Share

第2話

Author: 黒霧の海
若菜は一人で屋敷へ戻った。

今夜、千聡が帰ってこないことは分かっていた。

寝室のバルコニーに腰を下ろし、壁に掛けられたウェディングフォトを静かに見つめる。

その写真は以前、若菜が叩き割ったものだった。

千聡はわざわざ自ら新しい額縁に入れ替え、「一度壊れた関係も元に戻せる」という願いを込めた。

だが、写真の隅には小さなガラスの破片が今も食い込んでいることに、彼女は気づいていた。

それはまるで、二人の関係そのものだ。

どれほど必死に取り繕っても、ひびは消えない。

写真の中の青年は、深い愛情を込めた眼差しで若菜を見つめ、親しげに彼女の鼻先へ自分の鼻を擦り寄せている。

初めて出会った日と同じ白いシャツを着ていた。

若菜は幼い頃から孤児院で育った。

千聡と出会った日、彼は両親を亡くし、その孤児院へ送られてきたばかりだった。

あの日は風が強く、風に髪を揺らす青年を見つめた瞬間、彼女は初めて胸が高鳴るという感覚を知った。

孤独な青年と、太陽のように明るい若菜は、よく中庭のブランコに寝転びながら未来を語り合っていた。

「私、画家になるよ」

青年は初めて自分から彼女の手を強く握った。

「じゃあ俺が一生懸命お金を稼ぐ。お前が最高の画家になれるように」

若菜が16歳になった年、院長は彼女を家庭内暴力を振るう年配の男と結婚させることを決めた。

その日、千聡は彼女の手を引き、孤児院を飛び出した。

院長は怒鳴り散らしながら二人の背中へ叫ぶ。

「一生養えるっていうならやってみろ!」

千聡は振り返り、若さゆえのまっすぐな光を瞳に宿して答えた。

「だったら一生養ってやるよ!」

千聡は両親の形見である唯一のペンダントを売り、ようやく二人は小さなアパートで暮らし始めた。

彼は必死に働いた。

契約を取るためなら酒席で相手に媚び、無理やり酒を飲まされることも厭わなかった。

若菜は画家にはならず、彼と共に各地を飛び回った。

千聡が胃から出血するほど飲まされ、それでも取引先に酒を勧められたときは、彼のグラスを奪って一気に飲み干したことさえある。

初めて数千万円規模の契約を勝ち取った日。

二人は狭いアパートで抱き合い、声を上げて泣いた。

その日を境に、人生はようやく上向き始めた。

アパートを出て、住まいは少しずつ広くなり、会社も次第に軌道へ乗っていった。

千聡の周囲にはさまざまな人が集まるようになり、やがて若菜は彼の鎖骨にキスマークを見つける。

二人は激しく言い争った。

「この立場になれば、付き合いでそういうこともある。お前は家で大人しく奥さんをやってればいいんだ。わかってくれ!」

「でも、一生一緒にいるって約束したでしょう!1日だって欠けちゃだめなの!」

互いに一歩も譲らず、真っ向からぶつかり合った。

若菜は彼を調べる頻度を増やし、しまいには千聡が残業だと言うたび、こっそり会社へ忍び込み、本当に仕事をしているのか確かめるようになった。

千聡も意地になったように、本当に浮気を始めた。

次々と違う女性を連れ歩き、ひどいときには背中についた爪痕をわざと見せつけ、彼女を挑発した。

彼女の度を越した独占欲への罰だった。

若菜は、自分がまるで狂ったように感じていた。

手放すべきだと分かっていても、どうしてもできなかった。

十数年もの歳月を共に過ごし、二人はまるで血肉がつながった存在になっていた。

離れれば身を裂かれるように痛み、一緒にいれば互いを傷つけ合う。

それでも離れられなかった。

ところが1年後、千聡はまるで別人のように変わった。

周囲の女性たちとの関係をすべて断ち切り、ただ一人の女性だけを残した。

若菜は人を使って調べさせた。

写真に写るその女性の目元や眉は、自分と8割ほども似ていた。

その瞬間、彼女は崩れ落ちた。

――あの子は、自分に似ていた。

16歳だった頃の、純粋で澄んでいた自分に。

千聡は、昔の自分の面影を重ねた人を愛することはできても、今の自分を愛そうとはしなかった。

若菜は自殺を図った。

屋敷の浴槽に身を沈めた。

千聡は狂ったように彼女を抱き上げて病院へ運び、目を真っ赤にして病床の前へ跪く。

「ちゃんとやり直そう。もう二度とこんなことはするな。俺は誰もいらない、お前だけでいい」

ベッドに横たわる若菜は、ただひたすら疲れ切っていた。

彼の約束を聞いたはずなのに、どうして胸はこんなにも痛いのだろう。

その日、彼女は実の両親が見つかったという連絡も受けた。

そして同じ日、病院の下で千聡が唯を抱きしめている姿を目にする。

「ごめん、唯。あの人は精神的に不安定なんだ。俺が離れたら死んでしまう。

そばにはいられなくても、十分な生活は保証する。君にはもっと幸せになる資格がある」

二人は離れがたいほど深く口づけを交わし、悲しい結末を迎える恋人同士のようだった。

その瞬間、若菜は、自分たちをつないでいた血肉が無理やり引き裂かれ、大きな穴が空いたような痛みに襲われた。

あまりにも痛くて、声さえ出なかった。

ベッドで過ごした7日目。

彼女はようやく吹っ切れた。

千聡のもとを去ろう。

自分の手で、この腐れ縁を断ち切ろうと。

その日を境に、若菜は変わった。

千聡を騙して離婚届に署名させた。

......

それから3日間、千聡は一度も帰ってこなかった。

彼女ももう尋ねることはなく、離婚後の財産整理を始め、自分名義のあのアパートを売りに出した。

買い手を連れて部屋の前まで来ると、玄関のドアが少しだけ開いていることに気づく。

隙間から覗くと、二本の腕がテーブルについていた。

そして、自分と同じ結婚指輪をはめたその手が、もう一方の手に重ねられている。

静まり返った部屋に、生々しい物音だけがひときわ耳障りに響いていた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 冬の終わり、遅すぎた後悔   第17話

    近藤は、唯がここまで狂っていて、自分たちまで道連れにするつもりだとは思ってもいなかった。倉庫は一瞬で大混乱となり、全員が我先にと出口へ向かって逃げ出す。千聡は傷だらけの身体を引きずりながら立ち上がり、一歩ずつ若菜のもとへ向かった。残り五分の表示を見た彼は、血の混じった唾を飲み込み、震える手で跪いて爆弾の解除を始める。「千聡......」若菜の声は震え、涙が頬を伝った。千聡はそっと彼女の涙を拭いながら、震える手を止めずに言う。「大丈夫。俺はここにいる......もうお前を一人にはしない」残り時間はあと2分。爆弾の構造など分からない彼は、とにかく慎重に金具を外すことだけに望みを託した。ようやく金具を外したその瞬間、中から赤と青、二本の配線が現れる。若菜の顔色はますます青ざめ、大量の出血で意識も朦朧としてきた。「......もう行って。今ならまだ間に合う。千聡だけでも......」「行かない!」千聡はほとんど叫ぶように答え、涙を流した。「もう二度とお前を一人にはしないって言ったろ!最悪、一緒に死んでもいい。お前だけを置いていくなんて絶対にしないから!」若菜は彼の頬を平手で叩いた。「あなたと一緒に死ぬなんて、絶対嫌!」千聡は涙を止められず、二本の配線を握り締める。「それでも行かない。若菜......もし俺が間違えたら、その時は許してくれ」覚悟を決め、彼は赤い配線を切断した。その瞬間、カウントダウンは残り30秒で止まる。二人はようやく安堵の息をついた。千聡が慎重に爆弾を取り外した――その直後、止まっていたタイマーが再び猛烈な勢いで動き始める。千聡は爆弾を抱えると、そのまま倉庫の外へ全力で駆け出し、力いっぱい遠くへ投げ捨てた。次の瞬間、轟音が響き渡る。その音を最後に聞いた若菜は、とうとう意識を失った。......再び目を覚ますと、そこは病院だった。篤哉はすぐに彼女の身体を支え起こす。「まだ動かないほうがいい。医者の話では命に別状はないけど、傷が深いから出血しやすいそうだ」若菜は静かに頷いた。「......私を拉致した犯人は?」篤哉の表情が一瞬で曇る。「昔、仕事で揉めた相手だ。奴は俺の車に細工をした。でも、もう大丈夫だ。やられた分は、もうやり返し

  • 冬の終わり、遅すぎた後悔   第16話

    若菜は頭が割れそうな痛みに襲われながら、ぼんやりと目を開けた。気づくと、自分は廃れた倉庫の中に横たわっていた。部屋には屈強な男たちが数人立っており、唯は背を向けたまま、一人の中年男と話している。「必ず連れてくるって言ったでしょ、近藤さん。ほら、ここにいるわ」「近藤さん」と呼ばれた男は片目を失っており、笑みを浮かべた。「少しは役に立つじゃねえか。病院からお前を連れ出した甲斐があった」男は眼帯を直しながら、冷酷な声で言う。「神山篤哉のせいで俺は片目を潰され、何年も北代城へ戻って身を潜める羽目になった。あいつの可愛い妹なら、たっぷり歓迎してやらねえとな」唯の目が興奮で輝く。「今すぐ殺すの?」男はその言葉を遮り、険しい口調で言った。「こいつにはまだ金になる価値がある。妹が死んだと知れば、あの男は俺と刺し違える気で来るだろう。あれだけ盛大に帰還を祝ったんだ、身代金くらい払うさ。そういや、お前はこいつに恨みがあったんだな。好きにいたぶってもいい。ただし、殺すな」唯が何か言おうとしたその時、横目で若菜がすでに目を覚ましていることに気づいた。彼女はナイフを手に取り、若菜へ歩み寄る。「この顔の傷、見える?千聡があんたのためにつけたの。『若菜に似た顔をしている資格なんてない』って、わざと私の顔を潰したのよ」唯はしゃがみ込み、ナイフの腹で若菜の頬を軽く叩きながら、狂気じみた笑みを浮かべた。「私はあんたより若くて、優しくて、それなのにどうして......どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの?!」怒りが込み上げるまま、彼女はナイフを若菜のふくらはぎへ突き立てた。激痛に若菜は悲鳴を上げ、唇を噛み締める。「悪いのは千聡でしょう!私には関係ないわ!」彼女は苦笑しながら唯を見つめ返した。「それともあなたは、誰かに寄生して生きることしかできないわけ?」図星を突かれた唯は顔を歪め、刺さったままのナイフをさらにねじ込んだ。「強がるのも今のうちよ。近藤さんに好きに痛めつけてって言われたもの」唯はナイフを引き抜き、そのまま若菜の顔へ振り下ろそうとした。その瞬間、倉庫の扉が勢いよく蹴り開けられた。千聡は、刃先が今にも若菜の顔に届こうとしているのを見て、緊張でゴクリと息を呑んだ。「お前を苦しめ、病院へ

  • 冬の終わり、遅すぎた後悔   第15話

    篤哉は若菜の帰還を祝うレセプションを開き、A国中の名だたる名士たちを招いて彼女の門出を祝福した。オートクチュールのドレスをまとい、かつて母が最も大切にしていたジュエリーを身につけた若菜がスポットライトの中に姿を現した瞬間、会場は大きな拍手に包まれた。篤哉はそっと彼女の手を取り、一歩ずつ壇上へと導く。「大事な妹が、ようやく帰ってきた」若菜が会場の隅へ視線を向けた瞬間、胸が締めつけられた。千聡が、振り払っても付きまとう亡霊のように、また彼女の前へ現れていた。篤哉もそれに気づき、警備員に追い出すよう命じようとしたが、若菜がそれを止めた。「ちゃんと私が話をつける。このまま向き合わなければ、いつまでも終われないから」若菜はドレスの裾を持ち上げ、ゆっくりと階段を下り、千聡のもとへ歩いていく。近づいて初めて、彼の顔に残る傷跡が見えた。かつて生気に満ちていたその瞳には、今はただ死んだような静けさだけが宿っていた。「一体どこまで付き纏う気なの?」若菜は窓の外に浮かぶ月明かりを見つめたまま、振り返らなかった。「若菜......」千聡は声を詰まらせ、近づくこともできずに言った。「俺は......ずっと俺たちのことを考えてた。孤児院から北代城で成功するまで、本当に長い道を一緒に歩いてきた。その道の途中で、俺はたくさんのものを失った。初心も、良心も、そしてお前を愛する心さえも......昨夜ずっと考えていたんだ。俺たちはどうして変わってしまったんだろうって。あの時の俺は外の世界に憧れて、お前の愛を窮屈だと感じていた......」若菜は振り返り、穏やかな目で彼を見つめる。「そこまで分かっているなら、もう私の前に現れないで。迷惑よ」彼女が立ち去ろうとすると、千聡は最後に低い声で尋ねた。「本当にもうやり直せないのか?唯にはちゃんと償わせた。お前の代わりに仕返しもした」若菜は彼のスマホに映る監視映像を見て眉をひそめた。千聡があそこまで苛烈な手段を取るとは思ってもいなかった。まるで別人だ。「それは私のためじゃないわ。あなた自身のためよ。あなたは彼女を無邪気で害のない存在だと思い込み、自分を束縛しない理想の相手だと勘違いしていただけ。そして彼女が思い描いていた人間じゃないと知った途端、怒りに任せてあそこまで辱めた

  • 冬の終わり、遅すぎた後悔   第14話

    若菜は昨夜起きた出来事を何一つ知らないまま、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。階下へ降りると、篤哉がダイニングでコーヒーを飲みながら報告書に目を通していた。「どうしてここに......」篤哉は淡々と顔を上げ、席へ座るよう目で促した。「君が気にするだろうと思って、私は一階に住むことにした。それに、ここなら会社にも近い」若菜は彼の向かいへ座り、小さくパンをかじる。どうしても目の前の男の考えが読めない。ここは神山へ行くにはむしろ遠く、回り道になる場所だった。「出かけるときは、必ずボディーガードを連れて行ってくれ。余計なトラブルを避けるためだ」結局、食事が終わるまで二人はそれ以上ほとんど会話をしなかった。若菜も気分転換に外へ出ようと思い、篤哉と一緒に家を出る。車へ乗り込もうとしたその瞬間、不意に腕を強く掴まれた。「若菜、お前とこいつはどういう関係だ」若菜が見知らぬ男と並んで家から出てくる姿を見た瞬間、千聡の胸は焼けつくような嫉妬でいっぱいになっていた。本当は冷静に説明するつもりだった。だが、その光景を目にした瞬間、理性は嫉妬に焼き尽くされてしまった。篤哉は眉をひそめると、千聡の腕を掴んで脇へ押しやり、二人の間へ立つ。「私と彼女がどういう関係であろうと、あなたには関係ありません。市橋千聡、今すぐここから立ち去りなさい。さもなくば容赦しません」目の前の男が自分の名前を知っていることに、千聡は驚いた。「俺を調べた?」篤哉は手を軽く払うと、若菜へ先に車へ乗るよう合図し、それから千聡を見た。「ええ。妹のことですから、当然調べます。市橋さんは北代城では有名人ですし、知らないほうが難しいでしょう」その言葉の裏にある皮肉を察し、千聡の声にはわずかな後ろめたさが滲んだ。「......若菜のお兄さんなんですね。俺と若菜には少し誤解があるんです。今日はちゃんと説明をするためにここに来ました。10年以上一緒に過ごしてきたんです。このまま諦めたくありません」篤哉の金縁眼鏡が静かに光る。千聡を見つめたまま、彼はふっと笑った。「誤解?彼女を家へ置き去りにして、自分は外で女遊びをしていたことが誤解だと?彼女があのアパートで爆発に巻き込まれて大怪我をしたとき、あなたは愛人の母親の風邪に付き添い、他人に

  • 冬の終わり、遅すぎた後悔   第13話

    千聡が再び贈り物を持って訪ねると、この家の住人はすでに引っ越したと告げられた。彼は険しい表情でスマホを取り出し、秘書へ電話をかける。「若菜がどこへ行ったのか調べろ!一日でこんなに跡形もなく姿を消せるはずがない!」若菜から何の連絡もなく、完全に拒絶され続けたこの数日で、彼の精神は限界に近づいていた。苛立ちは日に日に募り、少しのことでも感情を抑えられない。ソファに腰を下ろし、眉間を押さえながら、彼女があの日口にした言葉が何度も頭の中でよみがえる。――まだ謝り足りないんだ。だから許してもらえない。きっと、まだ唯のことを怒っているんだ。そう思った千聡は、スマホから一本の動画を開いた。そこには「病院」へ送られた唯の姿が映っていた。患者服を着た数人の男が、バットで何度も何度も彼女を打ち据えている。かつての華やかな面影は消え失せ、彼女は虚ろな表情で座り込み、頬には長く醜い傷跡が刻まれていた。千聡はその映像を見つめながら、ゆっくりと笑みを浮かべる。「若菜がこれを見れば、きっと許してくれる......絶対に」翌日、秘書から住所が送られてきた。その声には隠しきれない心配が滲んでいる。「市橋社長、やはり諦めたほうが......調べたところ、あの富豪には神山篤哉という養子の方がいます。A国では裏社会にも表社会にも顔が利く人物で、現在は奥様を名指しで保護しています。普通の人間ではまず会えません」千聡はスマホに表示された住所を食い入るように見つめ、目には狂気じみた光が宿る。「嘘だ。若菜は俺に腹を立てているだけだ。誰にも俺が彼女に会うのを邪魔させない!」彼は贈り物と、若菜の好物だったお菓子を抱え、住所を頼りに向かった。ようやく門まで辿り着いたところで、警備員に行く手を阻まれる。「ここは私有地です。立ち入りはできません」千聡は眉を寄せた。「若菜は俺の妻だ。会わせろ!」その言葉を聞いた警備員は、すぐに篤哉から受けていた指示を思い出した。「なるほど。例の、お嬢様につきまとっている男か。やれ!」次の瞬間、数人のボディーガードが千聡を取り囲み、手にした武器を容赦なく振り下ろした。千聡は地面に倒れ込み、頭を抱えることしかできない。反撃する余力などまるでなかった。暴行は20分近く続き、ようやく男

  • 冬の終わり、遅すぎた後悔   第12話

    若菜は目を伏せたまま、穏やかな口調で言った。「じゃあ私は?私にとっては公平なの?もう私の前に現れないで」千聡は彼女が遠ざかっていく背中を見つめ、拳を強く握り締めた。その日から毎日、若菜の家の前には花束や贈り物が届くようになった。ある日はジュエリー、ある日はバッグ。どれも例外なく、かつて彼女が好んでいたデザインばかりだった。だが若菜はいつものように、それらをすべてゴミ箱へ放り込んだ。千聡がどうやって自分の住所を突き止めたのかは分からない。けれど、この家にはもう住めないと思った。彼女は電話を手に取り、少し迷った末に番号を押した。「もしもし。以前、何かあれば力になると言ってくださいましたよね。人目につきにくい家へ引っ越したいんです」神山篤哉(こうやま とくや)の落ち着いた声が受話器の向こうから聞こえた。書類をめくる音がかすかに響く。彼は若菜の話を聞き終えると、しばらく黙り込んだ。「2時間くれ。すぐに連絡する」電話を切ったあと、若菜はベッドに腰掛け、遺産相続書類を眺めながら、篤哉と初めて会った日のことを思い出していた。「養父はこの何年もの間、ずっと君を探していた。残念ながら手掛かりは見つからなかったが……『たとえ私がいなくなっても、遺志を継いで妹を見つけ出せ』と、彼は生前、私に言っていた。養父の死後、私は資産や株式、基金には一切手を付けていない。相続した分だけを受け取った。現金は半分ずつ。株式と信託もそれぞれ等分して相続する。会社はこれまでどおり私が経営するが、利益については利息相当額を換算し、毎月君の口座へ振り込む」若菜は、まるで精密機械のように隙のない男を初めて見た。千聡のような奔放さとは違い、篤哉は冷静で慎重だった。どこか人を寄せ付けないような雰囲気さえある。帰り際になってようやく、彼は遺産とは関係のないことを一つだけ口にした。「A国で何か困ったことがあれば、いつでも私に連絡してくれ。あとで秘書から連絡先を渡させる」若菜が返事をする間もなく、篤哉は屋敷を後にした。本当の娘が帰ってきたことで、養子との間に争いが起きる――そんな話を彼女はこれまで何度も耳にしてきた。だから、この男性とは必要以上に関わるつもりはなかった。自分が受け取るべきものだけ受け取り、それ以外は何

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status