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第240話

Author: こふまる
何度も何度も転んだ時、真っ先に駆け寄って抱きしめてくれたのは夕月だった。

振り返った先に楓の姿を見つけた瞬間、喉の奥の泣き声が凍りついた。

楓は悠斗の頬の涙を優しく拭った。

「悠斗くん、泣かないで。私のバイクで遊びに行きましょう。あの人たちのこと、気にしないの!」

悠斗は鼻をすすりながら頷いた。「楓兄貴が一番優しい」

「当たり前でしょ?私も悠斗くんのパパなんだから。あなたのことを大切にしないわけないじゃない。さあ、行きましょう!」

楓は悠斗の手を引いて駐車場へ向かい、彼にヘルメットを被せてバイクのエンジンをかけた。

鋼鉄の猛獣のような大型バイクが駐車場を出ようとした時、数人の警官が楓を探して近づいてきていた。

レーシングスーツから楓だと気付いた警官は、すぐに警察手帳を取り出した。

「藤宮楓!直ちに停車しなさい!」

楓はアクセルを思い切り踏み込んだ!

黒い大型バイクが駐車場から飛び出していく!

「藤宮楓、どこへ行く気だ!」

「藤宮楓!!」

警官たちは楓が逃げ去るのを見て、即座に無線を取り出し、他の警官たちに連絡を入れた。

「応援要請!公共安全事案の容疑者の女性が、バイクで逃走中!」

「各部署注意!翡翠大通りにて検問を設置、大型バイク桜A29898の取り締まり急務!」

悠斗が去った後、記者たちは再び夕月を取り囲んだ。

夕月は、数人の警官がサーキットに入り、レーサーたちと話し込んでいるのに気付いた。

冬真が振り向くと、涼が大きな足取りで近づいてきていた。

松のように凛とした背筋、風に翻る衣服の裾、僅かに揺れる髪先、薄い唇の端に浮かぶ不敵な笑み。

涼の後ろにはメカニックが一人付き添い、両手の前で上着を抱えるような格好をしていた。

そのメカニックの後ろには、さらに二人の警官が控えていた。

上着の下に隠されているのが手錠であることは、一目瞭然だった。

警官が冬真の前に立ち、警察手帳を提示した。

記者たちは血の匂いを嗅ぎ付けた蠅のように、一斉に押し寄せてきた。

「橘様、お子様が藤宮楓と共に逃走しました。楓さんとの連絡にご協力をお願いしたいのですが」

冬真の眉間に冷たい氷が結晶化したような表情が浮かんだ。「楓が何か問題を起こしたのか?」

警官は脇に控える数人のレーサーたちを見やった。「彼女は数名のレーサーのヘルメット内に虫を仕
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    瑛優が夕月の反対側に駆け寄り、回し蹴りを繰り出そうとした瞬間。「夕月ちゃん……」聞き慣れた声に、瑛優は蹴りを寸止めした。「おばあちゃん?どうしてここに?」瑛優は首を傾げた。夕月は驚きの目で心音の姿を見つめた。真冬だというのに、心音は薄手の白いシルクのワンピース一枚。素足は寒さで真っ赤に染まっていた。夕月には、なぜ母がこんな姿でいるのか理解できなかった。「お母さん、靴は?」心音の頬は真っ赤で、髪は乱れ、瞳には涙が溜まっていた。「うっ……うっ……」拳を握りしめ、涙を拭う。「雅子さんが戻ってきたって聞いて、すぐ盛樹さんに電話したの。でも出てくれなくて……空港まで追いかけたら、盛樹さんと雅子さんが……うぅぅっ……胸が張り裂けそう!」これまで心音は盛樹に大切にされてきた。夕月でさえ、二人は仲の良い夫婦だと思っていた。今日の重役会議での盛樹の様子、出迎えに行った後、午後は会社に姿を見せていなかったことを思い出す。夕月にとって、新任副社長としては盛樹が会社にいない方が都合が良かった。「お母さん、どうするの?あの人と離婚するの?」夕月は尋ねた。夕月はあの男を父と呼ぶのも吐き気がした。大粒の涙を浮かべた心音は甘えた声で叫んだ。「夕月ちゃん、なんてひどいこと言うの!あなたは不幸な結婚生活を送ったからって、みんなにも同じように離婚して、誰からも愛されない女になれって言うの?」夕月は容赦なく母に白眼を向けた。心音とは分かり合えないのだ。心音は盛樹が引き取った孤児で、年の差は十歳。中学を卒業してからは学校に行っていない。初めてそのことを聞いた時、夕月は衝撃を受けた。でも心音は「私、頭が悪くて成績も良くなかったの。盛樹さんが大切に育ててくれて、何不自由なく暮らせたわ」と言うばかりだった。「じゃあ、私のところに来た理由は?」夕月は問いかけた。心音は荒れた唇を尖らせ、真っ赤な指で夕月の服の裾をつかんだ。「夕月ちゃん、なんとかして!あなたは私の娘なのよ!娘なら母のために、パパの心を取り戻すべきでしょう?それが娘の務めよ!よそから来た女狐に、パパを奪われるのを黙って見てるなんて……」「でも、おばあちゃん。ママは私に前のパパの気を引くようなこと、一度も頼まなかったよ」瑛優が口を挟んだ。「もう!おばあちゃん

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    だが夕月は集中して涼のボタンと格闘していた。ハンドソープで滑るボタンは確かに扱いづらい。冬真の被害妄想じみた言葉など、無視するつもりだった。涼は首を傾げ、軽蔑の眼差しを冬真に向けた。「僕の彼女が服を脱がせてくれて何が悪い?時代錯誤も甚だしいね。そんな化石みたいな価値観で生きてて疲れないのかい?」最後の言葉に込められた皮肉が、空気を切り裂いた。冬真の瞳孔が一瞬で縮む。全身を鈍器で殴られたような衝撃と痛みが走る。「お前、自分の言葉の意味が分かってるのか?」苦笑いを浮かべながら、「離婚してどれだけ経ったと思ってる?」夕月は冬真など眼中にもない。「ふぅん?離婚したのに、あなたのために独り身でいろっていうわけ?笑わせないでよ」涼の手を汚さないよう、自分でシャツを脱がせていく。その体は完璧な均整を保っていた。過剰な筋肉ではなく、しなやかな肉付きが美しい。胸板から腹部にかけての曲線は生まれながらの造形美で、後天的なトレーニングでは到底得られないものだった。夕月は思わず息を呑んだ。男性の魅力が波のように押し寄せ、頬が熱くなる。彼女の頬の薔薇色に気付いた涼は、低く響く声で囁いた。「僕と橘さん、どっちが綺麗?」確実に冬真に聞こえる声で投げかけられた質問に、冬真の呼吸が止まる。夕月は笑みを浮かべた。「あなたよ」さらに追い打ちをかけるように続ける。「肌は透き通るように白くて、筋肉のライン、それに腰の感じも……たまらないわ」涼の腰は確かに美しかったが、その褒め方には何か色めいた響きが混ざっていた。「ん……」涼は唇を舐めながら、自分で罠を仕掛けたことに気付く。血の気が上り、耳まで真っ赤に染まっていく。冬真は内臓を掻き回されるような苦痛を覚えた。ふと目にした鏡の中の自己は、充血した目と殺気立った表情で、まるで別人のようだった。今の自分は一体、何という姿をしているのか。「夕月!彼と付き合うのは、私を苛立たせるためか?」冬真は軽蔑的な笑みを浮かべた。「似合わないぞ。桐嶋のやつ、すぐにお前を捨てるはずだ」両手をポケットに突っ込み、夕月の表情が暗く曇るのを待った。夕月はようやく彼を見た。「橘社長、人の恋愛に首を突っ込むのが趣味になったの?暇そうね。でも、元奥さんの願いはただ一つ。目の前からさっさと消えてく

  • 再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない   第263話

    まるで鈍器で殴られたかのような衝撃が冬真を襲った。涼の罠に嵌まるべきではなかった。だが夕月が涼を擁護する言葉を聞いた瞬間、誰かが錐で胸を刺し貫いたような痛みが走る。飛び散る血が、網膜を真っ赤に染め上げた。涼は夕月を見つめ、無言のまま口角を上げた。夕月には分かっていた。彼が意図的に冬真を挑発していることを。それでも涼は、自分を守ろうとする彼女の姿に密かな喜びを覚えていた。涼は再び冬真に視線を向け、露骨な挑発の色を瞳に宿らせる。夕月の前に立ち、庇うような仕草を見せながら、「ハンドソープを掛けてくるかもしれない」と告げた。冬真の喉まで血が上り、吐き気を催した。ビジネスの世界を渡り歩いてきた彼でさえ、これほどの陰湿な手を使われたことはなかった。しかも男子トイレには防犯カメラもない。夕月の前で自分の潔白を証明する術がなかった。「冬真さん、あなたの性格は分かってる。殺されても桐嶋さんに謝らないでしょう。謝れないなら、スーツ代を弁償して。でなければ警察を呼ぶわ。10万円以上の器物損壊は重大な案件よ。毎日のように警察沙汰にしたいなら、私は止めないけど」涼は身を屈め、夕月の耳に十センチほど近づいた。わざと冬真に聞こえる声で囁く。「夕月さん、優しいね」冬真の拳は力が入り過ぎて、皮膚の下から骨が白く浮き上がっていた。次々とトイレに入ろうとする男たちが、夕月の姿を見るなり慌てて引き返していく。ドアの外から囁き声が漏れ聞こえてきた。「今、橘社長が見えたような……」橘グループのビルに近いこのレストランには、社員たちもよく訪れる。用を足せなくなった男たちは、仕方なく外でタバコを吸い始めた。「話は大体分かった。桐嶋さんが社長の元奥さんと付き合ってて、社長が激怒してハンドソープ掛けて突き飛ばしたんだって」外からの声に、冬真の体が震えだした。もはや濡れ衣を晴らすことなど不可能だった。「美人のためとはいえ、随分と荒れてますね。まあ、藤宮さんのような素晴らしい女性なら、二人の男が争うのも当然か」さらに声が潜められ、「あのさ……さっき聞いたんだけど、桐嶋さんの方が橘社長より、その、ピン……」壁は薄く、全ての噂話が冬真の耳に届く。冬真は外に出て、盗み聞きをしている社員たちを即刻解雇しようと思った。そう思

  • 再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない   第262話

    涼は寂しげに顔を背け、自分の惨めな姿を見られまいとするかのようだった。「どうしたの?」夕月は急いで尋ねる。涼の上半身が何か粘つく液体で濡れているのに気付いた。「この服はどうしたの!?」涼は体を起こし、夕月との距離を取った。「大丈夫だよ。橘さんは関係ない。きっと故意じゃなかったはずさ」男の声音には、強がりが滲んでいた。夕月は事態を悟った。「あの人があなたを突き飛ばしたの!?」涼は唇を引き結び、「本当に大丈夫だよ、夕月さん」と宥めるように言った。「服まで汚されたのね」夕月の声音に確信が滲んだ。涼はポケットを探りながら、説明を避けた。「ここで待っていて。スマートフォンを拾ってくるよ」夕月が男子洗面所に足を踏み入れた瞬間、冬真の顔を目にして、頭の中の血が沸騰した。「橘冬真、あんた正気!?」冬真は唖然とした。涼の口元が僅かに歪み、得意げな笑みが浮かぶ。その表情が冬真の目に刺さった。ゆっくりと身を屈めて端末を拾い上げる涼。画面に入ったヒビを、確実に夕月の目に入るよう手にした。罠にはめられた——冬真は気付いた。今頃夕月は、自分が涼を殴り、突き飛ばし、スマートフォンまで叩き付けた様子を想像しているに違いない。血が逆流し、喉に甘く生臭い味が広がる。涼が夕月の指先に触れるのを、ただ見つめることしかできない。「もう行こう。橘さんは僕らを見るだけで苛立つみたいだし、気にすることないよ」よくも目の前で元妻の手に触れられる——「押していない。端末も投げてない!夕月、彼の嘘が分からないのか?」冬真は息を切らしながら言った。「奴が自分でハンドソープを被ったんだ。私がそんな下らないことをすると思うのか?」夕月の眼差しには何の感情も温もりもない。かつて冬真が彼女を見つめた、あの冷たい視線そのままに。「人を突き飛ばすのは、初めてじゃないでしょう」夕月の言葉が冷たく響く。大きな腹を抱えたまま床に倒れ込んだ彼女の姿が、冬真の脳裏を走り抜けた。「物に当たるのだって、いつものことじゃない」汐が亡くなった年、冬真の感情は制御を失っていた。荒れ狂った後の惨状を、大きな腹を抱えた夕月が黙々と片付けていた。「桐嶋さんはあんなに純粋な人なのに。あなた以外に誰が意地悪するっていうの!?」冬真は息が詰ま

  • 再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない   第261話

    冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今

  • 再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない   第260話

    長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット

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