Short
愛が深いほど、眠れなかった

愛が深いほど、眠れなかった

By:  流星群を抜け出したらCompleted
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
9Chapters
7views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

パーティーでゲームに負けた俺の彼女、塩出永梨(しおで えり)は、罰ゲームを受けることになった。 誰かが囃し立て、俺の幼馴染である東原洋司(ひがしばら ようじ)の長所を10個挙げるよう永梨に迫った。 永梨に迷う素振りはなかった。 「明るいし、顔もいいし、スタイルもいい。人付き合いも上手いよね。 よく笑うし、空気も読めるし、仕事だってできる。センスもいいし。 それに……人を楽しい気分にさせるのが、すごく上手」 続いて、洋司がにやにや笑いながら話を振る。 「じゃあ永梨から見て、泰介のいいところってある?」 永梨は俺――陣内泰介(じんない たいすけ)に視線を向け、ほんの一瞬だけ言葉を詰まらせた。 やがて絞り出したのは、たった一言。 「……真面目、かな」 周囲の誰かが、助け舟を出すように「他には?」と笑いながら尋ねた。 永梨は眉を寄せて本気で考え込んでいたが、結局、ふたつ目の言葉が出てくることはなかった。 気まずい沈黙が落ちる中、俺の胸には、鉛のように重い疲労感が押し寄せていた。 永梨と付き合って7年。結婚式はもう来週に迫っているというのに。 彼女が真剣に探してくれた俺のいいところは、「真面目」のたった一言だけだった。 もう、真面目な男でいるのはやめにしよう。

View More

Chapter 1

第1話

俺が席を立とうとした矢先、また誰かが手を叩いて場を盛り上げ始めた。

「待てって泰介、最後にもう1回だけ」

「今度はちょっと際どいやつな。LINEのトーク履歴を見て、誰と一番多くやり取りしているか確かめよう」

洋司が笑いながらスマホをテーブルに滑らせる。

「いいよ。僕は別に、見られて困るものなんてないし」

だが、トーク一覧が表示された瞬間、個室の空気が凍りついた。

永梨が最も多くやり取りしていた相手は、俺ではなく、洋司だった。

誰かが気まずそうに笑う。

「いや……永梨と洋司、意外と話してるんだな」

洋司はぱちりと瞬きをし、悪びれもせず軽い調子で返す。

「仕方ないだろ。泰介は聞き分けがよすぎて、何でもひとりで抱え込むタイプだし。

永梨だって、愚痴のひとつくらいこぼしたい時もあるだろ」

そう言いながら、彼はわざとらしく思い出したようにトーク画面を開いてみせた。

画面に、永梨から届いたメッセージが浮かび上がる。

【泰介、また結婚式の進行について聞いてくる。

あの人、本当に神経質すぎ】

洋司の返信。

【あいつ、何でも真面目に考えすぎなんだよ。僕なんか、結婚式なんて楽しけりゃそれでいいって思うけどな】

永梨のスタンプ。笑顔だった。

【だから言ってるじゃん。洋司と話してる方が、よっぽど気楽】

指先に少しずつ力が入り、強く握り締めていくのがわかった。

画面には、さらに次のやり取りが流れてくる。

永梨のメッセージ。

【泰介、今日もあの白いシャツを着てた。

自分は白が似合うとでも思ってるのかな】

洋司が泣き笑いのスタンプを返す。

【そこまで言うなよ。

まあ確かに、似合ってはないよな。影が薄いっていうか】

永梨からの返信も。

【うん。洋司が着た方が、きっと似合う】

個室の中は完全に静まり返っていた。

俺はその場に立ち尽くし、喉の奥に何かがつかえたような感覚を覚えていた。

細かな痛みが胸の奥からじわじわと込み上げ、呼吸すら浅くなっていく。

なあんだ、そういうことか。

俺がひそかに抱いていた期待も、タキシードを試着した時のあの緊張感も、永梨にとっては、洋司と一緒に笑うための、ただの話の種でしかなかったのだ。

洋司が近づき、親しげに俺の肩へ腕を回してきた。

「泰介、そんな怒るなって。

相手が他の男だったら、僕が代わりに怒ってやるからさ」

「だって僕は、お前の一番の親友だろ?」

彼は小首をかしげ、当然のことのように言い放つ。

「僕がお前の代わりに永梨を見てやってるんだ。何が悪い?」

俺は、肩に置かれたその手を見下ろした。

手首に光る、銀色の腕時計。

それは数日前、永梨が出張先から【どう?】と写真を送ってきた品だった。

あの時、俺は写真をしばらく見つめてから、心から嬉しくなって返信した。

【素敵だ】

てっきり、俺へのサプライズプレゼントにするつもりなのだと思っていた。

彼女が帰宅したら知らないふりをして、「お土産はある?」ととぼけて聞いてやろうとまで考えていたのに。

けれど何日待ってもそのサプライズは訪れず、今、洋司の腕で光っている。

俺がゆっくりと肩からその腕を外すと、洋司はすぐに目を赤くし、傷ついたような顔を見せた。

「泰介、お前……僕のことまで疑ってんの?」

永梨が、ようやく眉をひそめた。

「みんなでゲームをしていただけでしょ。そんなに過敏にならないでよ」

その言葉を聞いた瞬間、俺は悲しむのすらひどく馬鹿らしくなってしまった。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
9 Chapters
第1話
俺が席を立とうとした矢先、また誰かが手を叩いて場を盛り上げ始めた。「待てって泰介、最後にもう1回だけ」「今度はちょっと際どいやつな。LINEのトーク履歴を見て、誰と一番多くやり取りしているか確かめよう」洋司が笑いながらスマホをテーブルに滑らせる。「いいよ。僕は別に、見られて困るものなんてないし」だが、トーク一覧が表示された瞬間、個室の空気が凍りついた。永梨が最も多くやり取りしていた相手は、俺ではなく、洋司だった。誰かが気まずそうに笑う。「いや……永梨と洋司、意外と話してるんだな」洋司はぱちりと瞬きをし、悪びれもせず軽い調子で返す。「仕方ないだろ。泰介は聞き分けがよすぎて、何でもひとりで抱え込むタイプだし。永梨だって、愚痴のひとつくらいこぼしたい時もあるだろ」そう言いながら、彼はわざとらしく思い出したようにトーク画面を開いてみせた。画面に、永梨から届いたメッセージが浮かび上がる。【泰介、また結婚式の進行について聞いてくる。あの人、本当に神経質すぎ】洋司の返信。【あいつ、何でも真面目に考えすぎなんだよ。僕なんか、結婚式なんて楽しけりゃそれでいいって思うけどな】永梨のスタンプ。笑顔だった。【だから言ってるじゃん。洋司と話してる方が、よっぽど気楽】指先に少しずつ力が入り、強く握り締めていくのがわかった。画面には、さらに次のやり取りが流れてくる。永梨のメッセージ。【泰介、今日もあの白いシャツを着てた。自分は白が似合うとでも思ってるのかな】洋司が泣き笑いのスタンプを返す。【そこまで言うなよ。まあ確かに、似合ってはないよな。影が薄いっていうか】永梨からの返信も。【うん。洋司が着た方が、きっと似合う】個室の中は完全に静まり返っていた。俺はその場に立ち尽くし、喉の奥に何かがつかえたような感覚を覚えていた。細かな痛みが胸の奥からじわじわと込み上げ、呼吸すら浅くなっていく。なあんだ、そういうことか。俺がひそかに抱いていた期待も、タキシードを試着した時のあの緊張感も、永梨にとっては、洋司と一緒に笑うための、ただの話の種でしかなかったのだ。洋司が近づき、親しげに俺の肩へ腕を回してきた。「泰介、そんな怒るなって。相手が他の男だったら、僕が代わりに怒
Read more
第2話
俺は立ち上がり、静かに言った。「疲れた。先に帰る」個室を出たところで、上着をソファに忘れてきたことに気づいた。取りに戻ると、閉まりきっていない扉の向こうから、声を潜めた会話が聞こえてきた。「永梨、本当に追いかけなくていいの?泰介、さっき顔真っ青だったよ」永梨は数秒黙った後、確信しきった口調で答えた。「泰介は本気で怒ったりしないよ。あの人、何でも我慢するタイプだから。ひと晩寝れば機嫌も直るよ」ドアノブを掴もうとした手が止まる。彼女はさらに続けた。「それより洋司でしょ。さっきみんなにからかわれて気まずそうだったし。後でちゃんとフォローしておかないと」宙に浮いた指先が、急速に冷えきっていく。「真面目」という言葉は、切れ味の鈍いナイフのようだった。血こそ出ないが、じわじわと胸の奥を切りつけていく。俺は結局、部屋には戻らなかった。その時、スマホが短く震えた。結婚式のプランナーからのメッセージだ。【陣内様、本当に式をキャンセルなさるおつもりですか。陣内様が半年以上かけて準備してこられたプランですよ。花材から照明、招待状、席札に至るまで、ひとつひとつこだわって選ばれたものです。今キャンセルなさるのは、あまりにも惜しいです】画面に表示された会場の完成イメージを見つめ、ふと過去を振り返る。当初、俺は白い椿で会場を飾りたかった。だが永梨は一瞥しただけでこう切り捨てた。「洋司が、椿だと地味すぎるって。結婚式なんだから、もう少し華やかな方がいいよ」そうして白い椿の装花は、洋司の好きな赤いバラに差し替えられた。淡いゴールドの照明にしたいと言っても、永梨は「洋司が、暖かみのあるオレンジ色の方が写真映えするって」と返す。落ち着いた色合いの、型押しだけを施した招待状がいいと言えば、「洋司の言うとおりにしよう。あの人、センスいいから」と返される。今ならわかる。半年以上かけて丹念に準備してきたはずの俺たちの結婚式は、少しずつ、だが確実に洋司の好みに侵食されていたのだ。新郎である俺に残されたのは、そこに記された名前だけだった。プランナーから、もう1通メッセージが届く。【本当にキャンセルでよろしいでしょうか】俺は、当初の面影など微塵も残っていない会場の画像を見つめ
Read more
第3話
新居に戻った俺は、ただ淡々と荷造りを始めた。この部屋は、永梨と一緒に選んだ大切な場所だった。仕事から帰れば玄関の明かりが灯っていて、キッチンには温かい手料理が用意されている。ベランダで俺の好きな椿を育てよう――そう彼女は語り、俺はそれを想像するだけで胸が温かくなった。だが今になって見渡せば、この家の至る所に、洋司の痕跡が残されている。冷蔵庫には、彼の好きな白桃の炭酸水がぎっしり詰まっている。ソファには、彼が置いていった上着。クローゼットに掛けられた、洋司が受付を務めるためのスーツは、あろうことか、新郎である俺の衣装よりも明らかに凝ったデザインだった。ウォークインクローゼットの中でその2着を見比べると、胸の奥に言葉にならない苦みが広がっていく。なるほど、そういうことか。式はまだ始まってもいないというのに、永梨の心の中で俺が占めるべき場所は、すでに洋司によって塗りつぶされていたのだ。涙は出なかった。俺はただ黙々と、身分証とパスポート、着慣れた数着の服をスーツケースに押し込んでいく。荷造りの最中、玄関の鍵が回る音が響いた。永梨が帰ってきた。手にはジュエリーブランドの小さな紙袋。その口調には、どこか俺の機嫌を取ろうとする響きが混じっていた。「ねえ、もう怒らないでよ。お店の前を通ったらこのカフスが目に入って。前に黒曜石が好きって言ってたの、覚えてたから」永梨が開けた箱の中には、黒曜石のカフスボタンが1組収まっていた。確かに、俺は黒曜石が好きだ。以前ショーウィンドウの前で足を止め、値段を見て、結局買うのを諦めたことがある。その時、永梨は俺の手を握って、笑いながらこう言った。「結婚したら、もっといいの買ってあげる」そして今、彼女は本当に買ってきた。だが、買ってきたのはカフスボタンだった。そもそも俺は、カフスが必要なフレンチカフスのシャツなど、ただの一度も着たことがない。それを好んで着るのは、洋司の方だ。永梨がそっと俺を抱きしめてくる。「さっきのことは、もう水に流してくれない?」俺が沈黙したままカフスボタンを見下ろしていると、ジュエリーブランドの紙袋からひらりと1枚のレシートが滑り落ちた。印字された金額に、思わず目を疑う。ネクタイ1本の値段が、このカフスの10倍以上も
Read more
第4話
翌日、スーツケースを引きながら書斎の前を通りかかると、扉がわずかに開いていた。隙間から、永梨の押し殺したような笑い声が漏れてくる。パソコンでビデオ通話をしていたのだ。洋司はパジャマ姿のままベッドのヘッドボードにもたれ、誓いの言葉の原稿を手にしていた。「永梨、この一節、堅すぎるだろ。『泰介、7年間そばにいてくれてありがとう』って」そう読み上げてから、彼はくすりと笑う。「なんか、送別会の挨拶みたいだな」永梨も釣られて笑った。「私、こういうの書くの苦手なんだよね」洋司が頬杖をつき、画面越しの彼女を見つめる。「じゃあ、『あなたは春のように、私の心を軽くしてくれる人』って書けば?こっちの方がロマンチックじゃない?」永梨は数秒黙り込み、それから声を落とした。「……その1文、洋司らしい表現だね」画面の向こう側が、一瞬だけ静まり返る。やがて、洋司が小さく尋ねた。「それ、本当に泰介に向けて読むつもり?」永梨はすぐには答えなかった。しばらく間を置いてから、ようやく口を開く。「式では泰介に向けて読むけど、心の中では洋司にこっそり聞かせていると思えばいいでしょ」俺は扉の外に立ち尽くしたまま、胸の内側を薄い刃で静かに切り裂かれたような感覚を覚えていた。俺は結婚式のために、こっそりと3枚にもなる誓いの言葉を書いた。何度も何度も書き直し、気恥ずかしいほど大げさな言葉はすべて削り、一番偽りのない想いだけを残した。以前、永梨に尋ねたことがある。「誓いの言葉、一緒に考えようか?」彼女はこう答えた。「そういう形式ばったこと、別に必要なくない?」そうか。形式がいらないわけじゃなかった。俺と一緒に考える時間が、いらなかっただけだ。洋司がふいに画面へ顔を寄せ、軽く笑った。「じゃあ、もうちょっとこっち寄って」永梨が眉をひそめる。「何するの?」彼は答えなかった。ただ画面越しに、そっとカメラのレンズにキスをしたのだ。馬鹿げていて、それでいて挑発的な口づけだった。永梨は避けなかった。ただ数秒黙り込み、小さくため息をつく。「洋司。これからは、もうこういうことをしないで。私、もうすぐ結婚するんだから」洋司が目を伏せ、拗ねたような声を出す。「わかってるよ。だ
Read more
第5話
永梨はスマホを握りしめたまま、見る見るうちに表情を険しくしていった。「アイスランドに行ったんですか?それは、いつ決まったんですか」プランナーは、少し言葉を選ぶように答える。「陣内様は、かなり前にオファーを受けていたそうです。ご決断されたのは、今日になってからだと伺っております。それと、結婚式の損失はすべてご自分で負担するので、塩出様に対応していただく必要はない、とも仰っていました」永梨には、それがまるで馬鹿げた冗談のように聞こえた。「私が出る必要がない?取りやめになったのは、私たちの結婚式ですよ!」プランナーは、慎重に言葉を続ける。「塩出様。陣内様は昨夜、はっきりとそう仰っていました。この結婚式は、もう自分の望んだ形じゃなくなった、と」その一言が、鋭い針のように永梨の胸に突き刺さった。彼女は無意識のうちに、パソコンの画面を振り返る。洋司は、まだビデオ通話に繋がったままだった。彼は困ったように髪をかきむしり、目を赤くしていた。「永梨、泰介が怒ったの、僕のせいかな。僕、あいつに説明しに行こうか」以前の永梨なら、洋司がこう言えば真っ先に彼を慰めていただろう。けれど今この瞬間、彼女の頭をよぎったのは、昨夜、俺が涙をこぼしていた姿だった。あの目には、悲しみのほかに、すべてを断ち切るような決意だけが残っていた。永梨は、急に不安に駆られた。プランナーとの電話を切ると、震える指で俺に電話をかけた。1度目、応答なし。2度目も、応答なし。3度目には、無機質なアナウンスが流れた。「おかけになった電話は、電源が入っていないか……」永梨はその場に立ち尽くした。胸の奥にあった小さな不安が、ようやく本物の恐怖へと姿を変えていく。彼女は書斎を飛び出し、寝室ががらんとしていることに気づいた。クローゼットの中から、俺がよく着ていた服が半分近く消えている。デスクの上にあったはずのパスポートケースも見当たらない。玄関の棚の上には、あの黒曜石のカフスボタンが置かれたまま。そしてその隣には、俺が7年間つけ続けた指輪が置かれていた。永梨の指先が、ビクッと震えた。あの指輪は、彼女が大学を出たばかりの頃、半年かけて給料を貯め、ようやく買ったものだった。あの時、彼女は照れて耳
Read more
第6話
スマホが、また短く鳴った。今度は、結婚式のプランナーから届いたファイルだった。【塩出様、こちらは陣内様が式の取りやめを決められる前に確認された、最終案です。よろしければ、記念としてお手元に残していただければ、とのことでした】永梨が震える指でファイルを開く。1ページ目は、当初の白い椿を基調とした結婚式。2ページ目は、後に赤いバラへと変更された案。横に添えられた修正メモの1つ1つには、こう書かれていた。【塩出様より「東原様の提案」とのことで変更】【塩出様より、東原様のお好みに合わせて変更】【塩出様より、東原様のご意見に従い変更】1行、また1行と。まるで見えない手で、何度も何度も頬を張られているようだった。永梨は、ここでようやく理解した。俺は突然、この結婚式が要らなくなったんじゃない。彼女がずっと前から、この結婚式の中の俺を、少しずつ洋司に置き換えていたのだ。俺はただ、自分のものではない場所に、これ以上立っていたくなくなっただけだったのだと。彼女は両手で顔を覆った。それでも、涙は指の隙間から零れ落ちた。……一方、飛行機が分厚い雲の層を抜けた頃、空の端がうっすらと朝の光を帯び始めていた。俺は窓際の席に深く座り、眼下に遠ざかっていく街並みをただ眺めていた。スマホの電源を切る直前、プランナーから最後のメッセージが届いていた。【陣内様、手続きはすべて完了いたしました】俺は【ありがとうございます】とだけ返信し、それからスマホの電源を完全に切った。窓の外に広がる雲海は、長く続く雪景色のようにひどく静かだった。俺はゆっくりと目を閉じる。物分かりよく振る舞う必要もなければ、物分かりがいいと褒められる必要もない。そんな当たり前の自由が、こんなにも心を軽くするなんて、俺は初めて知った。アイスランドに着いて3日目の夜、俺は初めてオーロラを見た。緑色の光が夜空いっぱいに揺らめいた時、俺は雪の上に立ったまま、ふと何年も前の記憶を思い出した。昔、俺はオーロラの写真を永梨に送ったことがある。【永梨、いつか一緒に見に行かない?】彼女の返信は早かった。【行こう。結婚式が終わったら、一緒に行こうね】その後、俺はこの言葉をずっと心の奥に留めていた。式の準備に心が折れそ
Read more
第7話
俺がそう言い放った瞬間、永梨は突然その場に跪き、冷たい雪の上に膝をついた。膝が雪の上に打ちつけられ、鈍い音が響いた。「泰介、私が悪かった。もう二度と洋司には会わない。洋司とのLINEのトーク履歴も、全部消すから。結婚式だってやり直す。何でもあなたの言う通りにする。だから、お願い、戻ってきて……」遠巻きに様子を窺っていた同僚たちが歩み寄ろうとするのを、俺は首を振って制した。目の前で雪の上に跪く永梨を見下ろしても、胸の奥に憎しみは湧いてこない。痛みすらない。ただ、すべてが終わった後の、凪いだような静けさだけが広がっていた。「永梨……俺が欲しかったものを、お前はこれまで一度も与えることができなかった。今はもう欲しくない。だから、お前ももう与えなくていい」彼女が弾かれたように顔を上げる。その瞳には、すべてを失ったような絶望の色が浮かんでいた。「でも私、あなたを愛してる。本当に、愛してるの……」「それなら、愛していたということにしておけばいい」俺は静かに告げた。「俺も、愛していたよ。でも、俺たちはここまでだ」そう言い残し、俺は彼女の横を通り抜け、ホテルの中へと歩き出した。永梨がすがりつこうと手を伸ばすが、すぐさま同僚たちに阻まれる。彼女は雪の上に跪いたまま、俺の名前を何度も叫び続けた。「泰介!陣内泰介!一度だけでいいから、振り返って私を見てくれない……?」俺は振り返らない。ホテルのガラス扉が、ゆっくりと閉まっていく。彼女の声は、ガラス扉と吹雪の向こうに遮られた。その後数日間、永梨はアイスランドを離れようとしなかった。毎日ホテルの前で俺を待ち続け、俺の好きな椿の花を、温かいコーヒーを、厚手のマフラーを差し入れてきた。けれど俺は、そのどれも一度として受け取らなかった。花はフロントから返され、コーヒーは扉の前で手つかずのまま冷え切り、マフラーは未開封のまま彼女の手元へと戻された。1週間後、洋司もアイスランドにやって来た。彼は目を真っ赤にして、俺に詰め寄ってきた。「泰介、お前、一体どうしたいんだよ!まだ永梨を許す気はないのか」俺は撮影資料を整理していた手を止め、視線だけを彼へ向けた。「お前こそ、勘違いしてないか。俺と永梨がもう
Read more
第8話
その後、洋司の評判はSNS上で完全に地に落ちた。発端は、あのパーティーの夜の動画が出回ったことだった。永梨が彼の長所を10個、すらすらと挙げたこと。永梨が最も多くLINEでやり取りしていた相手が、洋司だったこと。永梨が俺たちの結婚式を、少しずつ彼の好みに塗り替えていたこと。ひとつひとつを切り離して見れば、単なる「仲のいい友人関係」で片付けられたかもしれない。だが、それらをすべて繋ぎ合わせてみると、誰の目にも、明らかに不快な関係として映った。グループチャットでは、容赦のない皮肉めいたコメントが飛び交い始めた。【そんなに仲がよかったのに、なんで親友を裏切って彼女を奪おうとしてるの?】【もう結婚するってとこまで来て誓いの言葉まで手伝うとか、普通に距離感おかしすぎ】【どこが親友なんだよ。これ、本人の目の前で堂々と一線を越えにいってるだろ】すぐに、過去の出来事まで次々と掘り返されるようになった。俺の誕生日の夜、永梨は会社の急用で夕食に付き合えないと言っていた。けれどその同じ時間に、洋司が、女性の手が半分だけ写った写真を投稿していた。その女性の手首につけられていた腕時計は、間違いなく俺が永梨へ贈った誕生日プレゼントだった。俺の胃の持病が悪化したあの夜、永梨は「もう遅いから」と、俺ひとりでタクシーを呼んで病院へ行かせた。けれどその夜、彼女が洋司と一緒にバーの前で運転代行を待っている写真を、別の誰かが撮ってSNSに上げていた。そこには、洋司が彼女の肩を抱き寄せ、ふたりで楽しそうに笑う姿が写っていた。それから、俺がタキシードを試着した日。永梨は3時間も遅刻してきた。「渋滞だった」と彼女は言い訳をした。だが後になって判明したのは、彼女が洋司の仕事用の宣材写真の撮影に付きっきりになっていたという事実だった。友人から送られてきたスクリーンショットの数々を眺めていると、俺の胃の奥から、吐き気が込み上げてきた。ふと、何年も前、洋司と知り合ったばかりの学生の頃を思い出した。彼が雨に濡れて熱を出した時、俺が背負って保健室まで運んだこと。彼が失恋して夜中まで酒を飲んだ時、俺が一緒にグラウンドに座り込み、冷たい夜風に当たってやったこと。あの時、彼は笑って言っていた。「泰介、お前が結婚する時は、俺が絶
Read more
第9話
その日、アイスランドでは雪が降っていた。俺はちょうどオーロラのタイムラプス撮影を終えたところで、指先はすっかりかじかんでいた。耳に当てたスマホの向こうから、ひどく掠れた彼女の声が聞こえてくる。「泰介、今更何を言っても遅いってわかってる。でも、本当に後悔してるの。毎日ずっと考えてる。もしあの日のパーティーで、私があなたのことを『聞き分けがいいだけ』なんて言わなかったら……もしあの時、すぐに追いかけていたら……もしフォトスペースをなくしてなかったら……もしもっと早く、あなたの辛さに気づけていたら……」言い終える頃には、彼女の声は、もう途切れ途切れになっていた。「私たち、今日のような関係にはならなかったんじゃないかな」俺は遠く広がる白い雪原を見つめながら、静かに答えた。「永梨。『もしも』の話なんて、もう意味がないんだ」電話の向こう側が、しんと静まり返る。俺は淡々と続けた。「お前が俺を傷つけたのは、決して一度きりじゃない。何度も、何度もだ。俺だって、ある日突然、気持ちが冷めたわけじゃない。何度も失望を重ねて、とうとう気持ちが尽きただけだ。だから今、お前がどれだけ後悔していたとしても、それはお前自身が抱えるべき問題だ。もう、俺には何の関係もないんだ」永梨が声を詰まらせ、すがるように俺の名前を呼ぶ。「泰介……」俺は無言のまま、通話を切った。それからというもの、彼女からの直接の連絡はぱったりと途絶えた。たまに、共通の友人を通じて近況を耳にするくらいだ。彼女は多くの付き合いや会食を断るようになったらしい。洋司とは二度と連絡を取っていないという。実家が用意した見合いの話も、すべてきっぱりと断ったそうだ。彼女はようやく、かつて俺が心から期待していたような人間になったようだった。誰に対しても潔く、節度があり、他人との境界線をきちんとわきまえている。けれど、今さらそんな永梨を、俺はもう求めていなかった。1年後、俺の撮ったドキュメンタリーが映像賞を受賞した。授賞式はレイキャビクのホールで開かれた。壇上でカメラが俺を映し出した時、俺は仕立てのいい白いスーツを着ていた。「アイスランドに感謝します。この風と雪のおかげで、俺はもう一度、自分自身を知ることができま
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status