LOGIN「愛されている」という錯覚が、一番の毒だった。 実業家の瀬戸和真(せと かずま)と結婚した際、世間では彼に長年忘れられない「運命の女性」がいると囁かれていた。 けれど、役所に婚姻届を出しに行こうと手を引いてくれたのは彼自身だったし、「あの子とはもう過去のことだ」という言葉を信じたのも、妻である瀬戸実花(せと みか)自身だった。 結婚して三年間。従順な妻を演じ続けていれば、いつか彼の凍った心も溶けるはずだと信じて疑わなかった。 あの日――和真が「かつての恋人」を優先し、実花の父親が受けるはずだった新薬の治験枠を独断で奪ってしまうまでは。さらに彼は、義父の葬儀にまでその女を同伴させたのだ。 「……もう、終わりにしましょう。離婚して」 愛を捨てた実花の再出発。周囲は「瀬戸家に捨てられた哀れな女」だと嘲笑ったが、ほどなくして世界は衝撃に包まれる。 国際的に名を馳せる天才画家『Rose』の正体は彼女であり、政財界に影響力を持つ名家の令嬢、そして国の重要アートプロジェクトのリーダーもまた、実花だったのだ。 かつて見向きもしなかった元夫は、あまりの変貌ぶりに膝をつき、必死に縋り付く。「実花、僕が悪かった……戻ってきてくれ。君と子供を、今度こそ一生大切にするから」 しかし、後悔に震える和真を遮るように、別の男が実花の腰を力強く抱き寄せた。男は彼女の耳たぶが赤く染まるほど甘く深い口づけを落とし、独占欲を剥き出しにして言い放つ。 「勘違いするな。この女に相応しいのは、世界で俺一人だけだ」
View More「なっ……!?」凛が思わず金切り声を上げた。支払うのは和真だが、彼と入籍すれば、その資産はすべて自分のものになる。たかが一枚の絵に1億円など、身を削られるような思いだった。「1億だと?」和真もまた、鼻で笑った。あまりに突飛な金額に、呆れ果てたような表情を見せる。「新人が、これっぽっちの小品にそんな値を付けるのか?冗談も休み休み言え」「どうしてもお望みだというのなら、それだけの価値がある作品だということです」実花の表情は、どこまでも平坦だ。「どうなさいました?瀬戸社長に、『奥様』。……まさか、たった1億もご用意できないわけではありませんよね?」実花の耳には、最初からすべて届いていた。会場に入ってきた時から、周囲の人間が当然のように凛を「奥様」と呼び、和真がそれを否定もせず、我が物顔で振る舞っていたことも。結婚して三年間。ごく狭い交友関係を除いて、和真が実花を公の席に伴ったことなど一度もなかった。だからこそ、この会場の誰も「本物の妻」の顔を知らない。そして、夫である男自身が、その「誤解」を平然と利用している。実花は、目の前の男たちを冷たく見据えた。和真の顔に、一瞬だけ後ろめたさが過った。「実花……」彼が声を潜め、何かを弁解しようとした矢先のことだ。「実花さん、誤解しないでね」凛が絶妙なタイミングで、滑り込むように言葉を重ねた。「みんな、私が和真くんと一緒に会場に入ったのを見て、勝手に奥様だと思い込んじゃっただけなの。私、自分から名乗ったりなんてしてないわ」実花は冷ややかな笑みを浮かべた。「ええ、認めはしなかった。でも、否定もしなかったわよね」「それは……」凛は不自然に唇を噛んだ。「今からでも、私からちゃんと説明するわ」悲壮な決意を固めたかのように、彼女は無垢で健気な表情を作って見せた。「分かってるの。私と和真くんには過去があったわ。でも、それはもう終わったこと。今は二人が結婚しているんだから、割り込もうなんて、これっぽっちも思ってない。本当よ」凛は殊勝な態度を見せ、ひたすら自分を低く置く。だが、ふと言葉を切ると、今度は困り果てたような顔で続けた。「ただ……これだけ人が多い場所だもの。今さら騒ぎ立てたら、私たち三人の関係を面白おかしく勘繰られちゃうんじゃないかなって、それが心配なの」凛の視線が、値踏みするように実花の全身
実花は凛の指差す先を見やった。そして、ふっと口角を上げる。それは小ぶりなサイズの作品だった。値札に書かれた最低落札価格は、この会場の中では決して目立つものではない。だが、実花はその絵を誰よりも熟知していた。額縁の横に添えられたキャプションには、はっきりとその名が刻まれている。――作者:Rose。「こちらの作品ですか。申し訳ありませんが、お二人には不向きかと」実花はあくまで淡々と、諭すように告げた。凛が拍子抜けしたように眉を上げる。「どうして?」「作者本人が、あなた方には売りたくないと言っているからです」実花の静かな声に、凛の笑みがぴきりと凍りついた。「売りたくない?……ここ、オークション会場よね。作者が買い手を選ぶなんて、そんな話聞いたことないわ」「お言葉ですが、作者は売る気がないわけではありません。ただ、あなた方にだけは売らないと言っているんです」実花は一度言葉を切り、とどめを刺すように付け加えた。「特定の、あなた方『だけ』に、です」凛の顔から、完全に余裕が消え失せた。「実花さん……どうしてそんな嘘をつくの?あなた、作者にその場で確認したわけでもないのに、売らないなんて分かるはずないじゃない」凛は唇を噛み、いかにも力のない被害者を装って、潤んだ瞳を和真に向けた。「……私がここにいるから、不愉快なのね?でも、この絵は私が欲しいんじゃなくて、和真くんの仕事に必要なものなのよ」実花が個人的な嫉妬に狂い、和真のビジネスチャンスを潰そうとしている――そう周囲に印象づける、狡猾な一言だった。和真の眉間には、すでに深い怒りの皺が刻まれていた。彼は実花を射抜くような視線で睨みつけ、苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。「実花、いい加減にしろ。ここは遊び場じゃないんだ、わがままを言うな」声を低め、周囲に悟られないように、だが冷徹なまでの不快感をぶつける。「嫉妬で騒ぎ立てるにも時と場所を考えろ。お前が凛を嫌っているのは知っている。だが、今日は仕事で来ているんだ。この絵がどれほど重要な商談の鍵になるか、分かっていないのか?」彼の視線は、もはや他人を見るかのように冷え切っていた。「公私がきっちり分けられる人間だと自負していたんじゃないのか?それが、お前の言うプロ意識というやつか。……働きたいと騒いだ挙句がこれか。お前には、社会人と
その声はどこまでも優しく、相手を思いやる気遣いに満ちているように聞こえた。「実花さん、私少し喉が渇いちゃった。せっかくここでお仕事されてるんだし、悪いんだけど、お水を持ってきてもらえないかな?」そこで言葉を区切り、ふと思いついたように、傍らのテーブルに放置された空のグラスを指先でトントンと叩く。「あ、そうだ。ついでにこれも片付けてもらえる? 少し疲れちゃったから、ここに座って休みたいの」実花が口を開くよりも早く。「実花先生」横から不意に声が割り込んだ。この美術展の運営責任者の一人だ。彼は足早に実花の元へ歩み寄ると、明らかに敬意を払った態度で頭を下げた。「久我様が先ほどから先生をお探しです。この後のオークションの段取りについて、いくつか細部を最終確認したいとのことでした」その「実花先生」という響きに、周囲の空気が一瞬ピタリと止まった。凛の口元に張り付いていた笑みが、音を立てて凍りつく。和真に至っては完全に虚を突かれ、無意識に声を漏らしていた。「……今、彼女を何と呼んだ?」運営責任者は、そこで初めて和真と凛の存在に気づいたようだった。一瞬だけ怪訝な顔をしたものの、すぐにプロとしての愛想のいい仮面を被り直す。「こちらは瀬戸実花先生です。今回の美術展における重要なパートナーであり、今夜のオークションに出品される作品のメイン担当窓口を務めていただいております」「……パートナー?」凛が条件反射のように、機械的な声でオウム返しにした。「はい」責任者は頷いた。「実花先生がご担当されている作品こそが、今夜のオークションの目玉となっておりますので」実花はそこで初めて凛に視線を戻した。その表情は凪いだ水面のように静かで、徹底して事務的な響きを保っていた。「そちらの奥様。お水ををご所望でしたら、あちらにバーカウンターがご用意してあります。お飲み物はご自由にお取りください」わずかに言葉を切り、礼儀正しい確認のようにもう一言付け加える。「なにぶん混み合っておりますので、お二人のお邪魔はここまでとさせていただきます」そう告げると、実花は二人に軽く会釈をした。「失礼します。まだ仕事が残っておりますので」凛の顔に貼り付いていた余裕の仮面が、ついに音を立てて剥がれ落ちそうになっていた。和真は複雑な表情を浮かべたまま、その場から一歩も動けずにいる。
実花だ。飾り気のない白のブラウスにダークカラーのスカート。髪をすっきりとまとめ、実花は数人のスタッフと淡々と打ち合わせを重ねていた。その佇まいは驚くほど凛としていて、迷いがない。とても、夫に捨てられた惨めな女には見えなかった。凛の瞳から、温度が急速に奪われていく。まさかこんな場所で実花に遭遇するとは思ってもみなかった。それ以上に、実花が一点の曇りもなく、満ち足りた様子でいることが許せなかった。凛にとって、実花など鼻から見下すべき対象でしかない。平凡な家庭に育ち、自分とよく似た顔立ちをしていたからこそ、身代わりとして瀬戸家に入り込むことができた小娘。本物がいない間の、ただのストッパー。本物が不在の間の、ただの穴埋め。本物が帰還した今、偽物は速やかに舞台を降りる。それが当然のルールのはずだ。和真という大樹に縋り付かなければ生きていけない、寄生植物のような女。今頃は絶望のどん底で、人目を避けて涙に暮れているべきなのだ。それなのに、実花はこの場にいる誰よりも、この洗練された空間に馴染んでいた。その事実を突きつけられた瞬間、猛烈な苛立ちが凛を襲った。掌に、自らの爪を白くなるほど深く食い込ませた。和真は招待客との会話に没頭しており、凛がどこを見ているかには気づいていない。凛はそっと伏せ目をし、頭の中でありとあらゆる策を巡らせた。そして次の瞬間、小さく「あっ」と声を漏らす。「どうしたんだ?」和真が怪訝そうに横を向いた。「少し、喉が渇いちゃって」凛は甘えたような声で言った。「あっちにスタッフの方がいたみたい。お水をもらえないか聞いてくるね」彼女が指差したのは、実花のいる方向だった。和真がそちらへ視線を向ける。だが、見えるのは女の後ろ姿だけで、それが実花だとは夢にも思わなかった。「誰かに行かせよう」「いいの、手間をかけさせるほどじゃないし」凛はあどけない笑みを浮かべて首を振る。「ちょっとお願いしてみるだけだから」そう言い切るが早いか、彼女は少し離れた場所にいるスタッフの一団に向かって手を振った。「すみません、ちょっといいですか?」主催者側の説明に耳を傾けていた実花が、視界の端で誰かが手招きしているのに気づき、ふと顔を上げた。二人の視線が、真っ向からぶつかる。凛の唇が、ゆっくりと形を変えた。計算ずくの、無垢を装
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