INICIAR SESIÓN「俺が求めるのは――杏奈に、一つだけ俺の要求を聞いてもらうことだ」杏奈の睫毛が微かに揺れ、口を開こうとした、その瞬間。円香が尻尾を踏まれた猫のように跳ね上がり、杏奈を背後に庇うようにして、興奮した声で叫んだ。「お断りよ!吉川蒼介、絶対にお断り!そんなこと、絶対にさせない。私が許さないわ!条件を変えて!」「寒川翔真に会いたくなくなったのか」蒼介の声は相変わらず静かで、どこかからかうような響きさえ帯びていた。円香の最も弱いところを、一切のためらいもなく突いてくる。「ふん、笑わせないでよ!」円香は精一杯の虚勢を張って言い返した。「だったら……だったら私が、濱海の有力な名家をいくつか巻き込んで押しかけてやるわ!あの寒川新蔵だって、全員を追い返すわけにはいかないでしょう。そこで直接聞き出せばいいのよ!」「ふん……では、自由にどうぞ」蒼介は微かに笑った。その声には、見下すような憐れみが混じっていた。「この微妙な時期に、鈴木円香さんの一時の意地のため、あるいは男女の情のために、寒川家とエルメス家という強力な連合の反感を買ってまで動いてくれる家が、果たしてこの濱海にあると思うか……自分の目で確かめてみてくれ」この婚姻の背後に複雑に絡み合う巨大な利権と脅威を、蒼介は誰よりもよく理解していた。海千山千の古狸たちは、損得勘定が骨の髄まで染みついている。円香一人のために火中の栗を拾うような真似は、絶対にしない。「私は……」言い返そうとした円香の声が、乾いて掠れた。言葉に詰まった。現実の冷たさが、足元から這い上がってくるのを感じた。その瞬間、杏奈がそっと円香の腕に手を置いた。力は強くなかったが、それでも、不思議なほど心を落ち着かせる何かがあった。円香が反射的に振り向く。杏奈はゆっくりと顔を上げ、その瞳は水面のように静かで、しかしどこまでも深かった。何かを確固として決断した者だけが持てる、静かな、しかし確かな強さで、蒼介の深くて掴みどころのない眼差しを正面から受け止めた。そして、唇を開いた。はっきりと、冷静に、一言一言、噛み締めるように。「わかったわ。約束する」蒼介は眉を僅かに上げた。その声の調子から、後に続く条件の存在を読み取ったのだ。案の定、杏奈は続けた。落ち着いた、しかし一切の妥協を許さない口調で。「ただ
そう言葉を切ってから、蒼介はすべてを見透かしたような口調で続けた。「どうしても直接会いに行きたい、本人の口から聞きたいというなら……まったく手段がないとは言い切れない」「どうするの?どんな方法があるの!?」円香はもう限界だった。取り繕う余力も、強がる気力も、すっかり底をついていた。声に、懇願に近い切迫感が滲んでいる。さっき杏奈に「ほんの少しだけ気になる程度」だと言ったのは、まるっきりの嘘だった。最初に出会った瞬間から、心は動いていた。知らないうちに、蔦が心臓に絡みついていくように。しかし立場が違いすぎた。関係が複雑で、繊細すぎた。だから湧き上がる気持ちを死に物狂いで心の底に押し込めて、冗談で誤魔化して、軽口で覆い隠してきたのだ。それが今、翔真が本当に別の人と婚約するという話を聞いた瞬間、抑え込んできたすべての感情が堤防を決壊させて、一気に溢れ出してきた。円香にはわかった。自分は彼が好きだ。思っていたより、ずっとずっと好きだ。寒川家の高い壁があっても、エルメス家の脅威があっても、それでも飛び込んでいきたい。奪い返したい!翔真本人がどう思っているかは……まったく。鈴木円香様が一度目をつけた獲物を、誰かに好き勝手させてたまるか。もし本当に嫌だなんて言ったら……私の「ビンタの女王」の異名が伊達だと思ってるの?大人しくさせる方法くらい、いくらだってある!個室に、しばらくの沈黙が落ちた。空気が止まったようだった。窓の外から遠く車の流れる音だけが届いて、室内の静けさをいっそう際立たせている。蒼介はまるで円香の焦りなど感じていないかのように、ゆったりと指先で白磁のティーカップの縁をなぞっていた。観客が下手な芝居を眺めるような、悠然たる表情が、心底腹立たしかった。円香は目が赤くなるほど怒りをこらえ、ここでテーブルをひっくり返さないのは自分が大人だからだと言い聞かせながら叫んだ。「何か言ってよ!どうすればいいの、もったいぶらないで!」しかし蒼介の視線は円香を軽く通り過ぎて、まっすぐ杏奈の顔へ注がれた。深くて夜のような、侵食してくるような、どうしても手に入れようとする意志を隠しきれない目だった。薄い唇が、微かな、しかしはっきりとした弧を描く。「世の中は、何かを出せば何かが手に入る仕組みになっている。タダより高
円香は唇の端を引き上げて、無理に笑おうとした。しかし出てきたのは、泣くよりも痛々しそうな、引きつった苦笑いだった。「そうよね……私なんて、何なのかしら。どんな立場で、どんな身分で、彼に問いただせるっていうの……」力なくこぼれた声。どこにも行き場のない自嘲が滲んでいた。「円香!」杏奈は焦りと怒りをにじませて、円香の手をきつく握りしめた。声に、有無を言わせない強さが宿る。「彼はあなたのことが好きだって言ったのよ!自分の気持ちを打ち明けておいて、そう簡単に投げ出すなんて許せない。何の葛藤もなく婚約を受け入れるなら、あなたの気持ちを弄んだのと同じじゃない!」「でも……私、別に返事してないじゃない」円香の声は、砂を噛むように掠れていた。一言一言が、喉の奥から苦労して絞り出されるように聞こえる。「それがどうしたの?」杏奈は今この瞬間、完全に円香の味方だった。理屈など関係なく、ひたすら親友の味方だった。「断ってないじゃない。最終的な答えを出す前に、彼はあなたを待てなかった。抗ってもみなかった。それで婚約を受け入れるなら、それは裏切りよ。騙したのと同じよ!」円香の頭の中は、とうに混乱でいっぱいだった。強引で、でもなぜか核心を突いた杏奈の言葉に、さらに心を掻き乱される。理性はほとんど残っていない。それでも、瞳の奥で弱々しい光が、微かに揺れて灯った。溺れかけながらも、必死ですがりつくような光だ。「杏奈……本当に……これで、いいの?」杏奈は揺れる瞳を正面から受け止めて、一切の迷いなく言い切った。「いいに決まってるわ。絶対にそうよ!」「じゃあ……会いに行く。今すぐ、直接聞く!」円香は憑き物が落ちたように勢いを取り戻し、杏奈の手をがっしりと掴んだ。「行きましょう!今すぐに!」杏奈も握り返して、踵を返そうとした。その瞬間、蒼介がさっと一歩前に出た。絶妙な位置で、二人の行く手を塞ぐ。「今行っても、会えないぞ」彼の落ち着いた声に、揺らぎは一切ない。「なんで?」円香がすかさず詰め寄った。今にも飛びかかりそうな勢いだ。杏奈も足を止めて眉をひそめ、鋭い視線で説明を促した。蒼介は事務的な口調で、淡々と言った。「入手した情報によると、彼は現在、寒川新蔵氏によって本宅に軟禁されている。その際、表沙汰にはなっていないが、
「その通りよ!」円香は即座に頷いた。先ほどのばつの悪さを振り払うように言った。「隠し事なしに全部話して、整理する。曖昧にしておくといざという時ややこしくなるから、はっきりさせておいたほうがいいわ」「本当に、すべて知りたいのか」蒼介は今度は円香の方へ視線を移した。その瞳には、決定的な事実を告げる前に相手へ与える、最後の猶予のような深い色がある。円香はなんとなく胸がざわついた。根拠のない悪い予感が、じわじわと広がっていく。しかし深く息を吸い込み、その視線を真っ直ぐに受け止めた。「話して。今さら、知らない方がいいことなんて何もないわ」そのきっぱりとした態度を確認して、蒼介は遠回りをやめた。落ち着いた口調で、しかし一言一言が重い鉄槌のように響いた。「寒川家は間もなく、アルバートソンズ家との政略的な縁組みを結ぶ予定だ。その当事者は、お前たちが今話していた寒川翔真と――アレーナ」ガタン!言い終わらないうちに、椅子が倒れる激しい音が、個室の静寂を破った。円香が弾かれたように立ち上がっていた。血の気が引き、蒼白になっていた。信じられないというように蒼介を見つめ、声が激しく揺れた。「今……何て言ったの!?」蒼介は円香の衝撃を真正面から受け止めながらも、表情は微動だにしなかった。残酷なほど冷静だった。「十分に明確に伝えたはずだが」蒼介の言葉は明確だったし、円香の耳にもはっきり届いていた。ただ、信じたくなかった。受け入れたくなかった。翔真と……アレーナが、縁組みする?その事実を頭に浮かべた瞬間、見えない手に心臓を鷲掴みにされたような感覚が走った。締め付けられて、刺すように痛くて、息ができないほどに。「円香!」杏奈がすぐに立ち上がり、ふらつく体を支えた。瞳に、強い心配の色がありありと浮かんでいる。いつも凛とした杏奈の目に、純粋な心配がはっきりと映っていた。指先から伝わってくる冷たさに、杏奈の胸もきゅっと締まった。「わ、私…………っ」円香が口を開いた。しかし喉が何かで詰まったように、言葉が出てこない。いつも明るく輝いて、陽だまりのようだったあの顔が、今は完全に血の気を失い、唇まで白く染まっていた。杏奈の胸が痛んだ。その痛みが、自分の胸にまで伝染してくるようだった。唇をきつく結んで、込み上げるものを押さえ、できるだ
「あの女……よくもそんなことを!」円香は驚きを隠せなかった。思わず声が上がる。テーブルクロスを握る指に、力が入っていた。杏奈も眉をひそめ、冷静に考えを巡らせた。「今の藤本家は、もう実質的に空っぽでしょう。それでどうやって、私たちを一度に飲み込もうというの?誰かの力を借りていないと説明がつかない。紗里の後ろに、私たちの知らない、確固たる後ろ盾があるわ」円香がふと思い当たって言った。「もしかして、エルメス家と関係があるんじゃない?アルバートソンズが来てから、急にここまで大きな動きをし始めたわ。タイミングが合いすぎる」蒼介は頷いた。その推測を肯定する。「この件の裏には、確かにアルバートソンズが動いている。いや、より正確に言えば――」一拍置いて、表情がすっと引き締まった。声に、普段にはない重みが乗る。「巨大な黒船が、本格的に国内市場に牙を剥いた。アレーナを先に送り込み、続いてアルバートソンズを寄越したのは、いずれも様子見の前哨戦だ。本格的な侵攻へ向けた、地ならしに過ぎない」円香の眉がだんだんと険しくなっていく。「でも、それはおかしいわ。もし国内市場をそこまで本気で狙っているなら、国が黙って見ているわけがない。外資が無秩序に荒らし回るのを、許すはずがないわ」外資を完全に締め出しているわけではない。しかし何事にも限度がある。外資が市場の根幹を揺るがすほどの規模になれば、必ず強い介入が入るはずだ。蒼介の唇の端に、冷たい弧が浮かんだ。「もし……要所にいる人間が、すでに彼らに取り込まれているとしたら……」「……っ!そんなわけない!」蒼介が言い切る前に、円香が鋭く遮った。語気は確固としている。「翔真はそんな人間じゃないよ。買収されるはずも、脅されて屈するはずも、絶対にない!」杏奈は親友の顔を潰したくはなかったが、それでも静かに、しかし確実に届くように言った。「円香、忘れないで。翔真さんは今、あくまで代理当主よ。寒川家の方向を本当に決定できるのは、今も祖父の寒川新蔵さんだわ」円香はそこでぐっと言葉に詰まった。顔に、ばつの悪さとハッとしたような色が浮かぶ。軽く咳払いをして、強引に話を変えようとした。「わ、私はただちょっとした冗談を言っただけで、場を和ませようとしたんだけど……って、ほら、本題!本題に戻ろう!」どう見
甘えた呼び声が続くものだから、通りかかった人たちの視線が自然と集まってきた。子供連れの親たちが羨ましそうに目を向け、誰かが小声で囁いた。「あの子、なんて素直なのかしら。うちの子もあんなに可愛かったらねえ」しかし、羨望の眼差しを一身に浴びている杏奈は、眉一つ動かさなかった。表情は凪いだ湖面のように、静かで動かない。人の悲しみも喜びも、互いには届かないものだ。傍目には温かい親子の情景に見えても、今の杏奈の心には騒がしさと、言いようのない疲労感、そして疎外感がじわりと滲んでいた。「はいはい」円香が敏感に空気を読んで、すっとそばに割り込んだ。にこやかな顔で、まだぺちゃくちゃと喋り続ける小春を自分の側へと引き寄せる。「円香おばさんと一緒に行こっか。キャンディ持ってきてるよ」一瞬でもママの関心を引きたい小春は断らず、ぱっと目を輝かせてこくりと頷いた。「うん……!」「いい子ね」円香は柔らかく頭を撫でて、温かい手でしっかりと小さな手を握り、先に店の入り口へと向かった。二人が先を歩き、自然な流れで杏奈と蒼介が後ろに並ぶ形になった。一歩ほどの間を空けて、微妙な雰囲気の中、二人の足音だけが静かに続く。「こういう光景も」低い声が不意に沈黙を破った。相手を試すような響きが混じっていた。「悪くはないだろう」杏奈は微かに眉を寄せて、いつの間にか横に並んでいた蒼介を見た。声は淡々としている。「何が言いたいの?」蒼介は僅かに首を傾けて、杏奈の横顔に複雑な目を向けた。その奥に、杏奈には読み解けない暗い情念が渦巻いている。「家族が揃い、母と娘が仲良く過ごす。こういう安定が目の前にあるのに、なんで拒む?」声が少し低くなった。どこか宥めるような、誘い込むような響きがある。「頷きさえすれば、すべては本来あるべき軌道に戻るのに」杏奈は即座に、その言外の意味を理解した。唇の端に、静かな、しかしはっきりとした皮肉な笑みが浮かぶ。口が開きかけた。けれど、結局何も言わなかった。一度ひびが入ったものは、元には戻らない。言葉を重ねたところで、事実の前では何の意味もないのだ。「ここまでにしましょう」それだけ短く言い置いて、杏奈は蒼介から視線を外し、足を速めた。振り返って待っている円香のそばへ、迷いなく向かっていく。杏奈は振り返らな