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第3話

Author: 氷室美澄
胃がんと診断されたのは、まったくの偶然だった。

山から下ろされることが決まった電話がかかってきたのは半月ほど前。そのとき礼香は、まだ真っ暗な小屋に吊るされ、水さえ一滴も与えられずにいた。

僧たちは本気で彼女が死んでしまうのを恐れ、さらにその傷が望月家に知られることを恐れていた。仕方なく、瀕死の彼女を私立の病院へ運び込み、命を繋がせた。

その病院で半月ほど入院し、ようやく死の淵から引き戻された。

彼女は寝たふりをしながら、医者たちの会話を聞いていた。胃がん。治療しなければ余命は一ヶ月ほど。治療をしても、延びて三ヶ月か五ヶ月。

僧たちは望月家の怒りを恐れ、多額の金を積んで診断結果を改ざんさせた。

その上で、一見健康そうに見える礼香を山から送り返した。

彼女は口元をかすかに歪め、両親の位牌を見つめながら、ぽつりと呟いた。「死ぬのも……悪くない」

どこまでも安い命。どれだけ頭を打ちつけても、まだ死にきれない。

「もう立ちなさい。部屋へ戻って休め」

その声に彼女は小さく返事をし、ゆっくりと立ち上がった。砕けそうな膝の痛みに耐えながら。

誠矢の表情は冷たく、責めるような口調で言った。「遥は足の持病が悪化しているのに、それでもお前のために許しを請おうとしている。礼香、お前には本当に悔いる気持ちの一つもないのか?」

礼香ははっとして、さらに深く頭を垂れた。「遥姉さんの恩は、忘れません」

誠矢もまた一瞬言葉に詰まり、瞳の奥にさらに深い陰を落とした。そして冷たく告げた。「それがわかっていればいい。部屋へ戻れ」

礼香は時間をかけてようやく本宅に戻った。彼女の部屋は三階にあり、階段を通りかかったとき、かすかなうめき声が耳に届いた。「……っ、痛い」

「ごめん、もっと優しくするよ」

顔を上げ、扉の隙間からそっと覗くと、この上なく尊い存在であるはずのおじさんが、片膝をつき、遥の膝を優しく揉んでいるところだった。

心の奥深くで崇め続け、指一本触れることすら恐れていたその人が今は別の女の足元にひざまずいている。

痛い!

もう傷つくことなんてないと思っていたのに。この光景が、これほどまでに胸を抉るなんて、思いもしなかった。

「見たか?おじさんが好きなのは遥さんだけだ。お前のその汚い妄想なんて、とっくに捨てるべきだったんだ。そんなことを考えてると思うだけで、俺はお前なんか妹だと思いたくもない!」

いつの間にか洋次が階段の上に立っており、傲慢で軽蔑するような目つきで彼女を見下ろしていた。

その目は妹を見るものではなく、まるで憎むべき敵を見るようなものだった。

二人は双子、それも男女の双子だった。だが、礼香は幼い頃からずっと田舎に追いやられ、五歳になるまで家に戻されることはなかった。

かつては必死に兄の心を掴もうとした。けれど、どれだけ努力しても、洋次と一緒に育った遥には到底敵わなかった。

「うん、わかってる」

「空気を読んで、さっさと出て行けよ。ここにいるだけで目障りなんだよ。どうせまた遥さんを陥れようって考えてんだろ」

そう言い残し、洋次は背を向けて歩き去った。その背後で小さく漏れた一言には気づかないまま。「あなたたちの願いはすぐに叶うよ」

階段のあたりから声が消えると、誠矢はゆっくりと腰を伸ばした。先ほどまで遥に向けていたあの優しさは、すっかり跡形もなく消え去っていた。

遥はその変わりようを見つめ、爪をぎゅっと掌に食い込ませた。「誠矢さん、礼香ちゃんはまだ諦めてないみたい。ほら、またお寺で虐待されたなんて嘘をついて、あなたの同情を引こうとしてる。ほんと、反省が足りないんだよ……」

「もういい」

彼女の顔から血の気が引き、すぐに目を伏せ、従順に謝った。「ごめんなさい、余計なことを言ったわ」

誠矢は眉間を押さえ、少し声を和らげて言った。「あの時のことは俺が責任を取る。婚約の式は改めてやり直す。欲しいものがあれば、担当の者に言えばいい。それ以外のことに口を出す必要はない」

一年前、彼は敵対する者たちの罠にはめられ、意識が朦朧とした中で白川遥を傷つけてしまった。

遥は何の咎もない無垢な娘だった。だからこそ、誠矢はその責任を背負うと決めていた。

礼香は自分の部屋へ戻ると、ベッドの下からスーツケースを引き出し、静かに荷物を詰め始めた。

どうせ死ぬのなら、せめて綺麗な場所で死にたい。この家を汚したくはなかった。

持ち物は少なかった。スーツケースひとつで十分だった。

それから、ずっと電源を落としたままだったスマホを一年ぶりに充電して、電源を入れた。通知はほとんどなく、この一年、彼女のことを気にかけてくれた人間は、ほぼ誰もいなかった。

一年前、誠矢を追いかけるために、彼女は周囲の人間すべてを敵に回した。その結果、誰からも嫌われ、まるで毒蛇のように避けられる存在になっていた。

スマホを閉じようとしたそのとき、画面の上部に新着メッセージが飛び込んできた。【今夜九時、ムセキで待つ。来なければ、あの写真をばらまく】

そのメッセージには一枚の写真が添付されていた。写っていたのは誠矢と礼香、二人が絡み合う、あの夜のベッドの上の姿だった。

あの混乱の夜、礼香は理性を失ったように誠矢の部屋に忍び込んだ。そのとき彼は薬を盛られ、意識が朦朧としており、礼香のことを手配された「解毒役」の女だと勘違いしていた。

痛みだけが鮮明だった。彼はひどく乱暴で、そこに優しさのかけらもなく、ただ欲望をぶつけるための道具として彼女を扱った。

礼香はこの出来事を必死に隠し通していた。ただ一枚、こっそり撮った写真を除いて。二人が交わるその瞬間、彼女の瞳には抑えきれないほどの愛慕の色が浮かんでいた。

その写真はスマホの中に隠していた。だが一度、スマホを失くし、戻ってきたときには、その写真はすでに松本喜之助(まつもと きのすけ)の手に渡っていた。

松本は遥の手下。この界隈でも知られた厄介者だった。

行けばろくなことにならないとわかっていた。それでも彼女は行かざるを得なかった。

自分の身勝手と愚かな執着のせいで、おじさんに何度も後始末をさせてきた。今、彼は結婚を控えている。そして、彼女はもうすぐ死ぬ。

せめて死ぬ前に、もうこれ以上彼に迷惑をかけたくない。

もう充分すぎるほど彼には借りがある。

夜の明かりが灯り始めた頃。礼香は厚手の服を着込んで、「ムセキ」の店先に姿を現した。

松本は眉を上げ、嘲るように口元を歪めた。「へぇ、言われたとおりに来るなんて、ほんとに飼い慣らされた犬だな」

彼女はしばらく黙ったまま、やがて低い声で言った。「写真を消して」

「そんな汚いことをやっておいて、バレるのが怖いのか?ふん、写真を消してほしいなら簡単だ。これに着替えて、店の前で一時間ひざまずいてろ。そうしたら消してやる」

それから十分後。

人の行き来が絶えない店の入口に、ぽつんとひとりの人影が現れた。

彼女は露出の激しいバニースーツを身につけ、四つん這いになっていた。その腰には、ふわふわの尻尾が差し込まれている。

通りすがる人々は思わず足を止め、次々とスマホを取り出して写真を撮り始めた。軽蔑、卑しさ、欲望。そのどれともつかない目彼女の身体に絡みついた。

プライドは踏みにじられ、無残に砕け散った。

誰かが彼女の素性に気づき、すぐさまグループビデオ通話を立ち上げ、カメラを礼香の顔に向けた。「やば!おい、誰がいると思う?!これ、白石礼香じゃねぇか!こんな恥知らずな格好してるぞ!見ろって!」

礼香は思わず腕で顔を隠そうとした。だがその拍子に、胸元のわずかな布切れがずり落ちそうになり、必死にそれを押さえながら、ついには諦めたように目を閉じた。

騒ぎはどんどん大きくなり、そのざわめきはついに上階の個室にまで届いた。

時間はゆっくりと過ぎていき、約束の一時間まで残り十分となった。

あと十分、耐えれば終わる。

だが、まるで神様が彼女を試すかのように運命は意地悪だった。

そのとき彼女の視界に、絶対にここにいてはならないはずの男が現れた。険しい表情で、鋭い目を光らせ、大股でこちらに向かってくる。

「全員、出ていけ!」

そう命じると、後ろに控えていた護衛たちが素早く動き、集まった人々を次々と追い払った。そのうえ、全員のスマホを確認し、不適切な写真を一枚残らず削除していった。

彼女はその場に跪いたまま、まるで氷の底に沈められたような冷たさを感じていた。震える声でどうにか言葉を紡ぐ。「おじさん……」

だが次の瞬間、顎を乱暴につかまれ、強く持ち上げられた。その力は、今にも骨を砕きそうなほどだった。

誠矢がこれほどまでに怒りをあらわにしたことは、かつて一度もなかった。燃え上がるような激情が理性を焼き尽くそうとしていた。

彼は歯を食いしばり、言葉をひとつひとつ吐き捨てるように叩きつけた。「白石礼香、お前はどこまで腐ってるんだ。こんなやり方で、俺を呼び出すつもりだったのか?!ん?」

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