義弟の花嫁になります〜私を手放した元夫が今更狂い始めました〜

義弟の花嫁になります〜私を手放した元夫が今更狂い始めました〜

last updateLast Updated : 2026-08-31
By:  堀河弥子Ongoing
Language: Japanese
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結婚7年目の記念日、夫・司に5年間隠していた息子の存在を打ち明けようとした結衣。しかし、夫は帰らず、待っていたのは息子の急病の知らせだった。病院で彼女が目にしたのは、弟の婚約者と密会し、その妊娠を喜ぶ夫の姿。「お前を愛するつもりはない」と言われながらも、かつて自分を救ってくれた彼を信じ、尽くしてきた7年間は、残酷な裏切りによって終わりを告げた。「私、離婚する。もうあの人のところに戻らない」固く決意した結衣は、夫を欺きながら離婚の準備を始める。感情を殺し、完璧な妻を演じる彼女の姿に、司はこれまで感じたことない焦燥感と執着を拗らせていくーー。

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Chapter 1

第一話

 今日は結婚7年目の記念日。

 結衣は今日こそ夫である司に5年間ずっと内緒にしていた『あのこと』を打ち明けようと決めていた。

 一日せわしなく動いている彼女だが、疲れは思ったよりも体に感じてはいなかった。

 キッチンに立ち、司の好む豪華なディナーをせっせと作る。

 時折鏡の前に向かい、結衣は自分自身の姿を品定めするように何度も確認していた。

 今日のために用意した司好みのワインレッドのカクテルドレス。普段の結衣なら自分では選ばないようなものだ。

 髪も朝早くから美容院に行って、綺麗にセットしてもらっている。

 鏡の中の女性は、小ぶりな整った顔立ちに清楚感のある丁寧な薄化粧を施している。

 うっすらと浮かんでいる目元の隈から疲労感が伝わるものの、いつもよりはマシなものだった。

 しかし、今まで経験した苦労から得られた滲み出る色気と、気品の高さが今の結衣には漂っていた。

「……司さん、喜んでくれるかな」

 ポツリと零された言葉には、大きな不安と少しの期待が詰まっていた。

 結衣は、最後の仕上げに香水を手首に吹き付ける。

 本当は、むせかえるようなバラの匂いの香水は苦手だった。けれど、数少ない帰宅を果たす際、司からはいつもこの香りが漂っていた。

 苦手なこの香りを纏う自分は司の物だという実感が湧くものだった。

 冷徹な夫でも、記念日くらいは早く自分のために帰ってきてくれるはずだと、結衣は少しだけ期待していた。

 オーブンから完成を告げる音が響く。

 オーブンから取り出し、出来上がった料理を、今日のために用意したテーブルクロスを引いた机に並べていく。

 どれも結衣の自信作だ。

 後は、あのことを打ち明ければ……。

 司に見せるため用意した封筒を眺め、結衣は少しだけ緊張した表情を浮かべた。

 封筒の中から1枚の写真を取り出す。

 そこには満面の笑みを浮かべ、元気にポーズを決める男の子が写っていた。

 顔立ちが司とそっくりで、目元が結衣に似ている可愛らしい男の子。

 私との間に5歳の子供がいることは、司はまだ知らない。

「お前を愛するつもりはない」

 7年前の結婚式の日、司から放たれた言葉。

 結衣は酷くショックを受けたものの、頭の片隅では今も鮮明に覚えていた。

 彼女の親はとても裕福な家庭だった。

 しかし、父親の事業が失敗し、多額な借金を作ってしまう。

 借金取りの男に「娘を売ってくれれば、借金をチャラにしてやる」と言われ、彼女は信じていた両親に売られたのだ。

「私たちを助けるためだと思って許してくれ……!」

 両親に言われた言葉は今でも信じられない物だった。

 連れて行かれそうになり、思わず逃げ出した結衣。

 後ろから追いかけてくる足音と怒声。

 必死に助けを求めても、周りの人は誰一人として助けようとはしてくれなかった。

 借金取りの男たちに追い詰められ、絶望の淵にたっていた。

 ――あの時、彼女の前に現れ、救ってくれたのは司だった。

 真っ黒な高級車から降りて、結衣の前に立ち、冷たい表情で司は手を差し出す。

「このまま彼奴らの言いなりになるか、俺に付いてくるか、選べ」

 吐き捨てるような言い方ではあったが、その時の冷淡な瞳に映っていたのは、結衣の姿だけだった。

 絶望の中でもっと闇の深くに墜ちるところだった彼女を、彼のその言葉と差し伸べられた手に救われた。

 颯爽と目の前に現れ、救ってくれた司に恋をした。

 だからこそ、結衣は司から離れることが出来ずにいる。

 別に彼に深く愛されなくてもいい。自分が彼を深く愛せれば。

 せめて普通の夫婦のようにいられれば、それだけで結衣は十分だった。

 過去の思い出に耽っている間に、どんどん料理が冷めていた。

 結衣の期待する気持ちも、料理のように冷え切ってきている。

 どれだけ待っても司は現れなかった。

 記念日だからと期待していた分、心には激しい虚しさが広がっていく。

 分かりきっていたはずなのに、なぜ今日に限って期待してしまったのだろうと、気恥ずかしくなり、彼女は冷め切ったディナーを片付け始めた。

 ――でも、子供のことも……。

 机に置いていた写真を手に取り、愛おしそうに見つめ、結衣の唇から小さく苦笑がこぼれ落ちた。

 司に対しての期待はどうしても消えきれないようだ。

 やっぱりまだ……。

 すると、スマホにけたたましく着信を知らせる音が鳴り響いた。

 司からかもしれない。

 そう思い、心を軽く弾ませながら通話に出る。

『もしもし、総合病院の緊急外来です。水原奏太くんの保護者の方でしょうか?』

 緊急外来からの電話に、彼女は嫌な予感が脳裏を過った。

『奏太くんが先ほど、激しい呼吸困難で意識を失い、救急車で搬送されました。現在集中治療室で――』

 その先の言葉は、結衣の耳にはもう届いてなかった。

 スマホの向こうから降ってきた絶望に、彼女の顔から血の気がみるみるうちに引いていく。

 結衣は手元にあった封筒を咄嗟に掴み、バックに押し込むと、すぐさま駆け出した。

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第一話
 今日は結婚7年目の記念日。 結衣は今日こそ夫である司に5年間ずっと内緒にしていた『あのこと』を打ち明けようと決めていた。 一日せわしなく動いている彼女だが、疲れは思ったよりも体に感じてはいなかった。 キッチンに立ち、司の好む豪華なディナーをせっせと作る。 時折鏡の前に向かい、結衣は自分自身の姿を品定めするように何度も確認していた。 今日のために用意した司好みのワインレッドのカクテルドレス。普段の結衣なら自分では選ばないようなものだ。 髪も朝早くから美容院に行って、綺麗にセットしてもらっている。 鏡の中の女性は、小ぶりな整った顔立ちに清楚感のある丁寧な薄化粧を施している。 うっすらと浮かんでいる目元の隈から疲労感が伝わるものの、いつもよりはマシなものだった。 しかし、今まで経験した苦労から得られた滲み出る色気と、気品の高さが今の結衣には漂っていた。「……司さん、喜んでくれるかな」 ポツリと零された言葉には、大きな不安と少しの期待が詰まっていた。 結衣は、最後の仕上げに香水を手首に吹き付ける。 本当は、むせかえるようなバラの匂いの香水は苦手だった。けれど、数少ない帰宅を果たす際、司からはいつもこの香りが漂っていた。 苦手なこの香りを纏う自分は司の物だという実感が湧くものだった。 冷徹な夫でも、記念日くらいは早く自分のために帰ってきてくれるはずだと、結衣は少しだけ期待していた。 オーブンから完成を告げる音が響く。 オーブンから取り出し、出来上がった料理を、今日のために用意したテーブルクロスを引いた机に並べていく。 どれも結衣の自信作だ。 後は、あのことを打ち明ければ……。 司に見せるため用意した封筒を眺め、結衣は少しだけ緊張した表情を浮かべた。 封筒の中から1枚の写真を取り出す。 そこには満面の笑みを浮かべ、元気にポーズを決める男の子が写っていた。 顔立ちが司とそっくりで、目元が結衣に似ている可愛らしい男の子。 私との間に5歳の子供がいることは、司はまだ知らない。「お前を愛するつもりはない」 7年前の結婚式の日、司から放たれた言葉。 結衣は酷くショックを受けたものの、頭の片隅では今も鮮明に覚えていた。 彼女の親はとても裕福な家庭だった。 しかし、父親の事業が失敗し、多額な借金を作ってしまう。 借金取りの男に「
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第二話
 雨が降っていることも気にならないほど、結衣は必死にタクシーを捕まえ、運転手に行き先を告げる。 たどり着くまでの間、結衣はただ祈ることしか出来なかった。 お願いします、神様……! 私の大事な子を奪わないで……! そんな願いを心の中で何度も繰り返す。「お客さん、着きましたよ」 運転手に告げられ、結衣は多めのお金を渡し「お釣りはいりません」と伝えた。 病院の受付に息を切らしながらたどり着き、彼女は取り乱しながら奏太の無事を尋ねる。「奏太は、奏太は大丈夫なのでしょうか……?!」 受付の女性がどこかに連絡を取り、こちらを安心させるような笑顔を浮かべた。「先ほど処置が終わり、病室に移動されています。部屋番号は206号室です」 女性のその言葉に結衣は心底安堵しながら、お礼を告げた。 奏太が何とか一命を取り留めた。その奇跡に感謝した。 早く、奏太に会いたい。奏太をこの腕で抱きしめたい。 彼女はそう思い、病室へと足を進めた。 廊下には自分の歩く靴の音以外何も聞こえない。 雨に打たれていたせいか、少し肌寒さを感じる。 雨の匂いに混じって、司の為に付けていた香水の香りがふわっと香った。 その香りで、司が傍に居てくれるように感じ、結衣の心は落ち着きを取り戻していった。「えっと、206……、206はどこだろう?」 壁に掛かっていた案内板を確認し、再び廊下を進む。 渡り廊下を通り、産婦人科エリアに差し掛かった、その時。 そこに見慣れた男女の姿があった。 ドクンっと心臓が跳ね上がる。 何度も思い焦がれ、ずっと見つめていた結衣が見間違えるはずがない。 司が他の女性を抱きしめていた。 自分に向けるときは冷ややかな氷のような瞳が、とても愛おしそうな、甘い視線で抱きしめている女性を見つめている。 いつも無表情だったその顔は、春の日差しのように温かい笑みを浮かべている。 それだけで、その女性のことが司にとってとても大切な人であることが、結衣には伝わってきた。 ふと、その女性の顔が見え、結衣は息をすることさえ忘れてしまった。 一ノ瀬香織――司の弟である律の婚約者だ。 何故彼女が、司の腕の中にいるのか。結衣には理解が出来なかった。「あんまり慌てるな。子供を身籠もっているのだから……。足下に気をつけろ」 司の口から溢れ出た愛おしそうな声色とその
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第三話
 結衣は頭をすっと下げ、二人の横を何事もなかったように通り過ぎようとする。 しかし、その態度に苛立った司が、彼女の腕を掴んだ。「なんだ、その態度は」 怒りの籠もった司の瞳を、結衣は感情の籠もっていない真っ黒な瞳で見つめ返した。 司は、彼女の冷め切った瞳を見て、今までにない激しい苛立ちを覚える。 掴んだ腕にギリギリと力を込めながら、射貫くように睨み付けた。「こんなとこまで勝手に着いてきといてその態度はなんだ? 香織を怯えさせて、母体にストレスを与えたんだ、謝れ」 腕を掴まれて痛むはずなのに、結衣は眉1つ動かさない。ただ静かに司の手を見下ろしていた。「痛いです。離してください、神谷さん」 彼女の言葉に、司は目を見開く。 結衣は今まで「司さん」と呼んでいた。 それが急に他人行儀な呼び方に変わっている。 司の中で激しい焦燥感が生まれる。なぜ、こんなにも焦っているのか、彼自身にも分からなかった。「おい、お前……、今俺をなんと……?」 動揺のあまり、司の指先からわずかに力が抜ける。 その時、彼は初めて結衣の姿をちゃんと見た。 いつも地味な格好で、慎ましやかな彼女が、今は鮮やかなワインレッドのドレスを身に纏っている。 雨に濡れたせいで、少し落ちてしまっているが化粧も施されている。 怒りを秘めた彼女の横顔、そして微かに潤むその瞳からは、今まで自分に向けていた感情が一切抜け落ち、光を放っていた。 数年前、初の個展を開き、多くの人々に賞賛を受け、堂々と作品の前に立っていたあの頃と、全く同じ光を放つ彼女は、まるで一輪の薔薇の花のようだった。 司は一瞬だけ呆然と見惚れてしまう。 ……そういえば、今日は、何の日だった――? その一瞬の隙を突くように――。「何の騒ぎですか?」 看護師が慌てて駆け寄ってきて、彼女から司を引き剥がした。 結衣から引き離され、司の心はざわつく。 今にも彼女が自分の元から消えてしまいそうな、そんな予感が走る。「大丈夫ですか……?」 結衣は看護師に「大丈夫です」と伝え、二人に一瞥する。「少し言い争いになってしまっただけです。それでは、失礼します」 結衣は二人に冷たくそう言うと、看護師に連れられてその場から離れた。 看護師に206号室まで案内してもらい、結衣はやっと奏太の元へ行けると心を撫で下ろす。 病室に
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第四話
 家に戻るが、そこには司の姿はなかった。 以前の結衣なら、気にしていただろう。 しかし、今の結衣にとっては好都合だった。 片付け途中のディナーを無表情でゴミ箱へと入れていく。 静まりかえった部屋には、結衣の自信作だった物がゴミ袋の中に落ちていく音だけが響いていた。 結衣は不意に香った自分が纏う司の好む匂いに、激しい不快感を覚え、すぐさま浴室へと向かった。 ワインレッドのドレスを乱暴に脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。 温かいシャワーを浴びているのに、頭の芯だけは冷え切ったままだった。 今まで司に尽くしてきた自分に対する嫌悪と、哀れさに、無意識に乾いた笑みが出る。 彼の好む香りを全て落とし、結衣は浴室から出た。 すると、いつの間にか帰ってきたのか、司がリビングのソファーに座っていた。 そんな彼を居ないもののように、結衣はスッと横を通り過ぎる。 いつもの彼女だったら、帰ってきた司に駆け寄り「おかえりなさい!」と犬のように出迎えていた。 いつもと違う結衣の異常な行動に、司は眉をひそめる。「まだ拗ねているのか? お前がストーキングしていたのが悪いだろう。香織に謝罪の連絡を入れておけよ」 彼の言葉に結衣は、今まで見てきた中で一番美しい笑みを浮かべる。「承知しました。遅くなりましたが、お帰りなさいませ。お食事は済まされましたか? 先程の件ですが、神谷家の名に泥を塗るような真似をしてしまい、申し訳ございませんでした。明日、一ノ瀬さんにはお詫びの品をお送りしておきますね。――とでも言えば満足でしょうか?」 淡々と告げられた言葉に、司は混乱する。 いつもだったら縋ってくる彼女が、取り乱すこともなく笑みを浮かべている。 司の心にじわじわと焦燥感と戸惑いが蝕む。「あぁ、お前は仮にも神谷家の人間だ。二度と馬鹿な真似はするな」 司はいつものように言葉を返すも、戸惑いは消えていなかった。 結衣の心臓が、チクリと痛む。結局、何を言っても、何をしても、この男にとっては私のわがままでしかないのだ。 この7年間、義母からの心無い罵倒に耐え、司を優先し、自分を押し殺してきた。だからこそ、この男は私のすべてを軽視し、無視できるのだ。 自分には香織のように愛される存在ではない。 泣き叫ぼうが、甘えようが、この男には一切通用しない。神谷司という男は、最初から私に興
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第五話
 結衣の奴、一体何を考えているんだ? そんなことをして俺の気を引こうとしているのか? いつものように家事を行う結衣の背中を、司は眉根を寄せて忌々しげに見る。 彼女が自分の元を去ったところで、痛くも痒くもない。そう思っているのに、胸の奥底で燻る正体不明の感情と焦燥感に、司は激しく頭を悩ませていた。 元々彼女の天才日本画修復師という肩書きを神谷家のために使えると判断して、妻に迎えた。 物分かりも良く、従順で、自分に一切面倒をかけない『都合のいい妻』。 ビジネスとしても役に立ち、自分の思い通りに動いてくれる結衣は神谷家の駒にすぎない。 ――だが、最近の結衣は、見ていてどうしようもなく……苛立たせてくる。 彼女の向けてきていた本当の笑顔を見たのは、いつが最後だっただろうか……。 書斎のデスクに座ってもなお、司の心は酷く乱れていた。 ふいに脳裏へ過ったのは、結衣と初めて出会った時のこと。 あの頃の結衣は、日本画の前に堂々と立ち、自信に溢れた光を灯す瞳をしていた。 誰もがそんな彼女の姿に目を奪われ、視線を釘付けにされるほど、彼女は輝いていた。「……結衣」 司はデスクの傍らに飾られたフランネルフラワーをじっと見つめる。 白い花びらを持ち、可憐で儚げな花。今までの結衣の姿と重なる花だが、この花は厳しい環境でもじっと耐え綺麗な花を咲かせる。 完璧な笑顔の仮面を崩さない彼女は、これから花を咲かせる前のように感じる。 このまま結衣が、自分の手の届かないところへ消えてしまうのでは無いか――そんな正体不明の不安が、激しい不快感と共に司を何度も襲う。 しかし、どうであろうと結衣は俺の所有物であることには変わらない。俺の元から去ることは有り得ないことだ。 司はスマホを取り出し、秘書にこう伝える。「妻の動向を調べろ。それから、――至急調べてほしいことがある」 淡々と伝え、通話を切った司は、苦々しげに彼女の名を呟いた。 ――最近の司は、なぜか毎日のように家に帰ってくるようになった。 微かに不安を覚える一方で、結衣は酷く疲弊していた。いつもなら、愛しい奏太の写真を眺めるだけで疲れが取れていたのに、今は違っていた。ここから無事に奏太を連れて出て行くために、奏太に関する写真などをすべて非表示にして隠したからだ。 無事に離婚さえ出来れば……。 ベッドの中で、
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第六話
 司と同じベッドで、ある意味眠れない一夜を過ごした次の日の夕方のことだった。 薫から「準備が整った。今夜迎えに行く」と連絡が入った。 幸い、司から出かける前に「今夜は遅くなる」と告げられていた。 ここから逃げ出すには絶好の日だと、結衣は心の底から喜ぶ。 結衣はクローゼットから荷物を取り出し、時間に備える。 7年間過ごした場所だが、心残りなど何1つ残ってなかった。 結衣は静まりかえったリビングに向かい、ガラステーブルの上に薫から預かった白い封筒を2つ並べる。 1つは、神谷家から奏太を完璧に守り通すための条項が書かれた『離婚届』 もう1つは、司と香織の言い逃れを許さない『不倫の決定的な証拠』「さよなら、神谷さん」 もう二度と戻らない我が家を一瞥し、結衣はバッグを肩にかけて玄関へと向かう。 玄関のドアノブに手をかけようとした、その時だった。 カチャリという鍵の開く音が、静まりかえった玄関に響いた。 ドアが開くと、そこには遅く帰ると言っていたはずの司の姿。「……どこへ行くつもりだ?」 結衣の手にある荷物へ目を向けた瞬間、司の声が地を這うように低く、冷たく玄関に響いた。 一歩、また一歩と司が距離を詰めてくる。 至近距離で見上げる彼の体躯は圧倒的で、結衣は嫌でも二人の体格差を意識させられる。 彼の表情はいつものように冷淡そのものだったが、瞳の奥底に、分厚い氷の下で燃えさかる炎のような、深い怒りに似た感情が渦巻いていた。 その危険な気配に圧倒され、結衣は言葉を失う。無意識にバッグを背後に隠し、じりっ、と後退する。 しかし、その拒絶を示す行動が、かえって司の逆鱗に触れた。 ――ドンッ! 鼓膜を震わせる大きな音に、結衣は身体を跳ね上がらせた。 気付けば、彼女は司の逞しい腕によって、玄関のドアと彼の身体の間に完全に閉じ込められていた。 司の鋭い視線と、自身の睫毛を揺らすほどの荒い呼吸が、容赦なく結衣に降り注ぐ。「神谷さん、私はちょうど、今からここを出て行くところです」「……リビングのテーブルに『プレゼント』をおいておきましたので、どうぞお一人でご確認ください」 友人宅に預けている奏太のことが頭によぎり、彼女は多くを説明するつもりは無かった。 司は名にも答えない。代わりに大きな手が伸び、彼女の顎を容赦なく掴み、無理矢理上を向かせた
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第七話
 司の強引な口づけに、結衣は目を見開く。薄く開いていた口の中には舌がねじ込まれた。 激しく抵抗するも、彼の力と体格差には敵わず、彼の思うがまま口の中を蹂躙される。 結衣は力を振り絞り、彼の舌に強く噛みつく。 急に訪れた痛みに、司は思わず結衣から顔を離した。彼の口の端からは血が流れている。 たじろぐ司に、結衣は彼の頬に激しいビンタをお見舞いした。 結衣のその反撃は、司の支配欲と怒りにますます火を付けることになる。 司は彼女をドアに強く押しつけ「夫の欲望を処理するのも妻の義務だろう」と冷酷に言い放った。 司の言葉に、あの日の苦痛を思いだし、結衣は絶望するも、最後の力を振り絞って叫んだ。「夫婦間であっても、強制性交罪にあたりますよ!」 威嚇した猫のように叫ぶ結衣。そして、これまで集めていた香織との不倫の証拠である写真を突きつけた。その写真に司は眉を少し動かす。 この証拠を武器に、立場を逆転させようと結衣は必死だった。「不倫ごときのスキャンダルで神谷家の品格を下げたくないでしょう? 早く離婚届にサインをしてください! 私をあなたから解放して……!」 これでこの男から逃げられると、結衣は確信していた。 しかし、そんな彼女の姿を嘲笑い、司は絶望的な言葉を突きつけた。「お前たちが俺のことを嗅ぎ回っていたのは知っている。ほら、お前の仲間たちに電話してみろ。それでお前の立場が分かるはずだ。結衣、お前は俺から逃げることは出来ない」 余裕そうな司の姿に、結衣は眉を潜めながら、恐る恐る冴に電話をかけた。 ワンコールで繋がった電話の先では、冴が「ごめん、本当にごめん……!」と泣き叫んでいた。「集めていた証拠のURLを奪われた上に、薫が1億円の損害賠償で訴えられたの……! 結衣、本当にごめんなさい……! こんなことになるなんて思わなかった……。救えなくてごめんね……!」 冴の言葉に、結衣の顔はどんどん青ざめていく。 ――最初から分かってて、私たちを嵌めたのね……! 親友たちを人質に取られ、結衣は最初から司に泳がされていたことに気付いた。「どうして……? どうして、実家も名声も失った私に何故そこまで執着するの……?!」 泣きながら問う結衣に対し、司はただ冷徹にこう告げる。「お前はただ神谷の妻の座に居座り続けろ、逃げることは許さない」 その言葉にカ
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第八話
 インターフォンの音が鳴り響き、司は舌打ちをしながら荒々しくドアを開ける。 そこには満面の笑みを浮かべた香織の姿があった。呼んでもいないのに勝手に現れるのはこの女の悪い癖だと司は思う。「司さぁん、電話に出ないから来ちゃった♡」 呑気にそんなことを言いながら司の腕に絡みついてくる香織。スマホを確認すると、香織からの着信が大量にあり、司は頭を抱える。 あまりのタイミングの悪さに、司は小さく舌打ちをした。今は香織を相手にしている暇など無い。 今は香織よりも結衣が優先だ。彼女に自分の立場を分からせ、二度と反抗しないようにしなければ。 しかし、香織はズカズカと玄関に入ってくる。今は帰って欲しいと思い、司は香織を止めようとするがその前に座り込んでいる結衣の姿を見られてしまう。 涙に濡れ、荷物の傍で座り込む結衣に対し、勘違いをしたらしい香織はクスクスと笑いながら彼女に近づく。「あら、お姉様、こんなところに座ってどうしたんですかぁ?」 嘲笑いながら、香織は結衣を挑発する。そんな香織に司は苛立ちを覚える。「おい、香織! 今は帰ってくれないか」 司が香織に話しかけるも、聞き耳を持たず結衣に話しかけ続ける。頼むから余計なことをするな、と心の中で司は愚痴た。「とうとう司さんに愛想を尽かされたんですね! みっともなく縋り付いてないでさっさと出て行ってくださいよ、お姉様!」 香織は結衣の荷物を外に投げ、結衣の腕を掴む。 引きずるように結衣を外に出そうとする香織に、司は止めに入る。「おい、やめろといっているだろう」「だって、司さん、お姉様が邪魔になったんでしょう!」 香織と司が言い争いを始めた。そんな二人を呆然とみていた結衣だったが、だんだんと頭が覚醒し出す。 これはチャンスだと思い、落ちていた荷物をひったくりそのまま外へと駆け出した。「結衣! 待て!」 後ろで司が叫ぶ。しかし、振り返ること無く結衣は必死に走り続けた。 外は大雨。ずぶ濡れになりながらも、結衣はただひたすらに走り続ける。 この後どこに行くかなんて決まってはいない。それでも、とにかくあの場から逃げ出さなければ、壊れてしまっていただろう。 そんな結衣の横に一台の車が寄ってくる。「結衣さん」 聞き覚えのある声に、結衣は思わず足を止めた。「こんなところでどうしたんですか?」 声の主は
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第九話
 香織のせいで結衣が出て行ったことに、司は激しい苛立ちを覚えた。 こいつがいきなり家に来なければ、結衣が逃げ出すことは無かったというのに……! しかし、結衣に行く当てなんか無い。実家に売られ、帰る家はここだけなのだ。 帰ってくるのは時間の問題だ。司はそう考え、苛立ちを押さえる。 帰ってこないということは、自ら親友を裏切ることにもなる。彼女にそんなことは出来ないだろう。 司は泣いて詫びを入れながら帰ってくる結衣の姿を思い浮かべ、ほくそ笑む。 隠していた子供のことも、彼女から聞かずとも調べれば分かることだ。子供の正体も結衣を追い詰める鍵になるだろう。 とにかく今は、この女をどうにかするべきだ。そう思い、怒り狂う香織にむき直した。「司さん! なんで、あの女を止めるの?! 私さえ居ればいいじゃない!」 キンキン声で叫ぶ香織に嫌気がさしながらも、司は彼女の頭を撫でる。「すまない。まだあいつは利用価値があるんだ。――愛しているのは香織だけだよ」 優しげに笑う司。そんな彼の姿に機嫌を直したのか、香織は嬉しそうに彼に抱きついた。「そんなにはしゃぐな、お腹の子がびっくりするぞ」 司は優しい手つきで香織のお腹を撫でる。そんな彼に、香織はそっと顔を近づけてキスを強請る。 香織とキスなんて何度もしてきている。だが、先程の結衣と交わしたキスを上書きされるような気がして、司は心の中がモヤモヤとした不快感に襲われた。 ――だが、ここで断ると余計に機嫌を損ねてしまうな……。 司は不快感を押さえながら、香織にキスを落とした。 先程の結衣とのキスとは全く違う感触。夢中になる香織と反対に司は上の空だった。 律と結衣を乗せた車は、薫と冴の元にたどり着いていた。 インターフォンを押すと、目を腫らした冴がドアを開け、結衣の姿を見た瞬間涙を溢れさせ、彼女に抱きついた。「結衣、結衣ぃ……! 本当にごめん、ごめんね……!」 泣きじゃくる冴を宥めながら、結衣は薫の姿を探す。 「冴、私は大丈夫だから……。ところで薫は?」 「薫は、奥にいるよ……。それより、結衣その人は?」 冴は律を睨みながら尋ねる。結衣は少し困りながらも「彼は、味方よ。詳しくは中で話すから」と説明する。 中に入り、奥に向かうとうなだれている薫の姿があった。その顔は少しやつれているように見える。「薫
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第十話
 律は結衣達を車へ案内し、運転手に出すよう告げる。 初めて乗る高級車に、奏太は何処か興奮気味だ。そんな奏太を微笑ましく見つめる結衣。 向かった先は、律が神谷家から与えられている別荘だった。 与えられているというよりは、本家から隔離されているような物だ。 臭いものに蓋をするというような形で、それでいてみすぼらしい物は神谷家の恥になる。 その結果、こんな離れた土地にこんな豪華な家を建て、律に与えていたようだ。 初めて見る凄く豪華な家に、奏太はますますはしゃぐ。そんな奏太のよそに結衣達は、あまりの豪華さに唖然としていた。「しばらくはここが家だと思って、ゆっくり過ごしてください」 律にそう言われ、結衣達はそれぞれ案内された部屋に荷物を運んだ。 結衣は奏太と同じ部屋に案内される。その部屋には、子供が喜びそうなおもちゃなども用意してあった。 律の気遣いに結衣は感謝しながら、荷解きを始める。奏太の洋服や持ってきていたお気に入りのおもちゃなども置いていく。「今日からママとずっと一緒なの?」 奏太にそう言われ、結衣はハッとする。こんな風に奏太と二人きりで過ごすのは初めてだと気付いた。「えぇそうよ。これからはずっとママと一緒だよ!」 結衣の言葉に奏太はとても嬉しそうに笑い、抱きつく。親子二人きりの時間に、結衣は思わず涙ぐんでしまった。 そんな結衣に、奏太は自慢のおもちゃなどを彼女に見せ、子供らしい可愛らしさで甘えた。 今までの奏太は、どこか結衣に遠慮をしているようなところがあった。 だが、今は年齢に合った甘え方をしてくれている。それが結衣にとってとても嬉しかった。 しばらく奏太との二人きりの時間を楽しんでいたところ、コンコンとドアをノックされる。 ドアを開けると、そこには律の姿があった。こんな時間にどうしたのだろうか? 結衣は不思議に思いながらも、律を迎え入れようとする。「結衣さん、少し
last updateLast Updated : 2026-08-13
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