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愛憎の海を越えた先に、青空が待つ

愛憎の海を越えた先に、青空が待つ

Par:  ドウドウComplété
Langue: Japanese
goodnovel4goodnovel
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八度目に、藤崎直哉(ふじさき なおや)が女とベッドにいるところを押さえたとき、直哉は黙って濃度の高い消毒液をつかみ、自分の股間に浴びせた。 「これで満足か?」 真っ青な顔で、荒れ果てた部屋に立つ私を見た。その目は、まるで狂人を見るようだった。 たったそれだけの言葉だったが、直哉が私に屈したのは初めてだった。 陶器の破片を握り締めたまま、私・高梨紗月(たかなし さつき)はその場に立ち尽くし、しばらく何も考えられなかった。 何しろ、これまでで最も激しく争ったときには、私は自分と直哉の浮気相手に爆弾を巻きつけ、どちらか一人を選べと迫った。 すると直哉は、自分と私の両親を、大型トラックの後ろに引きずられるように縛りつけ、笑いながら聞いたのだ。 それでも俺に選ばせるのか、と。 それが、二人の狂人が互いを相手に駆け引きを続けてきた10年間だった。 選ばず、譲らず、手放さない。 今の私があまりにも惨めに見えたのか、直哉は憐れむような目を向けてきた。 「莉奈には手を出すな。あいつはまともな人間だ。お前とは違う。報復なら全部俺が受ける。今回は、好きなだけ俺にぶつければいい」 私は呆然とした。 「どういう意味?」 直哉は目だけは笑わないまま、疲れ切ったように口元をわずかにゆがめた。 「俺が折れたってことだ。うれしいだろ?お前が望んでいたのは、これじゃないのか?」 そうだ。 直哉は折れた。 だが、それが誰のためなのかは、考えるまでもなかった。 憎しみをたたえたその目が、私のこの10年間を、独り相撲の笑い話に変えていた。 その瞬間、どうしようもない虚しさがこみ上げてきた。 もう、お互いを解放してもいいのではないかと、ふと思った。

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commentaires

松坂 美枝
松坂 美枝
とんでもないバイオレンスカップルの話だった 肉体的に傷つけ合う相手より穏やかに過ごせる相手のほうがいいね 最後の方の贈り物がまた生きてるのか死んでるのか曖昧でホラー味があるね
2026-08-29 09:45:47
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ノンスケ
ノンスケ
お互いに君との確かめ方が狂っている。命を盾にして気持ちを確かめても仕方ないじゃない。夫は結局妻が離れていかないと思い、妻は夫の態度が信じられなくなっていた。もう結末は見えてたのに、それでも後を追ってきて新しい彼と自分を選ばせ。選ばれないと自爆。そんな疲れる恋はしたくないわね。
2026-08-29 11:22:11
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第1話
ぼんやりしているうちに、陶器の破片が手首をかすめ、たちまち血があふれ出した。直哉の目に、「またか」と言わんばかりの苛立ちがよぎった。しばらく私を見ていたかと思うと、突然大股で近づいてきて、無表情のまま私を浴槽へ放り込んだ。冷水が全身に染み込んだ瞬間、直哉が何をするつもりなのかに気づき、私は慌てて身をよじった。「直哉!私、妊……んっ!」「黙れ」言葉は乱暴に喉の奥で押し潰された。直哉は私の手首を頭上で押さえつけ、憎しみに満ちた目でじっと見下ろした。「俺に抱かれたくて、薬まで盛ったんだろ?これだけしても、まだ満足できないのか?」信じられずに固まった私の胸に、あまりにも馬鹿げているという思いがこみ上げた。どこからそんな力が出たのか、自分でも分からない。直哉を振りほどくと、手当たり次第に物をつかみ、我を忘れて投げつけた。「出ていって!今すぐ出ていって!」直哉はよけようともせず、まるで慣れ切っているかのように、無感情なまま受け止めていた。私が暴れ終えると、額から流れる血を手で拭い、何の未練も見せずに冷ややかに身を引いた。「お前が隠し撮りした動画は、データを復元してある。マスコミに渡すなり、広告にして街じゅうにばらまくなり、好きにしろ。ずっと俺をつけ回して手に入れ、脅しに使おうとしていた資料も、机の上のUSBメモリに入っている。どう使おうと勝手だ」私がこれで引き下がるはずがないと分かっているからこそ、私にできる報復の手段を、自ら一つずつ差し出したのだ。少なくとも、それなら自分で引き受けられるから。直哉は私を恐れていた。その事実をはっきり悟った途端、私は涙をこぼしながら笑った。「直哉、それならどうして、私と離婚しないの?」ドアへ向かっていた直哉の足が止まった。馬鹿げたことを聞くなとでもいうように答えた。「お前が応じるとでも?紗月。この先一生、お前につきまとわれる運命なら、もう受け入れてる」胸に残っていた最後の希望が、その瞬間、完全に砕け散った。「だから頼む。莉奈には手を出すな」その言葉と同時にドアが激しく閉まり、私はいつまでも我に返れなかった。直哉の口から「頼む」という言葉を聞いたのは、これで三度目だった。最初は、18歳のとき。直哉は本家の仏間で三日三晩、背筋を伸ばしたま
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第2話
直哉の返事を待たず、私はすぐに電話を切った。考えなくても、直哉が何を言うかは分かっていた。何しろ前回は、本当に直哉に薬を盛ったのだ。一夜を共にした翌朝、直哉が私に向けた目は、凍りつくほど冷たかった。それでも私は、もう一度二人の間に子どもができれば、何かが変わるのではないかと、愚かにも期待していた。けれど今は……お腹に手を当てると、自分がひどく滑稽に思えた。しばらくして、私は浴槽に手をつき、どうにか這い出した。無表情のまま中絶薬をつかみ、何錠もまとめて口に入れた。それから弁護士に連絡し、離婚協議書を作るよう頼んだ。すべてを終えた。ベッドのヘッドボードにもたれ、空っぽになった胸を抱えていた。夜11時、直哉は何事もなかったかのように帰宅した。手には、少し前に私が何気なく欲しいと言ったネックレスがあった。思い返してみれば、この1年、直哉は本当によくしてくれていた。行き先は細かく自分から報告し、会食には必ず私を連れていった。バッグやアクセサリーも、数えきれないほど贈ってくれた。少し前、病院へ行った際、直哉が莉奈の妊婦健診に付き添っているところを偶然見かけなければ。二人がよりを戻したのだと思っていたが、それさえ莉奈を守るために直哉が仕組んだ偽装だったとは、永遠に気づかなかっただろう。ぼんやりしていると、目の前にジュエリーケースが差し出された。直哉は感情を少しも見せず、淡々と言った。「午後は莉奈のところへ行った。シャワーを浴びただけで、30分で出た。信じられないなら、お前が雇った探偵に聞け。そのあとはずっと会社で残業していた。疑うなら、社内に送り込んだ人間に確認しろ。帰りに、前に欲しがっていたネックレスを買った。それ以外の場所には寄っていない。雇った記者から写真も届いているはずだ」一言一言が慎重で事務的だった。まるで私は、いつ襲いかかるか分からない化け物のようだった。私が雇った人間は、すでに全員直哉に抱き込まれ、ひそかに莉奈を守る側へ回っていた。それでも直哉は、なお私を警戒していた。胸が痛んだが、私は思わず笑った。「そうなの?」午後、莉奈のほうからLINEで友だち追加されていなければ、きっと信じていただろう。私はスマホを直哉へ差し出した。画面には、莉奈から送られてきた写
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第3話
結局、私は救急車で病院へ緊急搬送された。妊娠4か月では、薬を飲んだだけで中絶できるはずもなかった。そこへ、さっきの直哉との激しい争いが重なった。突然の大出血だった。担架で救命処置室へ運ばれる途中、莉奈を抱えて病院に駆け込んできた直哉とすれ違った。まくり上げられた袖から、腕を埋め尽くす無数の傷痕がのぞいていた。一瞬、感慨めいたものが胸をよぎった。あの頃、産後うつになった私に二度と自分を傷つけさせまいと、直哉は私の何十倍もの傷をその身体に刻んだ。当時の直哉の愛は、私以上に狂っていた。その後、直哉が立て続けに7度も浮気すると、私は自分を傷つけ、泣き崩れ、取り乱し、ありとあらゆる手を使った。だが直哉は、そのたびにもっと残酷で常軌を逸した方法で自分を傷つけ、私を折れさせた。私たちは、自分を賭け金にして相手と駆け引きをする、病的で極端な似た者同士のギャンブラーだった。なのに、今回はどうして今までと違うのだろう。答えが出ないうちに、直哉は莉奈を抱えたまま医師の前へ駆け寄った。「先生!早く助けてくれ!腹を痛がってるんだ。すぐに診てくれ!」医師は焦った様子で直哉を押しのけた。「どいてください!少しお腹が張っているだけでしょう、邪魔をしないでください!高梨社長が今、命に関わる状態なのが分からないんですか!」直哉は医師の視線を追ってこちらを見た。私だと気づいた瞬間、明らかに身体をこわばらせた。次の瞬間、直哉は私の手首を乱暴につかんだ。燃えるようなその目は、私の身体に穴を開けそうなほど激しい怒りに満ちていた。「紗月、今度はこんな手で俺を屈服させるつもりか?まず莉奈の写真をばらまいて、こんな状態にまで追い込んだ。緊急事態になれば、いちばん近いお前の病院へ駆け込むしかない。そこまで計算したうえで、最後は仮病を使い、堂々と莉奈の治療を遅らせるつもりだったのか?」直哉は歯を食いしばり、無理やり笑みを浮かべた。「よくもそこまで周到に仕組んだな」ただでさえ大量の血を失っていたところを強く引かれ、目の前が何度も暗くなった。医師は顔色を変えた。「仮病なんかじゃありません!大出血したのは、妊……」その言葉は、直哉が勢いよく床に膝をついた音にかき消された。「これで満足か?今度こそ莉奈を診てもらえるのか?」
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第4話
私が入院していた1週間、直哉はずっと隣の病室で莉奈に付き添っていた。壁の向こうから聞こえてくる親密そうな声や物音にぼんやり耳を傾けていると、主治医がドアをノックした。「高梨社長、検査結果が出ました。小林莉奈さんのお腹の子と、藤崎さんとの間に親子関係は認められませんでした」私は何の反応も示さずに窓の外へ目を向け、差し出された検査結果を受け取らなかった。直哉のことは、もう私には関係なかった。莉奈の病室の前を通りかかると、直哉がお粥を食べさせようと、莉奈を優しくなだめていた。正直、こんな不器用でひたむきな直哉も、やはり私の知らない姿だった。ドアをノックしようと上げた手が、途中で止まった。結局、離婚協議書は医師から直哉へ渡してもらうことにした。そのまま空港へ向かい、二度と振り返ることなく、この街をあとにした。……このところ、直哉は少しも心が休まらなかった。直哉は紗月という人間を知り尽くしていた。紗月の直哉に対する独占欲は、偏執的で常軌を逸していた。ここまで完全に決裂した以上、これまでの紗月なら、必ず莉奈に手を出すはずだった。そのため、直哉は部下を総動員した。一部にはネット上の情報を抑え込ませ、莉奈の気分を害するような内容が広まらないよう徹底させた。残りは病院の周囲を固め、たとえ正面衝突になっても、少なくとも莉奈だけは無事に逃がせるよう備えさせた。紗月を脅すために使える情報まで、あらかじめすべてそろえていた。もし紗月の両親が3年前の飛行機事故で亡くなっていなければ、二人も直哉のもとへ連れていかれていたかもしれない。直哉は共倒れも辞さない覚悟を決め、病室の中にも事前にボディーガードを待機させ、いつでも動けるようにしていた。ところが紗月は病室の前で一度中を見ただけで、そのまま立ち去った。そのせいで、直哉は一日中落ち着かなかった。メッセージの履歴を開いた。以前なら、一日でも行動予定を報告しなければ、紗月からひっきりなしにメッセージが届いていた。それなのに、ここ数日はトーク画面が不気味なほど静かだった。直哉は戸惑いながらスマホをしまった。疑問を感じると同時に、胸にぽっかりと穴が開いたような感覚に襲われた。その感覚は、莉奈を寝かしつけ、慌ただしく自宅へ戻ったときに頂点へ達した。
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第5話
3点の書類が並べられ、直哉の手に渡された。紗月の中期中絶・子宮内容除去術の実施記録、莉奈の胎児モニタリング検査報告書、そして離婚協議書だった。最初の2点を見ても、直哉は鼻で笑っただけだった。紗月が妊娠を装ったことは、これまでにもあった。最初の子どもを失ったとき、紗月の子宮はひどく傷ついていた。その後も子どもを授かるためにあらゆる方法を試したが、医師からはとうに、再び妊娠するのは難しいと告げられていた。直哉も、すでに諦めていた。莉奈の胎児モニタリング検査報告書を抜き出してゴミ箱へ放り込み、今回の紗月のやり方は、これまで以上に稚拙だと思った。だが、離婚協議書を開いた瞬間、直哉の呼吸が止まった。眉を寄せたまま何ページかめくるうちに、胸が大きく上下し始めた。また始まった紗月の狂気じみた芝居に苛立つと同時に、理由の分からない怒りが胸の奥からこみ上げた。どれほど激しく争い、互いに傷つけ合っても、紗月が離婚を口にしたことは一度もなかった。直哉自身も、離婚など考えたことさえなかった。紗月が自分から離れられるはずがないと確信していたからだ。紗月が自分にどれほど執着しているかは、長年繰り返してきた駆け引きの中で、手に取るように分かっていた。そう思いつつも、なぜか直哉はふと、最初の子どもを失ったあと、屋上に立っていた紗月の姿を思い出した。あのときの紗月の目に広がっていた底知れない虚無は、今思い出しても背筋が冷たくなった。直哉はスマホを取り出し、電話をかけた。だが、紗月は出なかった。続けてメッセージを送った。【LINEのブロックを解除しろ。話をしよう】【早まるな。俺がどうするかは分かってるだろ。お前が自分を傷つけるなら、俺はすぐにその倍、自分を傷つける】このやり方は、長年一度も失敗したことがなかった。直哉が自分自身を切り札にすれば、紗月は必ず先に折れた。紗月が自分よりも直哉を大切にしていることを、直哉はずっと知っていた。だが今回は、いくら待ってもトーク画面は静かなままで、返事は届かなかった。そばにいた医師がおそるおそる口を開いた。「藤崎さん、高梨社長はもう国際線の機内にいるはずです。今は電話に出られないかと……」直哉は勢いよく顔を上げた。「国際線?どこへ行った?」突然大き
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第6話
直哉自身も、紗月を捜すために海外へ渡り、そのまま丸1年も滞在することになるとは思っていなかった。最初の3か月、直哉は怒りに燃えていた。部下からの電話に何度出ても、返ってくるのは「進展はありません」という報告ばかりだった。直哉は感情を抑えきれず、ホテルの部屋にあるものをほとんどすべて壊した。「捜し続けろ」煙草をくわえたまま、ぞっとするほど低い声で言った。「あいつが離婚すると言えば、それで離婚できるとでも思ってるのか?ふざけるな。俺は認めていない」当時の直哉は、本気でそう考えていた。紗月が本当に去るとも、自分を本当に捨てるとも信じていなかった。これまで紗月が見せてきた狂気じみた独占欲も、取り乱してまで続けた執拗な執着も、病的なほどの依存も、すべて直哉に向けられたものだった。紗月が自分から離れられないことは、誰よりも直哉が分かっていた。だが3か月を過ぎると、怒りは少しずつ消え、代わりに骨の髄から染み出すような焦りが直哉を襲った。部屋のテーブルには、空になった煙草の箱が山積みになっていた。直哉は自分でも止められないまま、腕に残る古い傷痕を、皮膚がぼろぼろになるまで掻きむしった。そのとき、ふと手が止まった。自分と紗月は、やはり同類なのかもしれない。追い詰められたときに取り乱すやり方まで、まったく同じだった。直哉は眠れなくなった。夜中、何度寝返りを打っても眠れないときには、以前紗月から送られてきたボイスメッセージを聞いた。「直哉、またあの女のところへ行ったんでしょ?」「私が死んでやるって言ったらどうする?今すぐあの女を殺しに行くって言ったら、どうするの!?」一つずつ聞いているうちに、直哉はあることに気づいた。紗月は脅すような言葉を吐きながら、ずっと泣いていたように聞こえた。最後まで聞き終えると、直哉はスマホを顔に押し当てたまま、長い間動かなかった。それをきっかけに、もっと恐ろしい考えが浮かび始めた。紗月はまさか……本当に自分を捨てたのではないか。その考えが頭をよぎった瞬間、直哉はほとんど反射的に否定した。そんなはずはない。たとえ自分ではもう生きたくないと思っても、紗月は直哉のためなら生き続ける。そんな紗月が、直哉を捨てるはずがなかった。「藤崎社長」秘書の声
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第7話
もう二度と直哉に会うことはないと思っていた。ヨーロッパに来て3年目、私には新しい恋人ができた。穏やかで平凡な毎日を送り、あの10年間の狂気も血も、まるで前世の出来事のように遠ざかっていた。ダイビングスポットに凶暴な肉食魚の群れが現れたと知ったとき、私はコンビニで水を買っていた。手が大きく震え、持っていたペットボトルが遠くまで転がっていった。「あの辺りは普段なら安全なのに、いったい何があったんだろうね」「けがをしたのは、男の人らしいよ。片脚が駄目になりそうなほど噛まれたらしい。運が悪いよね」私は慌てて目の前の人混みをかき分け、後ろも振り返らずに海辺へ走った。浜辺には人だかりができていた。心臓が喉から飛び出しそうなほど激しく鳴った。そこで直哉を見つけた。直哉は、林原拓真(はやしばら たくま)の腕をつかんでいた。その瞬間、私はその場で凍りついた。視線を下げ、拓真の脚に残る傷を見た途端、頭の中が真っ白になった。何も考えずに駆け寄り、直哉の頬を力いっぱい平手打ちした。「拓真に何をするつもり!?」声が震えた。「言っておくけど、拓真を傷つけたら絶対に許さない!」そう言い放つと、すぐに拓真のそばへ駆け寄り、恐る恐る脚の傷を確かめた。裂けたダイビングスーツから血があふれ、海水と混じって流れ落ちていた。怖くて、今にも涙がこぼれそうになった。前年に雪崩が起きたとき、拓真は私を助けるため、何日も私を背負って雪山を歩き続けた。そのせいで、この脚を失いかけた。医師からも、切断を免れただけでも奇跡で、二度と大けがをしてはいけないと言われていた。「来るのはやめようって、あれほど言ったのに!拓真がどうしても来るって言うから!」声が涙で震えた。「痛い?今すぐ救急車を呼ぶから……」拓真は私の手を押さえ、目元を和らげた。「大丈夫。ただのかすり傷だよ」直哉のほうへ一度目を向けると、声を落とした。「あの人が助けてくれたんだ。あの辺りに突然、肉食魚の群れが押し寄せてきて、俺を引っ張り上げてくれた」私は言葉を失った。「俺の脚は大丈夫。本当に皮膚を少し噛まれただけだ。それより、あの人の脚が……」ようやく拓真の視線を追った。直哉はまだ同じ場所に立っていた。片方のズボンは膝から下が
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第8話
それでも直哉は、拓真を放っておかなかった。誘拐を知らせる電話を受けたとき、私はすでに理性を失っていた。相手は住所を告げ、「一人で来い」と言っただけで電話を切った。その住所には見覚えがあった。直哉がここ数日、滞在していた場所だった。私は拳銃を持ち、そのままそこへ乗り込んだ。ドアを押し開けた瞬間、迷わず2発撃った。銃弾は直哉の耳元をかすめ、背後の壁にめり込んだ。砕けた壁の破片が辺りに飛び散った。「どこにいるの?」私は歯を食いしばり、一言ずつ絞り出した。「拓真はどこ?」直哉が連れてきたボディーガードたちが一斉に駆け寄り、十数人で半円を描くように私を囲んだ。直哉が軽く手を上げると、全員が引き下がった。直哉は黙ったまま、私を見つめていた。焦りに耐えきれず、私は駆け寄って胸ぐらをつかみ、顎の下へ銃口を押し当てた。「拓真はどこにいるのかって聞いてんのよ!」「紗月」直哉は口元をわずかにゆがめ、落ち着いた声で言った。「俺じゃないと言ったら、信じるか?」「しらばっくれないで!あなたがどんな人か、私は知ってる!」拳銃を握る手が震え、銃口も小刻みに揺れた。「何かあるなら、私にぶつけなさい!私たちはもうすぐ結婚するのに、どうして今さら邪魔するの!拓真に何かあったら、私は……」「どうする?」直哉は突然私を遮り、声を低くした。「また俺を2発撃つのか?」直哉は拳銃を握る私の手をつかみ、そのまま手首をしっかりと押さえ込んだ。「いいぞ。撃てよ」手を引き抜こうと力を込めたが、直哉はさらに強くつかんだ。口元に自嘲めいた笑みが浮かんだ。「紗月。昔の俺たちは、どれだけ争っても、刃物や銃口だけは互いに向けなかったはずだ」私は力任せに直哉の手を振りほどき、少し後ずさった。私が離れるのを見て、直哉の目から一瞬だけ光が消えた。「手を出したのは俺じゃない。だが、俺ならあいつを助け出せる」そこで言葉を切った。「ただし、あいつを助けたら……」直哉は不意に笑い、光のない黒い目で私を見つめた。「俺が死ぬとしても?」一歩近づき、再び自分の胸を銃口へ押し当てた。「お前はどちらを選ぶ?」「どういう意味?」「相手は、林原拓真と引き換えに俺の命を差し出せと言っている」直哉は私
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第9話
拓真をさらったのは、確かに直哉ではなかった。だが、直哉の指示を受けた者が拓真を殴り、気を失わせたのも事実だった。しばらく考えて、ようやく分かった。直哉はまた自分を賭け金にして、私の気持ちを試していたのだ。意識を取り戻した拓真は、真っ先に私を捜しに来た。額に汗を浮かべて部屋へ飛び込んでくると、私の手首をつかんで立ち上がらせた。「行こう。家に帰ろう」私はうなずいた。こんな場所には、もう一秒たりともいたくなかった。廊下の反対側には直哉が立っていた。拓真が私の手を引いて出口へ向かう様子を、壁にもたれたまま見つめていた。その姿は、ひどく寂しそうに見えた。直哉の前を通り過ぎようとしたとき、不意に声がした。「そいつと行けば、俺は死ぬ」足が止まった。「それとも、ここに残って、俺と昔に戻るか」振り返って直哉を見ると、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いそうになった。「直哉、頭がおかしいんじゃない?さっき、私はもう答えを出したはずだけど。そもそも、私たちの関係を裏切ったのはあなたで、先に過ちを犯したのもあなたでしょう。今さら何をそんなに取り乱してるの?」その言葉が胸に突き刺さったのか、直哉は突然こちらへ歩み寄り、早口で言った。「最初の7回は、全部取引先に合わせただけの芝居だった。女たちは取引先との席であてがわれただけだ。部屋まで連れていっても、俺はすぐに出た。一度も触れていなかったし、お前を裏切るようなことは、何もしていなかった。8回目は、つい魔が差して……」直哉の声が震え始めた。「その後、莉奈が俺の子を妊娠したと言ったから、俺は……あのとき、ただ……」「ただ、私と一緒にいることに疲れた。莉奈となら、少しはまともに生きられるかもしれないと思った。そうでしょう?」私が続きを口にした。「直哉」直哉を見つめると、目の奥が熱くなった。「あの日、私が大量に血を流して担架に乗せられていたのに、あなたは床にひざまずいて、先に大事な莉奈を助けてくれと私に頼んだ。覚えてる?」「俺は……お前が妊娠していたなんて、知らなかった……」私は直哉の言葉を遮った。「あのときから、私の中であなたはもう死んでる。直哉、お願いだから、もう終わりにして。私はあなたを解放した。だからあなたも、私を解放して」直哉は呆然
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