LOGIN愛する人のために尽くしてきたのに、待っていたのは裏切りだった――。 久遠ひかるは、恋人の黒崎俊哉に捨てられ、若い愛人と共に家政婦のように扱われる。侮辱され、居場所を奪われ、それでも耐え続けた彼女は、ある日すべてを捨てて姿を消した。 だが、俊哉は知らなかった。 自分が踏みにじった女が、かつて国民的人気を誇った伝説の女優だったことを。 世界的映画プロデューサーに見出され、再び芸能界へ戻ったひかるは、圧倒的な才能で頂点へ駆け上がっていく。 失って初めて気づく愛。 手遅れになってから始まる後悔。 これは、捨てられた女が主演女優賞を掴み、彼女を見下した者たちに代償を払わせる逆転劇。
View More――彼に殴られたのは、これが初めてではなかった。
けれど、「愛している女がいる」と、はっきり言葉にされたのは、
今日が初めてだった。頬の奥が熱い。
殴られた衝撃で耳鳴りがしているのに、不思議と痛みは遠かった。ただ、胸の奥だけが、じわじわと冷えていく。
床に座り込んだ私を、婚約者であるはずの、黒崎俊哉(くろさきしゅんや)は見下ろしていた。
そこにあるのは怒りでも、罪悪感でもない。
ただ、鬱陶しそうな視線。
まるで、自分の生活を邪魔する“何か”を見るような目だった。
「なあ、いつまでそんな顔してるつもりだ?」
低く、冷たい声。
まるで、床に落ちたゴミに話しかけるようだった。
ひかるは答えられない。
何を言えばいいのか、分からなかった。
三年前。
俊哉にプロポーズされた日のことを、思い出していた。『お前となら、普通の幸せが欲しい』
そう言って笑った男は、
今、目の前にいる男と本当に同じ人間なのだろうか。「お前さ、自分が“一番”だって、まだ思ってる?」
意味を考える間もなく、背後から女の笑い声がした。
「ふふ……ひどい言い方」
ゆっくりと視線を向ける。
そこに立っていたのは、相沢玲奈(あいざわれな)だった。
今日、初めてこの家に入ってきた女。
背が高く、細い体つき。
よく手入れされた髪。
上品な香水の香り。 余裕のある立ち居振る舞い。派手ではない。
けれど、自分が“選ばれる側”だと知っている人間だけが持つ空気をまとっていた。
対して、久遠ひかる(くどうひかる)は、すっぴんで、色褪せた部屋着。
今日は朝から熱があった。
けれど俊哉は帰宅するなり、
「飯は?」 としか言わなかった。鏡を見なくても分かる。
この場において、ひかるは完全に“場違い”だった。
玲奈はリビングを見回しながら、上品に微笑む。
「素敵なお家ですね」
その言葉に、ひかるの胸が小さく痛んだ。
この部屋のカーテンを選んだのは自分だった。
ソファも、食器棚も、ダイニングテーブルも。少しずつ貯金して、二人で揃えた。
幸せになりたかった。
ただ、それだけだったのに。
「紹介するよ。玲奈だ。これから一緒に住む」
当然のように告げられ、言葉を失う。
一瞬、意味が理解できなかった。
「……どういう、意味?」
やっとの思いで問い返すと、俊哉は苛立ったように眉をひそめた。
「そのまんまだよ。察しろ。お前、もう女として終わってるだろ?」
喉が詰まる。
呼吸の仕方さえ分からなくなる。
「化粧もしない、服も地味。愛想もない。一緒に歩くの、正直恥ずかしかったんだ」
その言葉は刃物みたいに胸へ刺さった。
昔は違った。
俊哉は、薄化粧でも「かわいい」と笑ってくれた。
コンビニ帰りの部屋着姿でも、抱きしめてくれた。いつからだろう。
「お前、女捨てた?」
そう言われるようになったのは。隣で、玲奈が小さくうなずいた。
「そうよね……彼女さん、存在感が薄いんですよね」
「空気みたい」
――空気。
その言葉が、胸の奥を一気に冷やした。
空気みたい。
いても、いなくても変わらない。
必要とされない存在。
ひかるは膝の上で、ぎゅっと手を握りしめた。
爪が食い込むほど強く。
けれど、それでも震えは止まらない。
「家事はちゃんとやってもらうから」
俊哉はソファへ座りながら、当然のように言った。
「玲奈は客人だ。気を遣えよ」
客人。
その言葉に、ひかるはゆっくり顔を上げた。
ここは、自分の家だったはずだ。
なのに。
「……じゃあ、わたしは? 何なんですか」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
俊哉は舌打ちする。
「は? 家政婦だろ」
「メシ食わしてやってんだから、感謝しろ」
その瞬間。
頭の中で、何かがぷつりと切れた気がした。
(家政婦……)
ひかるは唇を噛む。
泣いてはいけない。
ここで泣いたら、本当に自分が負けた気がする。
だから、必死に耐えた。
けれど胸の奥では、別の声がしていた。
――どうして、こんなことになったの?
その問いに、答えをくれる人は誰もいなかった。
そのころ。 久遠家の重厚な門の内側は、外界とはまるで別の時間が流れているかのように静まり返っていた。 広い庭を渡る風の音だけが、かすかに耳に届く。 リビングの柔らかな照明の下、ひかるは大きなソファに腰を下ろしていた。 だが、その姿はいつもの凛とした女優のものではない。 背中は小さく丸まり、指先は膝の上で力なく重なっている。 まだ恐怖が身体の奥に残っているのだろう。 時折、思い出したように肩が震えた。 目を閉じれば、あの暗い路地が蘇る。 背後から伸びてきた手。 口を塞いだ布。 息苦しさ。 逃げようとしても動かない身体。 そして、車の中に引きずり込まれた瞬間に感じた、冷たい絶望。 もし、あの黒いスーツの男たちが来なかったら。 もし、あのまま連れ去られていたら。 その先に何が待っていたのか……考えるだけで、身体の芯が冷たくなる。 その背中を、母の美月が優しく撫でていた。 一定のリズムで、まるで幼い頃にそうしていたように。「ひかるまで狙うなんて……」 低く漏れたその声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。 普段の美月は穏やかで、どこか達観した空気を纏っている。 けれど今、その瞳の奥では明らかな炎が燃えていた。 娘に触れた者を決して許さない。 そんな母の本能が、静かに牙を剥いている。 美月はひかるの背中を撫でながら、胸の奥で過去を思い出していた。 かつて、自分も同じだった。 一条蘭という名前で、芸能界の頂点に立っていた頃。 誰もが自分を見ていた。 女優として、まだ上へ行けると信じていた。 それなのに――。 ある夜、突然襲われた。 顔を傷つけられ、女優として致命的な傷を負わされ、積み上げてきたものをすべて奪われた。 あれは事故ではない。 偶然でもない。 誰かが、自分を舞台から引きずり下ろすために仕組んだものだった。 そして、その背後にいた悪意を、美月は今でも忘れていない。 雪城沙羅。 そして、その沙羅を支えた黒川彰人。 あの二人の存在を知ったとき、美月はようやく理解した。 自分の人生を壊した闇が、今度は娘に手を伸ばしている。 ……許せるはずがない。 自分の顔を奪ったことだけなら、耐えられた。 女優としての人生を奪われたことも、長い時間をかけて受け入れてきた。 けれど――娘は違う。 ひかる
数十分前。 夜の静寂を切り裂くように、スマートフォンが震えた。 藤崎優は資料に目を落としていた。 だが、画面に表示された番号を見た瞬間、胸騒ぎが走った。 警備に当たらせていた人物からの連絡だった。 こんな時間に、わざわざ連絡をしてくる。 それだけで、嫌な予感がした。 通話ボタンを押す。「どうした」 返ってきた声は、明らかに切迫していた。「久遠ひかるが襲われました。現在、病院に運ばれました」 一瞬、意味を理解できなかった。 頭が、その言葉を拒絶した。 ——ひかるが? 襲われた? その二つの言葉が、頭の中で繰り返される。 次の瞬間——血の気が引いた。 背筋を冷たいものが走り、心臓を直接掴まれたような感覚に襲われる。 さっきまで普通に呼吸していたはずなのに、息ができない。「……どこの病院だ」 声を絞り出す。 病院名を確認した途端、優は椅子を蹴るように立ち上がっていた。 上着を掴む。 何かを考える余裕などなかった。 周囲の視線も、机の上の資料も、すべて視界から消えていた。 ただ一つ。 ひかる―――。(無事でいてくれ……!) それだけだった。 車に飛び乗り、エンジンをかける。 ハンドルを握る手がわずかに震えていた。 自分でも驚くほどだった。 これまで、どんな危機でも冷静に状況を判断してきた。 感情に流されれば、判断を誤る。 それを知っていた。 だが今は違う。 ひかるが襲われた。 その事実だけで、理性の奥に押し込めていた恐怖が、一気に噴き出していた。 赤信号もクラクションも意識の外に追いやられる。 頭の中にあるのは一つだけ。 ——間に合え!! 病院に着くと、ほとんど車を放り出すように降り、自動ドアをくぐる。 消毒液の匂いが鼻を刺した。 その瞬間、優の脳裏に嫌な想像が浮かぶ。 ベッドに横たわるひかる。 顔を歪め、痛みに耐えているひかる。 もしかしたら、意識を失っているかもしれない。 その想像を振り払うように、受付へ詰め寄った。「久遠ひかるは!?」 受付の職員は驚いたように優を見た。 端末を確認する。 数秒。 その数秒が、異様に長く感じられた。 やがて職員が首を傾げた。「……そのようなお名前の患者様は、いらっしゃいません」「搬送記録も?」「ありません」 優の思考が止
それは、あまりにも突然だった。 仕事を終えた頃には、街はすでに夜の色に染まっていた。 ネオンの光が濡れたアスファルトに滲み、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。 ひかるはコートの襟を軽く合わせながら、駅へと続く近道の路地に足を踏み入れた。 本来なら、通るべきではない道だった。 警護の人間も見当たらない。 人通りは少なく、街灯もまばらだった。 分かっていた。 優からも、夜は一人で出歩かないように言われていた。 それでも今日は疲れていた。 ほんの数分でも早く帰りたい。 ただ、それだけだった。 コツ、コツ、と自分のヒールの音だけが響く。 その音が、妙に大きく聞こえた。 ——そのときだった。 背中に、じっとりと張り付くような気配を感じた。 ひかるの足が止まりかける。 誰かいる。 逃げなきゃ―――そう思った瞬間、背筋を冷たいものが走った。「——誰?」 振り返るより早く、腕を掴まれた。 強い力だった。「きゃっ……!」 身体が一気に引き寄せられる。 口を塞がれる。 湿った布の感触。 そして鼻を突く、甘ったるい薬品の匂い。(まずい……!) 頭の中で警報が鳴り響いた。 息を吸ってはいけない。 そう直感した。 咄嗟に息を止める。 だが、恐怖で身体が震えていた。 心臓が暴れ、耳の奥で鼓動が爆発する。(早く逃げなきゃ!) 必死にもがく。 腕を振る。 肘を打ちつける。 かかとで相手の足を踏みつけた。「っ、この女……!」 低い怒声。 それでも拘束は緩まない。 むしろ、腕に食い込む指がさらに強くなる。 痛い。 怖い。 それでも声を出せない。 叫べば助かる。 そんな当たり前のことさえ、この瞬間にはできなかった。 そのとき、背後からもう一人の男が現れた。「早くしろ。車を回してる」 その声を聞いた瞬間、ひかるの全身から血の気が引いた。 一人ではない。 最初から複数だった。 偶然でもない。 待ち伏せされていた。 黒いワゴンが、無音のまま路地の奥へ滑り込んでくる。 ヘッドライトすらつけていない。 ——計画的だ。 そう理解した瞬間、恐怖が一段深くなった。 これは、ただの暴漢ではない。 自分を狙って、準備していた。 腕をねじ上げられ、引きずられる。 靴先がアスファルトを擦る。(
マネージャーの表情を見た瞬間、ひかるはただ事ではないと悟った。「……どうしたんですか?」 控室の空気が妙に静かだった。 さっきまで聞こえていたスタッフの声も、どこか遠い。 マネージャーは一度口を開き、すぐに閉じる。 そのわずかな仕草だけで、ひかるの胸に嫌な予感が広がっていった。 ——何かあった。 しかも、自分に関係することだ。 マネージャーは覚悟を決めたように言った。「ドラマ……『愛していると、言わせない』が、一時休止になったわ」 言葉の意味が、すぐには頭に入ってこない。「……休止?」「スポンサーが次々に撤退したの。制作側も、これ以上は続けられないって」 ひかるの手から、台本が滑り落ちた。 床に散らばる紙の音が、やけに大きく響く。「そんな……」 声にならない。 ついさっきまで、その台本を握っていた。 この作品に戻るために、どれほどの時間を費やしただろう。 事故に遭った。 眠り続けた。 身体も心も思うようにならなかった。 それでも、もう一度だけカメラの前に立ちたかった。 自分はまだ女優だと証明したかった。 そして何より——。 優と同じ場所に立ちたかった。 やっと戻ってきた場所だった。 それなのに。 また奪われる。 胸の奥が、じわりと締めつけられた。「理由は……やっぱり、私ですか?」 その問いには、ひかる自身が一番恐れていた答えが隠れていた。 自分がいるから。 自分が事故に遭ったから。 自分が戻ってきたから。 また誰かに迷惑をかけてしまったのではないか。 マネージャーは即座に首を振る。「違う。これは明らかに誰かが仕組んでる。スポンサーへの圧力、妙に揃った報道……偶然じゃない」 その瞬間、ひかるの脳裏に浮かんだのは、一人の男の名だった。 黒川彰人。 そして……雪代沙羅。 胸の奥が、ざわつく。 嫌な確信が、少しずつ形になっていく。 黒川ならできる。 沙羅なら、それを望む。 そして二人が手を組んでいるのなら——。「それと……もう一つ」 マネージャーの声が低くなる。「あなたの身に、危険が迫っている可能性があるって。藤崎さんからも、十分注意するようにって連絡が来てる」 血の気が引いた。 ドラマが中止になったことよりも、その言葉のほうが恐ろしかった。 危険。 その一言が、ひか
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直
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