冬真は夕月の言葉を最後まで聞く気もない。夕月も斜面の下にいたと知った瞬間から、いらだちを覚えていた。楓に冷ややかな視線を投げかけながら、夕月に問う。「楓が、お前と星来を突き落としたと言いたいのか?」「そうよ」夕月は即答した。「お前も星来も怪我はしていない」冬真の声は水面のように平坦だった。怪我もしていないのに、なぜ楓を責める必要がある?怪我もないなら、何もなかったことにすればいい——そう言わんばかりの態度。陽光が眩しく差し込む中、夕月は目の前の男を見つめていた。わずか数歩の距離なのに、まるで深い峡谷が二人を隔てているかのようだった。これだけの人がいる中で、惨めな姿を晒しているのは彼女と楓だけ。天野に教わった護身術のおかげで、斜面を転がり落ちる時も、必死で自分と星来を守ることができた。それなのに、まるで大怪我をしたかのような素振りを見せる楓。冬真は今や、楓が夕月と星来を突き落とした張本人だと分かっているはずなのに、なお楓を庇う姿勢を崩さない。夕月の口元に、苦い笑みが浮かぶ。「ふぅん」その声には、嘲りと諦めが混ざっていた。「夕月さん!橘家があなたの学費を全額援助してくれることになりました。しっかり勉強するのよ!」かつて、石田書記は興奮した様子で駆け寄ってきて、そう告げた。「橘家……ですか?橘博士が援助してくださるんですか?」彼女は首を傾げて尋ねた。「いいえ、援助してくれるのは橘博士じゃなくて、橘家の後継者の橘冬真さん。博士の甥御さんよ」石田書記は息もつかずに続けた。「冬真さんは博士からあなたのことを聞いて、学校側に申し出てくれたの。四年間の学費と、毎月20万円の生活費も出してくれるそうよ。ただし条件が一つあって——」石田書記は笑みを浮かべながら、「全科目で首席を取ることです。まあ、あなたにとっては当たり前のことでしょうけどね。橘博士があなたを高く評価して、その上、後継者までが援助を申し出てくれたんだから、期待を裏切らないようにね!」彼女は石田書記に頼んで、冬真のビジネスメールアドレスを教えてもらった。感謝の気持ちを込めて、夕月は年末年始などの節目に、挨拶のメールを送るようにしていた。時折、冬真から返信があり、近況を尋ねられることもあった。そんな時は丁寧に、橘家の援助のおかげで順調に過
その後、養父が他界した時、冬真は夕月と共に墓園を訪れた。彼は夕月の手を自分のダウンジャケットのポケットに入れ、大きな手で包み込んだ。顔を上げると、お互いの肩に雪が積もっているのが見えた。あの時の夕月は、今日この雪の下で手を取り合えば、この先ずっと寄り添っていけると信じていた。冬真は確かに彼女の凍えた心を温めてくれた。でも結婚してから気づいたのは、冷徹さと薄情さこそが、この男の本質だということだった。「藤宮楓は何をしたんだ?」天野の声が響いた。彼は夕月に、その場で証言するよう促した。「私と星来くんを突き落としたの!」「そんなことしてない!」楓は即座に否定した。「うぅ!」星来が不満げな声を上げ、眉をひそめながら楓を指差した。手に持ったアンズタケを見せてから、今度は悠斗を指差す。「なんだよ!僕は関係ないでしょ!」悠斗が憤慨して叫んだ。星来は頬を膨らませると、スマートウォッチのボタンを押した。彼の安全のため、スマートウォッチには常に録音・録画機能が作動していたのだ。スマートウォッチから悠斗の声が流れ出した。「このアンズタケ、瑛優が大好きなんだよ。たくさん採ってあげたら、きっと喜ぶと思うな」「危ないわ。早く戻ってきて」夕月の声が響いた直後、二人が斜面を滑り落ちる音が続いた。次の瞬間、楓の悲鳴が録音から漏れ聞こえてきた。スマートウォッチの録音を聞いた楓と悠斗の顔色が一気に変わった。周囲の視線が二人に集中する。悠斗は落ち着かない様子で耳を掻きながら、どうしていいか分からずにいた。「なんでそんな目で見るのよ!たかがこんな録音で、私が突き落としたって証明になるわけ!?」楓が声を荒げた。楓は一転して、優しい声で星来に語りかけた。「私は星来くんと夕月姉さんが危ないのを見て、助けようとしただけ。でも夕月姉さんが突然私のマフラーを掴んで、引っ張り込まれちゃったの。ねえ星来くん、夕月姉さんに何か言われたの?だから私のこと誤解してるの?」私服警備員が周囲を見回している中、楓はその様子を確認すると、得意げに口元を歪めた。バカじゃない、この斜面付近に監視カメラなんてない。だからこそ、立入禁止の看板を外したのだから。星来は喉から軽く「ふん」と声を漏らすと、スマートウォッチの録音を続けて再生し
楓は悲鳴を上げ、足で天野を蹴ろうとした。だが既に捻挫していた足が激痛を走らせる。「助けて!痴漢よ!きゃああ!離して!冬真、助けて!!」「離せ!」冬真が怒鳴った。天野は楓を掴んだまま斜面の端まで来ると、冬真の方を振り向いた。「ああ」と一言。そう言うと、天野は手を放した。楓は再び斜面を転がり落ちていった。「きゃあああ!!」楓は土埃を浴びながら、麻袋のように地面に叩きつけられた。斜面に這いつくばったまま、それほど転がり落ちてはいないものの、立ち上がる力も残っていなかった。天野は次に悠斗へと向かった。「お前が自分で降りるか?それとも私が放り投げるか?」悠斗は恐怖に目を見開き、後ずさりした。冬真の後ろに蹲って、「いやだ!!うわあああん!!」と泣き叫んだ。冬真は我が子を庇いながら、怒鳴った。「私の息子の躾に、お前が口を出すな!」「なら、私が躾をしてもいいかな?」突然響いた凌一の声に、冬真の体が強張った。周囲を見回すが、凌一の姿はどこにもない。私服警備員がタブレットを抱えて冬真の前に現れた。画面に映し出された凌一の端正な顔立ちは、まるで神々しささえ漂わせていた。冬真は息を呑んだ。まさか、警備員がこんなに早く凌一と連絡を取れるとは。タブレットごしであっても、凌一の視線には威圧感が満ちていた。猛虎のように気炎を上げていた冬真も、凌一の前では爪を隠さざるを得なかった。「叔父上、星来くんは無事です。ご心配なく」「私が心配なのは、お前の方だ」凌一の優しげな言葉の裏に、冬真は凍てつくような寒気を感じ取った。画面越しに凌一は嘲るように続けた。「わが養子を脅かす最大の危険が、甥の息子と、その親友だとはね」冬真の表情が凍りつくように固まった。「悠斗くん」「悠斗」凌一の声が響き、まるで最後の審判のように冷たく澄んでいた。冬真は息子に目配せし、タブレットの前に立つよう促した。画面越しでさえ、悠斗は凌一の顔を直視できず、俯いたままだった。「跪け」山間から吹き抜ける風のような冷気に、悠斗の両足が震え始めた。悠斗は恐怖に満ちた目で父親を見上げた。冬真の唇は一文字に結ばれ、整った顔立ちの輪郭が一層鋭く浮かび上がる。「跪くんだ!」悠斗の膝から力が抜け、地面に崩れ落ちた。
痛い!左手が痺れて感覚がなくなっていた。竹刀を握る冬真の手に力が入った。息子を打った手のひらが、自分も痛みを感じているかのように疼いた。だが凌一の前では、後継者としての威厳を示さねばならない。「星来くんを実の兄弟のように大切にするんだ。わかったか?二度と仲たがいをしているところを見たくない」返ってくるのは、悠斗の嗚咽だけだった。これで凌一の怒りも収まったはずだ——冬真がそう思った矢先。タブレットに目を向けると、凌一の声が響いた。「子を教えざるは親の過ち。冬真、三十発」「私が、ですか?」冬真は声を失った。深く息を吸い込んでから、冬真は部下に竹刀を差し出した。「叔父上、ご指示の通りに」恭しく頭を下げる。「待て。もうすぐ父上が到着する」凌一の声には焦りのかけらもない。冬真の表情が凍りついた。その場にいた全員が、予想だにしない展開に息を呑んだ。しばらくすると、先生の一人が林の向こうで何か光るものに気付いた。まるで誰かが鏡を掲げて歩いているかのような、まばゆい輝きだった。その光る物体が近づくにつれ、先生たちや救護班の面々は、スーツを着こなした坊主頭の男性であることが分かった。小走りでやって来たその中年の男性こそ、橘冬真の父、橘深遠だった。深遠の後ろには秘書、そして斎藤鳴を含む数人の保護者が続いていた。鳴は天野と冬真が戻って来ないことを不審に思い、他の保護者とともに様子を見に来たのだ。途中、林の中をぐるぐると歩き回り、明らかに道に迷っている様子の深遠と出くわした鳴は、何か重大な事態が起きているに違いないと直感した。他の保護者たちと共に、好奇心に駆られるままついて来たのだった。深遠はハンカチを取り出し、ピカピカの頭を拭うと、タブレットの前に立った。兄である立場ながら、弟の凌一に対して並々ならぬ敬意を示す。「凌一、来る途中で星来くんが危険な目に遭ったと聞いた。もし本当に悠斗くんが関わっているというのなら、あの小僧を決して許すわけにはいかん」悠斗は再び体を震わせた。左手を叩かれたばかりなのに、今度は右手まで叩かれるのだろうか。凌一が静かに告げた。「お前の孫は、既に息子が躾けた。今度は、お前が息子を躾ける番だ」凌一が言い終わると同時に、部下が竹刀を深遠の前に差し出した。「平手を三
楓は一瞬固まった。「……父が?なぜここに?」「私どもから盛樹様に雲上牧場までお越しいただくようご連絡いたしました。悠斗お坊ちゃまも社長も父親から懲らしめを受けました。楓さんも当然、お父様からの指導を受けていただかねばなりません」部下は淡々と答えた。 会話の最中、藤宮盛樹が姿を現した。夕月も驚いていた。凌一の行動力は驚異的だった。事件発生からわずか三十分足らずで、星来の危機を把握し、即座に処罰を下したのだ。盛樹は息を切らして現場に駆けつけ、まさに冬真が竹刀で打たれる場面に遭遇した。竹刀に付着した血を目にした途端、全身が震えた。呼び出しを受けた道中で、凌一の部下から楓が星来を斜面から突き落としたと聞かされていた。その一報で、盛樹の顔から血の気が引いた。凌一の部下が近づいてくると、楓の姿が見当たらない盛樹は震える声で尋ねた。「私の……娘は、まだ生きているのでしょうか」部下は新しい竹刀を盛樹に差し出した。「楓様は夕月様と星来坊ちゃまを斜面から落とした首謀者です。盛樹様、楓様の平手を五十回、お願いいたします」斜面の下で這いつくばっていた楓は、その言葉に青ざめた。冬真の手のひらは三十回で血が滲むほどだった。五十回も打たれれば、自分の手は廃人同然になってしまう。「私の手はレースに使うんです!来週のレースに出場するのに……この手に何かあったら困ります!」国際レース大会・桜都ステージのスポンサーの一人である冬真の計らいで、楓はエキシビションマッチの出場枠を得ていたのだった。盛樹は自分の娘が勉強嫌いで、いつも男たちと兄弟のように付き合っていることを分かっていた。それでも、そんな生き方で少しばかりの成果を上げていた。どんな順位であれ、エキシビションマッチに出場すれば、楓は桜都で名が売れる。そう考えていた盛樹は、凌一の部下に向かって苦渋の表情を浮かべた。娘のレース人生を断つわけにはいかなかった。「手の平以外では……ダメでしょうか」「他の部位でも構いません」部下は即答した。盛樹は楓に向かって歩み寄った。「この馬鹿者!どこを打たれるか、自分で選べ!」楓は暫し考え込んだ後、不本意そうに自分の後ろを振り返った。「ズボン、厚いし……お尻なら」厚手のパンツを履いていることを確認しながら言った。凌一が出て
「冬真、スマホを出せ」凌一の命令に、冬真は不本意ながらも従うしかなかった。部下が冬真の横に立ち、『桜都会グループ』というLINEグループが開かれているのを確認する。冬真は機械的な動きでスマホを掲げ、カメラを楓に向けた。彫刻のように整った顔立ちは、冷たく硬直していた。夕月の一手は、獲物を仕留める猟師のように的確だった。楓の弱みを完璧に突いている。「バシッ!」「ぎゃああああっ!」楓は激痛に耐えながら、必死に顔を隠す。撮らないで。撮られたくない。御曹司たちの前で必死に築き上げてきたイメージが、こんな惨めな姿で完全に崩れ去ってしまう。私服警備員が凌一に代わって命じた。「楓様、夕月様と星来坊ちゃまにお詫びを」楓は地面の雑草を掴み、爪の間に土が詰まるのも構わず握り締めた。顔を上げると、歯を食いしばり、真っ赤な顔に首筋の血管が浮き出ていた。謝るものか。夕月のこの策略になんか乗ってたまるか。「きゃっ!」また一発、竹刀が振り下ろされる。謝罪の言葉を発しない限り、もう一人の警備員は数を進めない。尻を打つ竹刀の回数は止まったままだ。「二十五、二十五、二十五……」盛樹が一発打つたびに、数を数える警備員は「二十五」を繰り返す。盛樹は腕が疲れ始め、叫んだ。「早く謝れ!」「うぅ!」楓は悲鳴を上げながら、「夕月姉さん!ごめんなさい!私が間違ってました!頭が変になって……石を投げたりして……冬真の恨みを晴らしたかっただけで、本気で傷つける気なんてなかったんです!お姉さん、どうか許してください!」「なんだか、謝り方が違うわね」夕月は冷静に言い放った。「楓様、もう一度お願いします」警備員が促す。もう一人の警備員は三十まで数えていたが、また二十五に戻した。冬真も撮影のやり直しを余儀なくされる。「どう謝ればいいの!」楓は憤然と叫んだ。「早く言え!このままじゃ尾てい骨を折るまで叩くぞ!」盛樹は怒鳴り声を上げた。楓は眉間に深いしわを寄せ、気を失いそうになっていた。従わない限り、盛樹の竹刀は止まることを知らない。楓は汗と泥にまみれた顔を歪ませ、口を大きく開けて絶叫した。その表情は苦痛で醜く歪んでいた。かすれた声で「星来くん、ごめんなさい……危害を加えるつもりじゃ……」「夕月姉さん
やってみろ、という無言の威圧が漂う。冬真は息を飲んだ。氷のような声で言う。「楓はもう反省してる。実の妹なんだろう。これ以上いじめるな」傍らに立っていた深遠が、突然冬真からスマホを奪い取った。「動画一つ送るのにグズグズして!」このまま放っておけば、また凌一の怒りを買うことは目に見えていた。両手を潰されでもしたら、明日の取締役会に出られなくなる。凌一の意向なら従うしかない。深遠は即座に送信ボタンを押した。「おじさま!お願い、送らないで!」楓の声は力なく響いた。「冬真さん」夕月が言う。「楓のその目つき、本当に反省してると思います?まあ、近視がそんなにひどいとは知りませんでしたけど」冬真は楓を見やった。その瞳の奥に潜む憎悪と残虐性が見えた。夕月を八つ裂きにしても、その怨念は消えそうにない。「昔は大人しくしていたわ。だって私が橘家の奥様だったから。でも、あなたが彼女と暗い関係を続けているのを見るのも吐き気がした。今度は、あなたの愛しい楓が私を害そうとする。我慢できるわけないでしょう?誰もがあなたみたいに脳みそを欠落させているわけじゃないのよ」「私と楓は何も……」冬真は眉間に深いしわを寄せた。「私に心も金も向けない男なんて、何の価値があるの?」その一言で、冬真の喉は完全に塞がれた。夕月は楓に向き直った。「まだ私に何か吐き出したいことがあるなら、どうぞ。ねえ、神様が人を滅ぼす時は、まず狂気を与えるって言うでしょう?」地面に這いつくばった楓は、蛆虫のように首を持ち上げ、目を血走らせて夕月を睨みつけた。『桜都会グループ』に投稿された折檻動画。御曹司たちは一様に沈黙した。「マジかよ……楓、酷い目に遭ってるな」盛樹に叩かれる様子は、目を覆いたくなるほどだった。謝罪の言葉を聞き終えた彼らは、事態の深刻さを一瞬で理解した。「橘家の国宝級天才の息子って、確か五歳だろ?楓、なんで子供に手を出すんだよ。あの人の子供に手を出すなんて正気か?」「え?マジで聞き違いじゃないよな?楓、お前二十五だろ?実の姉に石投げるとか……」御曹司たちは、すぐにプライベートで連絡を取り合い始めた。「この動画、冬真が投稿したんだよな。元奥さんの仕返しってことか?」「間違いない。楓のやったことで、冬真も完全に
冬真はスマホを取り戻したものの、グループの返信は見向きもしなかった。楓が痛めつけられる動画を見た仲間たちの反応など、今はどうでもよかった。右手でスマホを握り締める指に力が入る。三十発の竹刀を食らった左手の平は、まだ肉が痙攣するように疼いていた。手の平に溜まった血を誰も拭おうとしない。救護班は目の前にいるのに、誰一人として傷の手当てをしようとはしなかった。「満足か?」冷ややかな声を投げかける。答えを待たずに続けた。「権力を笠に着るとは」夕月は軽く笑い声を立てた。「私には後ろ盾がある。あなたには?」端正な眉を綺麗な弧を描き、白い素肌に笑みが深まる。「これからは尻尾を巻いて大人しくしていた方がいいわよ」夕月は深く息を吸い込んだ。新鮮な空気が肺を満たし、全身に心地よさが広がる。冬真は眉間に皺を寄せ、何か言い返そうとした瞬間、夕月が感慨深げに呟いた。「これが愛される側の特権なのね。守られ、庇護される感覚……体の中の血が、肉が、狂おしいほど生きているのを感じる」再び冬真を見つめる夕月の瞳は、清流のように澄んでいた。「あなたは私の夫だったのに、こんな感覚を一度も味わえなかった」自嘲的な笑みを浮かべる夕月を見つめ、冬真の呼吸が乱れた。五十回の竹刀が振り下ろされ、楓は地面に伏したまま身動きひとつできなかった。盛樹は息を切らしながら、自分の手のひらにも竹刀で切り裂かれた傷が残っていた。周りには橘凌一の部下たちが立ち並び、盛樹は楓を罵ることしかできず、他の誰一人にも文句を言えなかった。さっき目にした凌一の夕月への甘やかしぶりが、まだ脳裏に焼き付いていた。盛樹は目を細め、夕月を見る目つきが僅かに変化した。悠斗の頬には涙の跡が残り、今は鼻水を拭ってくれる人さえいなかった。「楓兄貴、大丈夫?まだ生きてる?」悠斗が恐る恐る首を伸ばして尋ねた。冬真が医療スタッフに指示を出す。「楓を担架に乗せろ!」しかし医療スタッフは動かず、その視線の先を追うと、凌一の部下が楓の体にロープを巻き付けているところだった。「何をする気だ?」冬真が問い詰めた。部下は冷ややかに答えた。「凌一様のご指示で、楓様と悠斗様には今晩、この斜面で野宿していただきます」冬真の呼吸が荒くなる。「悠斗はまだ五歳だぞ。一人でここに置くなんて、危険
かつての端正な顔立ちが、深く寄せた眉に歪められ、冬真の表情は一層陰鬱さを帯びていた。「メイドに作らせるぞ」息子のご機嫌取りにも限度がある。悠斗の夕月に対する態度が一変したというのに、なぜ自分が振り回されなければならないのか。こんな些細なことに時間を費やすつもりは毛頭なかった。「ママが作ったお粥がいい!うぅ……っ!」悠斗は頑なに叫んだ。受話器越しに聞こえる息子の泣き声が、幾千もの針となって鼓膜を突き刺すように感じられた。「じゃあ、あいつの手を切り落として粥でも作らせようか?」癇癪まじりに放った言葉に、悠斗は血の気を失った。「パパ、そんなこと言わないで!ママが……」「もう二度と『ママ』なんて言葉を聞かせるな!」冷酷に電話を切った男の胸が激しく上下し、呼吸のたびに心臓が痛んだ。怒りの炎に血が煮えたぎり、携帯を握る手の筋が蛇のように這い、今にも皮膚を突き破りそうだった。まだ信じたくなかった。夕月との結婚生活が、これほど形だけのものだったとは。きっと偶然の重なりに過ぎないはずだ。では、スコッチエッグは?あの手の込んだスコッチエッグは、確かにいつも夕月が手作りしてくれていたはずだ。冬真は今年のキッチン映像を検索し、夕月が自分と子供たちのためにスコッチエッグを作る場面を見つけ出した。映像には、スコッチエッグの工程を一つ一つ丁寧にこなす夕月の姿が映っていた。冬真は椅子の背もたれに身を預け、全身の力を抜いた。唇の端がほっとした様子で緩む。だが突然、モニターに身を乗り出した。映像の中の夕月は、どうやらスコッチエッグを二つしか作っていないように見える。自分と悠斗、瑛優の分なら、三つ作るはずだ。すると夕月は調理の終盤で、冷凍庫から小箱を取り出した。包装を破ると、中から既に揚げられたスコッチエッグが姿を現す。それをエアフライヤーに入れる。程なくして、三つのスコッチエッグが揃った。付け合わせの多い一つ――自分の分は、冷凍庫から出して温め直したものだと気付いた冬真は、その場で凍りついた。まさか……!スコッチエッグまで既製品があるというのか?!いや、だとしても夕月が前もって作ったものなのでは?映像に映った包装を手がかりに、通販サイトで検索してみる。某店の冷凍食品の包装が、夕月が手
冬真の表情が険しくなった。凌一は冬真の内心を見透かしたように続けた。「星来は君と同世代の従弟だ。従弟に一言謝ることも、橘社長には出来ないのかな?」確かに星来は従弟の立場にあたる。だが、悠斗と同い年だ。それに、星来は凌一の養子に過ぎない。橘家での地位は悠斗より下なのだ。大人の自分が星来に謝るなど、冬真にはとても出来そうになかった。「二度は言わんぞ」凌一の声が冷たく響いた。大奥様が出てきて口を挟んだ。「凌一、何を言い出すの?こんな時に冬真に謝らせるなんて。子供の寿命が縮むって言うでしょう?」最後の言葉は不適切だと自覚したのか、大奥様は声を潜めた。俗世を超越した凌一なら、この失言も大目に見てくれるだろう――そう考えたのだろう。「冬真、手を出しなさい。手のひらを上に向けて」凌一の声は微動だにせず、長老のような重みを帯びていた。冬真は不吉な予感に襲われた。だが、抗いがたい力に突き動かされるように、否応なく手を差し出していた。凌一はアシスタントに目配せをすると、アシスタントは躊躇なく定規を取り出し、冬真の掌を打ち下ろした!「パシッ!」という空気を裂くような音に、大奥様は身を震わせ、病室で泣き叫んでいた悠斗の声も一瞬途切れた。冬真の掌は一瞬真っ白になり、すぐさま血が集まって目に見えるほどの腫れが浮き上がった。定規が冬真の手を打つ音は、大奥様の心臓を直撃した。老婦人は肝を冷やし、唇を震わせた。「あ、あの……これは……」大奥様は言葉を失い、凌一の仕打ちが自分への警告だと悟った。車椅子に端然と座る凌一の背筋は、松のように真っ直ぐに伸びていた。「先日、悠斗くんが星来に無礼を働いた時も罰を与えた。今度は義姉上が不適切な発言をしたから、お前が受けるのだ」さらに凌一は大奥様に向かって言い放った。「義姉上、次にそのような言葉を口にされたら、今度は冬真の口を叩くことになりますよ」大奥様は息さえ満足に出来なくなっていた。冬真の額には薄い汗が浮かんでいた。掌の痛みは蔦のように這い上がり、皮膚を突き破りそうだった。幾度も我慢を重ねた末、冬真は表情を引き締めて凌一に告げた。「母と悠斗、きちんと諭しておきます。ご心配なく」*一時間後、冬真は橘邸に駆け込んでいた。夕月が暮らしていた部屋に突入し、彼女が使って
凌一は無言のまま、深い淵のような冷たい眼差しで冬真を見つめていた。冬真の視線は、凌一の両脚へと落ちた。七年前、深遠がM国から制裁を受け、国家安全リストに載せられた時から、凌一が桜国を離れ、M国との犯罪人引渡条約を結んでいる国に足を踏み入れれば、M国当局に拘束される可能性があった。しかし、桜国の多くの学者にとって、このような制裁はむしろ名誉の勲章のようなものだった。桐嶋幸雄も五年前にM国の入国制限リストに載せられ、M国同盟国のいかなる研究機関への訪問も禁じられた。つまり、世界トップ10の大学は、幸雄や凌一との共同研究を一切禁止されたのだ。とはいえ、桜国で生活する限り、これらの一流学者たちの日常は何ら支障を来すことはなかった。だが、不運は凌一を見舞った。あの交通事故は、明らかに命を狙ったものだった。幸いにも一命は取り留めたものの、凌一は両脚を失うことになった。それ以来、橘家は凌一を遠ざけるようになり、凌一自身も橘グループや一族の誰をも巻き込むまいと、意図的に距離を置くようになった。冬真の認識では、凌一は数多の受験生の中から夕月を選抜し、飛び級クラスに推薦した以外、彼女との関わりは皆無に等しかった。数少ない接点といえば、家族の集まりで顔を合わせた程度。そんな場でも、夕月は凌一に会釈する以外、特段の交流も見受けられなかった。そのため、冬真は長い間、凌一と夕月の関係など、ただの他人同然だと思い込んでいた。だが今、凌一の一言が彼の心臓を鷲掴みにしていた。「その『もっと大きな目的』とやらは、一体なんです?」凌一の澄み切った瞳には、すべてを見通すような光が宿っていた。冬真の動揺と焦燥を見抜いているかのように。これまで信じてきた「夕月は自分を深く愛していた」という確信が、凌一のたった一言で、もろくも崩れ去ろうとしていた。「彼女の任務は既に終わった。橘家の令夫人という立場があれば、普通の生活を送ることができる。橘家の庇護はここまでだ。これからは私が引き受ける。だが、感謝の言葉などかけはしない。君は彼女を娶りながら、まともな夫婦生活すら与えられなかった。橘グループの社長が、家庭という小さな組織すら経営できないとはな。冬真、君は実に無能だ」まるで法廷で判決を言い渡すかのような凌一の言葉は、鋭利な斧となって冬真の
病室の方に目を向けると、医師たちがベッドの周りで慌ただしく動き回っていた。悠斗の容態は……かなり深刻なようだな。「悠斗くんに何があったんだ?」「あの非情な母親が、こんな目に遭わせたんです!」その言葉が終わらぬうち、凌一の鋭い眼光が刃物のように冬真の顔を切り裂いた。頬に寒風が爆ぜたような痛みを覚える。冬真は問いかけた。「叔父上、なぜそんな目で私を見るのです?」自分の言葉が何か間違っていたというのか。「悠斗は夕月に会いに行って和解を求めたんです。母親に一目会いたい、抱きしめてほしいと懇願したのに、夕月は外に放り出して、雨に濡れるのも構わないと見捨てたんです!今、悠斗がこんな状態になっているのに、母親として一片の責任も感じないというのですか?」凌一の類い稀なる端麗な顔には、表情の微かな変化すら見られなかった。「夕月を非難するのに、私を引き込もうというのかね」冬真は真っ直ぐに叔父の瞳を見据えた。「叔父上、あなたも橘家の人間でしょう。よその肩を持つのはいい加減にしていただきたい」底知れぬ深さを湛えた瞳で、凌一は感情を押し殺したように冬真を見つめた。「私は確かに橘家の人間だ。当然、橘家の味方をする……ただし、橘家の者が度を超えた振る舞いをした場合は別だがね」冬真は不快感を露わにし、刺のある声を発した。「夕月は既に私と離婚したんです。叔父上は一体どういう立場で彼女を擁護なさるんですか?」凌一の夕月への関心は、明らかに度を越えていた。それはもう、教師が教え子を気遣う程度を遥かに超えている。そもそも、凌一は夕月の正式な指導教官ですらなかったのだ。「夕月が君と結婚した本当の理由を、君は知っているのかね?」冬真は一瞬固まり、頭の中で耳鳴りのような音が鳴り響いた。「私との結婚に、他に理由があるとでも?彼女は私に惹かれて、私の立場に目をつけて……」「確かに、彼女は君の立場に目をつけた」凌一の底知れぬ瞳には、数え切れないほどの意味が潜んでいた。そんな眼差しに見つめられ、冬真の胸の奥で心臓が大きく波打った。「私は橘グループのトップです。彼女の目的なんて最初から不純でした」「その通りだ」凌一は認めた。「彼女が橘家で七年を過ごしたのは、もっと大きな目的があってのことだ」冬真の息が一瞬止まり、瞳孔が
病院に戻った頃には、悠斗の声は枯れ果てていた。もう声も出ない。小さな顔は苦痛に歪んでいた。激しい感情の起伏に、雨に濡れ、転倒したことで体の炎症が再発し、悠斗の頬は真っ赤に染まり、全身が震え始めた。様子の異変に気付いた冬真は、すぐに医師を呼んだ。数人の医師がベッドを囲み、緊急治療を開始する。大奥様が駆けつけ、医師たちに囲まれたベッドを目にして、胸に手を当てながら声を上げた。「悠斗くんに何があったの?佐藤さんはどこへ連れて行ったの?」「夕月に会いに行ったんだ」冬真は苛立ちを隠せない声で答えた。「あの薄情な女に会いに行っただけで、どうしてこんなことに?」大奥様は動揺を隠せない。「夕月が悠斗に何かしたの?」「あの女は悠斗を許そうとせず、雨の中に放置した」冬真の声は氷のように冷たかった。「なんてことを!」大奥様は気を失いそうになった。「すぐにマスコミを集めましょう。あの女が母親失格だということを大々的に報道させます。有名人になったからって、調子に乗らせません。名声は諸刃の剣。持ち上げられた分だけ、惨めに落ちていくのを見せてやります!」「好きにしろ」冬真は病室の方を向き、疲れ切った表情を見せた。夕月という名前は、心臓に刺さった棘のよう。完全に埋まり込んで、血管の中を這い回っている。彼女のことを考えるだけで、全身が痛みを覚えた。息子の同意を得られたと思った大奥様は、急に表情を明るくした。「今日の青司家のお嬢様とのお見合いは、どうでした?」突然の質問に、冬真は幻聴かと疑った。「母さん、医師団が必死に治療している最中ですよ」たった今まで悠斗の容態を案じていた大奥様が、一転して息子の結婚話を持ち出すとは。「治療は医師に任せて、新しいママを探すことだってできるでしょう!」大奥様は続けた。「早く新しいママを見つけて、悠斗の面倒を見てもらわないと。青司家のお嬢様なら医大出身で、漢方もお得意よ。少し年上だけど、私の体調が悪い時も診てもらえるわ」冬真に近づき、声を潜めて耳打ちする。「悠斗の体はもう完治は難しいかもしれない。健康な子供を早く作らないと……」冬真の眼差しが氷のように冷たく、嫌悪を露わにする。「母さん!もういい加減にして!悠斗の回復を願ってないんですか?」「そんなことないわ!」冬真の反応
濡れた白い薄手の服が身体にへばりつき、しなやかな曲線を浮き彫りにしている。佐藤さんの口が大きく開いて、固まってしまった。「奥……奥様?どうなさったんですか?」佐藤さんは心音が何かに取り憑かれたのではないかと疑った。「分からないの?」心音は音楽を流しながら、スマホのカメラに向かって艶めかしく体を揺らす。「盛樹さんへの仕返しよ!」佐藤さんはその画面に気付いた。心音がライブ配信を始めているのだ。「これのどこが仕返しなんです?」佐藤さんは驚きのあまり声が裏返った。心音は腰をくねらせ、胸を突き出す。「盛樹さんが私を愛してくれないなら、私の体を他の男たちに見せてやるの!」佐藤さんは絶句した。藤宮家で大切な鳥籠の中で育てられた奥様は、どうやら普通ではないらしい。「おばあちゃん、まるでおとぎ話の登場人物みたい」悠斗が小さく呟いた。佐藤さんは悠斗を抱えたまま、心音から遠く離れて歩く。「坊ちゃま、こんな大雨です。車まで抱っこしていきましょう」「いやだ!下ろして!」車椅子に座らせようとした瞬間、悠斗は前のめりになり、再び転げ落ちた。「坊ちゃまっ!!」佐藤さんの悲鳴が響く。地面に這いつくばったまま動けない悠斗に手を伸ばすと、「触らないで!」と叫ぶ。「坊ちゃま、地面は冷たいですよ!」氷の粒のような雨が悠斗の顔を打ち付け、凍えた頬はもう感覚がない。「触らないでっ!絶対に触らないで!」心音の行動にヒントを得た悠斗は、このまま地面に這いつくばっていれば、きっとママは見捨てられないはずだと信じていた。心音と悠斗を追い払おうとしていた警備員の目の前に広がる光景は——地面に這いつくばって泣き叫ぶ男の子。土砂降りの中、艶めかしく踊り続ける女。正気を失った祖孫に、もはや声をかける勇気も失せていた。十六階で、夕月はカーテンを開け、下の光景を見るなり、すぐに閉めた。五歳の子供が駄々をこねるのはまだ理解できる。でも心音の行動は理解の域を超えていた。夕月は、この夫婦のことを思い出して鼻で笑った。人でなしの男と、頭の弱い女。夕月は心の中で呟いた。「ほんと、救いようのないバカップルね」携帯が鳴る。見知らぬ番号に、夕月は何か強い予感がした。受話器を耳に当てながら応答ボタンを押す。「もしも
「坊ちゃま!」佐藤さんの悲鳴が響く。「うっ、うっ…ママァ!!」悠斗は両手をついて、夕月の方へ這い寄ろうとした。「ママ、見て!一目だけでいいから!!」涙が溢れ出し、真っ赤な頬を伝う。体中の痛みも忘れ、全身の力を振り絞って前に進もうとする。小雨が降り出し、佐藤さんは慌てて悠斗を抱き上げた。夕月と瑛優がエレベーターを待っている前に、佐藤さんは悠斗を抱えて小走りで追いついた。扉が開き、母娘が中に入る。「ママァッ!!」悠斗は魂を削るような声で叫び、細い腕を精一杯伸ばしたが、エレベーターの扉は容赦なく閉まっていく。小さな拳で扉を叩き、その悲痛な叫びが階段室中に木霊する。「ママ!もう二度と怒らせたりしない!戻ってきて!お願い!戻ってきてよ!!」上昇するエレベーターの中で、夕月は顔を上げた。天井の光が瞳に落ち、その黒く澄んだ瞳に涙が滲んでいた。悠斗に捨てられた料理なら、また作ればいい。破り捨てられたテストや教材なら、また書けばいい。でも、一度捨てられた愛は、取り戻すことはできない。ゴミ箱から拾い集めた砕けた欠片を、いくら繋ぎ合わせても、その傷跡は消えない。これが母親として、子供に教える最後の授業。理不尽な傷つけ方をされても、母親は勇気を出して、加害者となった我が子から離れることができる!*「ママ……」瑛優が小さく呟いた。母の心の痛みが伝わってきた。慰めの言葉を探したけれど、どんな言葉を選んでも、母の心を癒すことはできないと気づいた。夕月の下唇には深い歯形が刻まれていた。顔を下げ、瑛優に「大丈夫」と微笑みかけようとする。でも表情を作ろうとした瞬間、熱い涙が止めどなく零れ落ちた。瑛優の胸が締め付けられ、鼻の奥がつんとした。「ママ、悠斗くんを産んだこと、後悔してる?」夕月は首を振り、しゃがみ込んだ。瑛優が小さな手を伸ばし、母の頬の涙を拭う。「瑛優」夕月は言った。「私はあなたたちに最高のものを与えたかった。橘家はあなたと悠斗に同じ待遇は与えてくれない。だから私は精一杯あなたを支えて、世界中の素晴らしいものを経験させて、自分の目標を見つけ、なりたい自分になれるようにしてあげたい。でも橘家は悠斗には最高のものを与えてくれる。橘家の跡取り息子である限り、誰も及ばないような恵まれた環境が
傍らで見ていた心音も口を挟んだ。「夕月ちゃん、悠斗くんを許してあげて!母親なら子供を許すのが当たり前でしょう!」「ママを許してもらうには、どうすればいいの?」悠斗は声を震わせた。「僕のカードを使っていいよ!」普段から楓が一番欲しがっていたものだから、ブラックカードこそが最も価値があり、誰もが欲しがるものだと思い込んでいた。夕月は深いため息をつきながら言った。「悠斗、許すということは、今回だけじゃないの。もし今日、私があなたを許したとして、これからの毎日、私が料理をして、お粥を作る度に、あなたを許さなければならない。これから楓の名前を聞くたびに、また許さなければならない。あなたのお父さんを見るたび、あの時橘家であなたが私に投げかけた言葉や行動を思い出して、自分の傷と向き合い、何度も何度も寛容な心であなたを許さなければならないの」悠斗の瞳に涙が光っているのが見えた。今、本当に苦しんでいて、もう泣き出しそうだった。「これからは、もうバイクに乗らない?」夕月は尋ねた。「もう絶対乗らない」悠斗は泣きながら答えた。「そうね」夕月は淡々とした声で返した。「私もう怖くて乗れない。一度蛇に噛まれたら十年は縄を怖がる。あなたは体を噛まれ、私は心を噛まれた」「違う!」悠斗は首を振り、大粒の涙を零した。「僕は蛇じゃない、ママの息子だよ……」「……私とパパの結婚生活から、もっと早く抜け出すべきだったの。でも、あなたたちのことが諦めきれなかった。だって離婚したら、二人とも連れて行くことはできないでしょう。どちらも私の大切な子供なのに、どうやって片方だけを選べるの?結局、あなたが私の背中を押してくれたのね。この息苦しい結婚から解放されるように」離婚という選択肢は、ずっと夕月の心の中で渦を巻いていた。準備は万全だった。橘グループの事業形態や流動資金を把握し、離婚を決意した瞬間に離婚協議書と婚姻費用分与案を冬真の前に突きつけられるように。子供を産んでからは、母性本能に突き動かされ続けてきた。子供の泣き声を聞けば胸が痛み、体が自然と授乳へ、あやしへと向かっていく。昼も夜も子供たちのことが頭から離れず、布団が蹴られていないか、お腹は張っていないか、風邪は引いていないか、そればかりを考えていた。五年の間、二人の子供たちが言葉を
夕月の瞳が潤んできた。深く息を吸い込み、瑛優の手を握りしめたまま、断固として先に進もうとした。「ママ!パパと離婚しても、僕はママと一緒に暮らせるでしょう!どうして僕を見捨てるの?!」悠斗の声が焦りに震えていた。夕月の足が急に止まった。まるで見えない鉄線が足首に絡みつき、肉を抉るような痛みを感じた。何度も深呼吸をしたが、その度に心臓と肺が引き裂かれるようだった。空気が喉を通る度に、まるで棘だらけの細い道を無理やり通っているかのように苦しかった。「橘悠斗、忘れたの?私を見捨てたのは、あなたよ」悠斗の小さな体が震えた。これまで夕月に投げかけた言葉の数々が、一気に脳裏に押し寄せ、視界が霞んでいく。『ママの作るご飯なんて豚の餌だよ!』『あれもダメ、これもダメって、ママって完全な支配狂じゃん!』『意地悪なママ!面倒くさいママ!』『ママなんて毎日家にいるだけで、何もしてないくせに!パパと離婚したいなら出てけよ!出てけ!!』勝ち誇ったように、夕月の傷つく表情を楽しみながら、好き放題に言い放っていた。夕月の瞳が赤く潤み、涙を流すのを見て、跳ねるように楓に電話をかけに行った。物心ついてから、どれだけ夕月を傷つけてきただろう。今、ママに戻ってきて欲しいと願っても、もう手遅れなのか。「坊ちゃまはまだ五歳なんです!」佐藤さんは必死に説得を試みた。「子供は母親の良さが分からないものです。楓さまに影響されていただけなんです。今は本当に後悔してるんですよ!」「藤宮さま」佐藤さんは続けた。「親子の仲に夜を越える恨みなんてありませんわ。坊ちゃまと仲直りなさい……こんな大怪我を負って、お心が痛まないんですか?坊ちゃまがお側に戻れば、きっと良くなります。どんな優秀な看護チームだって、実の母親の手には敵いません。母親だけが分かるんです。子供が口を開かなくても、ちょっとした眉間のしわや目の色で、どこが痛いのか分かるんです。坊ちゃまの体に後遺症が残るのを、見過ごせますか?」佐藤さんの言葉を遮るように、夕月は冷たく言い返した。「そんな感情論で私を縛らないで。橘家は最高の医療リハビリチームを雇っているし、佐藤さんだって保育士と栄養士の資格を持つプロでしょう。もしお気に召さないなら、代わりはいくらでもいますよ」「ママ、僕のこと、まだ愛して