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第120話

Author: こふまる
夕月が階段を見上げると、悠斗は彼女を見て口を尖らせ、体を横に向け、腕を組んで、母親の方を一瞥だにしない。

「夕月、あなた迷信深すぎよ!」楓の声が響く。「毎日お参りばかりして、悠斗くんの面目が丸つぶれじゃない!」

「楓兄貴の言う通り!」楓の言葉なら何でも即座に同意する悠斗。

先ほど本堂を歩いていた時、楓が悠斗と美優の名前が書かれた札と平安灯を指摘したのだ。

美優はもう橘家の令嬢ではないのに、その名前が橘家の跡取り息子である自分の名前と並んでいるなんて、許せるはずがない!

「おい!」悠斗が夕月に向かって叫んだ。

「僕の平安灯、消してよ!もう二度と関わりたくないんだから!!」

住職の表情が強張る。「橘様……」

息子を諭してほしい思いが込められていた。

「明通住職」夕月の穏やかな声が響く。

住職が振り向くと、その清楚な白磁のような顔立ちに、清流のように澄んだ黒瞳が決意に満ちていた。

「橘家の坊ちゃまの仰る通りに。もう平安灯は灯しません」

住職は何か言いかけたが、夕月と悠斗の間を目が行き来した後、深いため息と共に南無阿弥陀仏を唱えた。

静謐な古刹に山風が通り抜け、杉の木に吊るされた朱色の絵馬がかすかに鳴る。

石段が、二つの家族を隔てていた。

「坊や、平安灯を消しに行きましょう。お母様が灯してくださった灯り、要らないというのなら、自分の手で消してください」

住職が階段を上がり始める。

「悠斗!!」瑛優の力強い声が堂内に響き渡った。

瑛優の声に悠斗の小さな顔が強張る。

だが振り向きもせず、住職の後に続いて本堂の中へと消えていった。

瑛優の喉には千の言葉が詰まっていたが、今この瞬間、どんな言葉を投げかけても無駄だと悟っていた。

夕月は願掛けの木に目を向けた。無数の赤い絹糸が枝々を彩っている。

「願掛けしたことある?」

「ええ」夕月は血の気の失せた笑みを浮かべた。「でも仏様は、愛してくれない人を愛してくれる人に変えることはできない。もう執着は捨てるべきだったのね」

「今からでも遅くないさ」

涼の朗らかな声が、潰した薄荷の葉のように清々しく耳に染み入る。

夕月が彼を見つめると、男は視線を逸らさなかった。

横顔を見せる涼の端正な顔立ち、その鋭い瞳には率直な感情が溢れていた。

夕月の胸が温もりを帯びる前に、涼は袖を捲り上げた。

「叶
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