誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―

誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―

last updateLast Updated : 2026-06-08
By:  marimoUpdated just now
Language: Japanese
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愛する人のために尽くしてきたのに、待っていたのは裏切りだった――。 久遠ひかるは、恋人の黒崎俊哉に捨てられ、若い愛人と共に家政婦のように扱われる。侮辱され、居場所を奪われ、それでも耐え続けた彼女は、ある日すべてを捨てて姿を消した。 だが、俊哉は知らなかった。 自分が踏みにじった女が、かつて国民的人気を誇った伝説の女優だったことを。 世界的映画プロデューサーに見出され、再び芸能界へ戻ったひかるは、圧倒的な才能で頂点へ駆け上がっていく。 失って初めて気づく愛。 手遅れになってから始まる後悔。 これは、捨てられた女が主演女優賞を掴み、彼女を見下した者たちに代償を払わせる逆転劇。

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Chapter 1

第1話 空気みたいな女

――彼に殴られたのは、これが初めてではなかった。

けれど、「愛している女がいる」と、はっきり言葉にされたのは、

今日が初めてだった。

頬の奥が熱い。

殴られた衝撃で耳鳴りがしているのに、不思議と痛みは遠かった。

ただ、胸の奥だけが、じわじわと冷えていく。

床に座り込んだ私を、婚約者であるはずの、黒崎俊哉(くろきしゅんや)は見下ろしていた。

そこにあるのは怒りでも、罪悪感でもない。

ただ、鬱陶しそうな視線。

まるで、自分の生活を邪魔する“何か”を見るような目だった。

「なあ、いつまでそんな顔してるつもりだ?」

低く、冷たい声。

まるで、床に落ちたゴミに話しかけるようだった。

ひかるは答えられない。

何を言えばいいのか、分からなかった。

三年前。

俊哉にプロポーズされた日のことを、思い出していた。

『お前となら、普通の幸せが欲しい』

そう言って笑った男は、

今、目の前にいる男と本当に同じ人間なのだろうか。

「お前さ、自分が“一番”だって、まだ思ってる?」

意味を考える間もなく、背後から女の笑い声がした。

「ふふ……ひどい言い方」

ゆっくりと視線を向ける。

そこに立っていたのは、相沢玲奈(あいざわれな)だった。

今日、初めてこの家に入ってきた女。

背が高く、細い体つき。

よく手入れされた髪。

上品な香水の香り。

余裕のある立ち居振る舞い。

派手ではない。

けれど、自分が“選ばれる側”だと知っている人間だけが持つ空気をまとっていた。

対して、久遠ひかる(くどうひかる)は、すっぴんで、色褪せた部屋着。

今日は朝から熱があった。

けれど俊哉は帰宅するなり、

「飯は?」

としか言わなかった。

鏡を見なくても分かる。

この場において、ひかるは完全に“場違い”だった。

玲奈はリビングを見回しながら、上品に微笑む。

「素敵なお家ですね」

その言葉に、ひかるの胸が小さく痛んだ。

この部屋のカーテンを選んだのは自分だった。

ソファも、食器棚も、ダイニングテーブルも。

少しずつ貯金して、二人で揃えた。

幸せになりたかった。

ただ、それだけだったのに。

「紹介するよ。玲奈だ。これから一緒に住む」

当然のように告げられ、言葉を失う。

一瞬、意味が理解できなかった。

「……どういう、意味?」

やっとの思いで問い返すと、俊哉は苛立ったように眉をひそめた。

「そのまんまだよ。察しろ。お前、もう女として終わってるだろ?」

喉が詰まる。

呼吸の仕方さえ分からなくなる。

「化粧もしない、服も地味。愛想もない。一緒に歩くの、正直恥ずかしかったんだ」

その言葉は刃物みたいに胸へ刺さった。

昔は違った。

俊哉は、薄化粧でも「かわいい」と笑ってくれた。

コンビニ帰りの部屋着姿でも、抱きしめてくれた。

いつからだろう。

「お前、女捨てた?」

そう言われるようになったのは。

隣で、玲奈が小さくうなずいた。

「そうよね……彼女さん、存在感が薄いんですよね」

「空気みたい」

――空気。

その言葉が、胸の奥を一気に冷やした。

空気みたい。

いても、いなくても変わらない。

必要とされない存在。

ひかるは膝の上で、ぎゅっと手を握りしめた。

爪が食い込むほど強く。

けれど、それでも震えは止まらない。

「家事はちゃんとやってもらうから」

俊哉はソファへ座りながら、当然のように言った。

「玲奈は客人だ。気を遣えよ」

客人。

その言葉に、ひかるはゆっくり顔を上げた。

ここは、自分の家だったはずだ。

なのに。

「……じゃあ、わたしは? 何なんですか」

絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

俊哉は舌打ちする。

「は? 家政婦だろ」

「金食わしてやってんだから、感謝しろ」

その瞬間。

頭の中で、何かがぷつりと切れた気がした。

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第1話 空気みたいな女
――彼に殴られたのは、これが初めてではなかった。けれど、「愛している女がいる」と、はっきり言葉にされたのは、今日が初めてだった。頬の奥が熱い。殴られた衝撃で耳鳴りがしているのに、不思議と痛みは遠かった。ただ、胸の奥だけが、じわじわと冷えていく。床に座り込んだ私を、婚約者であるはずの、黒崎俊哉(くろきしゅんや)は見下ろしていた。そこにあるのは怒りでも、罪悪感でもない。ただ、鬱陶しそうな視線。まるで、自分の生活を邪魔する“何か”を見るような目だった。「なあ、いつまでそんな顔してるつもりだ?」低く、冷たい声。まるで、床に落ちたゴミに話しかけるようだった。ひかるは答えられない。何を言えばいいのか、分からなかった。三年前。俊哉にプロポーズされた日のことを、思い出していた。『お前となら、普通の幸せが欲しい』そう言って笑った男は、今、目の前にいる男と本当に同じ人間なのだろうか。「お前さ、自分が“一番”だって、まだ思ってる?」意味を考える間もなく、背後から女の笑い声がした。「ふふ……ひどい言い方」ゆっくりと視線を向ける。そこに立っていたのは、相沢玲奈(あいざわれな)だった。今日、初めてこの家に入ってきた女。背が高く、細い体つき。よく手入れされた髪。上品な香水の香り。余裕のある立ち居振る舞い。派手ではない。けれど、自分が“選ばれる側”だと知っている人間だけが持つ空気をまとっていた。対して、久遠ひかる(くどうひかる)は、すっぴんで、色褪せた部屋着。今日は朝から熱があった。けれど俊哉は帰宅するなり、「飯は?」としか言わなかった。鏡を見なくても分かる。この場において、ひかるは完全に“場違い”だった。玲奈はリビングを見回しながら、上品に微笑む。「素敵なお家ですね」その言葉に、ひかるの胸が小さく痛んだ。この部屋のカーテンを選んだのは自分だった。ソファも、食器棚も、ダイニングテーブルも。少しずつ貯金して、二人で揃えた。幸せになりたかった。ただ、それだけだったのに。「紹介するよ。玲奈だ。これから一緒に住む」当然のように告げられ、言葉を失う。一瞬、意味が理解できなかった。「……どういう、意味?」やっとの思いで問い返すと、俊哉は苛立ったように眉をひそめた。「そのまんまだよ。察しろ。お前、もう女とし
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第2話 物置部屋の夜
次の瞬間、頬に衝撃が走った。「口答えするな!!」視界が揺れ、体が傾く。床へ倒れ込んだ拍子に、テーブルの脚へ肩をぶつけた。鈍い痛みが走る。けれど俊哉は、そんなこと気にも留めなかった。「お前さ、最近調子乗ってるよな?」「誰のおかげで生活できてると思ってんだよ」怒鳴り声が、耳の奥で反響する。昔は、こんな人じゃなかった。少なくとも、ひかるはそう信じていた。仕事で失敗して落ち込んでいた夜、「お前がいてくれるだけでいい」そう言ってくれた男だった。雨の日、傘を差しながら、「風邪引くなよ」と肩を抱いてくれた人だった。でも。その優しさは、いつの間にか消えていた。倒れかけたひかるを見て、玲奈が小さく息を吐いた。「ごめんなさいね……」その声音は申し訳なさそうなのに、目だけは少しも謝っていなかった。「婚約者がいるって、知ってたんだけど……」意味ありげに俊哉を見上げ、玲奈は続ける。「でも……運命の人に出会ってしまったの」潤んだ目でそう言う玲奈を見て、俊哉は優しく肩を抱き寄せた。さっきまで怒鳴っていた男とは思えないほど甘い顔だった。「玲奈……お前は本当にかわいいな」その光景を見た瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。ああ。もう、終わっているんだ。自分は最初から負けていたのだと、ようやく理解した。そして俊哉は、冷え切った目でひかるを見る。「お前の部屋は、玲奈に譲れ」「さっさと荷物を運び出せ」腕を強く引かれ、体がよろめく。骨が軋むほど痛い。「私に、どこへ……」かすれた声で抗議しようとすると、「家政婦は物置に決まってるだろ!!」怒鳴り声と同時に、再び小突かれた。ひかるは何も言えなかった。言い返したところで、また殴られるだけだと知っていたから。床に倒れたひかるは、ゆっくり立ち上がる。寝室へ向かう足取りは、自分のものではないみたいに重かった。部屋へ入ると、そこにはまだ、自分の匂いが残っていた。俊哉と並んで眠ったベッド。休日に映画を観た夜。熱を出した俊哉を看病した夜。将来の話をした夜。全部、この部屋だった。なのに今は、他人の女へ明け渡す場所になってしまった。クローゼットを開ける。けれど、自分の荷物は驚くほど少なかった。数枚の洋服。洗面道具。古びたポーチ。それだけ。三年間一緒に暮らして、自
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第3話 出会いの記憶
黴臭い布団に横になり、天井の染みを見つめていると、意識とは裏腹に、記憶だけが勝手に遡っていった。――どうして、あの人と出会ってしまったのだろう。あの頃の私は、できるだけ人目につかないように生きていた。派手な服も、化粧もせず、ただ「静かに」「何も起こさず」一日を終えることだけを考えていた。生活のために始めたのが、清掃のアルバイトだった。古くて、薄暗い雑居ビル。廊下の電灯はところどころ切れ、昼間でも影が溜まるような場所だった。そのビルの一角に、《Kurosaki Creative Works》という、出来たばかりの広告制作会社が入っていた。出会いは、共同トイレだった。男性用便器を黙々と拭いていたとき、背後から、気まずそうな声がした。「……あの、すみません」「お借りしてもいいですか?」振り返ると、スーツ姿の男が、困ったように立っていた。それが、黒崎俊哉だった。「すぐ終わりますので……」そう言って、私は道具を片付け、外に出た。用を足している間、私はトイレの前で、じっと待っていた。今思えば、それだけのことだった。けれど、俊哉はそれを「律儀だ」と言った。「ありがとう」「こんな若いのに、大変だね」その日から、何度か顔を合わせるようになった。気がつけば、「よかったら、うちで働かない?」そんな言葉をかけられていた。事務員の仕事は、清掃よりずっと楽で、何より、人に気を遣われることがなかった。ひかるは、静かにそこで働き始めた。仕事帰りに食事をするようになり、いつの間にか、付き合うようになっていた。二年後、俊哉はプロポーズした。「一緒に生きていこう」その言葉を、私は疑わなかった。一緒に住み始めてから、俊哉の会社は、目に見えて大きくなった。仕事が増え、収益が上がり、やがて彼は、郊外に大きな家を建てた。「家のことは、ひかるがやってくれればいい」私は、それでいいと思った。役に立てるなら、それで。けれど―― いつからだっただろう。俊哉が、夜、帰らなくなったのは。携帯を伏せて置くようになったのは。問い詰めると、殴られた。「疑うな」「余計なことを言うな」それでも、私は耐えた
last updateLast Updated : 2026-06-06
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第4話 代わりが来ただけ
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直す。お前、無駄遣い多いから」「私、何も――」言いかけた瞬間、玲奈が口を挟む。「でも、家政婦って、時間余りますよね? 何してるんですか? 一日中」くすくすと笑いながら。「もしかして、愛されてるつもりだったとか?」俊哉が笑った。「それ、面白いな」笑い声が重なる。私だけが、笑っていない。「なあ、ひかる。お前って、何の取り柄もないよな」その言葉が、胸に深く刺さった。「顔も普通以下。愛嬌もなし」「金も稼げない」「だからさ、代わりが来ただけだ」その日の午後、私はクレジットカードが使えないことを知った。スマートフォンの画面に表示された、無機質なエラー。「口座、止めたから」「逃げられたら困るだろ?」俊哉は、そう言って笑った。逃げる――そんな考えすら、持つ資格がないと、言われているようだった。結局、私は、俊哉に愛されていたわけではなかったようだ。今さらにして、気づいてしまった。考えてみたら、俊哉と出会って四年。色々なことがあったが、俊哉の態度が、目に見えて酷くなったのは、俊哉の経営する、《Kurosaki Creative Works》という、広告制作会社が軌道に乗ってからだった。軌道に乗る前は、ひかるも事務員として、このKurosaki Creative Worksで働いていた。そこで愛を育み、俊哉からプロポーズされた。しかし、軌道に乗り、忙しくなり、俊哉がこの大きな家を購入してから、「ひかるには家を守って欲しい」と言われ、家事一切を任された。買い物に使えるお金は、俊哉が決めた額を、カードに入金してくれるだけ。「会社が軌道に乗ったといっ
last updateLast Updated : 2026-06-06
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第5話 価値のない女
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、玲奈のブランドバッグ。テーブルには飲みかけのカフェラテ。昨日までなかった香水の匂いが、この家に染みつき始めている。私は黙ったまま、床を拭き続けた。すると、カツ、カツ、とヒールの音が近づいてくる。ゆっくり顔を上げると、相沢玲奈が立っていた。腕を組み、私を見下ろしている。「……ねえ」その声音は柔らかいのに、どこか人を試すようだった。「そこ、ちゃんと掃除して。私、埃アレルギーなの。」「……はい」返事をすると、彼女は満足そうに笑った。「素直で助かります。そういうところ、使いやすくて」“使う”。その言葉が、胸に残る。まるで私は、人間じゃなく道具みたいだった。けれど、玲奈はそんなこと気にも留めない。私の横を通り過ぎ、ソファへ腰掛けると、スマホを操作しながら言った。「でも、元々こういうこと向いてたんじゃないですか?」「家庭的っていうか……他に取り柄なさそうだし」返す言葉はなかった。悔しいのに、何も言えない。言い返したところで、また惨めになるだけだと分かっていたから。昼過ぎ。玄関のドアが開く音がした。黒崎俊哉が帰ってきたのだ。今日は珍しく機嫌が良さそうだった。ネクタイを緩めながらリビングへ入ってきた俊哉は、私を見るなり口を開く。「聞いたぞ」心臓が小さく跳ねる。「お前、ちゃんと掃除してるらしいな」一瞬だけ、胸の奥に小さな期待が生まれた。褒められたのかもしれない、と。けれど。彼はすぐに笑った。「玲奈が言ってたぞ。“元カノさん、家政婦としては優秀”って」元カノさん。その一言で、心臓が強く跳ねた。まるで、自分の存在を勝手に書き
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第6話 ここから出る
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。責められているのは自分なのに、なぜか加害者扱いされる。そんな理不尽さに、胸の奥が重く沈む。「自分が選ばれなかっただけなのに」玲奈はワイングラスを揺らしながら言った。その仕草は勝者の余裕そのものだった。「努力もしなかったくせに」努力――その言葉が、心の奥で小さく反発した。私は、何もしてこなかったわけじゃない。俊哉が仕事で疲れて帰れば支えた。帰宅が深夜になれば、温かい食事を用意して待っていた。眠れない夜は、隣で背中をさすった。風邪を引けば看病した。仕事で失敗した日には、何も聞かずに寄り添った。生活費を抑えるために節約もした。自分の服を買うのを我慢しても、俊哉のためならと思っていた。美容院へ行く回数も減らした。化粧品も安いものに変えた。そうして浮いたお金で、二人の生活を守ろうとしてきた。ずっと、この人のために生きてきた。俊哉の幸せが、自分の幸せだと思っていた。ただ、それを評価する人が、ここにはいないだけだ。どれだけ尽くしても。どれだけ愛しても。価値がないと決めつけられれば、それで終わりだった。私は何も言わなかった。言い返したところで、また傷つくだけだと知っていたから。黙っていることが、今の私にできる唯一の防御だった。食後。私は黙って洗い物をしていた。蛇口から流れる水は冷たい。スポンジを握る手も冷え切っていた。食器が触れ合う小さな音だけが、静かなキッチンに響く。背後では二人の笑い声。楽しそうな声。その声を聞くたびに胸が痛んだ。けれど、表情には出さない。出したところで喜ばせるだけだから。水の冷たさだけが現実だった
last updateLast Updated : 2026-06-06
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第7話 見せつける夜
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きなんだよね」玲奈が甘えた声で言う。その声は、恋人だけに向ける柔らかさを含んでいた。「昔の女優って、今より色気あるよな」俊哉が、彼女の肩に顔を埋めながら答えた。玲奈は小さく笑う。「分かる。今って、綺麗なだけの人多いですよね」「色気って、余裕なんだろうな」そんな会話を交わしながら、二人は自然に触れ合っている。以前、あの場所に座っていたのは自分だった。映画を観ながら、俊哉の肩に寄りかかった夜もあった。「お前といると落ち着く」そう言われたことも、一度だけじゃない。なのに。今、その記憶はまるで別人の人生みたいだった。私は、部屋の隅に立っていた。洗濯物を畳み終え、行き場を失ったまま。乾いたタオルを抱えたまま、ただ立ち尽くしている。視界に入らないように、気配を消しているつもりだった。空気みたいに。存在を薄く、薄くしていれば、少しは傷つかずに済む気がしたから。けれど――「ひかる」俊哉が、私を呼んだ。肩がびくりと揺れる。「飲み物、取ってこい。玲奈が喉乾いたって」命令する声。そこには、かつて恋人へ向けていた優しさは一切なかった。玲奈が、ちらりと私を見る。「あ、ごめんなさい。いるの、気づきませんでした。……影みたい」その口調は丁寧なのに、目は笑っていなかった。むしろ、楽しんでいるように見えた。私が傷つく瞬間を。キッチンへ向かう。冷蔵庫を開ける手が、少し震えていた。グラスに氷を入れる音だけが妙に大きく響く。背中に、二人の視線が突き刺さるのを感じる。試されているようだった。どこまで耐えられるのか。どこまで壊れずにいられるのか。
last updateLast Updated : 2026-06-07
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第8話 初恋の影
黒崎俊哉と相沢玲奈は、ひかるが壁沿いに一歩、また一歩と退いた瞬間から、まるで合図でもあったかのように、映画そっちのけでキスをし始めた。深く、長く、いやらしく舌を絡ませる。静かな映画音楽に混じって、唇が重なる湿った音が、やけに大きくリビングへ響いた。俊哉の腕は、ためらいなく玲奈の背中を抱き寄せる。まるで、自分のものだと誇示するように。玲奈もそれに応えるように身体を密着させ、細い指を俊哉の髪へ絡めながら、小さく吐息を漏らした。ソファがわずかに軋む。その音さえ、ひかるの胸を削るようだった。そして時折、――ちらり。玲奈の視線が、ひかるの方へ這う。その目に浮かんでいる感情は、はっきりしていた。「羨ましいでしょ」そう言葉にしなくても、十分すぎるほど伝わってくる。勝者だけが浮かべる、余裕の笑み。自分は選ばれ、ひかるは捨てられた。その事実を、何度も見せつけるように。耐えきれず、久遠ひかるは顔を背け、壁の方へ向いた。視界から消してしまえば、少しは楽になると思った。見なければ、傷つかないと思った。けれど、耳は塞げない。押し殺した吐息。小さな笑い声。唇が触れ合う音。全部、壁越しではなく、すぐ後ろから聞こえてくる。まるで、「逃げるな」と言われているみたいだった。そのときだった。リビングに流れ始めた、懐かしい旋律。低く、静かで、それでいて胸の奥を震わせる音楽。ほんの数秒。それだけで、ひかるの呼吸が止まった。続いて、女優の声が響く。――先ほどまでの古い映画が終わり、来週放映予定の映画の予告だった。ひかるは、はっとして振り返った。キスを続けている俊哉と玲奈の、肩越しに。テレビの画面を、食い入るように凝視する。画面の中で、女優が微笑んでいた。柔らかな照明の中で、どこか儚げに。けれど、強く。その笑顔を見た瞬間、ひかるの胸の奥で、何かが大きく揺れた。忘れたはずの感情。遠い昔へ押し込めた記憶。俊哉も気づいたのだろう。ふっと動きを止め、玲奈から離れる。「あ、この女優好きだったんだよな。なんて言ったっけ……忘れたけど。俺が20歳くらいのとき、いろんな映画とかに出ててさ。こんな子と付き合えたらいいな~なんてさ」無邪気とも言える口調だった。先ほどまで、ひかるを傷つける言葉を平然と吐いていた男とは思
last updateLast Updated : 2026-06-08
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