LOGIN結衣は首を横に振り、椅子に座ったまま足をぶらぶらさせていた。「行かない。だって、うおちゃんもかわいいもん」美月はまだ一歳になったばかりで、一緒に遊ぶには少し早かった。その点、今の瑛太はちょうど一緒に遊ぶのが楽しい年頃だった。「じゃあ今度、真理おばさんが美月ちゃんを連れて帰ってきたら、ママと会いに行こうか」結衣は頷いたものの、少し考えてから口を開いた。「ママ、その日、何もないか先に見てね。習い事いっぱいあるから」結衣は習い事が多く、放課後も何かと忙しかった。遥からすれば、よく嫌にならずに続けられるものだと感心するほどだった。遥自身も子供の頃はいろいろ習っていたが、飽きるのが早く、何を始めても長続きしなかった。しばらくすると正男に頼み込んでは、やめさせてもらっていたものだ。けれど、結衣はまるで違った。どの習い事も嫌がるどころか、むしろ楽しんで続けていた。そこは湊に似たのかもしれない。新しいことを覚えるのが好きで、頑張ったぶんだけ結果が出るのも嬉しいらしい。一番になれた時は、なおさら嬉しそうだった。もっと小さい頃は、結衣にここまで負けず嫌いなところがあるとは、遥も思っていなかった。けれど、それは決して悪いことではなかった。ふと隣を見ると、瑛太は相変わらず豪快な食べっぷりだった。服まで食べこぼしだらけにしながら、それでもかなりの量をちゃんと食べていた。朝食が済むと、湊と遥は結衣を学校まで送っていった。ランドセルを背負って校門をくぐっていく結衣を見送りながら、遥は胸がいっぱいになった。あんなに小さかった娘が、もう小学生になり、今年で七歳になる。子供の成長は本当に早いものだと、改めて実感した。そして今日は、遥がもう一つ心待ちにしていた日でもあった。留学していた凛が、久しぶりに帰ってくるのだ。留学中は勉強を続けるかたわら、「àl'aube」の海外での事業にも携わっていた。滞在していた地域ではK22のゴールドジュエリーが多く、国内で一般的なものとは金の純度も違っていた。そんな中、アンサンブルのゴールドジュエリーは思いのほか人気を集め、昨年の海外部門の売上もかなり伸びていた。遥としては、最初は試しにやってみるくらいのつもりだった。ところが凛は持ち前の負けん気で粘り強く取り組み、少し
朔は手を伸ばし、紗月の腕をぐいと引き寄せた。不意を突かれた紗月は体勢を崩し、そのまま朔の膝の上に倒れ込んだ。朔は紗月の腰に腕を回して抱き留めると、床に広げた荷物へ視線を戻した。「学生の頃にもらった賞状も、まだ結構残ってる」「これも捨てるんですか?」「紗月ちゃんが決めて」学生時代の賞状も、朔にとっては昔の思い出の一つにすぎなかった。わざわざ残しておきたいほどのものでもなかった。清春もまた、朔の過去を形作ってきた大きな存在だった。それだけ長く気にかけてきた相手だからこそ、今回のことは簡単には割り切れず、気持ちを整理するにもまだ時間がかかりそうだった。紗月は手元の賞状に目を落とした。「取っておいたらどうですか?いつか子供ができた時、パパは昔こんなにすごかったんだぞって自慢できますよ」「ママだって負けてないだろ」紗月は振り返った。「……ママって誰ですか?」「今、俺の膝に座ってる人」朔はさらりと言った。「俺は、そのつもりだけど」そんなことを何でもないように言われて、紗月はますます落ち着かなくなった。まだ気持ちが沈んでいるせいか、朔の声はいつもより低かった。話すたびに吐息が耳元をかすめ、紗月はくすぐったさに思わず肩をすくめた。「それは……まだ先の話じゃないですか」朔は小さく笑った。今日こうして紗月が来てくれたことだけで、朔には彼女の気持ちが十分伝わっていた。朔は少し顔を寄せ、紗月の耳元にそっと口づけた。「来てくれてありがとう、紗月ちゃん」紗月は頬を赤らめ、こくりと頷いた。……それから季節は巡り、初雪の頃に結衣は六歳の誕生日を迎えた。やがて春になり、小学校へ入学する朝を迎えた。制服に着替えた結衣は椅子に座って朝食を待っていた。湊は靴下を手にすると、結衣に履かせてやった。「パパ、悠斗くんも同じ学校なの?」「ああ。でもクラスは別だ」入学前のテストでは、結衣のほうが悠斗よりずっといい点を取っていた。一方の悠斗は運動神経がよく、体を動かすことのほうが得意だった。ただ、なかなか体重が落ちず、恵も少し気にしていた。恵は悠斗にそこまで厳しい練習をさせるつもりはなく、本格的に選手を目指させようとも思っていなかった。体を動かす習慣として続けるくらいが、ちょうどいいと考
紗月も、まさか仕事の途中で急に休みをもらえるとは思っていなかった。しかも有給だった。ありがたく休ませてもらうことにして、「àl'aube」を出ると、入口の前に見覚えのあるポルシェが停まっていた。あんな目立つ色の車に乗るのは、蓮くらいしか思い当たらなかった。紗月はそのまま車に近づき、窓を軽く叩いた。「蓮さん、凛を探しに来たんですか?会社にはいませんよ。今日はもう帰ったほうがいいです」「会社にいない?休みなのか?」蓮はすでに凛の家にも行っていた。今度こそきちんと話すつもりだったが、家にも会社にも凛の姿はなかった。紗月は首を横に振った。「休みじゃありません。海外へ留学したんです。たぶん、数年は戻ってこないと思います」蓮の表情が固まった。「……何だって?凛、海外に行ったのか?」「はい。どこの国かまでは、私も知りません」ちょうどそこへ、紗月が呼んでいたタクシーが着いた。紗月は蓮に軽く手を振ると、そのまま乗り込んだ。本当なら、わざわざ蓮に教える必要もなかった。ただ、何も言わなければ、この先も凛を探して何度も会社まで来そうだった。だから、留学したことだけは教えた。もちろん、行き先まで教えるつもりはなかった。蓮は車の中に座ったまま、しばらく動けなかった。片手で顔を覆い、何度かこすって気持ちを落ち着けようとしたが、頭の中はまだ混乱していた。留学するには、前もって済ませなければならない手続きや準備がいくつもあった。昨日今日で決められるようなことではなかった。それなのに、自分は何も知らなかった。つまり凛は、ずっと前から準備を進めていたのだ。もしかすると、二人がうまくいっていた頃から、自分のそばを離れることまで考えていたのだろうか。蓮は力なく笑い、掠れた声で呟いた。「凛……ほんと、ひどいな」何も言わないまま、凛は遠くへ行ってしまった。相沢家にも東都にも、それほど未練がなかったことは知っていた。けれど、自分のことまでそんなに簡単に手放せるとは思っていなかった。そのことが、今になって重くのしかかった。……紗月はタクシーで、そのまま朔の家へ向かった。湊から数日休むよう言われた朔は、今は家にいるはずだった。新居はまだ内装工事中だったため、紗月が向かったのは
「蓮のことは?」蓮の話になると、凛は少し苦笑した。「好きだからって、傷つけ合うまで意地を張りたくないし、あの人のお母さんとまでずっと揉めるのはごめんだわ」「それもそうね」遥にも、凛の気持ちは分かる気がした。付き合っているだけなら二人で済むことも、結婚となればそうはいかない。数年前、遥がもう一度湊と向き合ってみようと思えたのも、真由美がいてくれたからだった。真由美はいつも遥に優しく、結衣のことも心から可愛がってくれていた。そんな姿を見ているうちに、遥も少しずつ湊を見る目が変わっていった。だからこそ、もう一度だけ信じてみようと思えたのだ。真由美がいなければ、過去の傷を乗り越えて湊と向き合うまで、もっと時間がかかっていたかもしれない。それに凛は、もともと面倒なことに巻き込まれるのが嫌いだった。蓮と付き合っていても、琴子のことで何度も悩まされるようでは、疲れてしまうのも無理はなかった。今回、別れを選んだことも、凛にとっては悪いことではなかったのかもしれない。……凛が海外へ向かったあと、遥は紗月と相談し、凛の代わりを任せられる人を探すことにした。そして、思いがけず採用することになったのが美鈴だった。美鈴はジュエリー業界で長く働いてきたベテランだった。実家も宝石商で、幼い頃からこの世界に親しんできたため、業界のことにもよく通じていた。美鈴のほうも、自分が幸雄と結婚していたことを遥たちがまったく気にしていないことには、最初かなり驚いていた。何しろ、幸雄がしてきたことはあまりにもひどかった。長年ほとんど連絡を取っていなかった美鈴の耳にまで、いろいろな噂が入ってくるほどだった。けれど、遥が見ていたのは美鈴自身だった。仕事もできて、性格も気さくで裏表がなかった。「àl'aube」は今ではかなり大きくなっていたが、社内の人間関係は昔と変わらずシンプルだった。誰かを出し抜いたり、裏で足を引っ張ったりするようなことも、「àl'aube」や「アンサンブル」ではほとんどなかった。遥たち自身がそういうことを嫌っていたため、社員の間にも余計な駆け引きは根づかなかったのだ。美鈴が入ってからは引き継ぎも順調に進み、「アンサンブル」の仕事もすぐに以前と変わらず回るようになった。そんなある日、仕事
「それ、私を脅してるの?」琴子は信じられないような顔で蓮を見た。「一生結婚しないって言うなら勝手にすればいい。でも、あの子と結婚するのだけは絶対に認めないわ!」さっきの披露宴でも、凛は琴子に少しも遠慮していなかった。あれだけ気の強い娘が嫁に来たら、この先も何かと面倒が増えそうだった。琴子には、どうしても凛を受け入れる気になれなかった。それに、蓮が琴子にこんな口を利くことも、昔はほとんどなかった。これも凛の影響に違いない。琴子はそう決めつけていた。蓮はしばらく琴子を見つめてから、静かに口を開いた。「俺が言ってるのはそこじゃない。凛が俺と付き合ってたってだけで、母さんがあいつにあんな言い方したことを言ってるんだ」琴子にとって、蓮の結婚相手は自分が認められる女性でなければならなかった。相手がどう思うかより、自分が気に入るかどうかのほうが大事だった。そして凛だけは、どうしても気に入らなかった。蓮が一生結婚しないと言ったことも、琴子は本気にはしていなかった。今はまだ凛に夢中になっているだけで、あと数年もすれば考えも変わる。その頃には、きっと凛のことだって忘れている。凛のために一生独身を貫くなんて、そんなことが本当にできるはずがない。琴子はそう思い込んでいた。蓮は、これ以上何を言っても無駄だと思うと、急にどっと疲れが出た。披露宴で凛に向けられたあの冷たい視線を思い出すと、胸の奥がまた鈍く痛んだ。琴子にも、自分にも腹が立った。それでも凛には、少しくらい自分の言い分を聞いてほしかった。それなのに凛は、最初からいつか別れることまで考えていたのではないか。そんなことまで思ってしまった。別れたばかりなのに、もう別の男と連絡を取ろうとしていた。自分のことなんて、もうどうでもいいのではないか。そんなふうにさえ思えた。息苦しくなり、喉の奥にかすかに血の味がした。蓮はネクタイを緩め、大きく息を吐いた。……「本当に行っちゃうの?」「àl'aube」の本社で、遥は凛から差し出された退職届を見つめ、寂しそうな顔をした。けれど、凛が昔から向上心が強く、やりたいことには迷わず挑戦してきたこともよく知っていた。「うん。先生からも何度も連絡をもらってたし、今度こそ向こうで勉強を続けるって決めたの
相沢グループがここまで成長してきたことなら、遥たちが誰よりもよく知っていた。琴子の言葉などまともに取り合う気にもならず、遥は笑って流した。ただ、あそこまで言われれば、凛も黙ってはいられなかったのだろうと、遥には分かっていた。蓮は険しい表情のまま席を立つと、琴子のいるテーブルへ大股で向かった。凛は気にした様子もなく、手元のカップに口をつけていた。遥は声を潜めた。「海外に行くこと、蓮さんにはまだ言ってないの?」「遥は?あの時、海外に行くって湊さんに言った?」遥は一瞬言葉に詰まった。もちろん、言っていなかった。あの頃は海外で医師を探すことで頭がいっぱいだったし、湊とはもう別れていた。よりを戻すつもりもなかったのだから、わざわざ自分の予定を知らせようとも思わなかった。凛もきっと同じだったのだろう。ここまで迷いなく準備を進めていたのなら、蓮への気持ちにも、もう区切りをつけていたようだった。蓮は琴子のところまで行くと、その腕をつかんで連れ出そうとした。けれど琴子は椅子に座ったまま、すぐには立とうとしなかった。「あの子があなたに言いつけたんでしょ?やっぱりそうだったのね!」「真理から聞いた」琴子は言葉に詰まった。今度は真理にまで腹が立ってきたらしい。九条家と佐原家は親戚同士なのに、真理はいつも他人の肩ばかり持っていた。こんな時くらい自分たちの味方をしてくれてもいいのに、と琴子は腹を立てた。蓮は冷えた声で言った。「まだここで揉めるつもりなら、俺は別に構わないけど」その表情を見て、琴子もさすがに蓮を怒らせたと気づいた。これ以上ここで騒ぐのはまずいと思ったのか、ようやく席を立った。「喧嘩なんてする気ないわよ。一週間も顔を見てないのに、会って早々そんな言い方するの?ここにいたくないなら、もう帰りましょ」蓮は琴子をちらりと見ただけで、先に歩き出した。琴子も慌ててそのあとを追い、二人はそのままホテルを出ていった。同じテーブルにいた美和は、呆れたように首を振った。「あの人、本当に誰のことも気に入らないのね。しっかりした子は気に入らない、そうじゃない子も駄目。あれじゃ、子供たちだって結婚できないわよ」「ほんとよね」美和が凛を気に入っていたのも確かだった。けれど、それ以上に腹







