LOGIN「こちらの椅子はいかがでしょう?」
華弥子さんが見せてくれたカタログには、いくつものガーデンチェアが並んでいた。木製のもの、鉄製のもの、背もたれに花の模様が入ったもの。どれも素敵で、なかなか一つに決められない。
「これ、かわいいですね」
私が指さしたのは、白いアイアン製の椅子だった。背もたれにはバラの模様があしらわれている。
「幸子はそういうのが好きなのか?」
隣から俊くんが覗き込む。
「うん。でも、俊くんが座るには小さいかな」
「俺のことは気にすんな」
「だめだよ。二人で座るんだから」
そう言うと、俊くんは妙に嬉しそうな顔をした。
「……そっか」
「何?」
「いや、何でもねえ」
華弥子さんがくすりと笑う。
「でしたら、同じシリーズで少し大きめのベンチもありますよ。そちらをテラスに置くのもよさそうですね」
「それがいい!」
「お前、
「幸子、ちょっと寄りたいところがあるんだが、いいか?」ホテルを出て車に乗り込むと、俊くんがそう言った。「どこ?」「画材屋」「えっ!」思わず身を乗り出してしまった。「俊くん、絵を描くの?」「まだ決めてねえよ。ただ、ちょっと見てみようかと思ってな」「行く! 絶対行く!」私が勢いよく答えると、俊くんは声を上げて笑った。「そんなに嬉しいか?」「だって、俊くんの絵、また見たいもん」小学生の頃、俊くんは絵を描くのが大好きだった。特に花の絵が上手で、賞を取ったこともある。私はあの絵が大好きだった。いつか画家になるんだと話していた俊くん。あの頃の夢を、もう一度思い出してくれたら嬉しい。「……じゃあ、少しだけな」照れくさそうに笑う俊くんを見て、私はますます嬉しくなった。◇画材店には、色とりどりの絵の具や筆、スケッチブックが並んでいた。「わあ、すごい!」私は棚を眺めながら歩いた。俊くんは水彩絵の具の前で足を止め、何本か手に取っている。その横顔は、普段の若頭としての姿とはまるで違っていた。「これ、昔も使ってた?」私が尋ねると、俊くんは懐かしそうに笑った。「ああ。メーカーは違うけどな」「何色が好きだった?」「緑だな。花を描くとき、葉っぱの色を作るのが好きだった」「へえ!」そんな話をしているうちに、俊くんは小さな水彩セットとスケッチブックを選んだ。「これくらいなら、気が向いたときに描けるだろ」「うん!」私は自分のことのように嬉しかった。店を出ると、俊くんが紙袋を持ち上げる。「庭園がもう少しきれいになったら、描いてみるか」「約束だよ!」「ああ」俊くんは笑って頷いた。◇その夜。私は部屋で、今日買った画材を眺めていた。俊くんが描く庭園の絵。きっと素敵だろうな。そんなことを考えていると、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。続いて、低い声。「……若頭、少しよろしいでしょうか」私は顔を上げた。俊くんの仕事の人だろうか。しばらくすると、隣の部屋から俊くんの声が聞こえた。「……誰がやった?」いつもより低く、鋭い声だった。何かあったのだろうか。私はそっと扉を閉めた。仕事の話なら、聞かない方がいい。そう思って、スケッチブックを棚にしまった。◇「……それで、幸子の名前を使ったってのか」俊は机の上に置
食事会から数日が経ったある日、私は一通の招待状を受け取った。差出人は、以前の食事会で顔を合わせた女性だった。組の関係者の奥様方が集まる昼食会を開くので、ぜひ参加してほしいという。「……どうしようかな」招待状を眺めながら呟く。先日のことがあったから、正直なところ、あまり気が進まなかった。けれど、あの場にいた全員が嫌な人だったわけではない。私を庇おうとしてくれた女性もいたし、俊くんの妻として、いつまでも付き合いを避けるわけにもいかないだろう。「何見てんだ?」俊くんが隣から覗き込んだ。「昼食会の招待状。行こうか迷ってて」差出人の名前を見た途端、俊くんの眉が寄った。「……これ、誰から渡された?」「今朝、届けてもらったの。どうかした?」「いや」俊くんは招待状を手に取り、しばらく眺めていた。「行きたいか?」「うーん。ちょっと不安だけど、せっかく誘ってもらったし」「無理して付き合う必要はねえぞ」「でも、俊くんの奥さんなんだから、少しはちゃんとしないと」そう言うと、俊くんは困ったように笑った。「お前はもう十分ちゃんとしてるよ」「そうかな」「ああ」俊くんは招待状をテーブルに戻した。「行くなら、俺の方でも話を通しとく」「ありがとう」私はほっとして微笑んだ。◇昼食会の会場は、都内のホテルにあるレストランだった。案内された個室には、すでに十人ほどの女性たちが集まっていた。「幸子さん、いらっしゃいませ」主催者の女性が笑顔で迎えてくれる。「本日はお招きいただき、ありがとうございます」私が頭を下げると、女性は少し申し訳なさそうに言った。「先日は失礼なことを申し上げた方がいたようで……。今日
聡美さんとレストランで会ってから、三日が経った。あのときは嫌な気持ちになったけれど、その後は特に何も起きていない。俊くんも普段通りで、私たちは穏やかに過ごしていた。だから、私はすっかり油断していたのだと思う。その日、私は俊くんに頼まれて、組の関係者が集まる食事会に顔を出すことになった。「俺も少し遅れて行く。先に着いたら、適当に茶でも飲んでてくれ」「うん、分かった」会場は落ち着いた雰囲気の料亭だった。以前にも何度か顔を合わせた女性たちがいて、私が挨拶すると、にこやかに迎えてくれた。「幸子さん、こちらへどうぞ」「ありがとうございます」案内された席に座り、お茶をいただく。けれど、なんとなく様子がおかしかった。私が話しかけると普通に答えてくれるのに、女性たちは時折、意味ありげに顔を見合わせる。何かあったのだろうか。そう思っていると、向かいに座っていた女性が口を開いた。「幸子さんって、ご結婚前はいろいろ大変だったそうですね」「え?」「お父様が多額の借金を残されたとか」思わず、湯呑みを持つ手が止まった。どうして、そのことを知っているのだろう。「……ええ、まあ」「でも、俊さんが全部肩代わりしてくださったんでしょう? お優しい方ですよねえ」その言い方に、わずかな棘を感じた。別の女性が、困ったように笑う。「そんなこと、ここでするお話じゃないでしょう」「だって、ちょっと気になったんですもの」最初の女性は悪びれもせず続けた。「借金を全部払ってもらえるなんて、普通はなかなかないことですから」私は返す言葉に迷った。確かに、その通りだった。俊くんが助けてくれなければ、私は今も父の借金に苦しんでいただろう。「……本当に、感謝しています」ようやくそう
「……聡美さん、どうしてお父さんのことを知ってたのかな」私の問いかけに、俊くんはしばらく答えなかった。やがて、握っていた私の手を軽く撫でる。「気にすんな。あいつは昔から、余計なことを調べるのが好きなんだ」「でも、お父さんのことまで?」「ああ。俺の周りにいる人間のことなら、何でも知りたがる」それは、あまり気持ちのいい話ではなかった。「……私のこと、調べたってこと?」「たぶんな」俊くんはあっさり認めた。「幸子を気に入らねえから、何か弱みでも見つけようとしたんだろ」「そこまでするんだ……」「する奴なんだよ」俊くんは苦々しそうに言った。「ただ、あいつの言うことを真に受ける必要はねえ。親父さんのことで何か言われても、相手にすんな」「うん」そう答えたものの、胸の奥には嫌な気持ちが残った。私が俊くんと結婚したことが、そんなに気に入らないのだろうか。◇異変が起きたのは、その二日後だった。朝、スマートフォンを見ると、知らない番号から何件も着信が入っていた。留守番電話も残されている。不審に思いながら再生すると、聞き覚えのない女性の声が流れた。『借金を踏み倒した人の娘さんですよね? 随分いい暮らしをしているそうじゃないですか』「……え?」思わず声が漏れた。次のメッセージも、似たような内容だった。『お父さんの借金、旦那さんに払わせたんですって? 恥ずかしくないんですか?』『人のお金で贅沢するのって、楽しいですか?』私は慌てて再生を止めた。どうして、知らない人がそんなことを知っているのだろう。着信履歴を確認すると、番号はどれも違っていた。「幸子?」顔を上げる
「こちらの椅子はいかがでしょう?」華弥子さんが見せてくれたカタログには、いくつものガーデンチェアが並んでいた。木製のもの、鉄製のもの、背もたれに花の模様が入ったもの。どれも素敵で、なかなか一つに決められない。「これ、かわいいですね」私が指さしたのは、白いアイアン製の椅子だった。背もたれにはバラの模様があしらわれている。「幸子はそういうのが好きなのか?」隣から俊くんが覗き込む。「うん。でも、俊くんが座るには小さいかな」「俺のことは気にすんな」「だめだよ。二人で座るんだから」そう言うと、俊くんは妙に嬉しそうな顔をした。「……そっか」「何?」「いや、何でもねえ」華弥子さんがくすりと笑う。「でしたら、同じシリーズで少し大きめのベンチもありますよ。そちらをテラスに置くのもよさそうですね」「それがいい!」「お前、即決だな」「だって、二人で座れる方がいいでしょ?」俊くんは返事の代わりに、私の頭を軽く撫でた。こうして少しずつ、自分たちの好きな場所ができていく。庭園を最初に見たときは、あまりの広さにどうしたらいいのか分からなかったけれど、今では次に来るのが楽しみで仕方がない。「それじゃあ、今日はこのあたりで」華弥子さんがカタログを閉じた。「階段の補修が始まったら、またご連絡しますね」「よろしくお願いします!」私たちは華弥子さんに見送られ、庭園をあとにした。◇帰り道、俊くんはいつもより口数が少なかった。運転は普段通り丁寧だし、私が話しかければ答えてくれる。でも、何か考え事をしているように見える。「ねえ、俊くん」「ん?」「さっきの電話、大丈夫だった?」「ああ。大したことじゃねえよ」「そう?」「どうした。心配してんのか?」
翌朝、私はいつもより少し早く目を覚ました。今日は、俊くんと庭園へ行く日だ。前回は伸び放題だったバラの枝を片づけるだけで精いっぱいだったけれど、華弥子さんの話では、少しずつ庭園全体の姿が見えるようになってきたらしい。特に楽しみなのは、奥にある石造りの階段だ。あの階段の先には、小さなテラスがあるという。「幸子、準備できたか?」玄関から俊くんの声が聞こえた。「うん、今行く!」動きやすいワンピースにカーディガンを羽織り、私はバッグを持って玄関へ向かった。「今日は作業しねえからな」私の格好を見た俊くんが、開口一番そんなことを言う。「分かってるよ」「この前もそう言って、枝を運びまくってただろ」「だって、少しでも手伝いたかったんだもん」「気持ちは嬉しいけどよ。帰りの車で爆睡するほど頑張らなくていいんだぞ」「……あれは、ちょっと疲れただけ」「そうか?」俊くんは楽しそうに笑うと、私のバッグを受け取った。黒いSUVに乗り込み、庭園へ向かう。車窓から見える街並みが次第に変わり、住宅地を抜ける頃には、道沿いの木々も増えていた。「ねえ、俊くん」「ん?」「テラスから、庭園が全部見えるのかな」「どうだろうな。俺もまだ上がってねえから」「楽しみだね」「ああ」俊くんが穏やかに笑った。その横顔を見ていると、昨夜の少し硬い表情が嘘のようだった。◇庭園に到着すると、華弥子さんが入口で出迎えてくれた。「幸子さん、俊さん、おはようございます」「おはようございます!」「今日はずいぶん雰囲気が変わりましたよ。どうぞ、こちらへ」案内されて中へ入ると、私は思わず声を上げた。「わあ……!」以前は雑草や伸びた枝に覆われていた小道が、きれいに姿を現していた。
「いつかは、俺と本当の夫婦になってほしいと思ってる」 私に向かって言う俊くんの表情は真剣そのものだった。 夫婦、って。 まだ恋人にすらなっていないのに? それともヤクザの世界だとこれは普通のことなの……?「ああ、ごめん」 戸惑いが顔に出てしまっていたらしかった。 俊くんが笑顔で私の頬に触れる。「順番に説明しないとならなかったんだ。食事の前に、いい?」「う、うん……」 促されて、私は俊くんと一緒にソファに座った。「こんなことを急に頼むと驚かれるかもしれないけど、オレと結婚して欲しいんだ」「えっ……?」 ――結婚。 いきなり!? 突然出てくることのあまりない言葉に私
「えっ……、待って、これ……」 タワーマンションの上層階に連れていかれたと思ったら、案内されたのは洋服部屋みたいなところだった。 ウォークインクローゼット。漫画の中でしか見たことがないそれに、洋服や靴、バッグ、アクセサリー……。そういったものが山のように納められている。「全部、美作さんのものだよ」「私の?」「そう、ほら、これなんかどう?」 言いながら俊くんが近くにあったドレスを取る。 明らかに普段着には向かない、生地に光沢がある青のロングドレス。 こんなの着ている人、見たことがない。「これでご飯食べるの、ちょっと不安だな。汚したらどうしよう」「気にしなくていいよ。また買え
「久しぶり、美作さん」 そう言って笑う俊くんは、小学生の頃と変わらない優しい笑顔をしていた。 なんだか、混乱してしまう。 私の記憶の中にある、優しくて温かい絵を描いていた彼。 それが今の、恐ろしいやくざの若頭と同じだなんてとても信じられない。「さあ、行こう」「行くって、どこへ?」「そのままの格好ではいさせられないよ」 俊くんが私に手を差し伸べてきた。 そこで改めて、私が酷い格好をしているのに気がついた。 仕事帰りのヨレヨレの服が、男の力で引っ張られてボタンがいくつか弾け飛んでいる。「何か食べたいものはある?」「……食べたいもの」 そういえば、夕ご飯もまだだった。
「俊くん……?」 私の呼びかけに、彼は昔と同じやわらかな笑顔を見せた。「久しぶり」 片手を上げて言う。 やっぱり、俊くんだ。 私の小学校の頃の同級生。藤堂俊。 卒業後、中学では学区が分かれて、それ以来会っていないけどよく覚えている。「なんで……」 でも、なんで彼がここに。 当然の疑問が口から出た。「若頭!」 でも俊くんが答える前に、私を押さえつけていた男がぱっと立ち上がって言った。「えっ」「若頭?」「なんでこんなとこに」 男たちの間に動揺が広がる。「よお」 当たり前のように男たちに声をかける俊くんを見て、私も動揺していた。 だって、若頭って。 私が知る限