翌朝、ダイニングで冬真は上品な手つきで朝食を口に運んでいた。佐藤さんがコーヒーを運んできて、ふと気づく。今日の冬真はなぜか機嫌が良さそうに見えた。内心で佐藤さんは驚いた。夕月と冬真の離婚以来、橘邸全体が重苦しい雲に覆われたようになっていた。冬真が家にいない時はまだましだが、彼が帰宅すると、使用人たちは息をするのも辛く感じるほどだった。心の中で佐藤さんは神に祈った。この好機嫌が少しでも長く続いてくれますように。でなければ、本気で辞表を叩きつけたくなってしまう。階段から悠斗が降りてきて、佐藤さんは慌てて明るく迎えた。「坊ちゃま、今日は随分早起きですね。お声をかけなくても、もうお目覚めで。坊ちゃまもだんだん大人になられて」佐藤さんは必死に褒め言葉を並べる。悠斗は典型的な寝起きの悪い子で、しかも相当な寝起きの機嫌の悪さを見せる。以前は悠斗を起こし、身支度の世話をするのは全て夕月の仕事だった。後にその役目を引き継いだ佐藤さんにとって、それは言葉にならない苦痛だった。「坊ちゃま、お身支度はもうお済みですか?そちらにお掛けになって、お食事をご用意いたします」佐藤さんがダイニングを出ようとした時、悠斗が口を開いた。「昨夜、僕が眠ってる間に誰か部屋に入ってきた?」「まさか、そんな方はいらっしゃいませんよ」佐藤さんは反射的にそう答えたが、はっと思い出した。深夜、悠斗の部屋から出てくる冬真の姿を見かけたことを。あの時刻なら、悠斗は確実に眠っていたはずだ。佐藤さんの視線が思わず冬真へと向かうと、当の本人は何事もないかのように優雅にナイフを動かしている。悠斗の言葉に微塵も動揺した様子はない。「坊ちゃま、夢でも見られたのでは?」佐藤さんは慌てて取り繕う。悠斗はテーブルに着くと、冬真に向かって言った。「ママの服の匂いが変わってる」冬真は聞こえないふりを続けた。「廊下の防犯カメラを調べたい。僕が寝てる間に、誰かがママの服をこっそり替えたんじゃないかって」冬真はあっさりと応じた。「好きにしろ」廊下のカメラには既に手を回してある。悠斗がいくら調べようとしても、何も出てこないはずだった。悠斗の頬がぷっくりと膨らみ、怒りで真っ赤になった。「服をすり替えた悪い奴を絶対に見つけ出してやる!むかつく!せっかく瑛優から貰った大切な服な
冬真は悠斗が取り出したその服を見た瞬間、瞳の奥の感情が氷のように固まった。「これ、瑛優がくれたんだ。パパ、この服覚えてる?」悠斗がそう言いながら見上げてくる。夕月との離婚後、冬真は二人の間にあった過去を振り返ることなど、ほとんどなかった。しかし、普段なら気にも留めない人々のこと、とうに忘れ去ったと思っていた出来事が、今この瞬間、鮮明すぎるほどに冬真の脳裏に蘇ってきた。あの日、悠斗の誕生日会で、彼の視線は淡々と、無関心に夕月の姿をひと撫でしただけだった。自分は何も記憶していないと思い込んでいた。だが冬真が改めて思い返してみると、忌々しいことに、彼の記憶の中では夕月のあの時の表情や仕草の一つ一つが、スローモーションのように脳内で再生されていた。前髪が濡れそぼり、片方の肩に小さな水滴が付いていた。雨が降る中、瑛優に傘を差してやったせいだった。個室の外から入ってきた彼女は、化粧っ気のない顔に疲れが滲み、視線は悠斗だけに注がれていた。悠斗が冬真のことを口にした時だけ、光を失った瞳がそっと冬真の顔を素通りしていく。彼女はずっと前から、もう彼を愛してはいなかった。それなのに冬真は、夕月の心の変化に気づくことなど、一度もなかった。なぜなら彼は、自分の妻のことなど、とうの昔に気にかけることをやめていたのだから。我が心に戻った冬真の前で、悠斗は夕月の服を抱きながら布団に潜り込んだ。「今夜はママの服と一緒に眠れる。すごく幸せ」冬真の喉から苦笑が漏れる。子どもというのは実に単純だ。たった一枚の服で、これほど満たされた顔をするのだから。悠斗は顔の下半分を夕月の服に埋め、眉間の皺も和らいでいる。以前のような険しい表情は、どこにも見当たらなかった。「瑛優がなぜその服を?夕月の指示か?」「違うよ。瑛優が選んだの」悠斗が答える。「瑛優が言ってた。この服は僕にとっても、ママにとっても特別な意味があるって。ママは大切に取ってあるけど、もう二度と着ることはないんだって」そこで悠斗は深いため息をついた。俯きながら呟く。「ママがもう戻ってこないこと、僕と瑛優がもう昔みたいには戻れないこと……考えると、すごく悲しくなる」ベッドに横たわったまま、悠斗は服をぎゅっと抱きしめ、感情を押し殺したような冷たい冬真を見上げた。頬を膨らませて言う。「
「悠斗くん、どうしたの?」クラスメイトたちが心配そうに声をかける。でも悠斗は答えない。衣服を抱きしめたまま、ただひたすら泣き続けた。橘邸に帰った悠斗は、まるで魂が抜けたようにぐったりしていた。佐藤さんでさえ、悠斗の様子がおかしいことに気づいた。「坊ちゃま、どうなさいました?先生から伺ったのですが、今日は休み時間に泣いていらしたとか……瑛優お嬢様に何かされたのですか?」橘家の使用人たちは皆、悠斗の一挙手一投足を注視している。佐藤さんが把握しているのは、悠斗が瑛優と何か話した後、突然泣き出したということだけだった。悠斗は首を振る。「瑛優は僕を叩いてない……もう、一人にして」自分の部屋に戻ると、悠斗はドアを閉めて鍵をかけた。ランドセルから紙袋に包まれた衣服をそっと取り出す。ベッドに腰かけ、その服を胸に抱きしめると、顔をうずめた。懐かしい香りが鼻腔を満たす。母親の匂い――まるで羊水に包まれているような、安らぎに満ちた香り。悠斗の震える体が、少しずつ落ち着いていく。でもこの香りは、いつかは消えてしまう。ママを失ったように。そして瑛優は言った。これが最後だと。もう二度と、ママの服を分けてくれることはないのだと。だって、もう家族じゃないから。「ひっく……」涙があふれ出すと、悠斗は慌てて袖で目元を拭った。夕月の服を少し遠ざけて、大切な衣服に涙や鼻水がつかないよう気をつける。これは、ママが残してくれた最後の形見なのだから。夜になって冬真が帰宅すると、佐藤さんが悠斗の学校での様子を報告した。「担任の先生のお話では、坊ちゃまが瑛優お嬢様と何か話された後、急に泣き出されたとのことです。きっと瑛優お嬢様に何かされたのでしょう。坊ちゃまは面子もおありでしょうし、妹君のことを庇って、本当のことをおっしゃらないのかと……」佐藤さんは一息つくと、さらに続けた。「今日はお帰りになってから食欲もないとおっしゃって、お部屋にお食事をお持ちしても、ほとんど手をつけていらっしゃいません」ひとしきり話したものの、冬真の表情は微塵も変わらない。業を煮やした佐藤さんが、率直に口を開いた。「冬真様、坊ちゃまのためにも、きちんと対処していただかなければ!」階段を上がりかけていた冬真の足が止まる。「何を対処しろと?」「瑛優お嬢様が坊ちゃま
瑛優の声が教室に響く。「あの日、ママが私たちのために特別に着てくれた新しいお洋服よ。でも悠斗は、ちゃんと見てくれなかったでしょ?」悠斗の頭がうつむく。小さな肩が震えているのが見えた。「あの日は……私とママにとって、とても辛い一日だった」瑛優が続ける。「何日も前から、悠斗と一緒にお誕生日をお祝いするのを楽しみにしてたのに。でも、全然楽しくなかった。ママはまだあの日の服を持ってるけど……きっと悲しい思い出があるから、もう着ることはないと思う」瑛優の声が少しかすれる。「悠斗……来年の誕生日は、もう一緒にお祝いできないのね」悠斗の記憶は恐ろしいほど鮮明だった。あの誕生日の日、夕月が来てくれた時も、彼はほんの一瞬しか母親を見なかった。それでも、あの時の夕月の装いを完璧に覚えている。いつからだろう――夕月への苛立ちが、心の奥で膨らみ始めたのは。夕月の顔を見るだけで、胸の奥が熱くなって、何もかもが嫌になった。夕月が口を開くたびに、耳を塞いでしまいたくなった。「ママ、すごくダサいよ!楓兄貴の服装はかっこいいのに!ママ、学校にお迎えに来ないで。恥ずかしいから!楓兄貴みたいに、かっこいいバイクで迎えに来てよ!」あの頃の悠斗は、楓を異常なほど崇拝していた。楓の一挙手一投足を真似して、いつか自分も楓のような人になれると信じていた。ママの服装は他の上流家庭の奥様方と比べて少し控えめだっただけなのに――学校の保護者たちは皆、夕月の上品で親しみやすい装いを素敵だと感じていた。でも悠斗にとって、ママが楓兄貴のように派手な服を着て、大型バイクに乗ってこない限り、おばあちゃまの言葉が正しく思えた。「ママは田舎者で、何の取り柄もない女」だと。あの誕生日、夕月は息子のためにいつもより華やかに装った。メイクを施し、髪もセットして、みんなの前で浮かないように、悠斗に恥ずかしい思いをさせないように。それなのに悠斗は、美しく着飾った母親をまともに見ようともしなかった。この間ずっと、悠斗は誕生日の記憶から目を逸らし続けていた。夕月に戻ってきて欲しいと泣き叫びながらも、自分がどうやって母親を一歩ずつ追い詰め、遠ざけてしまったのかを直視しようとしなかった。瑛優から渡された服を握りしめながら、悠斗はあの日のドレスの色の一部しか覚えていない。それを着た夕月がど
量子科学・社長室――夕月が何気なくスマートフォンを手に取ると、社内グループチャットの未読メッセージが数千件まで膨れ上がっていた。「一体、何が起きたの……?」チャットを開いて今朝のやり取りまでスクロールすると、ある社員が投稿した一枚の写真が目に入った。綾子が両手いっぱいにコーヒーを4、5袋ぶら下げて、エレベーターを待っている姿だった。「これ、少なくとも15、6杯はあるでしょ?」「橘グループに内通者いるの?白状しなさいよ〜」「みんな橘グループに知り合いぐらいいるって。これ、友達が送ってくれた写真よ」次々と、量子科学を去った社員たちの写真がアップされる。橘グループに吸収された彼らは皆、最下層の雑用ばかりやらされているようだった。「友達から聞いたんだけど、安井綾子についていった連中、みんな騙されたって思ってるらしいよ。今、安井に説明を求めてるんだって」「だから言ったじゃない。橘グループの社長は人を骨の髄まで絞り取る男よ。桜都で有名な吸血鬼について行って、皮一枚剥がされないだけマシだったってことね」チャットの内容を一通り確認していると、天野からのメッセージが飛び込んできた。粉々に砕けたドローンの写真と共に、長文が送られてくる。「今朝、お前の家のベランダにドローンが侵入した。俺がストレージコードと録画データを解析させたところ、このドローンは橘グループの所有物だった。朝のマンション外の防犯カメラの映像によると、午前7時に橘冬真の愛車がマンション前に停車。恐らくあいつがドローンを操縦してお前の家に侵入させたんだろう。物干し竿の服を引っ掛けようとした瞬間、俺が叩き落とした」そして最後に、天野らしい直球の質問が続いた。「橘の野郎、お前の服を盗んで何をするつもりだ?」夕月が返信しようとした瞬間、今朝の瑛優の言葉が蘇った。悠斗がママの服を欲しがっている――「まさか……」冬真は悠斗のために、わざわざドローンを飛ばして自分の服を盗もうとしたのだろうか?自分の息子に対して、そこまで愛情深い父親だったとは。だとしても、やり方が最低すぎる!天野からの追加メッセージが画面に浮かんだ。「マンション周辺にドローン妨害装置を増設した」夕月は素早くキーボードを叩く。「受け身で橘冬真を警戒してばかりじゃ、根本的な解決にならないわ」
「橘冬真!あなたの秘書ったら、私にコーヒーを18杯も買いに行かせて――」綾子の声が廊下に響く。「仕事リストは書類のコピーとファイリングばかり。これじゃまるで雑用係じゃない」冬真の足が止まる。表情は石のように無表情だった。「それらの業務をこなせないってことか?」綾子は深く息を吸い込むと、声を張り上げた。「あなたの秘書は私を雑用係扱いしてるのよ!楼座社長が高額でM国から私を招聘した時、量子科学では顧問職だったの。藤宮夕月が横から出てこなければ、私が量子科学のトップになっていたはず――」冬真の唇が冷ややかに歪んだ。「橘グループを辞めて量子科学に戻るか、与えられた雑用をきちんとこなすか……どちらかだ」綾子の瞳孔が震える。言葉を発する前に、冬真が再び口を開いた。「そんな簡単な雑用すらできないなら、清掃部はまだ人手不足だぞ。掃除くらいはできるだろ」綾子の奥歯がギリギリと音を立てた。「私をスカウトしたのは、こんな雑用をさせるためだったの?」冬真が鼻で笑う。「他に何があるんだ?嫌なら今すぐ辞めてもらって構わない。引き留める気は毛頭ない」綾子の両手がぎゅっと拳を作る。橘グループ初出勤の日に、一日ももたずに逃げ出すなんてことになったら、桜都での自分の立場は完全に終わりだ。息が詰まりそうになりながら、綾子は声を絞り出した。「高額で私をスカウトしておいて、雑用係にするなんて……それで元が取れると思ってるなら、やってやるわ」「高額?」冬真の鼻から小さな笑い声が漏れる。その嘲笑は誰の耳にも明らかだった。「生活アシスタントの研修給与は月10万円だ。きちんとできなければ、本当に人事部に解雇してもらう」綾子の瞳孔が一気に広がった。「月100万円じゃなかったの?なんで10万円なの?」男の視線が虫けらでも見るように冷たくなる。「100万円?お前にその価値があるとでも?」無表情のまま綾子の脇を素通りしようとする冬真を、綾子が振り返って呼び止めた。「10万円の給料なんて、何回か食事したら無くなっちゃうじゃない!橘冬真、量子科学と同程度とまでは言わないけど、私の経歴を考慮して、せめて正社員として月200万円ぐらいは――」冬真が振り返る。まるで馬鹿を見るような目つきで綾子を見つめた。「藤宮夕月にでも、もう一度頼んでみたらどうだ?」綾子の唇が一本の線のように