「どうしようもない奴だな!」「素人以下の運転技術だ!あんな最高級マシンなのに、アクセルも踏み切れてない!」「俺はもう帰国の準備するわ。あんな恥さらしには付き合えん!」コースでは、楓と他のマシンとの距離が徐々に開いていった。前方のマシンたちのミスを待っても、一向にその兆しは見えない。なぜ誰も速度を落とさない?一台も乱れる様子を見せない。焦りが押し寄せてきた。このままでは最下位は確実だ。楓の目が次第に険しくなる。絶対に最下位なんかにはならない。まだ、最後の手が残っている。「Luna、頑張れ!Luna、頑張れ!」VIPルームでは、悠斗がコロナのミニカーを掲げながら、窓際で興奮して飛び跳ねていた。橘大奥様は椅子に座ったまま、レースには全く興味を示さなかった。今日来たのは、可愛い孫の付き添いと、悠斗が夢中になっているLunaの素顔を見るためだった。しかし大奥様にとって、Lunaなど橘家の敷居にも及ばない存在だった。聞くところによると、Lunaが五年前に引退したのは結婚・出産が理由だという。五年後の復帰について、家族の理解を得てキャリアを再開したという説もあれば、夫婦関係の破綻で生活費を稼ぐ必要に迫られたという噂もあった。どちらにせよ、大奥様の目には、女が外で稼ぐなど、夫の無能さの証でしかなかった。悠斗の後ろ姿を見つめながら、どうやって孫からLunaを新しいママにしたいという考えを消すか、思案を巡らせた。Lunaのような女なら、橘家の御曹司に気に入られ、悠斗の新しい母親になれるチャンスとあれば、きっと冬真を誘惑しようと企むに違いない。レースが終わったら、しっかりと話し合わねばならない。「悠斗くん、お水どう?」「ブドウはいかが?私が食べさせてあげる」「こっちのイチゴ、とっても甘そうよ」悠斗を取り囲むように、三人のお嬢様たちが水やフルーツの盛り合わせを手に持っていた。「いらない!どいて!見えないじゃないか!」悠斗は彼女たちを一瞥もせず、目の前に差し出されたブドウやイチゴを手で払いのけた。イチゴを持っていた女性が思わずよろめいた。ブドウを持っていた女性は、楊枝から滑り落ちる果肉を呆然と見つめた。「はちみつ水よ。こんなに応援して喉が渇いたでしょう?」もう一人の女性が諦めずに声
楓はコロナのボンネットの異変に気付き、薄笑いを浮かべた。これで減速せざるを得ない。さもなければ、事故は避けられないだろう。メカニックたちは旗を振り、ピットインを促している。タイムアタック方式のレースだ。ボンネットを直せば、まだLunaは最高タイムを狙える。しかし、コロナはピット入り口を猛スピードで通過していった。止まる気配はない。「入って来ない!」「こんな状態でどうやってレースを!?」メカニックたちも口を開けたまま、ボンネットが跳ね上がったコロナが全開で走り続けるのを見つめていた。「マジかよ!」桜都の御曹司たちは組んでいた足を下ろし、双眼鏡をスクリーンに向けた。藤宮北斗は観客席で目を見開いていた。コロナが減速する気配すらないのを見て、彼は思わず立ち上がった。隣に座る霧島葵にとって、これが初めてのレース観戦だった。だが、ボンネットが跳ね上がってドライバーの視界が遮られれば、マシンがコースアウトする可能性が高いことくらいは分かっていた。「なぜ止まらないの……」葵が手で口を覆いながら呟いた。北斗は大型スクリーンを数秒見つめた後、唇の端を上げた。この危険で刺激的な光景に、血が沸き立つのを感じる。「桜国一の女性レーサーにとって、こんなの朝飯前さ!」鹿谷は目の前の手すりを強く握りしめた。桜都戦の準備のため、夕月はこのコースを何周も走り込んだ。一日八時間以上、数えきれないタイヤを使い果たすまで。このコースの一つ一つのコーナー、ストレートが、まるで焼き付けられたように彼女の頭に刻み込まれている。五年経った今でも、夕月は目を閉じてこのコースを走れるはずだ。「なんて無謀な!」橘大奥様が侮蔑的な声を上げた。ボンネットが開いているのにピットインもしない、こんな向こう見ずな女性など認められない。悠斗と星来は全身を窓ガラスに押し付けるように立っていた。二人の表情は不思議なほど同じ。二人の子供は息を止めたまま、コロナから目を離さなかった。冬真の目はスクリーンを追い続けていた。時速300キロで疾走するコロナのドライバーが夕月だなんて、まだ信じられなかった。夕月がこれほどの運転技術を持っていたのか?橘家で一度も、その卓越した腕前を見せたことはなかったはずだ。過去を振り返っても、夕月との
観客席で北斗は父親に電話をかけていた。「父さん、楓が負けた。ああ、ビリだ。ビリから二番目との差も相当開いてる」北斗は思わず笑みを漏らし、電話からは父の罵声が響いてきた。「この間抜け娘め!脳みそ空っぽで何考えてやがる!恥かくなと言っただろうが!これで桜都中に使えない奴だってバレちまったな!」盛樹は電話の向こうで額を押さえた。「藤宮家の面目が丸つぶれだ!」「マジかよ!Lunaついに素顔を見せるのか!?」御曹司たちの興奮した声が響く。「すげえ!神秘のLunaが、ついにベールを脱ぐ!」富豪の息子たちが一斉に立ち上がり、双眼鏡やスマートフォンのカメラをコースに向けた。何気なく大スクリーンを見上げた北斗は、その場で凍りついた。手から滑り落ちた携帯が、「ガチャン!」と床に落ちる。ヘルメットを抱えた夕月が観客席に手を振ると、向けられた方向から次々と歓声が沸き起こった。「こんなに若いなんて!」「どこかで見たことある顔だ!」「藤宮夕月じゃない?!ALI数学コンテストで金賞を取った天才主婦!まさか彼女がLunaだったなんて!」「数学の天才・藤宮夕月がLuna?マジかよ!神様かよ!」Lunaの正体が夕月だと分かり、観客たちは声が枯れるほど叫んでいた。「わぁー!ママだ!」最前列で天野と鹿谷と座っていた瑛優は、大スクリーンに映る夕月を見て、興奮で席から飛び上がった。手すりに身を乗り出し、つま先立ちになりながら、天野の方を振り向いて叫ぶ。「ママってレーサーなんだよ!すごいでしょ!」伶は潤んだ瞳で微笑んだ。「僕が知ってる夕月は、桜国一の女性レーサーだからね」「わっ!」星来は両手をガラスに押し付け、瞳には無数の星が輝いているかのようだった。スクリーンに映る夕月を見つめながら、桜色の唇が綻び、真っ白な乳歯が覗いた。隣に立つ悠斗の目は焦点を失い、大スクリーンを茫然と見上げていた。そこに映る女性の姿が、まるで現実とは思えない。傍らに立つ三人のお嬢様たちは顔を見合わせ、この状況でどんな表情を浮かべるべきか戸惑っていた。悠斗の小さな体が、見えない力に打たれたかのように揺れる。全ての力が抜け落ち、かすかに震えていた。頭の中が真っ白で、考えることも、言葉を発することもできない。物心ついてからの全ての常識
「な、なんで……あの面倒くさいママが……Lunaなの!うわあああ!」真っ赤な顔で天を仰ぎ、大きく口を開けて号泣した。*「はぁ……」別のVIPルームで床に膝をついていたメカニックは、コロナが無事にゴールしたのを確認すると、背骨から力が抜けたように上半身をくずおれさせた。ようやく後ろに立つ、自分の命運を握る桐嶋涼を振り返る勇気が出た。男の視線は大スクリーンに釘付けになっていた。そこには夕月の姿だけがあった。翡翠を彫り上げたような涼の手の甲には青筋が浮かび、まるで玉の中を走る模様のよう。長い指先がガラスに触れ、そっと撫でるような仕草を繰り返す。この角度からは、まるでスクリーンの中の彼女の頬を撫でているかのようだった。切れ長の瞳に笑みを宿しながら、唇の端を上げる。スクリーンの中の夕月が不意に顔を上げ、凛とした眼差しが空間を超えて涼の視線と交差した。ガラスに置いた手が震える。まるで悪戯を見つかった子供のように。心臓が大きく二度脈打った。自嘲的な笑みを浮かべる。臆病者は、こんな形でしか心の中の月に触れられないのだと。藤宮楓はヘルメットを手に、車から降りると、表情一つ変えずにドアを閉めた。最下位とはいえ、アマチュアレーサーとしては及第点だ。メディアの前に姿を見せれば、それだけで話題性は十分。負けたとしても、カメラの前では堂々と振る舞わなければ。報道陣が入ってくるのを見た楓は、自ら歩み寄ろうとした矢先——記者たちがコロナの方へ一斉に駆け出していくのが目に入った。楓は不満げに唇を尖らせた。冬真がLunaを高額で自分のコーチとして雇おうとしていたことを思い出し、挨拶でもしておこうと考えた。バックミラーで素早く身なりを確認する。メイクは完璧。子持ちの女なんかと並んでも、品格も容姿も負ける要素なんて一つもない。大型スクリーンに背を向けたまま、人だかりの中に夕月の姿を見つけた瞬間、楓の眉間にしわが寄った。なぜ夕月がここに?その疑問が頭をよぎった直後、夕月が報道陣に囲まれているのが目に入った。「私に直接取材していただいて結構ですよ。姉とはあまり親しくないので、私のことなんて全然分かってないと思いますけど」楓は嘲るように声を張り上げた。誰一人、振り向きもしない。違和感を覚えながら更に近
その瞬間、彼女の表情が優しい笑みへと変わった。「今日、コロナを駆って戻ってきました。正体を明かしたのは、母親になっても輝ける場所がここにあると、みなさんに伝えたかったから。アクセルを踏み込んで前に進むのに、遅すぎることなんてないんです!」楓は腰に手を当てながら、目を見開いて瞬きを繰り返した。「あなたがLunaだなんて、ありえない!」これは冗談でしょ?夕月がLunaを名乗るなんて。「彼女こそがLunaだ」低く響く男性の声に振り向くと、そこには冬真の姿があった。楓は動揺を隠せず、慌てふためいた。「冬真、まさかあんたまで騙されてるの……?」冬真の両手に力が入り、青筋が浮き上がった。レース終了から数分が経った今も、まだ現実を受け入れられずにいた。激しい波のように押し寄せる衝撃が、彼の心を容赦なく打ちのめしていく。混乱する思考を必死に抑えながらも、今は夕月がLunaだという事実と向き合わなければならない。「この目で見たんだ。彼女がコロナに乗り込んで、サーキットを駆け抜ける姿を」「彼女こそが、Lunaなんだ!!」その言葉を口にした時、冬真の声は微かに震えていた。周囲の喧騒が一瞬にして消え去ったかのように感じた。冬真の言葉は青天の霹靂となって、楓の真っ白な頭の中に反響した。あまりの衝撃に、楓は無意識のうちにその現実から目を背けようとした。「そんなはず……」楓は今でも信じられないといった様子で呟いた。「ママー!」瑛優が跳ねるように夕月の元へ駆け寄った。「うん!」星来も夕月に向かって走り出した。夕月がしゃがみ込むと、星来と瑛優が幼い燕のように彼女の腕の中に飛び込んでいった。少し離れた場所で悠斗はその光景を見つめ、その場で凍りついたように立ち尽くしていた。まるで足に鉛を詰められたかのように、一歩も前に進めない。レーシングスーツを着た夕月の姿を見つめながら、今でもLunaと夕月を重ね合わせることができないでいた。悠斗は小さな唇を尖らせ、怒りの声を上げた。「どうして僕をだましたの?」夕月が顔を上げて悠斗を見つめた。報道陣も一斉に悠斗の方へ視線を向けた。注目を集めた悠斗は、胸の中の不満を一気に吐き出した。「ママは意地悪!ウソつき!桜国一の女性レーサーなのに、ぜん
「子供が強いものに憧れるのは当たり前でしょ?」楓が悠斗を擁護するように声を上げた。「もっとすごいママが欲しいって、何が悪いの?」夕月は嫌悪感を露わにして楓を一瞥した。「脳みそがピーナッツ並みのあんたに、私と話す資格なんてないわ」「あんた!」大勢の目の前で、楓は見栄を保とうと罵詈雑言を飲み込んだ。振り向いて、冬真に助けを求めるような目を向ける。冬真の表情は重く、胸の内に抑え切れない感情が渦巻いていた。灼熱の太陽が照りつける中、吸い込んだ空気は刃物のように鼻腔を切り裂いていく。「大勢の前で正体を明かしたのは、私たちに見直してほしかったからだろう」氷の張った沼のように冷たい声が響いた。夕月は冷ややかに笑った。「もう好きじゃないのに、随分と思い上がってるのね」冬真は薄い唇を固く結び、顔の輪郭さえも冷たく凍りついたようだった。「レーサーとしての正体を明かしたのは、あなたたち父子に認められたいからじゃない。ALI数学コンペに参加したのだって同じよ。今の私は、橘夫人じゃなく藤宮夕月として生きたいだけ」記者がマイクを夕月に向けた。「藤宮さん、元ご主人とお子さんとの間に深い確執があるようですが、なぜ橘家で7年も過ごされてから、今になって一歩を踏み出されたのでしょうか?」夕月の瞳が遠くを見つめるように曇った。深いため息を漏らし、「母親になったから」と答えた。子供たちが生まれてから、何度も何度も、その寝顔を見つめ、その笑顔に心を癒され、涙を拭い、小さな体を抱きしめてきた。お風呂に入れ、ご飯を作り、片言の言葉を教える日々を、飽きることなく繰り返してきた。成長の一瞬一瞬を見逃したくなかった。ただ子供たちの姿を見るだけで、心が幸せで満たされていった。お互いを愛し合えるなら、それだけで十分だと思っていた。漆黒の瞳で悠斗を見つめながら、「母親としての道を歩む中で、私は精一杯努力したわ」「ママはわざとだ!」夕月の静かな眼差しに何の期待も感じられず、悠斗は尻尾を踏まれた子犬のように激しく反応した。怒りを抑えることなく、夕月に向かって叫び続けた。「わざとすごい運転して、僕をファンにして、今日ヘルメット取って、ママを選ばなかった僕を後悔させようとしたんでしょ!」悠斗は怒りで全身を震わせ、目が真っ赤に染まっていた。「悠斗
何度も何度も転んだ時、真っ先に駆け寄って抱きしめてくれたのは夕月だった。振り返った先に楓の姿を見つけた瞬間、喉の奥の泣き声が凍りついた。楓は悠斗の頬の涙を優しく拭った。「悠斗くん、泣かないで。私のバイクで遊びに行きましょう。あの人たちのこと、気にしないの!」悠斗は鼻をすすりながら頷いた。「楓兄貴が一番優しい」「当たり前でしょ?私も悠斗くんのパパなんだから。あなたのことを大切にしないわけないじゃない。さあ、行きましょう!」楓は悠斗の手を引いて駐車場へ向かい、彼にヘルメットを被せてバイクのエンジンをかけた。鋼鉄の猛獣のような大型バイクが駐車場を出ようとした時、数人の警官が楓を探して近づいてきていた。レーシングスーツから楓だと気付いた警官は、すぐに警察手帳を取り出した。「藤宮楓!直ちに停車しなさい!」楓はアクセルを思い切り踏み込んだ!黒い大型バイクが駐車場から飛び出していく!「藤宮楓、どこへ行く気だ!」「藤宮楓!!」警官たちは楓が逃げ去るのを見て、即座に無線を取り出し、他の警官たちに連絡を入れた。「応援要請!公共安全事案の容疑者の女性が、バイクで逃走中!」「各部署注意!翡翠大通りにて検問を設置、大型バイク桜A29898の取り締まり急務!」悠斗が去った後、記者たちは再び夕月を取り囲んだ。夕月は、数人の警官がサーキットに入り、レーサーたちと話し込んでいるのに気付いた。冬真が振り向くと、涼が大きな足取りで近づいてきていた。松のように凛とした背筋、風に翻る衣服の裾、僅かに揺れる髪先、薄い唇の端に浮かぶ不敵な笑み。涼の後ろにはメカニックが一人付き添い、両手の前で上着を抱えるような格好をしていた。そのメカニックの後ろには、さらに二人の警官が控えていた。上着の下に隠されているのが手錠であることは、一目瞭然だった。警官が冬真の前に立ち、警察手帳を提示した。記者たちは血の匂いを嗅ぎ付けた蠅のように、一斉に押し寄せてきた。「橘様、お子様が藤宮楓と共に逃走しました。楓さんとの連絡にご協力をお願いしたいのですが」冬真の眉間に冷たい氷が結晶化したような表情が浮かんだ。「楓が何か問題を起こしたのか?」警官は脇に控える数人のレーサーたちを見やった。「彼女は数名のレーサーのヘルメット内に虫を仕
冬真は涼を見向きもせず、高慢な視線を夕月に向けたまま言った。「コロナの修理代は私が出す」金で解決できる問題など、冬真にとっては問題ですらなかった。「五歳の子供を大型バイクに乗せることを、少しも心配しないの?」夕月が問いかけた。男は眉をひそめた。「お前に何の資格があって、私の息子のことを心配する?」夕月は冷笑を浮かべた。「悠斗はお前に叱られて逃げ出した。楓だけが追いかけて慰めてやった。楓の運転技術は信頼している」冬真は続けた。その口調は夕月に向かってより一層冷たさを増していた。「むしろお前の方こそ、ちょっとした騒ぎで警察を呼び出して。世界中がお前に借りがあるとでも思わないと気が済まないのか?」夕月が口を開こうとした瞬間、突然の動悸が全身を無形の衝撃で襲った。四肢が痙攣し、頭の中が真っ白になり、鋭い耳鳴りで周囲の心配する声も聞こえない。「僕が支えるよ」鹿谷が駆け寄り、夕月を抱き留めた。涼の表情が曇り、鹿谷を一瞥すると、その眼底の感情はより一層冷たく沈んでいった。振り向くと、冬真の表情にも違和感が見られた。天野も夕月の傍らに寄り添い、露骨なまでの心配を示した。「夕月!大丈夫か?」鹿谷の問いかけに意識を取り戻した夕月は、自分が無意識に胸を押さえていたことに気付いた。「大丈夫、たぶんレースでの負荷が……」夕月は首を振って答えた。快晴の空の下、明るい日差しが降り注ぐ中、夕月の胸には漠然とした不安が広がっていた。バイクが公道を疾走する中、悠斗は楓の腰にしがみつき、すすり上げる鼻水を必死に堪えていた。楓は悠斗を連れて橘家に戻るつもりだった。悠斗を連れ出したのは、冬真に自分への信頼を示すため。息子のためなら、冬真も警察の件を何とかしてくれるはず。突然、数匹の蛾が目の前を横切り、ヘルメットに張り付いた。なんてこった!こんな広い道路なのに、どうして自分のヘルメットに!?楓が首を振って払おうとした瞬間、目の前に検問所が迫っていた。咄嗟に障害物を避けようとハンドルを切ったその時、バイクが制御を失った!大型バイクが横転し、楓は弾き飛ばされた。悠斗の小さな体が宙を描いて、植え込みに叩きつけられ、その四肢は不自然な角度に曲がっていた。地面に伏せたまま、楓は全身の骨が砕けるような痛
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット
降り注ぐ淡い陽光の中、冬真の頭の中で無数の蝿が飛び交うような騒がしさが渦巻いていた。*昼時、夕月は涼と共にレストランを訪れていた。涼がメニューに目を落としている間、夕月は何気なく視線を巡らせ、そこで凍りついた。少し離れたテーブルに冬真が若い女性と座っているのが目に入った。今日は厄日だったのか。あの男が視界に入っただけで胸が締め付けられる。「夕月さん、何か食べたいものは?」涼の澄んだ声に、夕月は慌てて視線を戻した。「もう他の男性に目移りですか?」涼が片眉を上げて茶目っ気たっぷりに言った。夕月は思わずナプキンで顔を隠したくなった。「あの人が見えちゃって……」頬を膨らませながら、涼に向かって舌を出す仕草を見せた。涼の目の前で、彼女の表情が途端に生き生きとして、たまらなく愛らしい。「僕の店選びが悪かったね」涼が口元を緩めて言った。「席を替わろうか?」涼の座る席は、ちょうど衝立で隠れていて、冬真からは見えない位置にあった。夕月は首を振った。「もう気付かれてると思う」冬真は席に着くなり、窓際に座る夕月の姿を目にした。スーツ姿の夕月など見たことがなかった。子供の世話に明け暮れていた元妻が、キャリアウーマンのように凛とした雰囲気を纏っているとは。一瞬、目を疑うほどだった。彼の視線に気付いたのか、夕月は顔を逸らした。もしや、自分を観察していたのか。この店は橘グループのビルから近い。夕月は自分を待ち伏せていたというのか。昼下がりの光が夕月の周りを優しく包み込み、束ねた黒髪の端が金色に輝いてい「冬真さん?聞いてらっしゃいます?」向かいに座る女性が彼の様子に気付き、その視線の先を追おうとした。その時、一本のフォークが夕月に差し出された。長く逞しい指をした男の手だった。「味見してみて」涼が切り分けたステーキを夕月の唇元まで運ぶ。夕月は頬を染めた。これは冬真に見せつけているのだろうか。口を開けて、差し出されたステーキを受け取る。瑛優以外の人に食べ物を口移しされるのは、なんだか変な感じ。夕月の頬が薔薇色に染まる。まるで本当に恋をしているみたいだった。涼が分けてくれたステーキは、確かに美味しかった。冬真は突然立ち上がった。向かいの女性が驚いて身を引く。男から放たれる威圧的
楓は期待に満ちた目で彼を見つめた。しかし、男の表情は冷ややかなままだった。「お前は悠斗の人生を台無しにした。刑務所に入らないで済むと思っているのか?甘すぎる」その声に、楓は全身の血が凍るのを感じた。「やだ……刑務所なんて嫌!汐だって、私が刑務所に入るなんて望んでないはず……昔は警察に捕まっても、汐がすぐに助けに来てくれたのに……」楓は涙を流しながら、必死に首を振った。男は彼女の言葉を冷たく遮った。「それは汐の話だ。私は違う。私は悠斗の父親なんだ」冬真は、もはや楓を非難する言葉すら口にしなかった。バイクに悠斗を乗せた彼女の無謀な行動も、あれほど止めていたのに。楓の考えは見え透いていた。悠斗が自分に懐いていれば、どんな面倒を起こしても冬真が庇ってくれると。そして事実、汐との絆を考えて、冬真は何度も彼女を見逃してきた。だが今回は違う。我が子がICUに運ばれるところまで追い詰められた。もう、彼女の行動を許容できる限界を超えていた。楓は彼から放たれる威圧的な雰囲気に萎縮し、赤く腫れた瞼を震わせた。「今日、私が来たのは……汐との約束があったからだ。お前の面倒を見てやってくれと」冬真は差し入れの入った袋をテーブルに置いた。留置場でゆっくり正月を過ごすといい」立ち上がって背を向けた冬真に、楓は必死な声で叫んだ。「私の部屋の化粧台、二段目の引き出しに古い携帯があるの。汐が……最期に残した伝言が入ってるわ」その言葉に、冬真の足が止まった。「本当は教えるつもりじゃなかったの。でも冬真、汐の死の真犯人はまだ罰を受けていないのよ!」冬真がゆっくりと振り返る。その鋭い眼差しは、まるで楓の心の奥底まで見通すかのようだった。「その犯人というのは……」楓は冬真の鋭い視線に震えながら、「私の家に行って、汐の最期の声を聞いて。冬真、また会いに来てね……」もう後がない。楓は、ここまで追い込まれた自分の境遇を肌で感じながら、全てを賭けた一手を打つことを決意した。留置場を出た冬真の携帯が鳴り響く。母親からの着信に、思わず眉間にしわが寄った。無視しようとしたが、執拗に鳴り続ける着信音に、結局応答せざるを得なかった。「はい、母上」「冬真、お見合いの約束を入れたわよ。正午にムードレストランで。お相手は……」冬
「私のため?」盛樹の体が震えた。雅子は髪を弄びながら、シートに片手をついた。深く開いたスーツの襟元には何も着ていない。少し前かがみになると、盛樹の視線は自然とその谷間へと吸い寄せられ、思わず喉が鳴った。目の前で艶やかに揺れる魅惑的な曲線に、盛樹は我を忘れ、ただ真紅の唇の開閉を追いかけるばかり。「藤宮テックを買収したいの」「な、何だって?」盛樹は再び震えた。しなやかな指が彼の太ももに触れる。「盛樹さん、私の願いを叶えて?」盛樹は鼻腔が熱くなり、全身が強張る。もはや自分の言葉すら制御できない。「い、いいとも……」雅子が片方の唇を上げて笑う。対面に座っていた北斗が耐えきれず口を開いた。「父さん、確か買収案件は全て夕月に一任したはずでは?」「夕月?」雅子が首を傾げた。盛樹は北斗を睨みつけながら答えた。「私の娘だ。雅子さん、彼女に関するニュースを見たことがあるだろう?」「海外にいたものでね。国内の話題にはうとくて」雅子は首を振った。盛樹は誇らしげに語り出す。「うちの娘はALI数学コンペで金賞を取ったんだ!それだけじゃない。あの有名なレーサー、Lunaとしても活躍している。この前の国際レース・エキシビションにも出場したんだよ。七年間も主婦をしていたのに、社会に出るや否や八面六臂の活躍ぶり。すごいと思わないかい?」「主婦がコンペの金賞?何か裏があるのでは?」雅子は物思わしげに呟いた。「うちの娘は14歳で花橋大学の飛び級に入った天才なんだ!」盛樹は興奮気味に反論する。雅子は艶のある眼差しを向けながら、「でも、ALIコンペが主婦に金賞を与えるなんて……研究に打ち込む院生や博士たちに失礼じゃないかしら?それに、また主婦に戻るかもしれないのよ?」「そ、それは……」盛樹は言葉に詰まった。「七年も主婦をしていた人が、急にレース界に現れるなんて。プロのレーサーたちはどう思うでしょうね?」盛樹は雅子の言葉に次第に説得され始めていた。「でも夕月は買収案の責任者として、二つの有力な買い手を見つけてきた。ムーンワールドグループ傘下のフェニックス・テクノロジーと桐嶋氏の引力テクノロジーが競合していて、引力は4000億もの高値を提示してきたんだ」「雅子おばさん」北斗が割り込む。「うちの会社、いくらで買収するつもり?」雅
「#楼座雅子帰国#」というトレンドワードが瞬く間にネットを席巻した。「女帝、お帰りなさい!」「楼座雅子様の帰国で、桜都の名門家に激震が走るぞ」「楼座雅子って誰?すごい人なの?」「知らないとか、さては2000年代生まれでしょ」年配のネットユーザーたちが、次々と解説を始めた:楼座家は桜国を代表する財閥の一つ。古くから金融界に君臨してきた名門で、雅子は楼座家が迎えた養女。今年で47歳。25年前、彼女と楼座家三兄弟との愛憎劇は、長編小説が書けるほどの話題を呼んだ。最終的に、雅子は心を閉ざし、楼座財閥の経営に専念。三人の兄は、一人が不具に、一人が精神を病み、もう一人は出家した。25年前、雅子は最も注目された女性実業家で、メディアは彼女の出現を「新時代を切り開く女性の幕開け」と称えた。子供は一人もおらず、結婚歴もない。だが、世界中から才能ある少女たちを養女として迎え入れ、育て上げた。その養女たちは今や、各界で活躍する著名人となっている。*桜都国際空港。VIP専用ゲートの前で、盛樹は真っ赤なバラの花束を抱え、首を伸ばして待ちわびていた。その横で北斗は両手をポケットに入れ、退屈そうにガムを膨らませては潰す。「パチッ」という音が何度も鳴り響く。「うるさい!」盛樹が苛立ちを爆発させた。「私が雅子を迎えに来てるのに、お前は何しに来たんだ」北斗は艶のある瞳に笑みを浮かべる。「父さんの忘れられない初恋の人が、もしかしたら僕の母親かもしれないじゃない」盛樹が何か言おうとした瞬間、黒いスーツワンピースを纏った女性が姿を現した。漆黒の髪が滝のように流れ、真紅の唇が艶めく。サングラスを外すと、まるで花のように美しい横顔が露わになる。時の流れが彼女だけを特別扱いしたかのように、年齢を感じさせない艶やかな表情。丸みを帯びた顔立ちに、凛とした眉目は妖艶な大人の魅力を漂わせていた。10センチの厚底ヒールを履いた足取りは、まるでランウェイを歩くモデルのよう。「雅子!」盛樹の目が釘付けになる。楼座雅子の後ろには、黒い制服に身を包んだ六人の精悍な男たちが整然と並び、30インチの黒いスーツケースを手に、まるでトップモデルのような佇まいで従っていた。北斗は盛樹と共に歩み寄る。「雅子おばさん」北斗は雅子の顔をじっ
「……もう一つは桐嶋さんが率いる引力テクノロジーからの提案です。買収額400億、全従業員と部門の維持、そして新オーナーの下での独立経営を保証する内容となっています」盛樹は真っ先に引力テクノロジーの企画書を手に取り、数ページ目を捲って呟いた。「400億?なぜ桐嶋さんがこれほどの高額を……」涼は椅子に深く寄りかかり、どこか投げやりな態度で答えた。「美人の笑顔一つのためさ。夕月さんへのプレゼントってところかな」盛樹の疑わしげな視線が、夕月と涼の間を行き来する。「夕月さんは僕の彼女だからね」涼は続けた。「彼女が喜ぶなら、それだけで価値があるさ」盛樹は驚愕の表情で夕月を見つめた。「お前と桐嶋さんが……」実は盛樹は、娘のために離婚歴のある実業家を何人か物色していた。早く夕月を片付けて、藤宮家の利益になる縁戚関係を作りたかったのだ。まさか、あまり期待していなかった長女が、こんな大きな驚きを用意していたとは。「やるじゃないか、夕月」盛樹は満足気に顎を撫でながら、口角を上げた。他の役員たちも内心で思いを巡らせていた。まさか桐嶋が長年独身を通してきたのは、橘冬真の妻を想っていたからとは。盛樹は引力テクノロジーの企画書を手に、零れそうな笑みを必死に押さえ込んだ。「400億か。さすが桐嶋さんだ」「夕月さんのことは随分前から好きでした」涼は率直に言った。「今、やっと付き合えることになった。だから、彼女が喜ぶ数字を出させてもらいました」声のトーンを落として続ける。「藤宮社長、断る理由はないでしょう?」グラスを指先で回しながら、一滴の水も零さない。「断るなんて、少し物分かりが悪すぎますよね」涼は軽く笑ったが、漆黒の瞳に鋭い光が宿る。「冗談ですよ。義父上を脅すわけないじゃないですか」その傲慢な眼差しに、盛樹は凍りついた。「義父上」という言葉に、体が震える。まさか、娘を遊び半分で口説いているわけではない?興奮で手を擦り合わせながら、何か言おうとした瞬間、テーブルの上の携帯が震えた。最初は無視するつもりだったが、画面を見た途端、また体が震えた。慌てて電話に出る盛樹。声が震えている。「も、もしもし……」女性の声が響いた。「盛樹さん、帰国したわ」盛樹は立ち上がった。「会議は一時中断!空港まで行っ
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付