その言葉に冬真の喉仏が微かに震える。「彼女」が誰を指すか、明白だった。元妻が他の男に想いを寄せられていることを知り、一瞬の怒りの後に残ったのは、ただ吐き気を催すような嫌悪感だけだった。冬真は顔を上げ、近くにそびえる樹齢百年の大きな杉の木を見やった。根は大地を這うように絡み合い、葉は鬱蒼と茂っている。この木は定光寺の願掛けの木で、無数の願いが書かれた赤い絹紐が枝々に結ばれ、願掛け札が風に揺られていた。そよ風が吹くたびに、木札がかすかに触れ合い、清らかな音色を奏でる。「彼女は毎年ここに願掛けに来る。でも、神仏は一度も願いを叶えてはくれなかったな」冬真は嘲るように涼に語りかけた。「パパ!」悠斗が駆け寄ってきた。「あの女の人が僕のために灯してる平安灯、消してほしいの!」悠斗は小さな拳を握りしめた。本堂で自分と瑛優の名前が書かれた札を見つけた時から、居心地の悪さを感じていた。住職に訊ねると、夕月が毎年子供たちのために灯している平安灯だと説明された。「あの人はもう僕のママじゃない!美優だって違う名字になったんだ!僕は美優と一緒の札なんて嫌だよ!」悠斗は冬真に訴えかけた。「住職さんに僕の灯りを消してもらって!名前も消してほしいの!」住職は眉を寄せて悩ましげな表情を浮かべた。「坊や、お母さんは毎年お経を読み、あなたの無事を祈って平安灯を灯し続けてこられた。これを消してしまえば、お母さんの加護は二度と届かなくなってしまいますよ」悠斗は住職の言葉に耳を貸さない。「消しちゃえばいい!あの人はバカで間抜けだもん!そんな人の加護なんて要らないよ!」楓は目を輝かせながら感心したように言った。「夕月姉さんって本当に信心深いのよね。いつもご利益がどうのこうのって、お寺参りばかりしてるし!悠斗くんが安全灯を嫌がってるなら、住職さん、消してあげてください。うちの坊ちゃまは、そういうの信じないタイプなんです!」住職は口を尖らせた。信じないなら定光寺に何しに来たのか。観光なら表参道を進んでくれ、と言いたいところだ。橘家の長年の寄進を思い、住職は不快感を抑え込んだ。「橘様……」楓を完全に無視して冬真に向かって声をかける。「お坊ちゃまの平安灯は、消さない方が……」「パパ!」悠斗が声を上げた。冬真は冷ざやかに答えた。「好きに
夕月が階段を見上げると、悠斗は彼女を見て口を尖らせ、体を横に向け、腕を組んで、母親の方を一瞥だにしない。「夕月、あなた迷信深すぎよ!」楓の声が響く。「毎日お参りばかりして、悠斗くんの面目が丸つぶれじゃない!」「楓兄貴の言う通り!」楓の言葉なら何でも即座に同意する悠斗。先ほど本堂を歩いていた時、楓が悠斗と美優の名前が書かれた札と平安灯を指摘したのだ。美優はもう橘家の令嬢ではないのに、その名前が橘家の跡取り息子である自分の名前と並んでいるなんて、許せるはずがない!「おい!」悠斗が夕月に向かって叫んだ。「僕の平安灯、消してよ!もう二度と関わりたくないんだから!!」住職の表情が強張る。「橘様……」息子を諭してほしい思いが込められていた。「明通住職」夕月の穏やかな声が響く。住職が振り向くと、その清楚な白磁のような顔立ちに、清流のように澄んだ黒瞳が決意に満ちていた。「橘家の坊ちゃまの仰る通りに。もう平安灯は灯しません」住職は何か言いかけたが、夕月と悠斗の間を目が行き来した後、深いため息と共に南無阿弥陀仏を唱えた。静謐な古刹に山風が通り抜け、杉の木に吊るされた朱色の絵馬がかすかに鳴る。石段が、二つの家族を隔てていた。「坊や、平安灯を消しに行きましょう。お母様が灯してくださった灯り、要らないというのなら、自分の手で消してください」住職が階段を上がり始める。「悠斗!!」瑛優の力強い声が堂内に響き渡った。瑛優の声に悠斗の小さな顔が強張る。だが振り向きもせず、住職の後に続いて本堂の中へと消えていった。瑛優の喉には千の言葉が詰まっていたが、今この瞬間、どんな言葉を投げかけても無駄だと悟っていた。夕月は願掛けの木に目を向けた。無数の赤い絹糸が枝々を彩っている。「願掛けしたことある?」「ええ」夕月は血の気の失せた笑みを浮かべた。「でも仏様は、愛してくれない人を愛してくれる人に変えることはできない。もう執着は捨てるべきだったのね」「今からでも遅くないさ」涼の朗らかな声が、潰した薄荷の葉のように清々しく耳に染み入る。夕月が彼を見つめると、男は視線を逸らさなかった。横顔を見せる涼の端正な顔立ち、その鋭い瞳には率直な感情が溢れていた。夕月の胸が温もりを帯びる前に、涼は袖を捲り上げた。「叶
「何か書いてある!」瑛優が読み上げる。「幼くして……何とか……残りの人生……」願い札の文字は風雨に晒され、薄れていて、瑛優には判然としない。夕月は顔を上げ、瑛優に告げた。「外して。捨ててくるわ」瑛優が軽く引くと、願い札はすぐに外れた。夕月は札を受け取り、ゴミ箱まで歩いて投げ入れた。十八の年、冬真は彼女をこの寺に連れてきて、願い札に想いを記した。『夕月、幼くして孤独な君に、残りの人生の幸せと安らぎを』かつては彼女を憐れみ、大切にしようと決めていた。だが全ては変わってしまった……確かに、彼女の愛は真実で、一途な想いも、無償の献身も、全て真実だった。そして今、別れも真実で、心を取り戻すことも、二度と振り返らないことも、真実なのだ。冬真の片手が強く握られ、また緩んだ。あの時、あのことさえなければ……夕月に少しでも愛情を向けていれば、全てが違っていたのではないか——そんな考えを、冬真は振り払った。男は振り返ることなく大股で歩き出し、息子を連れて決然と去っていった。二日後、多くのネットユーザーがALI数学コンテストの公式SNSを開く度に更新ボタンを押し続けていた。午前十時、ALI数学コンテストの決勝戦順位が発表される。10:00ALIグループの公式アカウントが順位表を投稿。決勝戦、第一位は藤宮夕月。藤宮夕月の名前が、再びトレンド入りを果たす。ALIグループは夕月の話題性に乗じ、決勝戦順位発表と同時に、上位20名がチャレンジマッチへ進出し、最終的な金銀銅賞を競うことを発表した。チャレンジマッチは全国放送で生中継され、桜国放送局の人気司会者も招かれることになった。橘グループ本社。橘冬真が会議室に入ると、オーダーメイドのスーツが彼の堂々とした体躯を引き立てていた。生まれながらのリーダーとして、冬真は悠然と歩を進める。会議室の役員たちの視線が、一斉に彼に注がれた。大型スクリーンには、海外の投資会社のCEOたちの姿が映し出されている。画面越しに冬真の姿を確認した彼らは、次々と挨拶の言葉を送った。清水秘書が冬真の傍らに寄り、会議資料を彼の左手側に置いた。「各社長様と株主の皆様が、ALI数学コンテストのチャレンジマッチの生中継をご覧になりたいとのことです。参加者は国内外から集まった
その時、会議室に新たな人々が入ってきた。株主たちは慌てて立ち上がる。「深遠様!」橘冬真の父、橘深遠(たちばな しんえん)が姿を現した。丸刈りの頭が輝く深遠の登場で、会議室全体が一段と明るくなったかのようだ。まるで布袋様のような温和な表情を浮かべる深遠は、分厚い耳たぶに笑みを含んだ目元、自然と上がった口角と、誰に対しても慈愛に満ちた笑顔を向けていた。冬真は主席に座ったまま、父の姿を確認した。ただ軽く顎を上げ、最低限の敬意を示す会釈を返しただけだった。そこへ、会議室の外からまた人の気配が——車椅子に座った橘凌一が、アシスタントに押されて皆の視界に入ってきた。冬真は一瞬動きを止め、すぐに立ち上がった。株主たちは一斉に凌一の方へ歩み寄る。深遠はその様子を振り返り、群がる株主たちの中心にいる凌一を穏やかな笑顔で見つめた。株主たちは凌一の前で二、三歩の距離を保ち、こわばった老体を折り曲げて挨拶を交わす。「橘博士、ご機嫌いかがですか」「橘博士、お目にかかれて光栄です」スクリーンの向こうで、橘グループの幹部とオンライン会議を行っていた海外のCEOたちも、興奮を隠せない様子だった。「おお!Dr.橘!これは驚きだ!」「なんという幸運!博士がいらっしゃると分かっていれば、今日の予定を全てキャンセルして、八時間かけて桜都まで飛んでいったものを!」橘凌一は純黑のチャイナカラースーツを纏い、襟元が首の三分の一を締め付けていた。その容姿は凛として気高く、まるで神々しい雰囲気すら漂わせていた。天が己の技を誇示するかのように造り上げた美貌の持ち主だったが、五年前の事故で下半身の自由を失っていた。だが、そんな彼も車椅子に座ったままでなお、並外れた威厳を放っていた。凌一が冬真に視線を向けると、その冷たい眼差しは青々とした荒野を渡る遥かな風のようだった。その風に冷たさはないものの、どこか遠い距離感が感じられた。冬真は自ら凌一の前に進み出て、恭しく挨拶を交わす。「叔父上」凌一は顎を僅かに動かし、アシスタントが彼の車椅子を冬真の隣へと移動させた。橘グループの幹部全員が着席すると、会議室の空気が一変した。誰も軽々しく口を開こうとはしない。いつもの会議では和やかな雰囲気を作っていた海外のCEOたちも、画
彼女の姿を改めて目にして、冬真は悟った。予選での一位は決して偶然ではなかったのだと。そして決勝戦でも、彼女は首位に輝いていた。チャレンジマッチでは、20位の参加者から順に、挑戦したい相手を選ぶことができる。挑戦者は対戦相手に問題を出題できるが、その問題は挑戦者自身も解かなければならない。挑戦を受けた側が問題を解けないか、有効な解法の道筋を示せなければ、その時点で敗退となる。0位、19位、18位の参加者が揃って、夕月への挑戦を表明した!夕月は次々と彼らの問題を解き明かし、挑戦者たちは脱落していった。そして17位、16位、15位の参加者もまた、夕月への挑戦を選択する。生中継を見守る視聴者たちは、夕月への挑戦が集中することに憤りを覚えていた。「なんで皆、藤宮さんばかり狙うの?主婦を甘く見てるわけ?」「まるで、剣豪たちが一人の達人に挑むような展開じゃない」「これじゃまるで、雑魚の群れが大物に立ち向かってるみたいね」会場の参加者たちは、そんな視聴者のコメントを目にすることはない。彼らは一人また一人と夕月に挑戦し、そして一人また一人と去っていく。挑戦台に立って以来、夕月は一度も降りることなく戦い続けていた。大スクリーンに映る夕月の姿に、冬真は目を奪われた。溢れ出る知性と輝きに彩られた彼女は、以前にも増して美しく見えた。本当にこれほどの知識を持っていたのか。大学卒の学歴しかないはずなのに。この七年間、橘家で妻として子育てに専念していたはずの彼女が、誰にも告げずに独学で勉強を重ねていたということか。「藤宮さんをCTOとして招聘してはいかがでしょうか」ある株主が持ちかけた。「彼女は優秀な上に、橘社長の奥様でもありました。CTOの座にこれ以上の適任者はいないでしょう」「私たちは既に離婚している」冬真は表情を引き締めて言った。だが株主たちは、それを大した問題とは考えていないようだった。「離婚したなら、もう一度口説けばいいじゃありませんか」「冬真さんのような方なら、どんな女性でも振り向かせられるはずです」「女というのは、ちょっと甘い言葉をかければすぐに尻尾を振って戻ってくるものですよ」決勝戦で二位となった参加者が挑戦台に上がる。彼に残された選択肢は、夕月への挑戦しかない。冬真
表彰台に上がった夕月は、委員会理事長から金賞を受け取った。マイクの前に立つ彼女に、司会者が質問を投げかける。「七年間専業主婦として過ごされた方が、なぜ金賞を獲得できたのか、皆さん大変興味を持っているようですが」夕月は顔を上げた。舞台照明の熱が彼女を溶かしそうなほど強く照りつける中、透明感のある彼女の美しさが、カメラの前でひときわ輝きを増していた。深く息を吸い込むと、まるで18歳の自分が客席に座っているのが見えるような気がした。漆黒の瞳に、星のような輝きが宿る。「私がここに立ち、このメダルを手にすることができた秘訣は——自分を愛することを学んだからです。大きな勇気を持って、新しい人生に向き合うことを決意しました。もう、誰かの反応に怯えることも、周りの評価に自信を失うこともありません。否定されることも受け入れます。でも、もう他人からの承認は必要ありません。私は、私自身の人生の主役なのですから」春風のような優しい笑みを浮かべながら、無数のカメラレンズに向かって夕月は言った。「来た道を振り返ることはあっても、もう後戻りはしません」夕月のALI数学コンテスト金賞受賞は、ネット上で大きな反響を呼んだ。「おめでとうございます!桜国最高峰の数学コンテストで金賞を獲得されました。これからの輝かしい未来を心よりお祝い申し上げます!」「藤宮さん、もっと広い世界があなたを待っています!」「やっぱりね。女性が男性に依存しなくなった時、その世界はもっと広がるのよ」国内の一流大学十数校が次々と夕月への祝福メッセージを送り始めた。その後わずか30分もしないうちに、海外の名門大学までもが公式アカウントを開設し、祝福と招聘の意を表明してきた。この瞬間、人々はようやく、今回のALIコンテストの影響力の大きさを実感したのだった。世界的な名門大学が次々と夕月にラブコールを送る中、国内の大手企業も黙ってはいなかった。国営の軍需企業までもが、夕月への招聘の意を示したのだ。そんな中、例の一件を根に持っていたネットユーザーたちは、あのセレブママたちのアカウントに殺到した。彼らは覚えていた。つい先日、夕月の娘へのいじめで謝罪したセレブママたちが、夕月の予選成績を疑問視する声が上がった途端、謝罪文を削除したことを。「藤宮さんが金賞を獲得しま
まるで凛とした松のように背の高い彼は、端正な立ち姿で佇んでいた。花束と拍手が夕月に注がれる様子を見つめる涼の瞳には、優しい笑みが溢れていた。数人の教授が夕月の前に現れ、挨拶を交わす。夕月は我に返り、学界の重鎮たちへの対応に追われた。挨拶を交わしながら人混みをかき分け、夕月は涼の方へと歩を進めた。桐嶋教授の姿もそこにあった。夕月は教授の前で立ち止まり、深く息を吸うと、「教授、ただいま戻りました」両手を後ろに組んだ教授は、息を詰め、明らかに表情を抑えようとしていた。「ふん、戻ってこられても困るがな」不機嫌そうに口を尖らせる教授を見て、夕月には分かっていた。斎藤鳴に研究成果を奪われた件を、まだ根に持っているのだと。「教授……」と説明しようとする夕月に、教授は言った。「前だけを見て進みなさい。お前が、これからもずっと輝き続けられるのか、この目で見届けてやろう」桐嶋教授の言葉に、夕月の胸が熱くなった。怒りを残しながらも、彼女の成長を願う教授の気持ちが伝わってきた。そこへ、また数人の教授が集まってきた。「藤宮さん、第17回イノベーション・テクノロジー・サミットへの推薦状です。桜都大学を代表して、ぜひご参加いただきたく」夕月の瞳が大きく見開かれた。特許の高値売却を望む彼女にとって、このサミットは絶好の機会だった。「おや、浅田先生、動きが早いですね!」と横から声が上がる。別の教授が同じような推薦状を取り出した。「藤宮さん、花橋大学からもサミットへの推薦状をご用意しました。ぜひ、私どもの推薦状でご参加を」桜都大学の教授が慌てて、その手を制した。「いやいや、私が先に推薦状をお渡ししたはずです。藤宮さんが参加されるなら、当然、桜都大学の推薦状で」二人の教授が言い争う中、さらに数名の教授たちが次々と推薦状を差し出してきた。十数通の推薦状を前に、夕月が戸惑いの表情を浮かべたその時。白磁のように整った指が、雪片のように舞い降りる推薦状の束を遮った。振り向くと、そこには桐嶋涼が立っていた。涼の澄んだ声が玉を打ち鳴らすように響き、周囲の人々は一斉に足を止めて耳を傾けた。「夕月さんは既にサミットから直接の招待状を受け取っています」そう言いながら、涼は金文字で「イノベーション・テクノロジー・
涼が手を上げ、教授の飛沫が夕月にかかるのを防いだ。「なんだ、この妙な空気は!」と教授は鼻を鳴らしながら呟く。他の教授たちも影響され、辺りを嗅ぎまわり始めた。「変な空気?どこにそんなものが?」我に返った夕月は、手持ちの招待状を教授たちに見せながら慌てて言った。「既に公式の招待状を頂いております。皆様のご厚意に感謝いたします」その時、群衆の中に幽鬼のように蒼白い顔を見つけた。平田安人が彼女を見つめていた。夕月の視線に気づくと、まるで猫を見た鼠のように、彼は逃げるように姿を消した。決勝戦で100位以下だった安人には、夕月に挑戦する資格すらなかった。決勝戦2位の挑戦者が夕月に敗れた後も、安人は委員会が2位の参加者に金賞を与えることを祈っていた。彼の目には、その挑戦者の方が夕月より優れて見えたのだ。夕月が金賞を手にした瞬間、安人は完全に取り乱した。夕月との賭けを思い出したのだ。両足が激しく震える。会場を逃げ出しながら、安人は必死に考えていた。どこかに隠れて、この騒ぎが収まるまで待とう。そうすれば誰も賭けのことなど覚えていないはずだ。「うわっ!」通路で誰かにぶつかった安人は、その人物の巨体に弾かれ、尻もちをついた。ぶつかった相手は一言も発せず、安人の傍らを通り過ぎていった。平田は悪態をつきながらよろよろと立ち上がった。自分を倒せるような相手なら手を出すべきではないと、ぶつかった相手の方は見向きもせずに立ち去った。壁につかまりながら建物を出ると、新鮮な空気が肺に染み渡り、ようやく一息つけた。ふと上着のポケットに手を入れると、見覚えのない薬の包みが入っていた。不思議に思いながら取り出してみると、その裏面には説明書きが——便秘改善、スムーズな排便を——まさか……下剤!?なぜ自分のポケットにこんなものが?平田の顔が一瞬にして真っ赤に染まる。「くそっ!」下剤を地面に叩きつけた。「安人!」顔を上げると、以前桐嶋教授の家で一緒に勉強していた仲間たちが立っていた。彼らは平田に近づくと、それぞれのポケットから同じような薬の包みを取り出した。「誰が入れたのかは分からないけど、安人、必要なら使えよ」十数個の下剤が平田の手のひらに載せられた。「まさか本当に……逆立ちし
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット
降り注ぐ淡い陽光の中、冬真の頭の中で無数の蝿が飛び交うような騒がしさが渦巻いていた。*昼時、夕月は涼と共にレストランを訪れていた。涼がメニューに目を落としている間、夕月は何気なく視線を巡らせ、そこで凍りついた。少し離れたテーブルに冬真が若い女性と座っているのが目に入った。今日は厄日だったのか。あの男が視界に入っただけで胸が締め付けられる。「夕月さん、何か食べたいものは?」涼の澄んだ声に、夕月は慌てて視線を戻した。「もう他の男性に目移りですか?」涼が片眉を上げて茶目っ気たっぷりに言った。夕月は思わずナプキンで顔を隠したくなった。「あの人が見えちゃって……」頬を膨らませながら、涼に向かって舌を出す仕草を見せた。涼の目の前で、彼女の表情が途端に生き生きとして、たまらなく愛らしい。「僕の店選びが悪かったね」涼が口元を緩めて言った。「席を替わろうか?」涼の座る席は、ちょうど衝立で隠れていて、冬真からは見えない位置にあった。夕月は首を振った。「もう気付かれてると思う」冬真は席に着くなり、窓際に座る夕月の姿を目にした。スーツ姿の夕月など見たことがなかった。子供の世話に明け暮れていた元妻が、キャリアウーマンのように凛とした雰囲気を纏っているとは。一瞬、目を疑うほどだった。彼の視線に気付いたのか、夕月は顔を逸らした。もしや、自分を観察していたのか。この店は橘グループのビルから近い。夕月は自分を待ち伏せていたというのか。昼下がりの光が夕月の周りを優しく包み込み、束ねた黒髪の端が金色に輝いてい「冬真さん?聞いてらっしゃいます?」向かいに座る女性が彼の様子に気付き、その視線の先を追おうとした。その時、一本のフォークが夕月に差し出された。長く逞しい指をした男の手だった。「味見してみて」涼が切り分けたステーキを夕月の唇元まで運ぶ。夕月は頬を染めた。これは冬真に見せつけているのだろうか。口を開けて、差し出されたステーキを受け取る。瑛優以外の人に食べ物を口移しされるのは、なんだか変な感じ。夕月の頬が薔薇色に染まる。まるで本当に恋をしているみたいだった。涼が分けてくれたステーキは、確かに美味しかった。冬真は突然立ち上がった。向かいの女性が驚いて身を引く。男から放たれる威圧的
楓は期待に満ちた目で彼を見つめた。しかし、男の表情は冷ややかなままだった。「お前は悠斗の人生を台無しにした。刑務所に入らないで済むと思っているのか?甘すぎる」その声に、楓は全身の血が凍るのを感じた。「やだ……刑務所なんて嫌!汐だって、私が刑務所に入るなんて望んでないはず……昔は警察に捕まっても、汐がすぐに助けに来てくれたのに……」楓は涙を流しながら、必死に首を振った。男は彼女の言葉を冷たく遮った。「それは汐の話だ。私は違う。私は悠斗の父親なんだ」冬真は、もはや楓を非難する言葉すら口にしなかった。バイクに悠斗を乗せた彼女の無謀な行動も、あれほど止めていたのに。楓の考えは見え透いていた。悠斗が自分に懐いていれば、どんな面倒を起こしても冬真が庇ってくれると。そして事実、汐との絆を考えて、冬真は何度も彼女を見逃してきた。だが今回は違う。我が子がICUに運ばれるところまで追い詰められた。もう、彼女の行動を許容できる限界を超えていた。楓は彼から放たれる威圧的な雰囲気に萎縮し、赤く腫れた瞼を震わせた。「今日、私が来たのは……汐との約束があったからだ。お前の面倒を見てやってくれと」冬真は差し入れの入った袋をテーブルに置いた。留置場でゆっくり正月を過ごすといい」立ち上がって背を向けた冬真に、楓は必死な声で叫んだ。「私の部屋の化粧台、二段目の引き出しに古い携帯があるの。汐が……最期に残した伝言が入ってるわ」その言葉に、冬真の足が止まった。「本当は教えるつもりじゃなかったの。でも冬真、汐の死の真犯人はまだ罰を受けていないのよ!」冬真がゆっくりと振り返る。その鋭い眼差しは、まるで楓の心の奥底まで見通すかのようだった。「その犯人というのは……」楓は冬真の鋭い視線に震えながら、「私の家に行って、汐の最期の声を聞いて。冬真、また会いに来てね……」もう後がない。楓は、ここまで追い込まれた自分の境遇を肌で感じながら、全てを賭けた一手を打つことを決意した。留置場を出た冬真の携帯が鳴り響く。母親からの着信に、思わず眉間にしわが寄った。無視しようとしたが、執拗に鳴り続ける着信音に、結局応答せざるを得なかった。「はい、母上」「冬真、お見合いの約束を入れたわよ。正午にムードレストランで。お相手は……」冬
「私のため?」盛樹の体が震えた。雅子は髪を弄びながら、シートに片手をついた。深く開いたスーツの襟元には何も着ていない。少し前かがみになると、盛樹の視線は自然とその谷間へと吸い寄せられ、思わず喉が鳴った。目の前で艶やかに揺れる魅惑的な曲線に、盛樹は我を忘れ、ただ真紅の唇の開閉を追いかけるばかり。「藤宮テックを買収したいの」「な、何だって?」盛樹は再び震えた。しなやかな指が彼の太ももに触れる。「盛樹さん、私の願いを叶えて?」盛樹は鼻腔が熱くなり、全身が強張る。もはや自分の言葉すら制御できない。「い、いいとも……」雅子が片方の唇を上げて笑う。対面に座っていた北斗が耐えきれず口を開いた。「父さん、確か買収案件は全て夕月に一任したはずでは?」「夕月?」雅子が首を傾げた。盛樹は北斗を睨みつけながら答えた。「私の娘だ。雅子さん、彼女に関するニュースを見たことがあるだろう?」「海外にいたものでね。国内の話題にはうとくて」雅子は首を振った。盛樹は誇らしげに語り出す。「うちの娘はALI数学コンペで金賞を取ったんだ!それだけじゃない。あの有名なレーサー、Lunaとしても活躍している。この前の国際レース・エキシビションにも出場したんだよ。七年間も主婦をしていたのに、社会に出るや否や八面六臂の活躍ぶり。すごいと思わないかい?」「主婦がコンペの金賞?何か裏があるのでは?」雅子は物思わしげに呟いた。「うちの娘は14歳で花橋大学の飛び級に入った天才なんだ!」盛樹は興奮気味に反論する。雅子は艶のある眼差しを向けながら、「でも、ALIコンペが主婦に金賞を与えるなんて……研究に打ち込む院生や博士たちに失礼じゃないかしら?それに、また主婦に戻るかもしれないのよ?」「そ、それは……」盛樹は言葉に詰まった。「七年も主婦をしていた人が、急にレース界に現れるなんて。プロのレーサーたちはどう思うでしょうね?」盛樹は雅子の言葉に次第に説得され始めていた。「でも夕月は買収案の責任者として、二つの有力な買い手を見つけてきた。ムーンワールドグループ傘下のフェニックス・テクノロジーと桐嶋氏の引力テクノロジーが競合していて、引力は4000億もの高値を提示してきたんだ」「雅子おばさん」北斗が割り込む。「うちの会社、いくらで買収するつもり?」雅
「#楼座雅子帰国#」というトレンドワードが瞬く間にネットを席巻した。「女帝、お帰りなさい!」「楼座雅子様の帰国で、桜都の名門家に激震が走るぞ」「楼座雅子って誰?すごい人なの?」「知らないとか、さては2000年代生まれでしょ」年配のネットユーザーたちが、次々と解説を始めた:楼座家は桜国を代表する財閥の一つ。古くから金融界に君臨してきた名門で、雅子は楼座家が迎えた養女。今年で47歳。25年前、彼女と楼座家三兄弟との愛憎劇は、長編小説が書けるほどの話題を呼んだ。最終的に、雅子は心を閉ざし、楼座財閥の経営に専念。三人の兄は、一人が不具に、一人が精神を病み、もう一人は出家した。25年前、雅子は最も注目された女性実業家で、メディアは彼女の出現を「新時代を切り開く女性の幕開け」と称えた。子供は一人もおらず、結婚歴もない。だが、世界中から才能ある少女たちを養女として迎え入れ、育て上げた。その養女たちは今や、各界で活躍する著名人となっている。*桜都国際空港。VIP専用ゲートの前で、盛樹は真っ赤なバラの花束を抱え、首を伸ばして待ちわびていた。その横で北斗は両手をポケットに入れ、退屈そうにガムを膨らませては潰す。「パチッ」という音が何度も鳴り響く。「うるさい!」盛樹が苛立ちを爆発させた。「私が雅子を迎えに来てるのに、お前は何しに来たんだ」北斗は艶のある瞳に笑みを浮かべる。「父さんの忘れられない初恋の人が、もしかしたら僕の母親かもしれないじゃない」盛樹が何か言おうとした瞬間、黒いスーツワンピースを纏った女性が姿を現した。漆黒の髪が滝のように流れ、真紅の唇が艶めく。サングラスを外すと、まるで花のように美しい横顔が露わになる。時の流れが彼女だけを特別扱いしたかのように、年齢を感じさせない艶やかな表情。丸みを帯びた顔立ちに、凛とした眉目は妖艶な大人の魅力を漂わせていた。10センチの厚底ヒールを履いた足取りは、まるでランウェイを歩くモデルのよう。「雅子!」盛樹の目が釘付けになる。楼座雅子の後ろには、黒い制服に身を包んだ六人の精悍な男たちが整然と並び、30インチの黒いスーツケースを手に、まるでトップモデルのような佇まいで従っていた。北斗は盛樹と共に歩み寄る。「雅子おばさん」北斗は雅子の顔をじっ
「……もう一つは桐嶋さんが率いる引力テクノロジーからの提案です。買収額400億、全従業員と部門の維持、そして新オーナーの下での独立経営を保証する内容となっています」盛樹は真っ先に引力テクノロジーの企画書を手に取り、数ページ目を捲って呟いた。「400億?なぜ桐嶋さんがこれほどの高額を……」涼は椅子に深く寄りかかり、どこか投げやりな態度で答えた。「美人の笑顔一つのためさ。夕月さんへのプレゼントってところかな」盛樹の疑わしげな視線が、夕月と涼の間を行き来する。「夕月さんは僕の彼女だからね」涼は続けた。「彼女が喜ぶなら、それだけで価値があるさ」盛樹は驚愕の表情で夕月を見つめた。「お前と桐嶋さんが……」実は盛樹は、娘のために離婚歴のある実業家を何人か物色していた。早く夕月を片付けて、藤宮家の利益になる縁戚関係を作りたかったのだ。まさか、あまり期待していなかった長女が、こんな大きな驚きを用意していたとは。「やるじゃないか、夕月」盛樹は満足気に顎を撫でながら、口角を上げた。他の役員たちも内心で思いを巡らせていた。まさか桐嶋が長年独身を通してきたのは、橘冬真の妻を想っていたからとは。盛樹は引力テクノロジーの企画書を手に、零れそうな笑みを必死に押さえ込んだ。「400億か。さすが桐嶋さんだ」「夕月さんのことは随分前から好きでした」涼は率直に言った。「今、やっと付き合えることになった。だから、彼女が喜ぶ数字を出させてもらいました」声のトーンを落として続ける。「藤宮社長、断る理由はないでしょう?」グラスを指先で回しながら、一滴の水も零さない。「断るなんて、少し物分かりが悪すぎますよね」涼は軽く笑ったが、漆黒の瞳に鋭い光が宿る。「冗談ですよ。義父上を脅すわけないじゃないですか」その傲慢な眼差しに、盛樹は凍りついた。「義父上」という言葉に、体が震える。まさか、娘を遊び半分で口説いているわけではない?興奮で手を擦り合わせながら、何か言おうとした瞬間、テーブルの上の携帯が震えた。最初は無視するつもりだったが、画面を見た途端、また体が震えた。慌てて電話に出る盛樹。声が震えている。「も、もしもし……」女性の声が響いた。「盛樹さん、帰国したわ」盛樹は立ち上がった。「会議は一時中断!空港まで行っ
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付