。

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