Masuk「愛されている」という錯覚が、一番の毒だった。 実業家の瀬戸和真(せと かずま)と結婚した際、世間では彼に長年忘れられない「運命の女性」がいると囁かれていた。 けれど、役所に婚姻届を出しに行こうと手を引いてくれたのは彼自身だったし、「あの子とはもう過去のことだ」という言葉を信じたのも、妻である瀬戸実花(せと みか)自身だった。 結婚して三年間。従順な妻を演じ続けていれば、いつか彼の凍った心も溶けるはずだと信じて疑わなかった。 あの日――和真が「かつての恋人」を優先し、実花の父親が受けるはずだった新薬の治験枠を独断で奪ってしまうまでは。さらに彼は、義父の葬儀にまでその女を同伴させたのだ。 「……もう、終わりにしましょう。離婚して」 愛を捨てた実花の再出発。周囲は「瀬戸家に捨てられた哀れな女」だと嘲笑ったが、ほどなくして世界は衝撃に包まれる。 国際的に名を馳せる天才画家『Rose』の正体は彼女であり、政財界に影響力を持つ名家の令嬢、そして国の重要アートプロジェクトのリーダーもまた、実花だったのだ。 かつて見向きもしなかった元夫は、あまりの変貌ぶりに膝をつき、必死に縋り付く。「実花、僕が悪かった……戻ってきてくれ。君と子供を、今度こそ一生大切にするから」 しかし、後悔に震える和真を遮るように、別の男が実花の腰を力強く抱き寄せた。男は彼女の耳たぶが赤く染まるほど甘く深い口づけを落とし、独占欲を剥き出しにして言い放つ。 「勘違いするな。この女に相応しいのは、世界で俺一人だけだ」
Lihat lebih banyak実花はビクッと息を呑んだ。何が起きたのか理解する間もなく、暗闇の中から圧倒的な威圧感がのし掛かってきた。次の瞬間、彼女は熱を帯びた強い腕に引き寄せられ、冷たいドアボードに乱暴に押し付けられていた。そして、有無を言わさぬ暴力的なキスが降ってきた。相手の力が強すぎて、実花は身動き一つとれない。隙を突いて思い切り噛み付いてやろうと身構えた瞬間——ふと、あの冷たくて甘い、嗅ぎ覚えのある香りが鼻をかすめた。その刹那、実花の意識は白く飛び、全身からスッと力が抜けてしまった。彼女の抵抗が解けたのを察知したのか、男の喉の奥からくぐもった低い笑い声が漏れた。男はそれを合図にさらに深く踏み込み、貪るようにキスを深めてくる。彼の大きな掌が実花の後頭部をがっちりとホールドし、もう片方の手は彼女の頬から首筋、そしてドレスの滑らかな生地を伝って下へと滑り落ちた。そのまま細い腰を的確に捕らえると、自分の体へと強く押し付けてきた。「んっ……」酸素を奪われ、実花の顔はたちまち朱に染まる。足の力が抜け落ちていく彼女は、ただ必死に男のスーツのジャケットにしがみつくことしかできなかった。たっぷり十分ほどが過ぎ、男はようやく唇を離した。暗闇の中、彼は実花の赤く腫れた唇を親指でなぞりながら、ひどく掠れた声で囁いた。「あいつと別れろ」ようやく解放された実花は、乱れた呼吸を整えるように激しく肩を上下させた。あまりにも激しく責め立てられたせいで、彼女の目尻にはうっすらと赤い涙の滲みが浮かんでいる。暗がりでこんな強引な真似をしておきながら、先ほどはホールの外で沙耶と親しげに並んでいた彼の姿を思い出し、実花は冷ややかな顔で男の胸を押し返した。「どこのどなたか存じませんが、突然なんてふざけた要求をなさるのかしら。でも、さっきのキスがそこそこお上手だったことに免じて、今すぐ出て行ってくれるなら、犬に噛まれたと思って水に流してあげるわ」その挑戦的な言葉に、湊は呆れたように小さく吹き出した。彼は再び実花に覆い被さり、その熱い吐息を彼女の耳元に吹きかけた。「俺が誰か分からないなら、もう少し頑張るしかないな。ここで最後までヤッちまっても、お前は文句言わないんだよな。ん?」甘く跳ね上がった語尾に、実花の耳の奥が粟立つ。湊がこちらの挑発に乗らず、さらに危険な行動に出ようとしているのを
征二郎の傍らで優雅に微笑む沙耶を見つめながら、湊は探るように目を細めた。しかし、その鋭い視線は、周囲の人間にはまったく別の意味に受け取られていた。遠巻きに様子を窺っていた客たちの間で、ヒソヒソと囁き声が交わされる。「征二郎さんがわざわざ沙耶お嬢さんを連れてきたってことは、思惑は明らかだな。篠宮の奥方の座を狙ってるってことだろう」「沙耶お嬢さんは優秀だからな。黒田家の若い世代じゃ間違いなくトップだ。征二郎さんの期待も大きいんだろうよ」「しかし、二人並ぶと本当にお似合いですね。絵に描いたような美男美女だ。篠宮様のあの熱い視線を見ましたか?あれはもう、完全に両思いでしょう」「ああ、知ってたら私の姪も連れてきて運試しさせたのにな。万が一、篠宮様の目に止まれば御の字じゃないか」「よせよ、お前の姪が沙耶お嬢さんに敵うわけないだろ?」「敵わなくてもいいんだよ。姪には姪の良さがある。男なんて、女は何人いたって文句は言わないもんだ」次第に下劣さを増していく会話に、実花は酷く苛立ちを覚えた。これ以上聞いていられず、席を立とうとしたその時、和真が心配そうに彼女の肩を抱き寄せた。「どうした?気分でも悪いのか?」ずっと実花に密かな視線を送り続けていた湊は、和真の手が彼女の肩に触れた瞬間、猛烈な怒りに瞳孔を収縮させた。傍らに控えていた山崎は、主のまとう空気が嵐の前の静けさのように一変したのを察知し、瞬時に事態を飲み込んだ。彼はすぐさま完璧な営業スマイルを顔に貼り付けると、早足で和真のもとへ向かった。「瀬戸社長、お初にお目にかかります。私は当主の特命アシスタントを務めております、山崎と申します」突如としてトップの側近から声をかけられ、和真は恐縮した様子を見せた。「山崎さん、ご丁寧な挨拶を痛み入ります。篠宮様から何かご伝言でしょうか?」「ええ。先日、瀬戸社長が画家『Rose』の作品を所蔵されていると伺いまして。もしよろしければ、本日拝見する機会をいただけないかと思いましてね」「もちろんです!今日はチャリティー出品として、Roseの『蜉蝣(かげろう)』を持参しております」和真の顔に明らかな喜色が浮かんだ。「それは素晴らしい。よろしければ、少し場所を移して詳しいお話を聞かせていただけませんか?」山崎が巧みに和真をその場から連れ出す
彼にとって、今日の最大の標的は篠宮湊である。今の時間帯はまだ前菜に過ぎず、メインディッシュの出番はこれからだ。「さっき、凛さんに会ったわよ。少し立ち話もしたわ」実花はあえて意味ありげにそう告げた。――早くあなたの愛しの初恋相手のところへ行って。ここで私の視界を遮らないで。しかし和真は、その言葉の裏にあるとげとげしい本音を無視したどころか、さらに距離を詰めてきた。あろうことか、実花の頬にかかった後れ毛を指先で優しくすくい上げる。まるで、妻を心から愛する完璧な夫を演じきるかのように。その時、ついに湊が姿を見せた。彼の放つ圧倒的な存在感は、登場した瞬間に会場中の視線を一身に集めた。今日は濃紺のスーツを身に纏い、その生地には茨と薔薇の暗紋が密かに浮かび上がっている。「本日はプライベートなアート鑑賞会へお越しいただき、誠にありがとうございます。皆様にお持ちいただいた出品物は、後にチャリティーオークションにかけさせていただきます。寄付先を代わりまして、厚く御礼申し上げます。今宵はビジネスを一旦忘れ、純粋にアートを語らう場にしたいと存じます。どうか素晴らしい夜をお過ごしください」そう挨拶が済むと、来客たちも互いの探り合いや見え透いたお世辞をやめ、一斉に今夜の展示品へと話題を移し始めた。今夜の招待客は総勢二十名にも満たない。しかも誰もが確固たる地位を築いている者ばかりだ。そのため、湊の機嫌を取ろうと群がるような不格好な真似をする者はいない。そもそも、この空間に招かれたこと自体が、最高峰のステータスの証なのだから。湊がまず歩み寄ったのは、黒田征二郎のもとだった。「湊くん、今夜のコレクションはどれも一級品ばかりだね。どれを切り取っても、オークションの目玉になり得る代物だ」征二郎は感嘆の声を漏らし、惜しみない称賛を送った。「征二郎様、過分なお言葉です」「沙耶のことは、わざわざ紹介するまでもないな?なんといっても、君たちはもう何年もの付き合いになる」征二郎は自然な流れで、孫娘へと話題を向けた。沙耶は優雅に顎を引き、静かに会釈をした。決して馴れ馴れしくはしない。名家の令嬢としての気高さを保ちつつ、礼儀をわきまえた、実に絶妙な距離感だった。湊もまた、沙耶と和やかに、かつ角の立たない会話を交わしていた。だが、その視線は会話の合間にさりげ
「昔の凛のことも、今でもよく覚えてるよ。白くて丸っこくて、本当におてんばだった。当時、僕の家は君たちの家の隣にあって、しょっちゅう彼女と遊んでいたよなあ」昔を懐かしむような穏やかな口ぶりを作って語りながら、和真はその実、鋭い眼差しで駿大の些細な反応をじっと窺っていた。駿大は幼くして海外へ留学していたため、そもそも妹の誕生から最初の五年間をまったく知らなかった。両親が不慮の事故に遭い、学業を中断して慌ただしく帰国し、葬儀や病院の手配に奔走する中で、初めて「妹」と対面したのだ。「俺が帰国した時、凛はまだ病院にいてね。ひどく怯えきっていたよ」駿大の言葉には、痛ましいほどの愛情が滲んでいた。「事故が起きた時、凛も同じ車に乗っていたんだったね?」和真が静かに尋ねる。「ああ。両親は帰らぬ人となってしまったが、幸いにも凛に体の怪我はなかった。ショックは受けていたが……天国の両親が守ってくれたんだろうな」そこで言葉を区切ると、駿大は安堵したように和真を見た。「この数年、君は凛の面倒をよく見てくれて、あいつにとっても兄のような存在だ。君がそばにいてくれて、俺もずいぶん安心できたよ」その言葉を聞いて、和真の胸の内に冷ややかなものが走った。――どうやら駿大も、凛が自分の本当の妹ではないことを知らないらしい。和真はあえて何気ない風を装い、少し冗談めかした口調で言葉を継いだ。「ただ、凛が五歳以前の出来事をまったく覚えていないのは、少し寂しい気もするけどね。……まあ、ある意味よかったのかもしれない。昔、僕と遊んでいた時に彼女の足の裏に怪我をさせてしまって、傷跡を残してしまったんだ。もし本人が怪我の理由をはっきり覚えていたら、あれだけ美容にうるさい凛のことだ、きっと僕を一生恨んでいただろうから」それを聞いた瞬間、駿大の目がスッと細められた。――おかしい。和真はこんなふうに感傷に浸り、昔を懐かしむような男ではない。それに、これまでの二人の付き合い方からして、心温まる思い出話に花を咲かせるような柄でもなかった。若くして帰国し、崩壊寸前だった高城家を自らの手で権力の頂点へと引き戻した当主である。駿大の直感は、時に恐ろしいほど鋭かった。彼は頭の中で、和真の放った言葉の一言一句を反芻し始めた。自分の言葉が駿大に思惑通りの疑念を抱かせたのを見て取り
Ulasan-ulasan