悠斗は振り返り、自分の世話をするアシスタントを見た。アシスタントは両手で頭を抱え、崩れ落ちた講堂の一部を恐怖に満ちた目で凝視していた。突然、アシスタントは服の裾が引っ張られるのを感じた。下を向くと、悠斗がしがみついていた。悠斗の頬は真っ赤に染まり、顔じゅうが涙と鼻水で濡れ、べとべとになっていた。「ママ……中で死んじゃうの?」もう一度、アシスタントに問いかける。アシスタントは足を踏まれたかのように飛び上がった。「わ、わかんないよ!」講堂の下見は何度もしたのに。まさか講堂の上層部が老朽化していたなんて。こんなに早く火が講堂の天井を焼き抜くなんて!「あり得ない……」アシスタントは呟いた。資料によれば、講堂の上層部は防火材料を使っているはずだった。だから彼は上層部に火をつける計画を立てたのだ。もともとの想定では、可燃物が燃え尽きれば、講堂内の火は自然と消えるはずだった。だが今、アシスタントは別の可能性に思い至った。講堂上層部の建材レポートが偽造されていたのだ!誰かが防火材料の予算で懐を肥やし、実際には粗悪な材料を使ったに違いない!理論上、桜都の一流私立学校である桜井幼稚園の建築設計と材料は最高級のはずだった。しかし皮肉にも、予算が潤沢だったからこそ、着服の余地が生まれたのだろう。この結論に至り、アシスタントの顔は死人のように青ざめ、髪は汗でびっしょりと濡れていた。*講堂内:夕月はヘアピンを必死に動かし、ついにロープの結び目が緩んだ。「うぅっ!!」星来は夕月に何かを伝えようとしたが、声が出せない。焦りが募る一方だった。夕月にここから早く逃げてほしかった。さっきロッカーの中で目を覚ました時、講堂で何が起きているのか全くわからなかった。夕月がロッカーを開けてはじめて、講堂が火事だと知った。夕月の上着が顔を覆っているおかげで、呼吸する空気はそれほど喉を刺激しなかった。彼は知っていた。夕月は息を殺しているということを。彼女の顔は息を止めているせいで、真っ赤になっていた。星来の瞳から、湧き水のように涙が溢れ出た。「うぅ……」冷静になろうと必死だった。一音一音、夕月に伝えようとした。だが喉からは、一つの完全な音すら出せない。「に、げ……!!!」その声は掠れ、喉を刃物で貫かれたかのよ
涼はスマホ画面をタップし、通話追加ボタンを押した。天野に電話をかける。通話が繋がると、涼はイライラした声で言った。「どこに消えてた?修行の旅にでも出てたのか?近所のお爺さんまでもう杖ついて消火活動に参加してるぞ!」「うるさい!」天野の声が聞こえた。何かに覆われたような、少しくぐもった声だ。涼は彼がすでに呼吸マスクを装着したのだろうと推測した。「今から入る!」天野はそう告げると、電話を切った。*講堂二階:悠斗は夕月のスマホを手に、部屋から飛び出した。画面に表示された「桐嶋涼」という文字を一瞥すると、すぐに通話終了ボタンを押した。階段を駆け下りる。この火事は自分が命じて起こしたものだ。アシスタントが確実に守ってくれるはずだから、講堂内にいても安全なはずだった。だが、周囲の温度が上がっていくのを肌で感じ、濡れたハンカチで口を覆っていても、あの不快な匂いは避けられなかった。悠斗は恐怖に胸が締め付けられ、階段を降りるとすぐに講堂の大扉へと駆け出した。講堂の外には四、五台の消防車が停まり、消火活動中の消防士たちが小さな子供が飛び出してくるのを見て、すぐに集まってきた。「パパッ!!」悠斗は警戒線の外に立つ冬真を見つけると、興奮して叫んだ。その時初めて、自分の声がかすれていることに気がついた。冬真は悠斗の叫び声を聞くと、警戒線を引きちぎるように突き破り、駆け寄った。彼は悠斗の背後を見た。他に誰も出てこない。冬真の心臓は水中に落ちた石のように沈んでいった。「夕月は?」彼は切迫した声で尋ねた。悠斗は目を真っ赤にし、声に不満と恨みを滲ませた。「まだ中にいるよ」冬真はさらに焦った。「なぜまだ中にいる?」悠斗は夕月からもらったハンカチをギュッと握りしめた。彼の眉間には「川」の字のしわが寄り、それは眉をきつく寄せた冬真のしわとほとんど同じだった。「星来くんを選んだからだよ!」悠斗は怒りを爆発させるように叫んだ。「ママは僕なんていらないんだ!僕って本当に藤宮夕月の子供なの?」悠斗は泣き声で冬真に訴えた。「どうして星来くんのことばかり気にして、僕のこと気にしてくれないの!?僕はただ、前みたいに家族で一緒にいたいだけなのに!!」大粒の涙が真珠の首飾りが切れたように、悠斗の赤く熱を帯びた頬を伝って流れ落
ロッカーに倒れ込んだ星来は、大きく見開いた目で悠斗を見つめていた。スマホ越しに悠斗の言葉を聞いた涼は、片腕を胸の前で組み、もう一方の手で顎に触れながら、冷たい眼差しでパソコン画面に映る監視カメラの映像を見つめた。そこには悠斗が星来を部屋に押し込む様子が映っていた。運転席の後ろに立つ瑛優は、シートに両手を置き、目を見開いていた。漆黒の瞳が震えている。「二人とも必ず助けるわ!」夕月の返答に、悠斗は満足しなかった。「ダメだよ!どっちか一人しか選べないんだ!」悠斗は夕月の腕を掴み、目には執着と懇願が入り混じっていた。「ママ!星来くんは大丈夫だから、一緒に出よう?僕たちで外に出て、パパと一緒になれば、また幸せな家族に戻れるんだよ!」夕月は突然何かを思い出したように、身体を横に向け、リュックから一本のヘアピンを取り出した。ロープの結び目にヘアピンを差し込み、ほどこうと試みる。彼女は集中し過ぎて、耳元で話す悠斗の声を自然と遮断していた。悠斗が何を言っているのか、もはや聞こえていなかった。「悠斗、先に行きなさい!」息子に対して、彼女はただこの言葉を繰り返すだけだった。大粒の汗が夕月の額から流れ落ち、彼女の服は汗で濡れていた。あと三十秒あれば、星来を縛るロープを解くことができるはずだった!悠斗は怒りで足をドンと踏み鳴らした。「どうしても星来くんを助けるの?ママ、僕を見て!足がすごく痛いんだよ。歩けないの。抱っこして!!」夕月の眉から流れ落ちた汗が、彼女の目に入り込んだ。彼女は手を上げ、目を刺すような汗を拭った。悠斗はひっきりなしに咳き込んでいた。煙が濃すぎて、もう耐えられなかった。本来なら激しい咳で夕月の注意を引こうとするつもりだったが、こんな環境ではもう限界だった。最初の計画では、自分一人が火事の中に残り、夕月に救われるのを待つだけだった。星来を縛り付けたのは、その場の思いつきだった。もし夕月が星来を見捨て、彼の安全を優先してくれれば、すぐにここから脱出できたはずだ。なのに夕月は彼を失望させた。悠斗の小さな手が夕月の腕から滑り落ち、生存本能に従うように後ずさりした。涙で曇った目で母親を見つめ、不満げに尖らせた唇は醤油一瓶がぶら下げられるほどだった。星来を縛ったのは、賭けをする
悠斗は呆然と夕月を見つめていた。夕月は星来の体を縛る紐を必死に切ろうとしている。この紐が切れなければ、星来がロッカーから脱出することは不可能だった。星来もまた咳き込み始めた。夕月は急いで自分の上着を脱ぎ、水筒に残っていた水を全て衣服にかけた。濡れた上着を星来の頭に巻きつけ、口と鼻を覆う。上着が星来の顔の半分を覆い、黒く澄んだ瞳だけが露わになった。その目には恐怖の色が浮かび、必死に紐を解こうとする夕月を見つめていた。「夕月さん、そろそろ避難準備だ!」夕月のスマホはスピーカーモードになっていて、涼の焦りを帯びた声が響いた。二階の部屋には監視カメラがなく、涼は車の中でノートパソコンを前に座り、画面に映るのは二階廊下の監視映像だけだった。夕月と悠斗の会話だけが頼りで、彼はそれを通して夕月の状況を把握しようとしていた。夕月との通話を続けながら、涼の長い指がキーボードの上を素早く動いていた。監視システムの本体は無事だったが、二階の映像記録が突然消えたのは、誰かが記録保存をオフにする設定をしたからだった。しかし監視チップにはバックドアがあり、直近一時間の映像がバックアップとして一時保存されていた。パソコンの冷たい光が涼の整った顔を照らし、彼の瞳に暗い光が宿る。彼は自分が仕掛けたクローラープログラムが講堂内の監視映像をパソコンに取り込むのを待っていた。そのとき、涼のスマホから夕月の声が聞こえた。「星来くんが閉じ込められているわ。桐嶋さん、先に悠斗を講堂から誘導して!」夕月が話しているとき、空気中に漂う煙に喉をやられ、咳き込み始めた。空気中の一酸化炭素濃度はすでに危険な水準に達していた。彼らがこの環境に長くいることはできない。「すぐに応援を呼ぶ!お前は悠斗くんを連れて先に出ろ!」涼の声が響き渡る。夕月は歯を食いしばり、ロープをつかむ指が白くなるほど力を入れていた。「星来くんを置いていくなんてできないわ!」できないのではなく、できないのだ。星来をここに残し、悠斗を連れて逃げ出すなど、彼女の良心が許さなかった。「ここで待っていれば、すぐに誰かが助けに来るから」などと星来に言えるわけがなかった。夕月は立ち上がり、窓を開けた。空気の流れを作り、少しでも時間を稼ぐために。「ママ、どうして星来くんのことま
「もし悠斗くんが瑛優ちゃんを探しに行ったのなら、二階にいる可能性がある」と涼は言った。二階は生徒たちの舞台衣装への着替え場所として使われていたからだ。夕月は涼との通話を切らず、スマートフォンをズボンのポケットに滑り込ませた。肩から下げていたリュックを降ろし、中から水筒を取り出した。水筒の水でハンカチを濡らしながら、彼女は尋ねた。「このハンカチで口と鼻を覆って二階に駆け上がったら、どれくらい持つと思う?」「火の勢いが収まらなければ、56秒以内に退避する必要がある」と涼は即答した。彼は素早く計算を終えていた。56秒後には二階の一酸化炭素濃度が臨界値に達し、それ以上留まれば夕月は意識を失う危険性があった。「わかった、じゃあカウントダウンをお願い」夕月は自分の命を、講堂の外にいる涼に委ねた。二人は離れた場所にいながら、まるで背中合わせで未知の危険に立ち向かうようだった。濡れたハンカチで口と鼻を覆い、夕月は二階へ駆け上がった。スポーツカーの中で、涼はノートパソコンを前に据え、表情は硬く引き締まっていた。後部座席に座った瑛優は、画面に映る夕月の姿を見つめながら、一言も発しなかった。今は静かにしていなければならないこと、ママの邪魔をしてはいけないことを悟っていた。*講堂内で、二階に駆け上がった夕月は、各部屋を次々と確認していった。突然、廊下に立ったまま、かすかな泣き声が聞こえてきた。泣き声の方向へと進み、ドアを開けると、そこには床に倒れ、ロープで縛られた悠斗の姿があった。喉からは小さな鳴き声が漏れていた。顔を上げた悠斗は、目の前に現れた夕月を見た。「どうしてこんなに遅いんだよ!!」彼は叫んだ。息子を見つけた夕月は、すぐに駆け寄った。悠斗を縛るロープのもう一方はテーブルの脚に結びつけられていた。幸いなことに、結び目は簡単な輪結びだった。夕月は一目見ただけで、どう解けばいいかわかった。ロープを解くと、悠斗は彼女の胸に飛び込んできた。「ママ!!」その懐かしさに満ちた呼び声に、夕月の胸が震えた。このような危機的状況で、彼女は感情を抑えようと必死だった。悠斗がなぜ縛られていたのか考える余裕もなかった。濡れたハンカチを悠斗に渡し、口と鼻を覆うよう促した。夕月は悠斗を抱き上げ、その場を離
「もしママが火の中に飛び込んでこなくても、パパにあなたを責めさせたりしないよ。だってそれは、ママがボクにどれだけ冷たいか証明してくれたことになるんだから」アシスタントが躊躇していると、悠斗は容赦なく最後通告を突きつけた。「ボクの言うとおりにしないなら、クビにしてやる!」悠斗の最後通告を聞いて、アシスタントの足はガクガクと震えた。今の時代、仕事を探すのはどれほど難しいことか。こんな高給の仕事を失うわけにはいかなかった。それに、彼は実は火のつけ方をよく知っていた。以前、消防署でアルバイトをしていて、様々な建物火災の訓練で火をつける役目を担当していたのだ。*天野は携帯を取り出し、涼に電話をかけた。発表会が終わり、みな帰る準備をしていた。涼はスポーツカーに座り、少し離れたところで天野のSUVが停まり、突然夕月が飛び出していくのを目にした。車から降りようとした瞬間、電話が鳴った。電話に出ると、天野の声が聞こえた。「瑛優を頼む。講堂で火事が起きて、まだ中に取り残された人がいる。消火装備を探してくる」涼は振り向いて講堂の方を見た。上階から立ち上る炎が夜空を明るく照らしていた。天野は元軍人で、消火活動には経験豊富だった。講堂で火事と聞いた瞬間、彼の頭の中には自分と講堂の間にある最寄りの消火栓の場所が浮かんでいた。何度か学校を訪れていた彼は、校内の消防設備の場所をしっかり頭に入れていたのだ。「夕月さんは?」涼が尋ねた。「もう講堂に向かったよ」天野はそれだけ言うと、電話を切って踵を返した。涼は車から降り、瑛優を自分の側に迎え入れた。「ママとおじちゃんはどこに行ったの?」瑛優は不思議そうに尋ねた。「すぐ戻ってくるよ。ここで待っていよう」涼は運転席に座りながら言い、ノートパソコンを取り出した。スマホをホルダーに固定し、画面をタップして夕月に電話をかけた。すぐに通話がつながった。「そんなに急いで講堂に向かって、中に誰がいるんだ?」涼が尋ねた。夕月の息が荒い声が聞こえる。「悠斗がまだ中にいるの。でも今のところ正確な場所は分からないわ」夕月の耳に、電話越しにキーボードをたたく音が響いた。心強い低い声が耳に届く。「通話は切らないでくれ」「あと30秒。講堂の監視カメラシステムにハッキングしてい