登入翌日の夜、綾は新居へ引っ越した。健吾は彼女を部屋まで送り届け、ドアの枠に寄りかかりながら、玄関で靴を脱ぐ姿を見つめていた。青いキャミソールワンピースを着た綾が、身をかがめてうつむく。白くてほっそりとしたうなじが露わになった。胸元がゆったりしているため、彼がほんの少し視線を落とすだけで、白い肌がちらりと覗いてしまう。靴を脱ぎ終えた綾は顔を上げた。彼がまだそこにいることに気づき、「入っていく?」と尋ねる。「いや、やめておくよ。おやすみ」健吾は素早くドアを閉めると、その場に立ち尽くして大きく息を吐き出した。もし中に入ってしまったら、きっと帰りたくなくなってしまう。綾と湊が互いに一歩ずつ譲歩したことで、彼女と健吾の距離はかえって縮まった。以前のように朝から晩まで一緒ということはない。授業がない時は、遊びに行く約束でもしない限り、綾は自分の部屋で過ごしていた。その微妙な距離感が、二人の間に漂う空気をより甘いものにしていた。健吾も以前より勉強熱心になった。綾が毎日大学へ行こうと部屋を出ると、彼は決まってエレベーターの前で待っていて、一緒に授業を受けたり図書館へ行ったりした。大学一年生も終わりに近づく頃には、健吾は高校時代と同じように、その容姿の良さですっかり学内の有名人になっていた。けれど大学生になると、みんなの生活は高校時代よりずっと充実していて、それぞれ自分のやるべきことに忙しい。綾と健吾がどれだけ親しくしていても、わざわざ嫌がらせやいじめをしてくるような暇人はいなかった。あの健吾の元気いっぱいな「幼馴染」でさえ、今では他の人と付き合っているくらいだ。一年生が終わり、綾の大学生活を一言でまとめるなら、「最高!」だった。勉強も自由、生活も自由で、悩みなんて何もない。一方の湊は、この春休みで学生生活にピリオドを打った。綾は花束を抱えて客席に座り、卒業生代表として登壇する湊を見つめた。まるで夢でも見ているようだった。湊は彼女の前ではいつも落ち着き払っていた。それにこの一年はずっと会社に出ていて、朝早くから夜遅くまで働いていたから、とっくに卒業しているような錯覚に陥っていたのだ。昼前に卒業式が終わり、綾は湊に花束を手渡した。「湊、卒業おめでとう」湊は片手で花束を受け取ると、もう片方の手で彼女
湊は綾に言い返す隙を与えず、立ち上がって彼女の肩を軽く叩いた。「疲れたから、先に部屋に戻るよ」綾は空気を読んで素直に言った。「おやすみ」湊が恋愛を許してくれただけでも、すごく折れてくれたのだ。これ以上しつこく食い下がっては、あまりにも彼の気持ちを傷つけてしまう。湊はほっと息をつき、疲れた足取りで自分の部屋へ戻っていった。翌日、綾のもとに美羽からカフェに誘う連絡が届いた。きっと湊が美羽に助けを求めたのだろう。彼女は女の子が大人になるにつれてぶつかるいろんな悩みについて、たくさん話してくれた。こんな話を人から聞くのは初めてで、綾が今まで考えもしなかったことがたくさんあった。どんなに仲が良くても、18歳の女の子が異性とルームシェアするのを許す親なんていないと、美羽は言った。彼女たちはいろんな話をした。美羽は穏やかな性格で話し方も優しく、湊のように強引ではないうえに、同じ女性としての視点に綾もすっかり納得させられた。綾は自分の行動を反省した。健吾とのルームシェアは、やっぱり軽率だったのだ。自分たちにやましいことはなくても、心配してくれる人たちはどうしても不安になってしまう。それに、もし将来悪意のある人にこのことを持ち出されたら、中野家のしつけがなっていないと責められるかもしれない。そもそもルームシェアに同意したのは、お金の節約のためと、健吾に近づきたいという下心があったからだ。今や彼との距離はどんどん縮まっているし、離れたところで関係が変わることはないはずだ。マンションに戻った綾は、引っ越したいという考えを健吾に伝えた。怒り出すかと思いきや、健吾はあっさりと頷いた。綾は目を丸くして彼を見つめた。「引き留めてもくれないの?私が早く出ていくのを待ち望んでたんじゃない?」健吾は微笑んだ。「上の階の部屋を買い取ったから、割引してお前に貸すよ」綾はびっくりした。「いつの間に?」健吾は涼しい顔で言った。「湊さんがルームシェアのことを知った時点で、お前が出ていくことは分かってたからね」綾は口元をひくつかせた。彼は本当に自分のことを何でもお見通しらしい。「だからって、わざわざ別の部屋を買って私に貸さなくてもいいのに」嬉しい気持ちはあったけれど、彼がそこまでお金を使う必要はないと思ったのだ。「
綾は視線を上げ、ふわりと微笑んだ。「何があっても、私の味方でいてくれる?」健吾はクスッと笑った。「何があっても、俺はお前の味方だよ」その約束を聞いて、綾の心はずっと軽くなった。見放されないと分かっていれば、思い切って決断できる。その夜、彼女は湊を書斎に呼び、一冊の分厚いアルバムを取り出した。アルバムには、8歳から18歳までの思い出が詰まっていた。その大半は、彼女と湊のツーショット写真だった。けれど大学に入ってからは、湊との写真はめっきり減った。彼女は湊の隣に座り、一枚ずつめくりながら、懐かしい思い出を振り返った。「湊、中野家で過ごした10年間は、ほとんどずっと幸せだったよ」湊は写真の中の幼い綾を見つめ、微かに表情を揺らした。「幸せじゃなかった時も少しはあるのか?」綾は微笑んだ。「毎日ずっと楽しいなんてありえないよ。勉強の悩みもあったし、問題を間違えたり単語を覚えられなかったりするだけで、落ち込んでたもん」写真をめくるごとに、そこに写る少女は少しずつ大人になっていく。綾の胸に、温もりと切なさが込み上げてきた。「湊、私たち昔は本当に仲良しだったよね。初めて生理がきた時も、夜中にあなたがナプキンを買いに行ってくれたし。あなたがいてくれなかったら、きっと私の人生はメチャクチャになってたわ」どの写真を見ても、湊が自分にしてくれた数々の優しさが思い出された。こんなにも優しい湊を、自分は傷つけたくなかった。湊は優しく綾の髪を撫でた。「今はもう、俺と仲良くしてくれないのか?」綾は彼の腕に抱きつき、寄り添った。「一生、あなたとは一番近い身内でいたいよ。たとえ将来お嫁に行って子供ができても、あなたが一番大切な人なのは変わらないから」湊は彼女を見やり、可笑しそうに、けれど困ったように息をついた。「お嫁に行って子供ができても」という言葉が出た時点で、綾が書斎に呼んだ意図は察しがついた。「バカだな。そんなに青木が好きなのか?」綾は目を輝かせ、力強く頷いた。「うん、大好き。あなた以外で、安心させてくれる人は青木くんだけなの」自分がいつ倒れても、健吾なら必ず後ろでしっかり受け止めてくれると信じていた。湊は長いあいだ沈黙し、返事をしないまま、ゆっくりとアルバムをめくった。そして最後のページ、綾が18
「風邪がまだ治ってないんだから、早く部屋に戻って寝なさい」湊は身をかがめ、綾の額に手を当てて体温を確かめた。熱がないことを確かめて、ようやく胸をなでおろす。「湊、怒らないで。これまでみたいに、私の自立と自由をちゃんと支えてくれるよね?」綾はソファに座り、あどけない瞳をパチパチさせながら湊を見つめた。湊は、そんな彼女の甘え上手な手口に呆れつつも、決して首を縦には振らなかった。「とにかく、もう寝なさい」彼も疲れ切っていて、頭がぼんやりしている時に大事な決断を下したくなかったのだ。綾も湊の疲れを察して、それ以上無理に食い下がらなかった。翌朝、綾は1限の講義に間に合うよう早起きした。玄関を出ようとしたところで、湊とぶつかりそうになる。「湊、おはよう。大学に行ってくるね」「送っていく」湊は車の鍵を手に取り、綾に乗るよう促した。「風邪は少し良くなったのか?」綾はシートベルトを締めながら答えた。「だいぶ良くなったよ。喉がまだちょっと痛いけど」湊はハンドルを握り、車を本線へと合流させた。そしてバックミラー越しに綾をちらりと見る。昨日よりも顔色は良く、表情も晴れやかに見える。「時間割を送っておけ。講義が終わったら迎えに行く」綾の顔から笑顔が消えた。不満そうに口を開く。「湊、どうしてお互い疲れるようなことばかりするの?仕事もあるし卒論だって大変なんだから、私のことまで心配しなくていいのに」湊は顔をこわばらせた。「俺が忙しいと分かっているなら、余計な手間をかけさせるな。おとなしく言うことを聞け」綾は助手席の背もたれに寄りかかり、心の中でため息をついた。二人の会話は、またしても昨日の堂々巡りに逆戻りだ。彼女は口を閉ざし、沈黙で湊に対抗した。大学に着くと、湊がようやく口を開いた。「お前の時間割、あとでスマホに送れ。講義が終わったら迎えに来る」綾は一言も返さず、車を降りてバタンとドアを閉めた。以前は湊が頑固なだけだと思っていた。でも今となっては、もはや執着に近い。教室に入ると、健吾がすでに最前列に座っていた。沈んだ顔をしている綾を見て、湊と喧嘩でもしたのだろうと察した。昼休みに彼は車で綾をマンションへ連れていき、優しく言った。「お前を板挟みにして困らせたくはないんだ。自分の心に従って選べ
綾は車のドアを開けて降りると、一度も振り返らず、まっすぐ学校の中へ歩いていった。門柱の前を通り過ぎたとき、視界の隅に肩を落として立ち尽くす健吾の姿が映った。何か深く考え込んでいるようだった。彼女は小さく声をかけた。「青木くん、授業に行くよ」健吾は我に返り、口元をほころばせて彼女の後に続いた。「湊さんは何て言ってた?」「病院で看病してくれたことを知って、すごく怒ってた」あの病院が湊の友人の病院だったことを忘れていたなんて。綾は自分の不注意を悔やんだ。でも、湊には遅かれ早かれ知られることだった。自分から言い出せずにいたし、これで良かったのかもしれない。健吾の瞳に不安の色がよぎった。「俺から離れろって言われた?」綾はうなずいた。「ルームシェアのことも話したら、余計に激怒させちゃった」健吾は静かに聞いていたが、どこか上の空だった。午前中の授業が終わり、学食へ向かう道中で、彼はようやく口を開いた。「俺から離れて、マンションを出ていくのか?」綾は驚いて、彼を見上げた。空はどんよりと曇り、日差しはなかった。それでも健吾の姿は眩しかった。「もし誰かに、私から離れろって言われたら、あなたは言うことを聞くの?」健吾は低く笑った。「まさか。この世に俺の考えを左右できる奴なんていないよ」綾は微笑んだ。「私だって同じだよ」健吾はその言葉を理解し、瞳の奥にあった曇りが消え去った。厚い雲の切れ間から光が差し込み、彼の瞳が生き生きと輝いた。綾を見くびっていたし、彼女の心にある自分の存在も見くびっていたのだ。綾は背中で手を組み、健吾の前に立つと、彼に向き合ったまま後ろ向きに歩いた。その目は輝いていた。「これからも住み続けるからね。家賃を値上げしちゃダメだよ」「足元に気をつけて」健吾は彼女の腕を掴み、自分の手元に引き寄せた。「安心して、絶対に値上げはしない。でも、湊さんはどう説得するつもりなんだ?」綾は口元を歪めて困った顔をした。それは大きな問題で、まだ良い案が浮かんでいなかった。「今夜はとりあえず家に帰って、湊を宥めようと思って」健吾は考え込むように言った。「また戻ってくるよな?」綾はきっぱりと答えた。「もちろん!一晩泊まるだけだよ。毎日家から通うのは大変だし」健吾はうなずいたが、胸に
綾は息を深く吸い込んで言った。「そうよ。好きだよ、すごく好き」湊はその予想通りの答えに、全身の力を抜かれたように革の背もたれへ倒れ込んだ。「いつからだ?」その声は低く沈んでおり、まるで急に体調でも崩したかのようだった。綾はかすれた声で答えた。「高校生の時から……なんとなく」いつ健吾を好きになったのかは定かではない。けれど大学に入ってルームシェアを始めてから、彼が好きだと確信したのだ。湊は顔を手で覆った。「どうして一度も話してくれなかったんだ?」「今話してもそんな反応なのに、もっと早く言ってたら、絶対青木くんから引き離そうとしたでしょ」綾の声は次第に落ち着いてきた。胸に秘めていた想いを吐き出せて、すっと心が軽くなったのだ。こんなこと、大した問題じゃない。明里だって大学に入ってすぐ付き合い始めたし。湊は怒りと悔しさでいっぱいだった。綾は幼い頃に両親がいなかったせいで、愛に飢え、不安だから簡単に人を好きになってしまうのだと思い込んでいた。けれど納得がいかなかった。綾が中野家に来てから、彼はすべての愛情を彼女に注いできたのだ。彼女がそばにいてほしい時は、いつだって寄り添ってきた。懸命に尽くせば、どんな心だっていつかは溶けると信じていた。なのに、どうしてこれほど尽くしても、彼女から全幅の信頼を寄せてもらえないのだろうか。彼は深くため息をつき、低く掠れた声で言った。「青木のマンションを出て、家に戻って暮らせ。これからは俺が車で大学まで送り迎えする」綾は眉間にしわを寄せ湊を見つめると、諦めたようにクスッと笑った。「湊、一生あなたの言いなりにはなれないよ。もう大人なんだから、自分の生き方は自分で決めさせて」湊は思わずぽかんと固まってしまう。綾は大人になったのではない。自分の考えを持ち、以前より反抗的になっただけだ。「まだ18歳になったばかりだろう。人の悪意の何が分かるんだ?青木のやつは腹の底が読めない男だぞ。傷つくのが怖くないのか?」湊は深く息を吸い、体を向けて優しい眼差しで綾を見つめた。「恋愛において、男はいつでも身を引ける。心も体も傷つくのは女の方なんだぞ、分かってるのか?」綾は自分が守り育ててきた妹だ。彼には、彼女がどんな傷を負うことも許せなかった。彼女が一生、自分の守る世界で無邪気な