Adaの結婚式まで、あと2週間となった。ここ最近、桜子は目が回るほど忙しい日々を送っていた。Adaの要望に応じて結婚式の企画案を何度も調整するだけでなく、現場で進行状況を直接監督し、物品や予算、人員などの重要書類を一つ一つ確認していた。特に忙しかった日は、わずか3時間しか眠れなかったほどだ。しかし、桜子はこうした状況を楽しんでいた。目標があり、成果が期待できると、忙しければ忙しいほど彼女はやる気をみなぎらせる性格だった。午前中のチームミーティングを終えた後、桜子は昼休みにオフィスに戻り、サンドイッチを片手に書類の「決裁」を進めていた。そこへ、翔太がノックをしてコーヒーを持って入ってきた。デスクで一心不乱に働きながらサンドイッチを食べている桜子の姿を見て、翔太は苦笑いを浮かべながら首を横に振った。「桜子様、食事をしながら仕事をするのは胃に悪いですよ」「仕方ないわ、時間がないんだから」桜子はサンドイッチにかじりつきながら、視線を書類から離さなかった。「午後にはファッションイベントに出席しないといけないのよ」「えっ、今日は午後珍しく空いていると思ったので、スパでも予約してリラックスしていただこうかと思っていたのですが......」翔太は心配そうに眉をひそめた。「それは結婚式が終わってからにして。それまでは心が休まらないから、リラックスする気分になれないわ」桜子はコーヒーカップを手に取り、鋭い目つきで顔を上げた。「このところ、白露と宮沢秦の動きに何か変化はある?」「注意深く見ていますが、特に目立った動きはありませんね。静かなものです」翔太は少し考えながら答えた。「こちらが忙しくしているので、あちらは策が尽きて諦めたのではありませんか?」桜子は隼人の言葉を思い返しながら、冷たい笑みを浮かべた。「油断しない方がいいわ。白露は、隼人からこの案件を手に入れるために相当な苦労をしたはず。何もせずに終わらせるなんて考えられない」その時、ノックの音が聞こえた。秘書が白い上品なギフトボックスを持って入ってきた。「桜子様、キッチンからお取り寄せしたお菓子です。ご指示通りに詰めました」「ありがとう、テーブルの上に置いて」秘書が出て行った後、翔太がテーブルに近づき、箱を開けると、精巧に作られた獅子頭まんじゅうが一つ一つ並んで
「それだけならまだしも、なんと彼女たち、Adaより後に登場したんだよ!自分たちをどれだけ大物だと思ってるんだか、呆れるよね!」「俺は一枚も撮らなかった。あんな価値のない人間のためにカメラのメモリを無駄にするつもりはないからな」「白露は宮沢家の令嬢だし、昭子はあの『盛京の天皇』と呼ばれる本田優希の妹だろ?名前は知られていなくても金は持ってる。多分、この登場順も金で買ったんだろう」白露と昭子は、周囲の注目を浴びたと満足げに思い込みながら会場内へと入って行った。だが、中に入った途端、現実を目の当たりにすることになった。記者たちはみな国際的な大スターAdaやブランドデザイナーのインタビューに集中しており、自分たちには見向きもしなかったのだ。「なんなのよ!記者たち、目が腐ってるんじゃない!?」白露は、無視されていることに気付き、怒りで地団太を踏んだ。「この私を放っておくなんて、失礼にも程がある!盛京のメディア業界で生き残れると思わないことね!」「記者なんてそんなもんよ。有名で力があれば、餌を見つけたサメみたいに飛びついてくるけど、そうでなければ無視されるだけ」昭子も心の中では悔しくて仕方がなかったが、白露を皮肉ることでその怒りを紛らわせた。「そうね、私はこの業界に深く関わってないから仕方ないわ。だって、母が言うには、『財閥の人間がこんな下層の人間と関わるなんて品位を落とすだけだ』ってね」白露は昭子に媚びるつもりはなく、無害そうな笑顔を装いながらも、内心では皮肉を込めて言葉を続けた。「でも、昭子、あなたは違うでしょ?盛京の名門お嬢様で、トップピアニストの弟子でもあるんだから。それなのに、誰もあなたをインタビューしないなんて、ちょっと変だと思わない?ねえ、記者を呼んであなたの周りを盛り上げてもらいましょうか?」「ふん、結構よ!私は注目されるのが嫌いなの。記者に取り囲まれるなんてうんざりだから」昭子は内心怒りで煮えくり返っていたが、冷笑で返した。二人はお互いを睨みつけると、背を向け合って口をきかなかった。その時、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。「見て!高城家の桜子様だ!」「うわあ!さっきのレッドカーペットでは見かけなかったけど、もう会場内にいるなんて!まるで忍者みたい!」「高城家の令嬢こそ本物の実力者だよ
桜子が今日このファッションイベントに参加した目的は、高城家の令嬢として目立ちたいわけでも、自分の地位や気品を誇示したいわけでもなかった。彼女には果たすべき二つの目的があったのだ。一つ目は、メディアの取材を受け、「宮沢家のプロジェクトを横取りした」という話題について正式にコメントし、噂を鎮めること。 二つ目は、表向きにはAdaにプレゼントを渡すためだが、実際は白露を密かに監視し、全体を掌握するためだった。あの油断ならない娘に、つけ入る隙を与えるわけにはいかなかった。ちょうどその時、Adaが一人の洗練されたブラウンのオーダーメイドスーツを着た中年男性を伴って歩いてきた。 「桜子様、ご紹介します」 Adaは慌てて桜子に紹介を始めた。 「こちらは村山辰雄さんです。AXジュエリーブランドの世界社長で、私のとても親しい友人です」 「Vincent、こちらは桜子様です。KS WORLDホテルの部長を務める、とても優秀で素晴らしい方ですよ」 辰雄は、Y国生まれ育ちの金髪碧眼の紳士で、皇室の血筋を持つ人物だ。 彼は英語名を持ちながらも、盛京に来てから東国文化に惹かれ、自ら「辰雄」という東国名を名乗るようになった。「辰雄さん、お目にかかれて光栄です。盛京へようこそ」 桜子は上品な紅い唇をかすかに上げ、優雅な笑みを浮かべながら、清潔で美しい手を差し出した。「こちらこそ、お会いできて光栄です、桜子様。今回AXブランドのショーにご参加いただけたこと、本当に嬉しく思います」 辰雄はぎこちない東国語で返し、急いで彼女の手を握った。その様子を見ていたAdaは、辰雄と桜子を交互に見ながら少し不思議に思った。 二人は初対面のはずなのに、なぜか以前から知り合いだったような雰囲気が漂っている。 記者たちもこの場面に驚きを隠せなかった。 辰雄社長といえば、皇室の血統を持つ超一流の人物であり、そのプライドの高さゆえ、誰にでも親しげに接するような人ではない。 しかし、桜子を目にした瞬間の辰雄はまるで家族のように穏やかで優しい表情を浮かべていたのだ。「桜子様、本当にただ者ではないな......いや、この美しさと清らかさなら、男性が惹かれるのも当然か」 「桜子様、こんなところでお会いするなんて、本当に偶然です
「KSグループの令嬢ともあろう方が、業界の常識を知らないなんてこと、ありえないでしょう?」 「知らないわけないじゃない!多分わざとルールを無視して得しようとしてるんでしょ。いやー、ビジネス界の女性ってこういう姑息な手を使う人、結構多いよね。ひょっとしたら、宮沢社長に勝った時も、なんか裏で怪しいことしてたんじゃない?」 「ははっ......前は桜子様のことを尊敬してたけど、今となってはちょっと卑怯な人にしか見えないな」 昭子は満足げに唇の端を上げ、心の中でほくそ笑んだ。 桜子、あなた調子に乗りすぎなのよ! 今日は絶対にあなたを黙らせてやる。この傲慢な態度を打ち砕くには、品格を疑わせるのが一番の方法よ! しかし昭子は、自分が言ったこと、やったことの一部始終を、遅れて現れた隼人がすべて目撃していることに気づいていなかった。 隼人は目立たない場所に立ち、冷たい視線で得意げな昭子をじっと見つめていた。 その姿は高く、スーツに包まれた体は堂々としていて、彫刻のような端正な顔立ちはどこか神々しい雰囲気を醸し出している。しかし、その表情には冷たく暗い影が漂っていた。「隼人社長、若奥様があの娘にいじめられていますよ!」 井上はその様子を見て、内心で焦りを感じた。 隼人は薄い唇をきゅっと引き締め、前に踏み出しかけたが、ふと足を止めた。そして冷静に言った。 「もう少し様子を見よう」 「様子を見る、ですか?!」井上は目を大きく見開き、困惑した様子で問い返した。 「彼女は普通の女性じゃない。桜子だ。高城家の令嬢だ。きっと自分で何とかするだろう」 隼人は目を細め、唇にほのかな微笑みを浮かべた。その微笑みは、どこか甘く優しいものだった。本人ですら気づいていないだろう。 「それに、もしどうにもならなくても、彼女には俺がいる」 井上は驚きで目を見開き、隼人の冷静で優雅な横顔を信じられないという表情で見つめた。そして胸を押さえ、心の中でつぶやいた。 「なんてことだ......これがあの冷酷無情な隼人社長なのか?!」 隼人は静かに言葉を続けた。 「なにせ、俺の女だったんだ。他の誰にも彼女を傷つけさせるわけにはいかない。絶対にな」 なんてことだ!これが隼人社長だなんて、まるで別人みた
会場中の人々は一斉に驚きの声を上げた。 昭子や白露はもちろん、辰雄の友人でAlexaの大ファンでもあるAdaですら、まさか桜子が身に付けているジュエリーがAlexaの作品であるとは思いもしなかった。 しかも、それが噂でしか聞いたことがない「デザイアローズ」だとは!この瞬間、Adaは「金持ちに対する嫉妬」を心の中で感じずにはいられなかった。 一方、桜子は冷静な態度を崩さず、感謝のまなざしを辰雄に向けた。 彼女には、これ以上何も説明する必要がないと分かっていた。この場のホストである辰雄が、自らの言葉でこの場を収めるだろうと確信していたからだ。 ――大将は、小者のために剣を振るわない。その頃、隼人は桜子から一瞬たりとも目を離さず、深いまなざしを向け続けていた。その目には、どこか嫉妬のような感情が浮かび、薄く赤みさえ帯びていた。 彼には確信があった。桜子は、この辰雄という男と以前から親しい関係にあり、しかもその関係は浅くはない、と。 「......あの男は誰だ?」隼人は低い声で冷たく尋ねた。 「村山辰雄ですよ。AXブランドの世界CEOで、祖父はY国最後の公爵、祖母はAXブランドの創設者です。簡単に言えば、AXは彼の家族のブランドです。社長の座もまあ趣味みたいなものですね」 井上はさらに目を輝かせながら続けた。 「それだけじゃありません。彼は爵位を継いでいて、王室から授けられた大きな荘園も所有しています。それにY国の資産家ランキングでトップ5に入る億万長者で、資産総額は数千億円。王族とも繋がりがあるらしいです。いや〜、若奥様、本当にすごいですね!」 隼人は深い息を吐きながら、こぶしを強く握りしめた。 「それにしても、辰雄ってば若奥様のためにあんな風にフォローしましたよね。まさか......若奥様に気があるんじゃないですか?」 井上は何かを発見したように目を輝かせ、興奮気味に言った。 「もしそうだとしたら、若奥様、公爵夫人になる可能性もあるんじゃないですか?もともと首富の令嬢で、それに王室と縁を結ぶなんて......もうこれ、人生チート級の展開じゃないですか!」 「ありえない」隼人は眉間に皺を寄せ、低い声で断言した。 「あの男は、若奥様の父親でもおかしくない年齢だ。彼女がそん
白露はこっそり数歩後ろに下がり、昭子と距離を取った。彼女が恥をさらして、そのとばっちりが自分に及ばないようにするためだ。記者たちはようやく事情を理解し、昭子を見る目つきが変わった。「つまり、この本田さんってAXのVIPですらないのに、偉そうに他人を批判してたってこと?本当に滑稽だね」 「修理技師なんだから、他人のことに口出しする前に、自分の足元を気にしたほうがいいんじゃない?」 「ジュエリーを数点持ってるだけで発言権があると思ったのかな?ブランドCEOの前であんなこと言うなんて。CEOのほうは彼女の名前すら知らないんじゃない? いやー、この品格のなさ、桜子様の足の指にも及ばないよ」足の指!? 記者たちが「桜子様の足の指にも及ばない」と言ったことが、昭子のプライドを完全に打ち砕いた。昭子の頭の中は「ガン」という音を立てたかのように真っ白になり、怒りで目の前が暗くなり、倒れそうになった。 こんな屈辱、生まれてこの方、一度も味わったことがなかった。桜子は昭子に一瞥すらくれず、辰雄やAdaと談笑しながらその場を離れた。 記者たちもそれに続き、昭子はぽつんとその場に取り残された。顔は真っ青で、まるで塗りかけの漆喰のようだった。「昭子!大変よ!」 白露は急ぎ足で昭子のもとに駆け寄り、彼女の腕を掴んで低い声で囁いた。 「お兄様が来たわ!」「隼人お兄ちゃん......?ど、どこ?!」昭子は一気に血の気が引き、冷や汗が額を流れた。「すぐ後ろの方よ。ずっとこっちを見てた!まるで幽霊みたいに音もなく現れて、いつからそこにいたのかも分からないし、さっきの一部始終をどこまで見られたかも分からない!」昭子は息を呑み、ぎこちなく後ろを振り返った。暗い影の中、隼人が剣のような存在感で静かに立ち尽くしていた。その眉は厳しく寄せられ、冷たく険しい目つきでこちらを見つめている。その瞬間、昭子はまるで見えない大きな手で首を締め付けられたかのように感じた。 呼吸も心拍も、思考もすべて止まってしまうかのようだった。「隼、隼人お兄ちゃん......」隼人は険しく眉を寄せたまま、冷たく無情な眼差しを向け、ただ頭を横に振った。そして井上を伴い、一切振り返ることなくその場を去っていった。昭子は体中に寒気が走り
辰雄は桜子とAdaを控室に案内し、三人はシャンパン片手に会話を楽しんでいた。しばらくすると、マネージャーが現れ、Adaに重要なインタビューを受けるよう促した。彼女が部屋を出て行くと、控室には桜子と辰雄だけが残った。「3年ぶりだね。元気にしてたかい、Alexa?」 辰雄は柔らかな眼差しで桜子を見つめた。その表情はどこまでも親のような慈しみで、男女の感情とは一切無縁だった。「ご覧の通り、相変わらずよ」 桜子は両手を広げて肩をすくめ、軽やかに笑った。「以前よりも成熟したね。でも、その目には少し陰りが見えるよ。まるで、色々なことを経験してきたような......この3年間、どこにいたんだい?世界を回ってインスピレーションでも探していたのか?」 辰雄は彼女の目元の微かな陰りを感じ取り、心配そうに尋ねた。「旅なんかじゃないわ。私は市場で魚をさばいてたのよ。3年もね。血を見ても何も感じなくなったわ」 桜子は軽くため息をつき、涼しげな目元で答えた。「相変わらず君らしい冗談だね」 辰雄はシャンパングラスを桜子に向けて軽く持ち上げ、微笑んだ。 「ところで、君がAlexaだということを公表するつもりはないのかい?君のような輝かしい才能が隠されたままなのは、本当にもったいないと思うよ」「いずれね。でも、今はまだやるべきことがたくさんあるの。正体を明かすこと自体は悪くないけど、今明かしてしまったら、余計なトラブルを呼び込むだけかもしれないわ」 桜子は涼やかに笑いながら美しい瞳を細めた。 「正体を明かすなら、その価値を最大限に活かせるときに。最高の効果が狙えるタイミングじゃないと意味がないわ」「さすがAlexaだ。君は常に利益を最大化することを忘れない。損をするようなことは絶対にしないね」 辰雄は満足そうに微笑みながらこう続けた。 「古い友人として、何か困ったことがあったら遠慮せずに言ってくれ。面倒な問題や厄介な相手に巻き込まれたら、私が助けるよ」「ここはY国じゃないわよ、公爵閣下の影響力がどこまで通用するのかしら?」 桜子は彼の意図を察しながらも、さらりと答えた。「そういえば、あの本田さんはAXの会員になりたがっているようだね。審査部では彼女を検討リストに入れていたけど、今日の様子を見たら
桜子がほかの男性と親しげにしているのを見て、隼人の胸はなぜか張り裂けそうになり、理不尽なほどの苛立ちを感じていた。 彼女の周りの「余計な存在」を、全て排除してしまいたい衝動に駆られる。 自分でも理解できない。けれど、まるで捨てられた哀れな女のように嫉妬深くなっているのは確かだった。 冷静沈着で禁欲的だった隼人が、桜子の前では何もかも制御不能になってしまうのだ。そんな彼の言葉を聞いた桜子の胸には、怒りの火が湧き上がった。そして、冷たく嘲るように笑った。 「確かに『関係』はあるわね。『一生会うことのない関係』っていう意味でね」「桜子......」隼人は息が詰まるような思いで、低くかすれた声を絞り出した。「いつから元夫なんて存在が、自分のことを誇れる関係だと思い込むようになったのかしら?合格な元夫というのは、死んだように静かであるべきものよ。この言葉、聞いたことがないの?」 元夫?! 辰雄は目を見開き、思わず震えた。 まさか、桜子――いや、Alexaが結婚していたなんて! 長年の友人として、これまでそんな話は一度も耳にしていなかった。彼女がこの男と結婚していた理由は何だったのか? 完璧で女神のような彼女には、もっと良い選択肢がいくらでもあったはずだ。どうしてこんな「嫉妬深い男」に身を任せてしまったのか?「隼人さん、私に嫌がらせをするのは勝手よ。正直言うと、あなたの顔を見た瞬間から気分が悪くなってたし、これ以上悪化しても慣れるだけだわ。でも......辰雄さんは私にとって大事な友人なの。彼に迷惑をかけるようなことだけはやめてちょうだい」 桜子は眉を少し寄せながらも冷静な声で言った。 「元夫としての面目が少しでもあるなら、少しは恥を知りなさい」隼人の顎のラインは緊張で引き締まり、胸の内は鋭い針で刺されたように痛んだ。汗で湿った手のひらに爪を食い込ませながら、その怒りを必死に堪えた。 桜子は、誰にでも味方をする。誰にでも優しい。 そして自分に対しては――かつて愛し、愛されたはずの自分に対しては――もう「埋もれた過去」以上の何者でもないのだろうか。「もうすぐショーが始まるわよ。隼人さんは妹さんのところに行かないの?彼女、兄がいなくて心配してるんじゃない?」 桜子は冷たい目で
隆一の家はすべて新しい家具で飾られており、引っ越したばかりのことがわかる。 モダンなモノトーンのインテリアは、高級ブランドの家具が存在感を放っている。 桜子は入り口で肩をすくめた。 暖房が弱いわけではないが、広すぎる空間とシンプルな色彩が、冷たい印象を与える。 「桜子、寒いのか?」 隆一はシューズケースから白いファースリッパを取り出し、片膝をついて彼女の足元に置いた。 「履いて。暖房を上げるよ」 桜子は細い足を柔らかいスリッパに差し込んだ。 るで彼女のために用意したかのようにサイズがぴったりだった「若旦那様、お帰りなさい」 家政婦の加藤が笑顔で出迎えた。 「桜子、こちらは加藤さん」 隆一が紹介すると、加藤は感心しながら桜子を見つめた。 「わかりますよ!隆一さんがずっと思っていらっしゃった桜子様でしょう?こんにちは。本当に美しいですね......ミス森国でさえ及ばないほどですよ!」 桜子は顔を赤らめ、丁寧におじぎした。 「どうぞお入りください。奥様が待っていますよ」 加藤が案内する間、何度も振り返り、二人のカップル感に微笑んだ。 桜子は緊張した。 白石夫人の記憶はぼんやりしている。 子供の頃、白石家に遊びに行っても、ほとんど白石会長だけが出迎えていた。 たまに会った時も、優しい印象だけが残っている。 「母さん!」 隆一の声で、キャメルカラーの毛布をまとって、車椅子に座っている中年女性がゆっくりと振り返った。 桜子は息を呑んだ。 白石夫人は敏之さんと同じ年頃だが、白髪が目立ち、美しさの跡を見せている。 「隆一!隆一が帰ってきたわ!」 白石夫人は子供のように喜び、若い頃の美貌を彷彿とさせる笑顔を浮かべた。 隆一は急いで抱きしめ、「母さん、桜子がお見舞いに来ました」 「あ......桜子?桜子なの?」 白石夫人は目を輝かせ、加藤に呼びかけた。 「桜子にジュースを出して!お菓子もたくさんね!」 加藤はテーブルから色とりどりのキャンディーをすくい、桜子に差し出した。 「どうぞ、桜子様」 桜子は驚いて受け取った。 白石夫人の子供のような接客に、意外な感じがした。 「隆ちゃん、
「彼の全ての行動は......お前のためなんだ」 「私のため?私のために人を殴るの?」 桜子は我慢できず冷笑した。「そんな正義の名の下の卑劣な行為。私の名前を持ち出さないで、恥ずかしいわ」 「桜子!」 隼人は苦しみに満ちた声で叫んだ。「殴ったことに言い訳するつもりはない。ただ一つ聞きたい...... お前の目に俺はどう映ってる?」 桜子は息を呑み、胸が一瞬痙攣した。 暗闇の中でも、彼の眼底に砕け散る光と深い痛みを確かに感じた。 隆一は青白い顔をした隼人をじっと見つめ、鋭い視線は頭蓋を貫くほどだった。 「もし私から離れてくれるなら、商談では協力関係になれるかもしれない。 意地を張り続けるなら、これからは敵同士だ」 桜子は隼人を見ずに、隆一を支えながらゆっくりと立ち去った。 隼人は独り、天地に虐げられる雑草のように立ち尽くした。 どれほど立っていたか分からない。寒風が体を貫き、血が枯れるような冷たさが襲ってくる。涙は風に散り、また溜まる。 隆一の住む別荘は、この高級住宅地で二番目に大きい。一番はもちろん桜子のものだ。 このエリア全体が白石家のものだから、隆一が好きな家に引っ越すのは容易いことだ。 庭に入ると、桜子は隆一の顔の怪我を見て気が引けた。「痛い?」と小さな声で尋ねた。 隆一は唇を歪め、傷を引っ張る笑顔を浮かべた。「大丈夫、そんなに痛くない」 「ろくでなしな男......暴力を振るうなんて!」桜子は隼人を噛み付きたいほど怒った。 「隼人社長は軍人出身で、以前軍校に通っていた。腕が利くのは当然だ」 桜子は顔色を変えた。「どうして彼の経歴を知ってるの?調べた?」 「俺と隼人社長は、商戦も恋愛も生涯のライバルなんだ。勝つためには相手を知らなければ」 桜子はその言葉の意味を察し、唇を閉じた。 残念ながら、片思いは届かない。 しかも、無知を装わなければならない。 「母に聞かれたら、桜子がフォローしてね」隆一は緊張した表情で注意した。 「何て言うの?夜道で転んで顔だけ怪我したと?」桜子は眉をひそめた。 隆一は苦笑いし、彼女だけに見せる甘い笑顔を浮かべた。 「あっ!いいこと思いついた!」 桜子はハンドバッグから
風が切れる音——! 隼人の鼻先を僅かに擦り抜けるほど、陰気で激しい一撃が襲ってきた! 彼が素早く反応できなければ、この突然の攻撃を回避できなかっただろう。 この一撃だけで、隼人は気づいた。 隆一の優雅な外見の下には、多重人格かのような凶暴な獣が眠っている! 桜子を彼に連れて行かせてはならない。 絶対に! 出来事はあっという間に起こった。 桜子は何も気づかずに進んでおり、騒動が勃発していることすら知らない! 隆一は再び拳を振りかざした。 隼人は素早く身をかわし、逆に長い脚を振り上げて、彼の胸元をかすめた! 隆一は二歩後退し、青白い血管が浮かび上がるほど、拳を握りしめていた。 一方、襲われた隼人は、地面に釘付けになったかのように、動かずに立っていた。 隆一はゆっくりとメガネを押し上げ、眼には血気がこもった。 森国での十五年間、母を守るために、彼は名門の師匠に付き、格闘技や銃器操作を習得した。 近接格闘、射撃、ナイフ術......全てをマスターし、素早さで肉体の弱さを補ってきた。 しかし、この瞬間、彼は自らの過信を痛感した。 こいつは、普通の強さではない。 全身の力を振り絞っても、勝てないかもしれない! 隆一は眉をひそめ、顎をゆっくりと動かした。 突然、唇を歪め、邪気のある笑みを浮かべた。 隼人には、全身が冷たくなるほどの不快感を与えた。 桜子に対しては優しい目が、今では血に染まった刃のように、狂気と挑発を放っていた。 隆一は突然、体を前に倒した! 隼人の瞳孔が急に収縮し、反射的に右ストレートを放った! その拳は、隆一の左頬に真っ直ぐに命中した! その瞬間、桜子が振り返り、すべてを目撃した。 同時に、隼人は、血を含んだ唇を裂いた隆一が、怒るどころか、邪気のある笑みを浮かべるのを見た。 ヤバイ! 落とされた! 隆一は本当は殴り合いを望んでいなかった。 ただ、彼に攻撃を仕掛けさせるために誘っただけだ! 隼人が馬鹿みたいに! 「隆ちゃん!」 桜子は目を見開き、倒れかける隆一を支えた。 慌てて、幼い頃の呼び名が自然に口を出た。 隆一は目を丸くし、顔の痛みを無視して、桜
彼は生来、欲望の渦に飲まれる男で、世の中で満足できることはほとんどない。 隼人を痛めつけ、苦しめることくらいは、彼の渇望をしのぐかもしれない。 「隆一、どうしてここに?」桜子はようやく反応し、好奇心を隠せない。 「この近くに引っ越した」 隆一は深い眼差しで彼女を見つめた。 「あなたの別荘の後ろの少し離れたところに別荘を買った」 「えっ?」桜子は驚いた。 隼人も心臓が引き締められ、敵前に立つような緊張感を覚えた! 「つまり、隣人になった。桜子」 隆一は頭を傾げ、優しく若々しい笑顔を浮かべ、真っ白な右手を差し出した。 「こんにちは、新しい隣人。今後ともよろしく」 桜子は困惑したが、落ち着いて握手した。 これで、隼人という元夫を、かつて最も親密な関係にあった男を、外に拒むことに成功した。 「桜子、新居に遊びに来ないか?」 隆一はチャンスを逃さずに誘った。 「新鮮な食材をたくさん用意したよ。サーモンやロブスター......お前の好きなものばかり。俺が料理するから」 言葉には愛情が溢れていて、細かな配慮と礼儀正しさが、すべての女性の理想のパートナー像を体現していた。 「また今度にするわ」 桜子は混乱していて、今が最適な時期ではないと感じた。 「同じエリアに住むんだから、いつでも会えるよね。誘ってくれてありがとう」 「今夜は母もいるんだ」 隆一は彼女をじっと見つめ、温かく切実に誘った。 「昨日から母に招待することを話していて、彼女は嬉しそうだった。高城会長のお嬢様に久しぶりに会いたいと言っている」 桜子は驚いた。「白石夫人が森国からお帰りになったの?」 「そう、母を迎えに行ったんだ」隆一は安堵の表情で微笑んだ。 「それは本当によかった」 隼人は焦りで胸が張り裂けそうだった! 彼らの会話には、自分が口を挟めない。ただ呆然としているだけだ。 ビジネス界で縦横無尽の隼人が、こんなに手足をゆすぶることは初めてだ。 この女のためなら、バカみたいに振る舞っても構わない...... 「桜子、母の状態は知っているよね」 隆一は目に寂しさを浮かべ、「もう残り少ないかもしれない。 彼女の意識がはっきりしてしてい
その声は、なんとも馴染みがある。 まるで鋭い刀のように、隼人の胸を突き刺した! 桜子は恍惚していた神経が急に集中し、心臓が締め付けられるようになった。 悪事をしているのを見つかったように、彼女は全身の力を込めて隼人の強い腕を振り払い、急に振り返って彼を突き放した。 男性の心は真っ暗に沈み、後ろへ半歩よろめいた。 抱えていたのは、冷たい空気だけだった。 「隆一、どうしてここに?」 桜子は荒れた呼吸を落ち着かせようと必死だったが、慌てた目を隠せなかった。 隆一は灰色のスーツの下で、極限までの憎悪を抱え、暗闇の中でほとんど見えないほど震えていた。 彼は細い指でメガネを押し上げ、隼人を睨む目に殺気がこもった。 一瞬で消えたが、隼人は気づいた。 星のように輝く瞳を細め、獣のような圧迫感を放ち始めた。 気迫といえば、隼人は決して負けてはいない。 しかも、愛する女性の前ではなおさらだ。 桜子は隼人の鋭い視線に気づき、彼が隆一を生き埋めにしそうだと感じた。 理屈を言えば、先に暴挙をしたのは彼なのに...... 相手が邪魔をしたから恨んでいるのか? 本当にろくでなしな男! 「桜子!大丈夫?」 隆一は急いで彼女のそばに寄り、優しい目に心配を隠し、低い声で訊ねた。 「何か手伝えることある?」 「大丈夫。問題ない」 桜子は額に汗をかき、軽く笑った。 隼人は嫉妬に燃え、眉をひそめ、目玉が焼け付くように光った。 彼女が久しぶりに彼にそんな笑顔を見せたのに...... 今、いとも簡単に隆一に与えてしまった。 「その表情大丈夫そうじゃないけど?」 隆一は腕を伸ばさなかったが、彼女のそばに立つだけで、溢れる守りたい気持ちと独占欲が伝わった。 そして、ついでに隼人を軽く見た。 「追い払おうか?」 その態度は、まるで自分の所有権を宣言するかのようだった。 隼人は目を血で埋め、拳を握りしめた。 桜子がいなければ、すでにその拳を放っていた! 「要らない。彼にも足があるから、自分で帰ってもらうわ」 桜子は冷淡に答え、隼人を見なかった。 「じゃあ......桜子、俺と一緒に帰ってくれないか?」 桜子
彼は優希の家庭事情が複雑で、彼を傷つける話題だと知っていた。心配はしていたが、口は挟んでこなかった。「本田夫人は非常に伝統的な方だ。亡くなったご主人の後、優希しかいないから、すべての期待を彼に注いでいる。白露も許さない方が、初露を認めるはずがない。 優希は孝行で、母親を非常に尊敬している。初露のために母親と対立するだろうか?それに、策略を弄する昭子。彼女は白露を道具に使い、陰で操っている。秦の娘を見下しているのは明らかだ。初露に優しくするはずがない。 初露が優希と結ばれたら、家庭内の争いが続く。彼女が幸せになれると思う?たとえ優希が本気でも、こうしたつまらないことで愛情は消耗していく。しかも初露は純粋すぎて......彼らと戦えないわ!」 桜子は話し続けるうちに、自分の目が先に熱くなった。 赤く腫れた目を浮かべ、白い肌に映える顔は、まるで月の精が現れたかのように美しかった。 隼人はじっと桜子を見つめ、胸の鼓動が熱くなり、柔らかくなった。 同時に、激しい後悔と罪悪感が湧き上がった。 彼女は初露のことを口実に、彼と結婚した三年間の苦しみを語っていたのだ。 おおらかな振りをしているだけで、本当は苦い涙を飲み込んでいたのだ。 桜子はこれ以上話すことはない。 言うべきことはすべて伝えた。もし彼が独断で行くなら、彼女は強硬手段で問題を解決し、初露を守るしかない! 桜子が決然と背を向けた瞬間、隼人は抑えきれない情熱を爆発させ、冷たい香りを放つ彼女の柔らかい体を背中から抱きしめた。 「あなた......」桜子は息を呑み、心臓が乱れた。 「ごめん。全て俺が悪い。考慮が足りなかった。嫌なら、二度と口にしない......」 隼人の左腕は彼女の細い腰を纏い、右腕は鎖骨の位置で肩を抱え、全身の力を注いで、どんどん力を強めた。 彼女を自分の体に溶け込ませ、熱い血と一体化したいほどだった。 桜子は全身緊張した。耳に響く男性の低い声は、魅惑的で甘い。 「手を放して、隼人......」拒否の言葉だが、その声は柔らかく、抵抗にならなかった。 「放さない」 隼人は顎を彼女の首元に押し付け、こすり合わせた。「桜子、俺は貪欲な男ではない。でもお前に対しては、貪欲になってしまうんだ。 ど
「何するの?通り魔か」桜子は彼を睨み、鋭い口調で言った。 「病院を出るとき、急いでいたから、話をする暇もなかった」隼人は彼女の冷たさを無視し、依然として優しく話しかけた。 「初露のためでなければ、私たちは会わないし、話すこともないわ」 桜子は躊躇わず、別荘の玄関に向かって歩き出した。「次の薬は近日中に送る。長生きしたいなら、きちんと飲み続けなさい」 「桜子、待って!」隼人は焦りを隠せず、手を伸ばした。 桜子は急に足を止め、振り返った。「そういえば、優希に伝えてもらいたいことがある」 「彼が初露のことが好きだと知っている。でも私は反対」 隼人の瞳が急に収縮し、眉をひそめた。 「私は今、初露の義理の姉ではない。ただの他人。もしまだ義理の姉であっても、親が生きている以上、私に口出しする資格はない。 でも申し訳ないけど、初露のことは私が負うわ」 桜子は怒りをこめて、冷たい声で続けた。「今の宮沢家で初露を守れるのはおじい様だけ。しかしおじい様の健康状態は二人とも知っている。おじい様には初露を守る力がない。 初露の親は存在しないのと同じだ。あなたにも守れない。初露の身に何か起こった時、あなたはいつもそばにいなかった。本当に妹を大切にしていない」 隼人は胸が刺されるように痛み、目を赤くしながら、ゆっくりと拳を握った。 「だから私が守る。これから初露は私の妹で、家族だ」 桜子は毅然とした態度で、「私は決して、初露と優希の深い付き合いを認めない。優希が初露に恋するなんて許さない」 「なぜ、だめなの?」隼人は一歩踏み込み、焦りを隠せずに彼女の目を見つめた。 桜子はその強い視線を挑発と誤解し、冷笑した。「なぜ?隼人、あなたには良心があるの? 初露が実の妹でないから、親友の欲望を満たすために、秦の娘を火の車に乗せるの?」 隼人はやっと激怒し、唇を青白くしながら震えた。 彼は彼女に怒っているのではない。彼女の善良さ、初露を守りたい気持ちは完全に理解できる。 でも彼女に誤解されたくない。唯一の親友、最も信頼する友達を見下されたくない! 「優希は本気だ。桜子、今日も見ただろう?初露も優希に頼っているし、一緒にいたいと思っている」 「依存と恋は同じではない!しかも初露は
桜子は病院を出る際、隼人には一言も声をかけなかった。 あの男が未完の話を残したことはわかっていた。 だが桜子は高慢な性格で、決して頭を下げない。 どんなに好奇心が膨らんでも、彼女は自力で調べるつもりだ。 三年間の屈辱でもう十分。 これからは高城家の令嬢として堂々と生きる! 桜子が別荘に戻る途中、翔太から電話がかかってきた。 「桜子様、隼人を直接調べましたが、特に新しい情報は得られませんでした。でも宮沢家の長男を調べたら、奇妙なことがわかりました」「隼人は宮沢家の社長だから、彼の情報は内部機密」 桜子は目を細めた。「翔太、あんた『敵の弱点を突く』作戦なのね。賢くなったな」 翔太は内緒に笑みを浮かべ、改めて真面目に言った。 「宮沢家長男は十一歳の時、誘拐事件に遭いました」 桜子の目が暗くなった。「誘拐?」 「はい。しかし当時のニュースはすべて削除されています。宮沢家が情報を封じ込めたようです。警察の記録を見ない限り、真相はわからないでしょう。 桜子様、もし本当に知りたいなら、父に聞いてみてください。当時父は盛京第一裁判所の判事だったので、宮沢家長男の誘拐事件について何か知っているはずです」 「大丈夫、翔太。あなたはよくやったわ。お疲れ様」桜子は電話を切り、少し考え込んだ。 彼女は翔太が家族との関係が険悪なことを知っている。この時期に林田家を巻き込むわけにはいかない。 しかし何をするべきかがわかったら、次の行動が決まる。 ナイトコールが別荘前に止まると、ライトが男性の立ち姿を照らした。 彼女は目を細め、急に息を呑んだ。 隼人...... なの? 隼人は振り返り、明るいライトに向かって背筋を伸ばした。優しい笑みを浮かべ、「桜子......」と呼んだ。 桜子は唇を噛み、胸に複雑な感情が湧き上がった。 確かに、隼人の笑顔は本当に美しい。 かつて彼女が夢見た、憧れていた、求めても得られなかった姿だった。 過去三年間、彼女はこの男のそばで愚かにも待ち続けた。 心をこめてプレゼントを贈り、料理を習い、ただ彼の笑顔を見たかった。 それでも、結果は虚しさが深まっただけだった。今、彼が彼女に笑みを向け、「好き」と言っても.
「自分がどんな人間かは十分承知だ。何度も言われなくても、過去の自分がどれだけひどかったかはっきりしてる」 隼人は目を垂れ、半分吸ったタバコを灰皿に潰した。「でも、俺の心は将棋盤の歩兵のように、前に進むばかりで、後には引かない。これからの人生、俺は桜子だけを愛し続ける。絶対に諦めない」 「彼女の手を離さない」初露は夕暮れまで熟睡していた。目を覚ますと、優希が夕食を用意していた。 「菜花ちゃん、昼間の話......本当に俺の家に泊まりたいの?」優希はベッドの端に座り、からかい半分の口調で訊ねた。 「......」初露は唇を噛み、うなずき、すぐに首を横に振った。 彼女はゆったりとした病院着に包まれ、腕で膝を抱え、白く透き通る足先をかき集めるようにして、清純なセクシーさを漂わせていた。 優希の目が、ふと彼女の足元に止まり、瞳が熱くなり、息が少し荒くなった。 「おじいちゃんと一緒に住みたいけど......それは、元気になってから行きますわ」初露の目には少し涙が浮かんでいた。「おじいちゃんに心配させたくありませんから......」 「わかった」優希は大きな手を彼女の頭に置き、柔らかい髪を撫でた。突然、邪気のある目で睨みつけた。「だけど菜花ちゃん、本当に俺を信じてるの?俺のこと知ってる?外での俺の評判がどんなに酷いか?鬼門から地獄へ飛び込む覚悟があるの?」 初露はゆっくりと目を上げ、澄んだ瞳で彼を見つめた。「私は、他人の噂話なんてどうでも良いです。優希お兄さんは......隼人お兄さんと同じくらい素敵な人だと思います」 優希の胸が激しく鼓動した。 呼吸を乱しながら、彼女の髪の毛を撫で、徐々にその手を首筋へ滑らせた。 沈黙する彼に、初露は不安そうに訊ねた。「優希お兄さん......私、迷惑かけてますか?連れて行きたくないですか?」 少女の目には子供のような純粋さが宿る。 彼女はただ素直な気持ちを伝えるだけで、大人の世界で「男性の家に泊まる」がどんな意味を持つのか全く知らない。 「俺は......」 突然、甘く温かい香りがふわりと漂った。 優希は息を止め、頭が真っ白になった。 白い腕が、突然彼の首に巻きついてきた。 次の瞬間、初露の美しい顔が視界いっぱいに