LOGIN武家の娘として、剣に生きることを願った主人公。しかし、政略結婚により、彼女は後宮という名の「鳥籠」へ送り込まれることとなる。 求められるのは爪を隠し、淑女として振る舞うこと。それは彼女にとって己を殺すことと同義だった。自らの名を捨て、ただの「駒」として生きることを強いられる日々。しかし、彼女は諦めていなかった。後宮の深淵で、男装の護衛として潜り込み、自由を掴み取るために。 これは美しき檻の中で、自らの翼を隠した1人の姫が、偽りの仮面を剥ぎ取り、真の自分を取り戻すまでを描いた戦いの物語。
View More夕暮れの庭に、乾いた音が響いた。
木剣と木剣がぶつかり合い、火花の代わりに鋭い衝撃が空気を震わせる。
「甘い」
低い声と共に、主人公の握る木剣が弾かれた。
手のひらが痺れる。
だが主人公――朱璃(しゅり)は、すぐに体勢を立て直した。乱れた呼吸を整えながら、再び父へ踏み込む。
夕日に照らされた長い黒髪が背中で揺れた。
本当なら、切ってしまいたい。
もっと短く。
弟のように。そんな考えを振り払うように、朱璃は木剣を振るう。
しかし父の一撃は重い。
受け止めた瞬間、腕が軋み、木剣が地へ落ちた。
乾いた音が庭へ響く。
「……参りました」
膝をつきながらそう言うと、父は小さく息を吐いた。
「動きは悪くない。だが力任せだ」
「はい」
「お前はもっと冷静に相手を見るべきだ」
そう言って父は木剣を下ろす。
厳しい人だ。
だが決して冷たいわけではない。幼い頃から、父は朱璃へ剣を教えてきた。
倭国では、武家の娘も武を学ぶ。
家を守るため。 己を律するため。だが、それはあくまで“娘として”だった。
「兄上ーっ!」
庭へ駆け込んできた小さな影に、朱璃は目を瞬かせた。
淡い桃色の着物を翻しながら飛び込んできたのは、末の妹・琴葉だった。
「兄上、また父上とお稽古してたの!?」
「こら、琴葉」
朱璃は思わず笑う。
「そんな勢いで走ると転ぶよ」
「だって兄上のお稽古好きなんだもん!」
無邪気にそう言って、琴葉は朱璃の腕へ抱きつく。
その後ろから、侍女が困ったように頭を下げた。
「申し訳ございません、姫様。琴葉様、“兄上”ではなく“姉上”ですよ、と何度も――」
「えー」
琴葉は不満そうに頬を膨らませる。
「でも兄上の方がかっこいいもん」
一瞬だけ、空気が止まった。
侍女が困ったように視線を下げる。
父も何も言わない。
朱璃は静かに笑った。
「ありがとう、琴葉」
ただ、それだけ返す。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
誰にも理解されないことがあっても、琴葉だけは、いつも自然に自分を見てくれる気がした。
「姉さん」
不意に声がして、朱璃は振り返る。
廊下の向こうに立っていたのは弟の蒼真だった。
まだ十五になったばかりだが、既に父に似た鋭い目をしている。
次期当主として期待されている弟。
けれど朱璃は知っている。
蒼真が、本当は優しい人間だということを。
「父上、お客様がお見えです」
「……客?」
父が眉を寄せる。
蒼真は小さく頷いた。
「龍蘭帝国からの使者だそうです」
その瞬間、父の表情が僅かに変わった。
朱璃はその空気に気付く。
何かある。
そう思った時には、既に嫌な予感が胸へ広がっていた。
◇
夜。
屋敷の大広間には重たい空気が満ちていた。
倭国の武家らしく質素に整えられた室内。
その中央に、異国の装束を纏った男が座っている。煌びやかな刺繍。
鮮やかな深紅の衣。倭国とは違う空気を纏ったその男は、静かに朱璃を見た。
「こちらが朱璃姫ですか」
値踏みするような視線。
朱璃は僅かに眉を寄せた。
「……初めまして、神凪家長女の朱璃と申します。」
形式通り頭を下げる。
男は満足そうに笑った。
「龍蘭帝国第三皇子殿下のもとへ嫁がれるには、少々武人らしすぎる気もしますが……顔立ちは美しい」
朱璃の指先がぴくりと動く。
父は静かに口を開いた。
「朱璃」
低い声だった。
「お前に縁談が来た」
やはり。
胸の奥が冷えていく。
「相手は龍蘭帝国第三皇子だ。」
朱璃は黙ったまま父を見る。
「お前は後宮へ入ることになる。」
その言葉に、琴葉が目を丸くした。
「こうきゅう?」
「琴葉」
母が優しく制する。
だが朱璃には、周囲の声が遠く感じられた。
後宮。
女たちが、美しさと寵愛を競う場所。
そんな場所へ、自分が?
「……何故、私なのですか」
気付けば口にしていた。
「蒼真がいるでしょう」
空気が変わる。
父が眉を寄せた。
「朱璃」
「僕は――」
その言葉を、朱璃は飲み込む。
違う。
言ってはいけない。
ずっとそうやって生きてきた。
「私は、後宮向きではありません」
「これは国のためだ」
父の声は静かだった。
「龍蘭帝国との関係は重要になる」
「だから僕が行けと?」
「朱璃!」
父の声が鋭くなる。
しまった、と思った時には遅かった。
広間が静まり返る。
朱璃は唇を噛んだ。
今、“僕”と言った。
幼い頃から時々出てしまう癖。
母が悲しそうに目を伏せる。
父は深く息を吐いた。
「……お前は姫だ」
その一言が、胸へ深く刺さる。
「武を学ぶのは良い。だが、それを忘れるな」
朱璃は拳を握り締めた。
分かっている。
父に悪意がないことくらい。
父は家を守ろうとしているだけだ。
それでも。
それでも苦しい。
「……姉さん」
隣で蒼真が小さく呟く。
その声に振り返ると、蒼真は俯いたまま言った。
「姉さんの方が、強いのに」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
けれど、その言葉は確かに朱璃へ届いた。
父は気付いていない。
母も。
誰も。
ただ朱璃だけが、蒼真の苦しさを知っていた。
男として生まれた弟。
その理由だけで、自分より多くを与えられてしまう弟。
「蒼真」
「……ごめんなさい。」
朱璃は目を見開く。
「俺が男に生まれただけで、全部俺のものになってしまう。」
蒼真の拳が震えていた。
「本当は姉さんの方が――」
「やめなさい」
朱璃は静かに笑った。
「そんな顔しないで」
その笑顔が、自分でもひどく弱々しく感じた。
広間の外では、夜風が静かに庭木を揺らしている。
遠い異国の空を思いながら、朱璃はそっと目を伏せた。
――後宮。
そこへ行けば、自分は“姫”として生きるしかないのだろうか。
それとも。
まだ、何かを変えられるのだろうか。
神凪朱璃(しゅり)が九等嬪から一気に『七等嬪』へと飛び級昇格を果たしてから数日。延明宮(えんめいきゅう)は、どこか浮き立ったような華やいだ空気に包まれていた。「麗華様、朱璃様! 内務府の太監様より、お二人の日頃の慰労と昇格のお祝いにと、結構なお品が届きましたよ!」 無邪気な声をあげて部屋へ入ってきたのは、離宮の若い侍女たちだ。うやうやしく掲げられた塗りの盆には、見たこともないような豪勢な銘菓と、色鮮やかな茶葉の詰まった壺が載せられていた。「あら、内務府から……? 珍しいこともあるものね。」 離宮の主である麗華は嬉しそうに目を細め、側近の翠蘭(スイラン)へ目配せをする。「翠蘭、せっかくのお心遣いだもの。皆でいただきましょう。お茶を淹れてちょうだい。」「かしこまりました、麗華様。」 手際よくお湯が注がれると、壺の中から取り出された茶葉がふわりと湯の中で広がった。その中には、乾燥された可憐な紫色の花びらや生薬が混ざっており、部屋中に甘く華やかな香りが満ちていく。(……内務府の太監が、わざわざ延明宮にこんな豪華なお祝いを……?) 侍女たちが「なんて綺麗なお茶!」と歓声をあげる中、朱璃だけは笑顔の裏で静かに眉の根を寄せた。前夜、正任近衛・高(ガイ)として瑛凱(エイガイ)殿下と密談した際、太監長をはじめとする内務府が皇后派の手先として動く危険性を確認したばかりだ。 やがて、淹れ立てのお茶が運ばれてくる。主である麗華が杯を口にする前に、長年の慣例に従って側近の翠蘭が一口含み、毒味を行った。「……とても香り高く、まろやかなお味でございます、麗華様。」 微笑みながら杯を置いた翠蘭。しかし、次の瞬間だった。「つ……っ!?」「翠蘭……?」 突如として翠蘭が胸をかきむしり、その場に激しく膝をついた。顔からは一瞬で血の気が引き、唇がみるみるうちに紫へと変色していく。
夜の静寂が、重々しく王宮全体を包み込んでいた。 月明かりが石畳を照らす中、巡回を行う近衛兵の靴音や夜警の拍子木が遠くで規則的に響いている。 神凪朱璃(しゅり)は、男装の衣装――『正任近衛・高(ガイ)』の装いに身を包み、堂々とした足取りで通路を歩いていた。王宮全域を守る近衛兵の中でも、見習い時代に第二皇子・瑛凱(エイガイ)殿下が居住する『驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)』周辺の警備部隊に配属されていた朱璃は、このあたりの巡回ルートや警備の隙を熟知している。さらに正任近衛となった今では、夜間に王宮内を移動していても怪しまれることはない。 すると、前方の角から松明を持った数人の近衛兵が歩いてくるのが見えた。朱璃が足を止めると、その先頭にいた見回り隊の隊長――張文(チャン・ウェン)部隊長が目を留めた。 「む、高(ガイ)か。」 「張部隊長。夜間の巡回、お疲れ様です。」 朱璃がすっと背筋を伸ばして礼をとると、張部隊長は満足そうに頷き、その肩をぽんと力強く叩いた。 「見習いを卒業して正任になったそうだな。お前の腕と判断力なら当然だ。ますますの活躍を期待しているぞ。」 「ありがたき幸せにございます。」 部隊長率いる隊がすれ違いざまに去っていくと、その隊の末尾にいた見習い時代の同期――気心知れた見習い近衛の友人二人組が、隊列から少し遅れて朱璃の元へニヤニヤしながら駆け寄ってきた。 「おいおい、相変わらず張部隊長からの受けがいいなぁ、漣(レン)!」 「本当だよ。正任昇格、おめでとう! さすが漣だな!」 声をかけてきたのは、華やかな顔立ちで優しい**明俊(ミンジュン)と、気さくで明るい永和(ヨンファ)**の二人であった。朱璃は苦笑いを浮かべながら声を潜めた。 「声が大きいよ、ふたりとも。……ありがとう。二人もじきに正任になれるさ。」 「へいへい。まあ俺たちはボチボチやるよ。……あ、そういえばお前、こんな時間に何してるんだ?」 永和が不思議そうに首をかしげると、朱璃はごく自然な様子で小さく微笑んで見せた。 「少し寝つけなくてな。夜風に当たるついでに、散歩がてら見回りをしていたんだ。」 「うわー、流石は正任の漣様だねぇ! 俺たちも一回でいいから『散歩がてら見回り』なんて格好いいこと言ってみてぇ
神凪朱璃(しゅり)の「九等嬪から七等嬪への飛び級昇格」という破格の沙汰は、瞬く間に後宮中を駆け巡った。 「朱璃様。七等嬪への昇格、本当におめでとうございます!」 「ふふ、あの皇帝陛下に認められて飛び級だなんて、後宮の歴史に残る快挙ですわね。」 華やかな彩りに満ちた宮殿で朱璃を迎えたのは、貴妃・蓮華(レンカ)様、賢妃・玲鳳(レイホウ)様、そしてもちろん主である麗華(レイファ)様であった。 二人は朱璃の快挙を心から祝福し、貴妃主催のお祝いの茶会を開いてくれたのだ。テーブルには、最高級のシルクの反物や、朱璃が好みそうな珍しい薬草・極上の茶葉といった豪華な祝いの品々が並べられている。 「お二人からの温かいお心遣い、身に余る光栄にございます。……ですが、私の方が位が下でございますのに、皆様に『朱璃様』と呼ばれるのは少し恐れ多く……。」 申し訳なさそうに遠慮する朱璃に、三人はそれぞれの反応を見せる。 「良いのですよ! あなたの淹れてくださるお茶やお菓子、知識には心から敬意を払っておりますの。私にとっては『朱璃様』ですわ。」 「ええ、位など関係ありません。私もそう呼びたいから呼んでいるだけですもの。」 上品に微笑む賢妃様と貴妃様。すると、横で聞いていた麗華様がパッと扇子を広げ、鼻息を荒くした。 「だ、ダメに決まっているでしょうお二人とも! 朱璃は私の延明宮の妃なのですからね! 私以外が気安くそんな……っ、でも、朱璃がすごいのは本当だから。……ふんっ、今回だけは許してあげますわ!」 相変わらずのツンデレを発揮する麗華様に、貴妃様たちは 「ふふっ。」 と笑い声を漏らす。 「いいのですよ、麗華様。困らせてしまい申し訳なかったわね。……それにしても、あの皇后派の苦々しい顔といったら…。…思い出すだけで胸がすくわ。」 悪戯っぽく微笑む貴妃様。楽しい時間はあっという間に過ぎ――。 「それじゃあ、そろそろお開きにしましょうか。朱璃様、またお茶会にご一緒していただけるかしら?」 「もちろんでございます、貴妃様。光栄に存じます。それでは、失礼いたします。」 朱璃はお暇の挨拶を静かに告げ、麗華様と共に離宮へと戻っていった。 * 離宮へ戻ると、留守番をしていた小鈴(シャオリン)が出迎えた。お祝いの品の豪華さに、
皇帝の重々しい一言が落ちた謁見の間。 息を呑むような静寂と張り詰めた空気の中、皇帝はそれ以上多くを語ることなく、静かに手元の杯を置いた。 「……見事であった。下がってよい。」 「はっ。身に余る光栄にございます。失礼致します。」 朱璃(しゅり)は静かに平伏すると、一切の乱れを見せない洗練された動作で立ち上がり、謁見の間を辞した。 その背中を見送りながら、玉座の横に座る皇后は (ふん……別に褒めそやされたわけでもない。ただ一言、気まぐれに言葉を賜っただけではないか) と、胸を撫でおろしつつ冷ややかな鼻笑いを漏らすのだった。 * 「朱璃! どうだったの!?」 「朱璃様! お咎めはございませんでしたか!?」 延明宮(えんめいきゅう)へ戻るなり、待たされていた麗華(レイファ)様をはじめ、小鈴(シャオリン)や翠蘭(スイラン)たちが一斉に駆け寄ってきて朱璃を取り囲んだ。 口々に問い詰めてくる皆に、朱璃が困ったように微笑みながら 「『見事であった、下がってよい。』とのお言葉をいただきました。」 と経緯を話すと、麗華様はほっと胸を撫でおろし、パッと扇子を広げた。 「……まあいいわ! 何も咎められず、皇帝陛下にお茶を召し上がっていただけただけでも上出来ですもの! よく頑張ったわね、朱璃!」 そこへ、侍女頭の桂花(ケイカ)が呆れたようにパンパンと手を叩きながら間に入ってきた。 「これこれ、みなさん。朱璃様がお困りですよ。お聞きしたい気持ちは分かりますが、無事に戻られたのですから少し休ませて差しあげなさい。」 桂花に窘められ、 「はーい……」 と散っていく侍女たち。そんな賑やかで和やかな時間を過ごし、その日は何事もなく平和に過ぎていった。 * ――翌朝。 朱璃が朝の支度をしながら、小鈴や春蘭(シュンラン)と昨日の謁見の思い出話をしていたときのことである。 バタバタバタッ! と廊下を激しい足音が駆け抜けてきた。 「し、朱璃様! 大変です、お客様がお見えです! 急いでお越しください!」 息を切らした侍女が飛び込んでくるなり叫んだ。 何事かと驚きつつも急いで支度を整え、朱璃たちが広間へと向かうと――そこではすでに麗華様がいつになくキリッとした表情で侍女たちにテキパキと指示を出
神凪の屋敷の庭に、いつものように深い朝霧が立ち込めている。 つい昨日まで、この庭には木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音が響いていた。手のひらを痺れさせ、腕を軋ませながら、父の重い一撃を必死に受け止めていたあの時間は、もうない。 代わりに、今朝の静寂を破って重々しく響くのは、旅支度をすべて終えた馬車の車輪が、湿った土を噛む音だけだった。 玄関先には、両親が並んで立っている。 父は武家としての威厳を保つように背筋を厳しく伸ばしているが、その瞳は朱璃を直視できず、どこか遠くの空を向いていた。その隣で、母は顔を伏せ、着物の袖口で小さく目元を幾度も拭っている。 ――家を、売る。 朱璃は
夕暮れの庭に、乾いた音が響いた。 木剣と木剣がぶつかり合い、火花の代わりに鋭い衝撃が空気を震わせる。「甘い」 低い声と共に、主人公の握る木剣が弾かれた。 手のひらが痺れる。 だが主人公――朱璃(しゅり)は、すぐに体勢を立て直した。乱れた呼吸を整えながら、再び父へ踏み込む。 夕日に照らされた長い黒髪が背中で揺れた。 本当なら、切ってしまいたい。 もっと短く。 弟のように。 そんな考えを振り払うように、朱璃は木剣を振るう。 しかし父の一撃は重い。 受け止めた瞬間、腕が軋み、木剣が地へ落ちた。 乾いた音が庭へ響く。「……参りました」 膝をつきながらそう言うと、父は