凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―

凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―

By:  手足あせだくOngoing
Language: Japanese
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「愛されている」という錯覚が、一番の毒だった。 実業家の瀬戸和真(せと かずま)と結婚した際、世間では彼に長年忘れられない「運命の女性」がいると囁かれていた。 けれど、役所に婚姻届を出しに行こうと手を引いてくれたのは彼自身だったし、「あの子とはもう過去のことだ」という言葉を信じたのも、妻である瀬戸実花(せと みか)自身だった。 結婚して三年間。従順な妻を演じ続けていれば、いつか彼の凍った心も溶けるはずだと信じて疑わなかった。 あの日――和真が「かつての恋人」を優先し、実花の父親が受けるはずだった新薬の治験枠を独断で奪ってしまうまでは。さらに彼は、義父の葬儀にまでその女を同伴させたのだ。 「……もう、終わりにしましょう。離婚して」 愛を捨てた実花の再出発。周囲は「瀬戸家に捨てられた哀れな女」だと嘲笑ったが、ほどなくして世界は衝撃に包まれる。 国際的に名を馳せる天才画家『Rose』の正体は彼女であり、政財界に影響力を持つ名家の令嬢、そして国の重要アートプロジェクトのリーダーもまた、実花だったのだ。 かつて見向きもしなかった元夫は、あまりの変貌ぶりに膝をつき、必死に縋り付く。「実花、僕が悪かった……戻ってきてくれ。君と子供を、今度こそ一生大切にするから」 しかし、後悔に震える和真を遮るように、別の男が実花の腰を力強く抱き寄せた。男は彼女の耳たぶが赤く染まるほど甘く深い口づけを落とし、独占欲を剥き出しにして言い放つ。 「勘違いするな。この女に相応しいのは、世界で俺一人だけだ」

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Chapter 1

第1話

斎場の中は、芯まで冷え切っていた。

弔いの音楽が延々と繰り返され、香炉に落ちる灰の音さえ聞こえてきそうなほど、静寂が重くのしかかっている。

瀬戸実花(せと みか)は父の遺影の前で膝をついていたが、とうに感覚は消え失せていた。指先を掌に強く食い込ませ、辛うじて自分を繋ぎ止めている。今ここで糸が切れたら、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。

背後から、参列者たちのひそひそ話が刺すように届く。

「和真さんはどうしたんだ?まだ姿を見せないが」

「知らないのか?空港だよ。ニュースになってる」

「空港?こんな時に、一体誰を迎えに行ってるんだ。今日は義理の父親の葬儀だぞ」

「例の『忘れられない女』らしい。初恋ってのは、男を狂わせるからねえ」

「まあ、男の甲斐性か。多少の火遊びは仕方ないさ」

無責任な言葉のひとつひとつが、実花の鼓膜を土足で踏みにじっていく。

不意に、喪服のポケットでスマートフォンが震えた。

暗い視界に飛び込んできた通知の文字が、容赦なく瞳を突き刺す。

【速報:瀬戸グループ後継者・瀬戸和真(せと かずま)氏、深夜の空港に現る。百合の花束を手に謎の美女をエスコート】

震える指で画面をタップすると、高画質の写真が展開された。

そこには、仕立ての良い黒のロングコートを纏った和真が写っている。片手には大きな百合の花束を抱え、もう片方の手は隣に立つ女性の肩を抱き寄せていた。

カメラのアングルのせいか、まるで慈しむように口づけを交わしているようにも見える。その女性の横顔は、どこまでも清らかで上品だった。

だが、ふとした瞬間に覗く勝ち誇ったような眼差しを、実花は見逃さなかった。実花は一度、ゆっくりと目を閉じた。

再び瞼を開けたとき、視界は皮肉なほどクリアになっていた。

――知っている。この女を。

高城凛(たかしろ りん)。

裕福な家庭で甘やかされて育った凛は、奔放で傲慢な性格で有名だった。和真はそんな彼女に心酔し、どんなわがままも受け入れ、手の付けられないほどに甘やかしていたという。

かつて凛が店員の不手際で飲み物をかけられた際、その場でグラスを叩き割り、破片の上に膝まずかせて謝罪させたという逸話がある。周囲が凍り付くなか、和真だけが困ったような顔をしながら、甲斐甲斐しく彼女の後始末をしていた。

そんな噂を聞いたときも、実花はどこか他人事だと思っていた。

だって、区役所に婚姻届を出しに行こうと、私の手を引いてくれたのは和真自身だったから。

けれど今、画面の中の二人を見つめる実花の口元には、乾いた笑いさえ浮かんでいた。

斎場の入り口が、にわかに騒がしくなった。

漆黒のマイバッハが静かに停車し、重厚なドアが開く。石段を刻む足音が近づき、やがて二つの影が中へと足を踏み入れた。先頭を歩くのは、凛だった。

混じりけのない白のワンピースに淡い色のショールを羽織り、顔色はどこか青白い。赤く腫らした瞳は潤み、今にも折れてしまいそうなほど儚げな雰囲気を纏っている。その後ろを、和真がぴたりと追う。

隙のない黒のスーツに、完璧に整えられたネクタイ。長身で引き締まったその体躯からは、生まれ持った冷徹な威圧感が放たれていた。和真は真っ直ぐに奥へと進み、参列者の視線を切り裂くようにして義父の遺影の前で足を止めた。一瞬、薄い唇をきつく結ぶ。

「おじさん、安らかに」

和真は淡々と、非の打ち所のない所作で深く頭を下げた。「遅くなってすみません」

その態度はあまりに慇懃だった。

けれど実花には、その「おじさん」という響きが、耐えがたいほど皮肉に聞こえた。妻の父親を義父とも呼ばず、他人のように呼ぶその神経。実花はあえて訂正することもなく、ただ口元に冷ややかな嘲笑を浮かべた。和真の斜め後ろに控えていた凛が、消え入るような声で口を開く。

「実花さん、和真くんを責めないであげて……全部、私のせいなの。フライトが急に遅れて、深夜の到着になっちゃって。和真くん、私を一人にするのは危ないからって、空港まで迎えに来てくれたのよ。お父様のことは本当に急だったから、私たちも急いで駆けつけたんだけど、これが精一杯で……」

静まり返っていた場内に、再びさざ波のような私語が広がる。

「ほら、あの方がニュースの……高城さんでしょう?」

「こんな場所にまで付いてくるなんて、相当な自信ね」

実花はようやく顔を上げ、二人を冷淡な眼差しで射抜いた。

「……どなた?」感情を削ぎ落とした、平坦な声だった。

凛が毒気を抜かれたように固まる。「実花さん、私よ、凛……」

「彼に聞いてるの」実花は凛の言葉を遮り、視線を和真へと向けた。

和真が不快そうに眉をひそめる。「実花、凛だよ。……凛、こっちは実花だ」

「実花、に、凛?」実花は低く、独り言のように繰り返した。

彼女は立ち上がろうとしたが、痺れた足に力が入らずによろめく。それでも強引に身体を支え、二人を正面から見据えた。「ずいぶんと親しげな呼び方ね」

さらに一歩、凛の方へと視線を移す。「それから――私の父の葬儀に、あなたを招待した覚えはないけれど?」

凛の顔からスッと血の気が引き、その大きな瞳にはみるみるうちに涙が溜まっていく。「実花さん、私……ただ和真くんが疲れているのが心配で、一緒にお父様にお焼香をあげたいって思っただけなの。もし迷惑なら、今すぐ帰るわ……」

消え入りそうな声でそう言うと、彼女は今にも倒れそうなほどおぼつかない足取りで後退りした。

和真が反射的にその肩を支える。「凛、危ない」

「一つ、どうしても聞きたいことがあるの」実花が唐突に口を開いた。

和真を真っ直ぐに見つめるその瞳は、恐ろしいほど静まり返っている。「森科製薬の抗がん剤――あの治験枠、結局誰に譲ったの?」

和真の動きが止まった。

隣にいた凛の表情も一瞬で強張り、隠しきれない動揺が走る。

斎場の隅で、参列者たちがひそひそと顔を見合わせた。「森科?こないだニュースになってた新薬か。確か枠が少なくて、相当なコネがないと入れないって話だぞ」

「私の親戚から聞いたんだけど、高城家の身内がそのリストに入ったらしいわよ。瀬戸社長が裏で手を回したって噂で……」

「まさか、そんな……」

疑惑の視線が、次々と和真に集まっていく。

実花は指先が白くなるほど拳を握りしめ、言葉を絞り出した。「あなたはあの時、なんとかするって約束してくれた。枠を確保するために動くって言ってくれた。だから、私はあなたを信じたの」

一歩、また一歩と彼に歩み寄る。「その後、病院から『枠が埋まった』と連絡が来た時も、あなたは最善を尽くしてくれたんだって、自分に言い聞かせて納得させたわ」

実花は一字一句、噛み締めるように問い詰めた。「和真。最後にもう一度だけ聞くわ。父に用意されるはずだったあの枠……高城家の親族に譲ったのは、あなたなの?」

和真の喉が小さく上下した。薄い唇を固く結んだまま、沈黙が場を支配する。

しびれを切らしたように凛が口を挟んだ。「実花さん、そんな風に和真くんを責めないで!私なの、私がお願いしたの。従兄にとってはそれが唯一の希望だったから……お願い、彼を悪く言わないで……」

「あなたには聞いていない」実花は再び、冷徹にその言葉を遮った。

視線がぶつかり合い、火花が散る。

長い沈黙の末、和真は重い口を開いた。「……おじさんは、あの時すでに末期だった。たとえ新薬を使ったところで、生存率はゼロに等しかったんだ。僕は――」

「だから、あなたが勝手に父の寿命を選別したっていうの?」実花がその言葉を冷たく引き取った。

ふっと、体温の感じられない笑みが彼女の唇に浮かぶ。「そう。あなたにとって私の父の命は、そんな風に計算式で弾き出せる程度のものだったのね」

凛の瞳がみるみるうちに赤く染まった。「実花さん、そんな言い方……和真くんだって、板挟みになって本当に苦しんでいたのよ。彼はただ――」

「さっきから聞いていれば」実花は淡々と彼女を見据えた。「ここに来てから、あなたは三回も『和真くんが心配』だと言ったけれど、私の父については一度も触れていないわね」

一歩、凛に歩み寄る。「あなたは本当に弔いに来たの?それとも、自分の立場を誇示しに来ただけ?」

凛の顔が屈辱で赤らむ。

和真が不快そうに眉をひそめた。「実花、今日は感情が昂りすぎている。話は帰ってからにしよう」

実花は深く息を吸い込み、胸の内で渦巻く屈辱、怒り、そして身体を引き裂くような苦痛をすべて心の奥底に押し込めた。

彼女は再び、父の遺影の前で静かに膝をつく。「……来たからには、お焼香を」

感情を排した声が、静まり返った斎場に響く。「それが済んだら、瀬戸さん、高城さん。お二人ともお引き取りください」

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紀久子
紀久子
この夫婦の場合、和真にとって実花が 凛の代わりだった様に 実花にとっても和真は湊を失った事による 喪失感を埋める為の相手だったとしか 思えないので、 離婚は必然ですよね。
2026-04-13 13:50:55
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第1話
斎場の中は、芯まで冷え切っていた。弔いの音楽が延々と繰り返され、香炉に落ちる灰の音さえ聞こえてきそうなほど、静寂が重くのしかかっている。瀬戸実花(せと みか)は父の遺影の前で膝をついていたが、とうに感覚は消え失せていた。指先を掌に強く食い込ませ、辛うじて自分を繋ぎ止めている。今ここで糸が切れたら、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。背後から、参列者たちのひそひそ話が刺すように届く。「和真さんはどうしたんだ?まだ姿を見せないが」「知らないのか?空港だよ。ニュースになってる」「空港?こんな時に、一体誰を迎えに行ってるんだ。今日は義理の父親の葬儀だぞ」「例の『忘れられない女』らしい。初恋ってのは、男を狂わせるからねえ」「まあ、男の甲斐性か。多少の火遊びは仕方ないさ」無責任な言葉のひとつひとつが、実花の鼓膜を土足で踏みにじっていく。不意に、喪服のポケットでスマートフォンが震えた。暗い視界に飛び込んできた通知の文字が、容赦なく瞳を突き刺す。【速報:瀬戸グループ後継者・瀬戸和真(せと かずま)氏、深夜の空港に現る。百合の花束を手に謎の美女をエスコート】震える指で画面をタップすると、高画質の写真が展開された。そこには、仕立ての良い黒のロングコートを纏った和真が写っている。片手には大きな百合の花束を抱え、もう片方の手は隣に立つ女性の肩を抱き寄せていた。カメラのアングルのせいか、まるで慈しむように口づけを交わしているようにも見える。その女性の横顔は、どこまでも清らかで上品だった。だが、ふとした瞬間に覗く勝ち誇ったような眼差しを、実花は見逃さなかった。実花は一度、ゆっくりと目を閉じた。再び瞼を開けたとき、視界は皮肉なほどクリアになっていた。――知っている。この女を。高城凛(たかしろ りん)。裕福な家庭で甘やかされて育った凛は、奔放で傲慢な性格で有名だった。和真はそんな彼女に心酔し、どんなわがままも受け入れ、手の付けられないほどに甘やかしていたという。かつて凛が店員の不手際で飲み物をかけられた際、その場でグラスを叩き割り、破片の上に膝まずかせて謝罪させたという逸話がある。周囲が凍り付くなか、和真だけが困ったような顔をしながら、甲斐甲斐しく彼女の後始末をしていた。そんな噂を聞いたときも、実花はどこか他人
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第2話
場内は水を打ったような静寂に包まれた。和真の顔が瞬時に険しくなり、周囲の参列者たちは思わず息を呑む。言葉を失った凛は、目に涙を溜めていかにも「悲劇のヒロイン」といった体で震えていた。和真は結局、無言のまま焼香台へと進んだ。遺影の前に立つ彼の背筋はあくまで真っ直ぐだったが、どういうわけか、胸の奥が妙に締め付けられるような感覚に襲われていた。実花は最後まで、一度も彼の方を見ようとはしなかった。香炉に線香を立て、和真は振り返る。床に膝をつく実花の細い背中を見つめ、迷った末にようやく言葉を絞り出した。「実花……僕は、ここに残るよ」「和真くん……っ」その時、凛が不意に額を押さえ、崩れ落ちるように身体を揺らした。「……めまいがして、少し気分が……」和真の袖を掴む彼女の手は小刻みに震え、今にも倒れそうだ。差し出そうとした和真の手が、空中で一瞬止まる。数秒の葛藤の後、彼はやはり凛の身体を支えた。「……まずは彼女をホテルまで送ってくる。ここのことは――」「お構いなく」実花が遮るように、静かに、けれど毅然と言い放った。「父の葬儀ですもの。私一人で十分です」彼女は視線を落とし、遺影の中の父に向かって、ささやくように告げた。「お父さん。もう、待たなくていいよ」和真は実花の背中をじっと見つめていた。結局、彼は何も言わず、凛に肩を貸してその場を去った。二人が立ち去ると、参列者たちの間で抑えていた私語が再び波のように広がった。好奇心に満ちた、下世話な熱を帯びた声だ。「瀬戸社長も、あそこまであからさまだとはね……」「あの高城さんっていう人、相当な手練れよ。あんなに堂々と略奪を仕掛けるなんて。奥様が気の毒すぎるわ」「でもよく見て。あの二人、どこか目元のあたりが似ていない?」実花はその言葉を一つ残らず耳にしながらも、決して振り返ることはなかった。ただ静かに手を伸ばし、遺影の中にある父の穏やかな微笑みを、何度も、何度もなぞる。「お父さん」心の中で、ぽつりと呟いた。「私、もうあの人を信じるのはやめるね」誰かが休むようにと声をかけてきたが、実花は首を振って断った。最後の一本の線香が燃え尽き、弔問客がまばらになって散っていくまで、彼女はその場を動かなかった。祭壇の照明が半分落とされ、重い影が実花の肩にのしかかる。よ
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第3話
夜、七時半。瀬戸家の邸宅にあるキッチンは、温かな湯気に包まれていた。白身魚の蒸し物が湯を上げ、牛肉の煮込みが照りよく仕上がっていく。綺麗に切り揃えられた豆腐が、コンロの上の出汁のなかでことことと心地よい音を立てていた。そこへ、リビングのドアを開けて和真が帰ってきた。ダークカラーのチェスターコートに、仕立ての良いスーツ。首元のネクタイは少しだけ緩められている。夕食の準備をしている実花の姿を目にして、彼の鋭い目元がほんのわずかに和らいだ。実花はキッチンで手を動かしたままだ。帰宅の気配に気づいても、振り返りもせず、作業の手を止めることもしない。以前の彼女なら、和真が時間通りに帰ってきて一緒に夕食をとれることに喜び、誰よりも早く玄関へ出迎えていたはずだった。だが今の彼女は、彼に視線の端を向けることすらしなかった。和真は玄関先に置かれたままの彼女のバッグを視界の端に捉え、自ら口を開いた。「今日……どこかへ出かけていたのか?」「ええ」実花は熱いスープの入った器を食卓に運ぶ。「友達に会って。そのついでに、先生にも連絡してみたの」「先生?」和真はコートを脱ぎながら、シャツのカフスボタンに手をかけた。「昔、絵を教わっていたという?」「うん」と実花は頷く。「またアトリエに戻りたいなって」和真の指先がピタリと止まり、彼女の顔を見上げた。「どうして急に、そんなことを?」「家にいても時間を持て余すし、落ち着かなくて」実花は短く笑みを浮かべ、淡々と答える。和真はその言葉を聞いて、どこか微かな違和感を覚えた。だが、それが何なのかは言語化できない。「……家でゆっくりしていればいいじゃないか」小さく眉をひそめる。「君に外で働かれると、心配なんだよ。もし何か嫌な思いをしたら……どうするんだ?」まるで彼女を何よりも大切に想っているような、優しく甘い口調だった。けれど実花の胸の奥では、吐き気が込み上げていた。こんな風に「君のためを思って」という言葉を、一体何度聞かされてきただろう。これまで彼女は和真の言葉に必ず従ってきたが、結局甘い汁を吸っていたのは彼の方だった。和真は決して、実花が傷つくことを心配しているわけではない。彼が恐れているのは、彼女が自分の『手の届く箱庭』から抜け出すことなのだと、今の実花には痛いほど分かっ
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第4話
胸の奥がひどく重くなるのを感じ、実花は深く息を吸い込んだ。次に、和真のスケジュール管理ツールを開く。画面に並んでいたのは、目を疑うような記録の羅列だった。【凛:人間ドック】【凛:航空券・ホテル手配】【凛:誕生日】【凛:……】実花に関する記述を探そうと画面をスクロールし続け、ようやく最下部で見つけたのは、三年前に入籍した日の短いメモだけだった。実花は背もたれに身を預け、冷え切った指先を見つめた。感情を無理やり押し殺し、別のフォルダへと手を伸ばす。和真が最近購入した不動産、株式の取引履歴――専門的な数字の羅列は完全には理解できなかったが、構わなかった。見つけた資料を片っ端からスマートフォンで撮影し、整理して一通のメールにまとめると、そのまま弁護士の薫へと送信した。数分もしないうちに、薫から返信が届く。【有力な資料をありがとう。お疲れ様。こちらの調査も順調よ】実花はパソコンを閉じ、ゆっくりと立ち上がった。昼間からの雨は、夜が更けてもまだ降り続いていた。窓際へ歩み寄り、カーテンを細く開ける。隙間から滑り込んできた冷たい風が、雨粒とともに頬を打った。肌寒さに肩が震えたが、今の彼女にはその痛烈な冷気が、心地よかった。翌朝、空が白み始めた頃、実花はすでに恩師のアトリエへと足を運んでいた。郊外に佇むその場所は、豊かな緑に囲まれている。吹き抜ける風が、壁一面に這う蔦を揺らしては心地よい葉擦れの音を立てた。実花はここで二十年近くの歳月を過ごした。かつて通い慣れた道を再び歩いていると、まるで遠い前世の出来事のように感じられる。篠田先生は美術界の重鎮であり、とりわけ古典絵画の修復において神業とも呼べる技術を持っていた。すでに一線を退き、二度と弟子は取らないと決めていた先生が、二十年前、実花を最後の愛弟子として特別に迎え入れてくれたのだ。それは、幼い実花が確かな才能の片鱗を見せたからだけでなく、彼女の両親が何度も先生の元へ日参し、熱心に頼み込んでくれたおかげでもあった。記憶の中の母は、身体が弱く家で療養してばかりだった。それでも実花の絵の練習に寄り添い、何気なく口にするアドバイスは、いつも的確で核心を突いていた。やがて、実花は結婚した。人生はまだまだ続く。結婚生活には献身的な努力が必要で、自分の夢などいっ
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第5話
「まだ起きていらしたんですか?」心配そうに顔を覗かせた佐藤さんに、実花は何か答えようとしたが、喉が焼けるように痛んで声にならない。かろうじて短く息を漏らすのが精一杯だった。近寄ってきた佐藤さんが実花の額に手を触れ、息を呑んだ。「なんて熱……!ひどい熱ですよ」「少し、雨に降られたから……」実花は力なく微笑んだ。「薬は、もう飲んだわ」「そんな場合じゃありません!こんなに熱くては大変なことになります」佐藤さんは慌ててスマートフォンを取り出した。「和真様に連絡します。すぐに戻ってきていただかないと」一度目のコール。誰も出ない。二度目のコール。やはり応答はなかった。「もういいわ……」実花は重い体を無理やり引き起こした。「タクシーを呼んでくれる?」「一人で、病院へ行くから」「そんな無茶な!お一人で行かせるわけにはいきません」佐藤さんが血相を変える。「私もお供します」「いいの」実花は首を振って、静かに笑った。「一人のほうが身軽で行きやすいから。佐藤さんはここで休んで。夜更かしは体に毒よ」彼女はベッドの縁を支えにゆっくりと立ち上がると、コートを羽織り、乱れた髪を無造作に束ねた。そして踵の低い靴を履き、夜の闇へと足を踏み出した。救急外来の建物は、真夜中であっても不夜城のように眩い光を放っている。深夜だというのに、ロビーは絶えず人が行き交っていた。実花はマスクを深く着け、力の入らない足を引きずるようにして受付を済ませた。番号札を受け取ると、案内されるまま点滴室の待合スペースへと向かう。周囲には、点滴台を傍らにうつらうつらとしている者や、廊下に置かれたストレッチャーの上で処置を待つ者たちの姿があった。壁際の隅にある椅子に腰を下ろすと、周囲の喧騒が遠い世界の出来事のようにぼやけて聞こえる。その時だった。一人の男が車椅子を押して、実花の前を通り過ぎた。車椅子に座っているのは、ゆったりとしたマキシ丈のワンピースを纏った女だ。「高城さん、こちらです。産婦人科の方で枠を調整しましたから、まずはエコーで状態を見てみましょう」看護師の明瞭な声が響く。「お手数をおかけします」男の低く落ち着いた声が返った。聞き間違えるはずのない声だった。視線を向けると、そこには和真と凛の姿があった。「和真くん、怖い……」震える声で
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第6話
一見すると、妻を思いやる完璧な夫の台詞だ。だが、実花にはわかっていた。これは彼なりの、ちっぽけな罪悪感の清算に過ぎない。実花がいつものように「遠慮しておくわ」と物分かりよく断ることを、彼は最初から確信しているのだ。「ううん、せっかくだから行くわ」実花の返答に、和真は虚を突かれたように動きを止めた。「……え?今、なんて言った?」「行くと言ったの。体調ももう大丈夫だし、あなたの友人たちに挨拶しておくのもいいかと思って」実花は静かに微笑んだ。どうせ、彼らと顔を合わせる機会なんて、この先二度と訪れないのだから。翌日の夜。指定されたのは会員制のプライベートラウンジだった。開放的なメインフロアは、落とされた照明の中で壁一面に並ぶボトルが黄金色の光を反射している。その奥にある、選ばれた者だけが足を踏み入れられるVIPルームへと向かう。和真の隣に並び、実花はその重厚な扉をくぐった。装いは、ごくシンプルなアプリコット色のニットワンピース。メイクもあえて薄く抑えてある。扉が開いた瞬間、室内の賑やかな喧騒が押し寄せてきた。「おっ、瀬戸社長のお出ましだ!おや、今日は連れがいるのか?」一人が実花の姿に気づき、声を弾ませる。「もしや、奥様ですか?」実花は品よく微笑みを浮かべ、静かに会釈した。「初めまして。実花と申します。主人がいつもお世話になっております」「実物の方が写真よりずっと綺麗だ」一人が品定めするように実花を見つめ、不意に声を漏らした。「……でも、やっぱり似てるな」その一言で、室内の空気が一瞬にして凍りついた。和真はわずかに眉を寄せ、発言した男を鋭く見やる。酒の入っていた男は、自分の失言に気づいたのか、取り繕うように乾いた笑い声を上げた。「いや、奥様を褒めてるんですよ。瀬戸社長、本当にお目が高い」別の男が、ニヤけ面を引きずりながら話を繋いだ。「そういえば、あの時……凛がいなくなってすぐに、お前が電撃結婚したって聞いた時は驚いたよ。この三年間、奥様をあんなに大事に隠し通してたもんだから、てっきり僕らは――」男はそこで言葉を切り、意味深な笑みを浮かべた。「まあ、野暮な話はやめておこう」再び笑い声が湧き起こったが、そこには下世話な好奇心が透けて見えていた。実花はその会話の一語一句を、逃さず耳に刻んでいた。
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第7話
深秋の冷え込みが厳しくなり始めた頃、実花の誕生日がやってきた。父が生きていた頃は、誕生日の朝には必ず温かい汁そばを作ってくれたものだ。そして、父としての慈しみに満ちた長い手紙を贈ってくれるのが恒例だった。だが結婚して以来、和真が実花の誕生日を祝ったことは一度もない。彼のスケジュール帳は、会議や出張、接待の予定で一年中埋め尽くされていた。誕生日の当日、実花はいつも通りアトリエへ向かった。恩師の篠田先生が、分厚い資料の束を彼女の前に置く。「近々、全国規模の美術展を企画している。皮切りは隣町の海浜市だ。来週、兄弟子と一緒に現地へ行って仕切りを頼む」実花は展示予定の作品リストに目を通し、「承知いたしました」と短く答えた。「それから、これだ」先生が無造作に放り出したのは、細長い桐箱だった。「誕生日のお祝いだ」それだけ言うと、先生は照れ隠しのように手元の絵画に視線を戻してしまった。「……ありがとうございます、先生」実花は胸が熱くなるのを感じながら、そっと箱を開けた。中には、小ぶりで古風な硯(すずり)が収められていた。それは先生の宝物で、実花が子供の頃にいくらねだっても決して譲ってくれなかった品だった。その夜、実花は早めに帰宅した。家政婦の佐藤さんには手間をかけさせず、自分でスーパーへ寄り、生クリームと小粒の苺を買ってきた。やがてキッチンには、スポンジが焼き上がる甘い香りが漂い始める。オーブンから慎重に型を取り出して冷まし、丁寧に泡立てたクリームを滑らかに塗り広げていく。仕上げに、真っ赤な苺を円を描くように並べた。ふいに、スマートフォンの画面が明るくなった。和真:【実花、誕生日おめでとう。今日は接待が入ってしまった。先に休んでいてくれ。プレゼントは帰宅した時に渡す】実花は【わかった】とだけ返し、画面を伏せてテーブルに置いた。夜の九時。手持ち無沙汰に、何気なくSNSを開く。タイムラインの最上部に、新しい投稿が表示された。【なんてことない、普通の一日。感謝を込めて】添えられた写真は、高級フレンチのディナー皿だった。写真の端に、ナイフとフォークを握る男の細い指先が写り込んでいる。袖口から覗く銀色のカフスボタン。見間違うはずもない。和真のものだ。コメント欄には「今日はお祝い?」という知人からの
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第8話
彼に忘れられない初恋の人がいるという噂は、もちろん耳に入っていた。それでも、彼女は遠い異国にいる。彼自身が実花にプロポーズし、「君を大切にする。温かい家庭を作ろう」と誓ってくれた。その言葉を、信じたのだ。結婚後、彼女は必死の思いで生け花や茶道、料理を学んだ。義理の両親の厳しいしきたりにも適応しようと身を粉にし、彼だけでなく彼の一族全員に尽くしてきた。自分の角を削り落とし、誰よりも従順で思いやりのある妻という型に、自らを無理やり嵌め込んだのだ。これほどまでに心を砕けば、いつかほんの少しでも、彼が本当の愛情を返してくれると信じて。実花の見せた表情に、和真は思わず言葉を失った。「……そんなつもりで言ったんじゃない」どこか疲れの混じった、宥めるような口調になる。「気が済んだら、また改めて話し合おう」彼は実花の肩に手を伸ばそうとした。「離婚なんて二度と言うな」だが、実花はその手をすり抜けるように一歩下がった。彼女は淡々と書類を封筒に戻し、感情を削ぎ落とした声で告げる。「あなたが同意しなくても構わないわ。その時は訴訟を起こすだけだから。法廷で会いましょう」言い捨てて、実花は二階へと足を向けた。その背中を見送っていた和真だったが、ついにこらえきれず、彼女の手首を荒々しく掴んだ。「実花、離婚なんて絶対に認めないぞ」強く握りしめられた指先が、彼の抑えきれない昂ぶりを物語っている。実花は視線を落とし、赤く変色していく自分の手首を冷ややかに見つめた。「あなたが認めようと認めまいと勝手よ。けれど、裁判所はあなたの許可なんて必要としないわ」彼女は突き放すように腕を引き抜き、淀みのない足取りで階段を上っていく。踊り場に差し掛かったところで、実花は一度だけ振り返った。「今夜から、あなたは書斎で寝て」それだけ言い残すと、彼女は寝室に入り、内側から鍵をかけた。和真は、固く閉ざされたドアの前に立ち尽くしていた。拳を上げ、ドアを叩こうとする。だが、その手は空を切って力なく下ろされた。――いいさ。どうせ一時的な感情だ。気が済めば、向こうから出てくるだろう。自分に言い聞かせるように吐き捨てると、彼は背を向けて書斎へと去っていった。夜が明けきらないうちに、和真は家を出た。家政婦の話では、急な会議が入ったとかで、朝食も摂らずに慌
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第9話
「で、昨日あのクズに離婚を突きつけたんでしょ?どんな反応だった?」「ただのワガママだと思われてる」実花はシートに深く背を預け、どこか他人事のように答えた。「誕生日プレゼントが気に入らなくて拗ねてるだけだって」「はあ!?」葵は怒りのあまり、アクセルを踏み込みそうになった。「あいつ、頭の病気じゃないの?妻と愛人の区別もつかないわけ?いい、結婚してる以上、いくら『初恋の女』が天女みたいに美しかろうが、やってることはただの不倫、泥棒猫なのよ!」実花は静かに呼吸を整え、窓の外を流れる景色を見つめた。葵のボルテージは上がる一方だ。「結婚したばかりの頃だってそう。おじさまに癌が見つかって、あんたは昼間は大学、夜は病院に通って、その合間にあいつの母親や祖母の理不尽な要求までこなしてたじゃない!」「……葵、もういいわ」「よくない!言わなきゃ気が済まないのよ。その愛人も愛人だわ。今どき人の夫を奪うなんて、一体どこの馬の骨なわけ?」実花の指先が、わずかに震えた。「……彼女、妊娠してるの」「……はい?」葵の動きが止まった。「……信じられない、最低。そりゃ離婚一択だわ。いい実花、次あのアマに会ったら、私があの整形面に一発食らわせてやるから。社会の厳しさってものを教えてやらないと」実花は少しの沈黙の後、苦い警告を口にした。「……彼女の背後には、厄介な人間がいるわ。深入りはしないで」「何よ、特別室の令嬢かなんかってわけ?」葵は鼻で笑った。「どんな身分だろうが不倫は不倫。相手がどれだけ大物だろうと、人間としてやっていい事と悪い事があるでしょうが!」「彼女は……高城駿大(たかしろ はやた)の妹なのよ」高城駿大。高城グループの頂点に君臨する若きトップだ。両親を早くに亡くした高城兄妹は固い絆で結ばれており、駿大の妹への溺愛ぶりは、業界でも有名だった。甘やかしすぎて、彼女がやりたい放題になるのも無理はない。葵は一瞬、言葉を失って口を半開きにした。「高城駿大?嘘でしょ!私の推しなんだけど。あんなに完璧でイケメンでお金持ちなのに、なんでまた人の旦那を寝取るような妹がいるわけ?完全に遺伝子の無駄遣いじゃないの」そして、この世の終わりのような顔を作った。「あーあ、終わった。私の未来の旦那様リストから、彼を外さなきゃ駄目かな?」その大げさな様子に、実花
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第10話
葵が片眉を上げると、実花は静かに首を振った。「ええ、全く」その声はあまりに冷ややかで、自ら過去を断ち切ろうとしているかのようだった。葵は実花の顔をちらりと盗み見ると、励ますようにその頭を乱暴に撫でた。「まあいいわ、湿っぽい話はおしまい!それより未来の話よ」「未来?」「決めたわ!」葵は勢いよくハンドルを叩いた。「実花にぴったりの候補者を二十人……いや、もっとたくさん見繕ってあげる!」「……ちょっと、やめてよ」「安心して、選りすぐりのエリート揃いにするから。腹筋が割れてて、肩幅が広くて足が長い、実花の心に寄り添ってくれる聞き上手なイケメン!どこぞの脳筋クズ元旦那とは、月とスッポンなんだから」実花は思わず吹き出した。「まだ離婚してないわよ。正確には『元』予備軍ね」車が目的地である西地区のマンションに滑り込む。緑豊かな敷地内は静寂に包まれ、人影もまばらだ。窓を開けると、木々の清々しい香りが車内に流れ込んできた。荷物を運び込みながら、葵が誇らしげに言った。「大家さん夫妻は海外暮らしなんだけど、実花が画家で、物静かで礼儀正しい子だって伝えたら、即決で貸してくれるって。最高でしょう?」実花がドアを開けると、清潔で明るい空間が広がっていた。開け放たれた窓から柔らかな風が吹き抜け、木漏れ日が床を踊る。胸の奥に詰まっていた重い塊が、すうっと軽くなったような気がした。「実花」葵に呼ばれて振り返る。「地獄からの脱出、おめでとう!」葵は腰に手を当てて笑った。「今夜、お祝いに飲みに行かない?」「ええ、喜んで」「決まり!午後はちょっとクライアントに会わなきゃいけないから、夜にまた迎えに来るわね」葵を送り出した後、実花は一人で荷解きを始めた。ベッドの脇にトランクを引き寄せ、数少ない服をクローゼットへ掛けていく。画材一式は、隣の陽当たりの良い部屋に整然と並べた。ふとした瞬間、不思議な感覚に包まれた。まるで、幼い頃に住んでいたあの家に戻ってきたような。記憶の中の家は、いつも温かな光に満ちていた。父と母が窓際にイーゼルを立て、一人が絵具を差し出し、もう一人が画用紙をそっと押さえている。二人は静かに寄り添い、時折顔を見合わせては慈しむように微笑んでいた。そこまで思い出し、実花はゆっくりと視線を落とした。
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