「まさか桐嶋さん、藤宮さんがまだ橘夫人だった頃から想いを寄せていたんですか?」「なるほど、桐嶋さんが長年独身を通してきた理由が分かりました。人妻に想いを馳せていたとは」会場の出席者たちは、この意外な展開に興奮を隠せない様子で、椅子の上で身を乗り出していた。「もしかして、離婚前から二人は既に……」「だから桐嶋さんはあんなに早く藤宮さんを射止められたんですね!密かに関係を持っていたんじゃ……」「まさか橘社長、不倫が原因で離婚したってこと!?すごい……!」上流階級の面々までもが、このスキャンダラスな推測に熱を上げていた。冬真の漆黒の瞳に、冷酷な闘志が宿る。自分の評判を貶めたいなら、地獄に落ちる時は道連れにしてやる。桐嶋だけが傷一つ負わずに済むとでも思っているのか。この橘冬真の女に目を付けた報いは、神の座から引きずり落とすことだ。春川は冬真の言葉に笑みを浮かべた。「藤宮さんによると、離婚を望んでいたのは橘社長の方だったそうですが。なぜ離婚した今になって、藤宮さんの恋愛に執着されるんですか?」夕月の表情は終始冷静そのもので、冬真がどれほど騒ぎ立てようと、その仮面は崩れなかった。冬真は春川を一顧だにせず、「記者ともあろう者が状況が読めないのか?桐嶋は長年私の妻を狙っていた。五年前から妻を見張っていた証拠も、確かに握っているんだがな」「二人とも離婚されたのに、まだ『妻』とおっしゃる。ずっと結婚生活から抜け出せないのは、むしろ橘社長の方では?」春川の言葉が鋭く突き刺さる。まるで巨大なスピーカーが体内で轟音を奏でたかのように、「ドン!」という衝撃が冬真の心臓を揺さぶり、内臓まで痛みが走った。第三者の目は曇りがない。春川は記者として、離婚以来、取材で夕月を追い続けてきた。会場の財界人たちが三人の関係に興じる中、唯一春川だけが表層を突き抜け、本質を見抜いていた。冬真の瞳の奥に潜む動揺、夕月の前で虚勢を張るしかない男の本性まで。その時、冬真のスマートフォンが震え始めた。無視するつもりだったが、春川の言葉に追い詰められた今、その着信は窮地を脱する救いの綱となった。画面に浮かぶ「橘凌一」の文字に、冬真の表情が強張る。こんな時に凌一から電話とは、良い知らせのはずがない。震える端末を、手が上手く掴めない。
涼が「別れる」と言った途端、冬真の目には思惑通りという色が浮かんだ。演技だと分かっていても、ここまで言い切られた以上、涼がどう収めるのか見物だった。「桐嶋、その言葉、忘れないでもらうぞ!」今こそ、涼に夕月との別れを迫る時だった。「桐嶋さんと別れるつもりなんて、ないわ」夕月は涼の大きな手に包まれた自分の手を感じながら、冬真に向かって断言した。「ましてや、あなたの邪魔立てで別れるなんて、絶対にありえない」冬真の表情が一瞬で凍りつき、心臓が奈落へと落ちていくような感覚に襲われた。「夕月……」涼が優しく彼女の名を呼ぶ。夕月は彼の手をしっかりと握り返した。「買収式を台無しにしたのはあなたじゃない。去るべきは橘冬真の方よ」涼の唇が綻び、その様子を見た冬真は胸を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。彼の胸の中で重い音が鳴り響く。夕月の言葉に心を落ち着かせたのか、涼の瞳に星のような光が煌めいていた。「こんなに想ってくれて」まるで夕月のたった一言で、全てが報われたかのように。夕月は優しく微笑んで「だって、あなたは私の恋人だもの」「夕月!!」冬真はついに我慢の限界を超え、立ち上がった。自分がここにいるというのに!目の前にいるというのに、二人は全く気にも留めていない。見つめ合う二人の視線は、まるで糸を紡ぐように絡み合っていた。「夕月さん、まだ話していないことがあるんです」涼は大きな決意を固めたような表情で、柔らかな声で、しかし凛とした瞳に悲しみを宿しながら続けた。「橘社長は私たちを引き離すために、ハッカーを雇って医療センターの記録を盗み出させました。私が通院していると知って、何か重い病気でもあれば、それを材料に私を君から引き離せると思ったんでしょう」夕月はその事実を既に知っていた。むしろ、冬真のこの愚行を公にすることを涼に勧めていたほどだ。だから涼のこの発言は、会場の全員に向けられたものだった。その言葉が終わらないうちから、周囲はゴシップの香りを嗅ぎつけ、耳を欹てていた。涼の告発を聞き終えた途端、会場は騒然となった。「橘社長がそんなことを!? これは度が過ぎますよ!」「桐嶋さん、一体どんな病気なんですか?」その声に乗じて、涼は冷ややかな声で冬真に問いかけた。「橘社長、私がどんな
楓の目が見開かれ、声を張り上げた。「あ!あの人知ってる!藤宮テックの社員じゃない!」彼女は必死になって声を響かせ、原稿の差し替えと冬真は無関係だと証明しようとした。次の瞬間、映像が切り替わる。原稿を差し替えた男が廊下で冬真と密会している決定的な場面。二人の会話の様子が、はっきりと映し出されていた。会場が騒然となり、ざわめきが渦巻く。楓の血の気が引き、声も途切れがちになった。信じられない思いで振り返り、冬真を見つめる。まさか、涼の原稿を差し替えたのは本当に冬真だったの?しかも、こんな安直な手口で?社内で従業員と堂々と接触するなんて……カメラの存在すら意識していなかったの?動揺を隠せない楓は、震える瞳で冬真を見つめた。しかし、証拠を突きつけられた当の本人は、驚くほど冷静に椅子に座ったまま。まるで映像の中の人物が、別人であるかのような態度だった。夕月は、頑なに認めようとしない冬真を見据えながら口を開いた。「では、当の本人に聞いてみましょうか。彼が橘社長と何を話したのか」映像に映し出された社員は、全身から冷や汗を滲ませていた。会場中の視線が一斉に彼に向けられ、膝が目に見えて震え始める。「藤宮副社長!橘様に頼まれて……200万円いただいて……お金はお返ししますから!どうか、今回だけは……!」震える声が会場に響いた。「やはり橘社長の仕業だったのか」「桐嶋さんと藤宮さんの関係を妬んでのことでしょうね」「まさか、こんな子供じみた手段を……」会場からざわめきが立ち上る。公衆の面前で暴かれても、冬真は軽蔑するように冷笑を浮かべた。「見破られることは承知の上さ。お前がどんな反応を示すのか、それが知りたかった。桐嶋の原稿が差し替えられたと気付きながら、黙っていた時のお前を見て、私は……」言葉を途中で切った冬真の口の中に、苦い味が広がる。「ああ、私がやらせた。それがどうした?夕月、桐嶋のために、こんな大勢の前で私を追い出すつもりか?!」恥じる様子もなく、挑むように言い放った。会場の視線が、一斉に夕月の次の一手へと注がれた。冬真がここまで稚拙な手段を用いたのは、暴かれることなど最初から恐れていなかったからだ。むしろ社内の監視カメラに、従業員との取引場面を意図的に映させたとさえ思える。彼の目的は、
夕月は何かを察知し、涼の方へ視線を向けた。彼の笑みには冷たい光が宿り、その表情からは何を考えているのか、誰にも読み取れなかった。涼は白紙の挨拶文を聴衆に掲げ見せた。「どこかの卑劣な奴が、こんな白紙の原稿をよこしやがった」会場が騒然となる。「なぜ挨拶文が白紙に?」「誰がこんなことを?」「ここは藤宮テックの本拠地だぞ。まさか藤宮の人間が、桐嶋さんの失態を狙ってこんな子供じみたことを?」夕月への視線が、疑惑の色を帯び始めた。涼は両手を机に置き、身を乗り出して最前列に座る冬真を見下ろした。「買収式で私を失態させ、この場を潰そうとする輩がいるとすれば、それは藤宮テックの買収に反対する者に違いありませんね」夕月は立ち上がり、白紙の原稿を手にしたまま冬真の前まで歩み寄った。「桐嶋さんの原稿を、返してもらえるかしら」その一言で、冬真の周囲に座る財界人たちが騒めきだした。「桐嶋さんの原稿を入れ替えたのは、橘社長だというのか!?」「まさか……橘社長がそんな幼稚な真似を?」驚きの声が飛び交う中、桐嶋は夕月の後ろ姿を見つめていた。まるで強心剤を打たれたかのように、胸が高鳴る。彼は首を傾げ、眉を軽く上げながら、冬真に挑発的な冷笑を向けた。予想外だったろう?原稿を差し替えた途端、夕月が自分の味方をしてくれるとはな。椅子に座った男が顎を上げ、目の前に立つ夕月を見上げていた。こうして夕月を下から見上げる度に、全身が硬直してしまうことに冬真は気付いていた。まさか自分が、元妻の前でこんな従属的な姿勢を心地よく感じるとは。夕月が強い態度で臨むほど、彼の体の中で何かが疼き始める。冬真は陶然とした眼差しで彼女を見つめ、夕月がなぜこれほど威圧的に自分の前に立っているのかさえ、忘れかけていた。反応のない冬真に、夕月は声を強めた。「橘冬真!二度は言わないわよ!」「冬真に濡れ衣を着せないで!」後方から甲高い声が響き、冬真はようやく我に返った。誰の声かは分かっていた。眉を僅かに寄せたものの、振り向こうとはしなかった。厚底のショートブーツを鳴らしながら、楓が怒りに任せて会場に入ってきた。まるで冬真の代弁者であるかのように。彼女はこれまでホールの外に隠れ、夕月と涼の調印の様子を密かに窺っていた。盛樹
しかしある日を境に、彼は夕月のそういった仕草を拒絶するようになった。彼女の親密な仕草のすべてを。夕月の瞳に映った寂しげな影を見過ごすことは簡単だった。あの時は。かつて見向きもしなかった幸せが、今は永遠に手の届かない場所にある。自らの手で投げ捨てた愛は、他人の胸に灯る光となった。涼が夕月に向けた満面の笑みを目にした瞬間、冬真の胸の中で、埋めようのない暗い空洞が広がっていく。必死に視線を逸らしながら、何度も何度も自分に言い聞かせた。たかがブローチ一つ。夕月は昔、自分にも数え切れないほどプレゼントをくれた。桐嶋のことなど、妬む必要などない。ネクタイピン、ブローチ、腕時計……夕月からの贈り物は山ほどあったはずなのに。それらの品々が今どこにあるのか、もう思い出すことすらできない。かつて夕月から贈られたものが、一体どんなデザインだったのか。冬真は思い返そうとしたが、何一つ思い出せなかった。そうだ。一度も大切にしたことなどなかったのだから。夕月が期待に胸を膨らませて贈ってくれた品々を、手に取ることすらせず、夕月に適当な場所に片付けるよう言いつけていた。開封した贈り物に、嫌味な言葉を投げかけたこともあった。夕月からのアクセサリーは、一度も身に着けることはなかった。今この瞬間、冬真は狂おしいほどの衝動に駆られていた。今すぐにでも家に戻り、夕月からの贈り物を全て身に着けて、桐嶋の前に立ちたかった。涼は冬真の方を向き、切れ長の瞳に狡猾な笑みを浮かべた。「似合うでしょう?」明らかな挑発だった。「夕月さんのセンスは抜群ですからね」彼は夕月が付けてくれたブローチに指を添え、まるで宝物のように愛おしげに撫でた。夕月は自然な仕草で、桐嶋の腕に手を添えた。桐嶋は隣に立つ彼女を見下ろす。二人の体が寄り添い、温もりが混ざり合う。「気にする必要なんてないわ」冬真のことを口にした途端、夕月の声音は冷たさを帯びた。会社に入った時、冬真が盛樹の直筆の招待状を手に現れたという連絡を受けた。警備員は盛樹の署名を確認し、調印式の会場に通したのだという。そして今、盛樹からメッセージが届いた。冬真に招待状を書いたこと、そして冬真がまだ夕月への未練を残しているように見えると。盛樹はまだ諦めきれない様子で、夕月に「冬真
黒髪は月型の七宝焼きのヘアアクセサリーで後ろに纏め、黒い房飾りの簪で留められていた。房飾りは髪と同色で、違和感なく溶け込んでいた。ライトグレーのウエストフィットスーツに、ゆったりとしたパンツ。黒のローヒールが床を踏みしめる足取りは、力強く安定していた。藤宮グループの社員たちには、夕月の凛とした姿は見慣れたものだった。「副社長!」熱心な挨拶が飛び交う。しかし、招かれた財界人の多くは、藤宮テックのトップに上り詰めた夕月を初めて目にする。遠巻きに観察の目を向けながら、ささやき合う声が聞こえた。「大学も出ずに結婚して、よく副社長になれたものね。七年も橘家のお嫁さんだったのに、藤宮テックの株主たちはどう考えているのかしら」「そうよね。藤宮テックの内部がもう底をついているってことでしょ。倒産も時間の問題ね」と別の声が同調した。「後継者を子供から選ぶなら、藤宮楓の方がまだマシだったわ。少なくとも盛樹さんの元で育って、橘社長の幼なじみでもあるんだから」「そう!ビジネスは人脈が全てでしょう。テストの点数じゃないわ。楓さんの方が桜都での人脈も広いのに……でも困ったことに、楓さんは正義感は強いけど頭が回らない。まさか実の父親のスキャンダルを公にするなんて」声を更に潜めて、「聞いた話だと、楓さんはハメられたらしいわよ」「えっ?藤宮家の次女に罠を仕掛けるなんて、よくそんな度胸があるわね」「この件の後、誰が得をしたか考えてみなさいよ。夕月さんは頭はいいのよ。でも、その頭を実の家族を陥れることに使うなんて……きっと天罰が下るわ」彼らが噂話に興じている近くで、制服姿の男性が携帯を取り出し、その面々の名前をメモしていた。涼からの指示は明確だった。招待客の中で夕月に敵意を示す者がいれば、全て記録し、後日一人一人潰していくと。*涼が振り返ると、夕月が歩み寄ってくる姿が目に入った。彼の唇が緩み、満面の笑みを浮かべた。その表情から溢れ出る輝きは、まるで太陽のように眩しかった。湖面のように潤んだ瞳に光が差し込み、夕月を見つめる眼差しには、深い愛情が滲んでいた。夕月は涼の胸元に視線を落とし、小さく安堵の息を漏らした。「これ、あなたに持ってきたの」ポケットから取り出したのは、高級感漂う四角いベロア調の箱。開けると中から、ターコイズ
「桐嶋さん、藤宮グループの買収、おめでとうございます」「これで藤宮副社長との縁談も、いよいよですねぇ?」涼と夕月の交際の噂は、桜都の財界全体を揺るがす大きなニュースとなっていた。実際、今日の出席者の多くは、この噂の真相を探りに来たようなものだった。スラックスのポケットに片手を入れた涼のスーツの裾には、しわが寄っていた。「夕月さんとの間に進展があれば、真っ先に皆様にお知らせさせていただきます」その言葉に、財界人たちは二人の関係の深さを確信したような表情を浮かべた。「それは楽しみですな!」「藤宮副社長の運の強さったら!誰が見てもうらやましい話ですよ」その時、涼を取り巻く人々の声が急に途切れ、表情が強張った。涼が振り向くと、冬真が秘書を従えて近づいてきていた。漆黒のスーツに身を包んだ冬真からは強い威圧感が放たれていた。まるで目に見えない二つの磁場が衝突するかのように、周囲の人々は思わず数歩後ずさった。冬真の下がった瞳からは、爬虫類のような冷たい視線が這い出してきた。もし冬真が太陽の光さえ届かない永夜の闇なら、涼は柔らかな陽光に包まれた輝かしい神々しさを纏っていた。薄い唇が上がり、涼の笑みには傲慢さが滲む。さらりとした前髪が揺れ、整った額の輪郭を際立たせていた。冬真の威圧など些細なことのように、涼は会場の空気を軽々と支配していた。「橘社長、招かれざる客は、追い出される運命だとご存知ですか?」冬真は手にした招待状を掲げた。「招待状はここにある」「招待状は夕月さんと私で一枚一枚確認して送ったはずですが、あなたのお名前は見た覚えがありませんね」「私たち」という言葉が、冬真の耳に棘のように刺さった。彼の涼への視線は一層冷酷さを増し、傲然と言い放った。「これは義父から頂いた招待状だ」つまり、冬真の手にある招待状は藤宮盛樹から渡されたものだった。スキャンダルで藤宮グループの実権を手放さざるを得なかった盛樹は、未だ騒動の余波が収まらず、これだけの報道陣が集まる中、調印式に姿を見せるはずもない。グループの支配権は失ったとはいえ、盛樹の名で発行された招待状なら、ビルの警備も冬真の入館を許可せざるを得なかったのだ。冬真は涼の前に立ち、宣言するように言った。「本日は夕月と桐嶋グループの買収契約を祝福し
大きく口を開け、抑えのない泣き声が体育館中に響き渡る。みかんの入った容器を抱きしめる姿は、まるで置き去りにされた子獣のようだった。「坊ちゃま!」ボディーガードが慌てて声をかけるが、泣き声を止める術を知らなかった。冬真が近づいてきた。「悠斗、何を泣いている?」五歳の息子の突然の感情の爆発に不満げな様子で言う。「もう五歳なんだぞ。泣くんじゃない」先ほど夕月がみかんを渡して去った途端に泣き出した様子を見ていた冬真は、悠斗の膝の上の容器に手を伸ばした。「やだぁ!!」悠斗は叫び、すぐさま身を屈めて、夕月からもらったみかんを守るように体を被せた。まるでその容器が最も大切な宝物であるかのように。冬真は冷たい声音で警告した。「泣くな」子供をなだめる術を知らない彼は、ただ大勢の前での息子の涙を不愉快に感じているだけだった。悠斗は冬真がみかんを取り上げることを恐れ、急いで口の中に詰め込んだ。筋の付いたままのみかんには、かすかな苦みが混じっている。悠斗はその苦みと涙の塩味を一緒に飲み込んだ。昔なら、夕月が筋を取り忘れただけで駄々をこねただろう。でも今は、もうそんな贅沢は許されない。夕月がみかんの皮を剥いてくれただけでも、有難いことなのだ。悠斗は容器の中のみかんを全て口に押し込んだ。冬真は息子の唇からみかんの果汁が溢れ出る様子を眉をしかめながら見つめていた。そんな行儀の悪い食べ方は見ていられない。ボディーガードにティッシュを持ってこさせ、身を屈めて悠斗の口を拭こうとする。「うっ!!」悠斗は顔を背けた。夕月からもらった大切なみかんを奪われることを怖れて。冬真は息子の警戒する様子に気づき、諦めと不本意さの入り混じった声で言った。「取らないよ」*日曜日、藤宮テックの本社ビルで買収セレモニーが間もなく始まろうとしていた。マイバッハS650プルマンのタイヤが地面を軋み、回転ドアの前で停車した。制服姿の守衛が階段を駆け降り、車のドアを開けると、涼が長身を滑らかに降ろした。ダークグレーのスリーピースが187センチの体躯を包み、整然としたカラーにはエレガントなウィンザーノットのネクタイが添えられていた。北の海で採れる最高級ミンクと名門織物の高級ウールを混紡した生地のスーツは、桜国からの注文は一切受け付けないとい
冬真は瑛優の練習相手を一時間以上続けていた。胸が激しく上下し、大きく息を吸い込むたびに、その荒い息遣いが広い体育館に響き渡る。まるで堤防が決壊したかのように、額から汗が溢れ出る。濡れた黒髪が一筋一筋と張り付き、いつもの鋭い表情が柔らかく崩れていった。雨に打たれているかのように、頬を伝う汗が止まらない。上着とセーターベストを脱ぎ捨て、着ていたネイビーのドライシャツさえ、汗で色が濃く変色していた。意志の力だけで立っているようだった。体を少し前かがみにしながら、何とか倒れまいと踏ん張っている。だが、両足はまるでコンクリートを流し込まれたように重く、一歩も動かすことができない。木柱から飛び降りた瑛優は、演出衣装を着たままで、頬を紅潮させ、汗ばんだ額に細い髪が乱れて張り付いていた。夕月の元へ駆け寄ると、夕月は瑛優専用の水筒を差し出した。瑛優が大きく水を飲み干す間、夕月は小さなタオルを瑛優の襟元から背中に差し入れ、汗を拭い取っていく。夕月はしゃがみ込んで、瑛優の服の中に手を入れて確かめた。「汗でびっしょりね。着替えてきましょうか?」「うん」瑛優は素直に頷いた。夕月は瑛優を更衣室へ連れて行った。練習のために何着もの着替えを用意してあり、靴下や靴まで予備を持ってきていた。瑛優が靴下を脱ぐと、汗でしっとりと湿っていることに気づいた。乾いた服と新しい靴下に履き替え、洗面台の前に立つ瑛優の顔と手を、夕月は濡らしたタオルで丁寧に拭った。更衣室を出ると、用意しておいたフルーツと、すぐにエネルギー補給できるチョコレートバーを瑛優に手渡した。瑛優は椅子に座り、小さな足をぶらぶらと揺らしながら休んでいた。夕月は悠斗の前に歩み寄り、みかんの入ったプラスチック容器を差し出した。「食べる?」悠斗は胸が高鳴り、急いで容器を受け取った。中を見て、思わず口走った。「筋が付いてる……」返事はなかった。顔を上げると、夕月が背を向けようとしているのが見えた。「筋、嫌いなのに!」慌てて声を張り上げる。夕月は手を伸ばした。「いらないなら、返してくれていいわ」車椅子に座った悠斗の目は、まるで子うさぎのように真っ赤に染まっていた。「どうしてママは、筋を取ってくれないの?」「もう、私はあなたのママじゃないから」夕月