婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた

婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた

last updateLast Updated : 2026-09-12
By:  花柳響Updated just now
Language: Japanese
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「誰かに決められるのは、もう終わりです。今度は、私があなたを選びます」 私の婚約披露宴だったはずなのに、婚約者の隣にあったのは妹・莉々花の名前だった。父も継母も婚約者も、私に「姉なら譲れ」と迫り、母の形見の指輪まで奪おうとする。 そのとき現れたのは、冷徹と恐れられる御曹司・鷹宮征臣。彼は大勢の前で私に跪き、愛の言葉ではなく一通の契約書を差し出した。 「俺と婚約してほしい」 利害から始まったはずの関係。けれど彼だけは、私の代わりに答えを決めず、「君が選べ」と待ってくれた。 奪われた名前、母の遺した秘密、家族が隠してきた嘘。 これは、すべてを譲ってきた私が、自分の未来と愛を選び直す物語。

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Chapter 1

第1話 席次表にない婚約者の隣

 私の婚約者の隣に、妹の名前があった。

 白鳥家と有馬家の婚約披露宴。

 その席次表の中央に印字されていたのは、有馬悠真様。そして、その隣には、私ではなく――白鳥莉々花様。

 一瞬、息の仕方を忘れた。

 昨日まで、父から渡された進行表にも、招待状にも、私と悠真の名前が並んでいた。

 その進行表を最後に直したのは、私だ。来賓の肩書き、祝辞の順番、有馬家側の役員席、父が気にしていた取引先の席の距離。夜中まで何度も確認して、悠真から届いた「澪に任せておけば安心だね」という短いメッセージに、少しだけ救われた気になっていた。

 安心だと言った人は、私が整えた舞台の真ん中で、別の女の隣に立とうとしている。しかも、その別の女は妹だった。血のつながりは半分もない。けれど、白鳥家ではいつも、莉々花の涙の方が私の努力より重かった。

 白鳥澪と有馬悠真。

 少なくとも、私に渡された紙の上では、私は今日、婚約者としてこの会場に立つはずだった。

 なのに、今、私の名前は二つ隣に押しやられている。

 誰かが慌てて空けた余白みたいな席に。

 祝福されるはずだった女が、最初から邪魔者として置かれていた。

「お姉様、どうかなさいました? お顔が少し、怖いです」

 後ろから、甘い声が落ちてきた。

 振り返る前に、香水の匂いで莉々花だと分かった。砂糖を焦がしたような甘さ。昔から、彼女が泣く前にはこの匂いがした。

 莉々花は白いドレスを着ていた。

 招待客の娘が着るには白すぎる。胸元のレースも、腰のリボンも、まるで花嫁の予行練習みたいだった。

「……そのドレス、ずいぶん白いのね」

 からからに乾いた口から出た声は、聞きたかったことからはだいぶ離れていた。どうして、とも、何をしているの、とも言えないまま、私は白いレースだけを見ていた。

 莉々花は袖口をつまみ、少し首を傾げた。

「瀬里奈さんが選んでくださったんです。お姉様の青いドレスに、いちばん映えるようにって」

 合う、という言葉が、妙に引っかかった。

 私のドレスは淡い青だ。亡くなった母が好きだった色に近い。今日だけは、どうしてもその色にしたかった。

 莉々花の白は、その青を隣に置いて薄めるための白に見えた。

「澪」

 父の声がした。

 白鳥清隆。私の父であり、今日の主催者でもある人が、会場の入口近くで腕時計を見ていた。表情はいつも通り硬い。忙しい時の父は、娘の顔ではなく時間を見る。

「挨拶回りは済ませたのか。顔に出すな」

「はい。東都商事の高坂専務には、先ほどご挨拶しました」

 そう答える声だけは、仕事の時のものになっていた。

 私は白鳥家関連会社の事業管理室に席を置いている。財務資料、契約書、帳簿、提携先との確認書類。白鳥家と有馬家の提携資料も、私の机を通ってきた。

 表に立つのは父や悠真で、私はいつも紙の後ろ側にいた。

 数字を合わせ、契約条件の穴を拾い、誰かが見栄えよく話せるように資料を整える。

 白鳥家では、それを娘の務めと呼ばれた。けれど私にとっては、ちゃんと仕事だった。

 父は私を「よく気がつく娘」と呼ぶ。便利な言葉だと思う。成果になれば父の手柄で、失敗すれば私の確認不足。会議で私の作った資料が褒められても、父は「うちの者にやらせました」とだけ言った。名前を出されたことは、ほとんどない。

 悠真だけは、違うと思っていた。契約書の朱入れを見て、「澪がいてくれて助かる」と笑った。白鳥家と有馬家の提携を、私たちは二人で支えているのだと、愚かにも信じていた。

「ならいい。余計なことを顔に出すな。白鳥家の娘なら、まず家の体面を考えろ」

 余計なことを、顔に出すな。

 今日、何の席に立たされているのかさえ分からなくなった場所で、どんな顔をすれば正解なのか、誰か一覧にしてくれないだろうか。できれば席次表よりも分かりやすく。

 悠真は少し離れた場所にいた。

 濃紺のスーツ。整えられた髪。私が選んだ銀のタイピン。打ち合わせの時、彼はそれを見て「澪の選ぶものは外さないね」と笑っていた。

 そのタイピンに、莉々花の白い指が触れている。

 莉々花は私が選んだものをよく欲しがった。髪留め、万年筆、母の部屋にあった青いガラスの小皿。最初は偶然だと思っていた。けれど彼女はいつも、私が少し大事にし始めたころに欲しがる。欲しい、と言うのではなく、「いいな」と濡れた目で見る。すると父が、姉なら譲れと言う。

 今、彼女の指は、悠真ではなくタイピンに触れていた。私が選んだものだと知っているから。そう思った瞬間、胃の奥が冷たく沈んだ。

 悠真は、私を見なかった。

 見ないようにしている、のではない。もう見なくていいものとして、視界から外している。

 爪の先が、席次表の紙を軽く押した。角の浮きが指の腹に当たる。

「お姉様、手、震えてます。そんなに怖い顔をなさらないで」

 莉々花が小さく言った。

 心配そうな声だった。けれど、彼女の視線は私の手ではなく、左手の薬指にあった。

 母の指輪。

 婚約指輪とは別に、今日だけはめてきたもの。母が亡くなる前、私の手を両手で包んで渡してくれた細いプラチナの輪だ。

「……大丈夫。そう言わないと、立っていられないから」

「本当に? 無理しないで。みんな見ていますよ」

「見られて困ることは、していませんから」

 大丈夫かどうかを、今この場で莉々花に判定されたくはなかった。

 司会者がマイクの前に立つ。会場の音が、薄い布を一枚かぶせられたみたいに遠くなった。

 悠真が莉々花の腰に手を添える。

 父はそれを止めない。

 瀬里奈さんは、涙ぐむ準備をするみたいにハンカチを指先で畳んでいた。

 司会者が息を吸った。その口が開く前に、胸の底が冷えた。

 嫌な予感は、ずっとあった。

 莉々花の白いドレス。悠真が私を見ないこと。父が席次表を確かめようともしないこと。どれも、見ないふりをすればまだ間に合うと思いたかっただけだ。

 でも、予感は予感のままでは終わらなかった。

 マイクの前で、司会者の口が開く。

「有馬悠真様、白鳥莉々花様」

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Hatano Keiko
Hatano Keiko
よくあるクズ家族とクズ婚約者です。 でも物語の初めにすぐにスパダリが現れて ヒロインを助けるので、イライラは少ないです。話数が少ないので、まだまだクズ達のやりたい放題ですが、ヒロインの強さで小気味いいですよ。
2026-08-08 22:18:39
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第1話 席次表にない婚約者の隣
 私の婚約者の隣に、妹の名前があった。  白鳥家と有馬家の婚約披露宴。  その席次表の中央に印字されていたのは、有馬悠真様。そして、その隣には、私ではなく――白鳥莉々花様。  一瞬、息の仕方を忘れた。  昨日まで、父から渡された進行表にも、招待状にも、私と悠真の名前が並んでいた。  その進行表を最後に直したのは、私だ。来賓の肩書き、祝辞の順番、有馬家側の役員席、父が気にしていた取引先の席の距離。夜中まで何度も確認して、悠真から届いた「澪に任せておけば安心だね」という短いメッセージに、少しだけ救われた気になっていた。  安心だと言った人は、私が整えた舞台の真ん中で、別の女の隣に立とうとしている。しかも、その別の女は妹だった。血のつながりは半分もない。けれど、白鳥家ではいつも、莉々花の涙の方が私の努力より重かった。  白鳥澪と有馬悠真。  少なくとも、私に渡された紙の上では、私は今日、婚約者としてこの会場に立つはずだった。  なのに、今、私の名前は二つ隣に押しやられている。  誰かが慌てて空けた余白みたいな席に。  祝福されるはずだった女が、最初から邪魔者として置かれていた。 「お姉様、どうかなさいました? お顔が少し、怖いです」  後ろから、甘い声が落ちてきた。  振り返る前に、香水の匂いで莉々花だと分かった。砂糖を焦がしたような甘さ。昔から、彼女が泣く前にはこの匂いがした。  莉々花は白いドレスを着ていた。  招待客の娘が着るには白すぎる。胸元のレースも、腰のリボンも、まるで花嫁の予行練習みたいだった。 「……そのドレス、ずいぶん白いのね」  からからに乾いた口から出た声は、聞きたかったことからはだいぶ離れていた。どうして、とも、何をしているの、とも言えないまま、私は白いレースだけを見ていた。  莉々花は袖口をつまみ、少し首を傾げた。 「瀬里奈さんが選んでくださったんです。お姉様の青いドレスに、いちばん映えるようにって」  合う、という言葉が、妙に引っかかった。  私のドレスは淡い青だ。亡くなった母が好きだった色に近い。今日だけは、どうしてもその色にしたかった。  莉々花の白は、その青を隣に置いて薄めるための白に見えた。 「澪」  父の声がした。  白鳥清隆。私の父であり、今日の主催者でもある人が、会場の入口近くで
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第2話 母の指輪に触れるな
 その二つの名前が、天井の高いバンケットルームに広がった。席次表は、ただの印刷ミスではなくなった。  拍手が起きるまで、短い間があった。  誰かが咳払いをした。グラスの底がテーブルに触れる小さな音。隣の席の夫人が、確認するように席次表へ目を落とす。  私は、左手を動かせなかった。  薬指にはめた母の指輪が、照明を受けて細く光っている。今日のために磨いたわけではない。布で少し拭いただけだ。それでも、母の指輪はいつも妙にまっすぐだった。 「本日、白鳥家と有馬家は、新たに――」  司会者の声が続く。  新たに。  便利な言葉だと思った。古い約束を床に落としても、新しいリボンを結べば祝福に見える。  悠真が壇上へ進んだ。莉々花の手を取って。  私が歩くものだと聞かされていた赤い絨毯の上を、白いドレスの裾が滑る。莉々花は一度だけこちらを見た。目元は潤んでいるのに、唇の端だけが上がっていた。 「澪」  父が低く呼んだ。  声に促されて、足を動かした。壇上に近づくたび、招待客の視線が肌に貼りつく。頬の温度だけが上がり、指先は冷えていった。  悠真はマイクを持った。 「突然の発表になり、驚かせてしまったかと思います。ですが、これが両家にとって最善だと判断しました」  驚かせてしまった。  そう言えば、裏切ったことにはならないのだろうか。 「ですが、家同士の将来を考えた結果、僕は莉々花さんを選ぶべきだと――」  莉々花さん。  私を呼ぶ時の悠真は、いつも澪だった。仕事の話をする時だけ、白鳥さんになる。今、彼の声は丁寧すぎて、どこにも私の知っている温度がない。 「お姉様」  莉々花がマイクを持たずに私へ近づいてきた。泣きそうな顔で、それでも涙は落とさない。涙を落とす場所を探しているように見えた。 「ごめんなさい。でも、私……悠真さんを好きになってしまったんです。止められなかったの」  途中で声を切る。  会場の何人かが、気の毒そうに莉々花を見た。  私ではなく。 「澪」  父が壇上の下から言った。 「白鳥家のためだ。姉なら譲れ。ここで家の恥をさらすな」  会場の前列で、瀬里奈さんが目を伏せた。止めるためではない。これから始まる茶番を、より痛ましく見せるための角度だった。継母はいつもそうだ。大きな声では命じない。父が怒り、莉々花
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第3話 妹が見ていた男
 会場の視線が、扉へ流れた。  黒いスーツの男が立っていた。  背が高い、というだけなら他にもいる。財界のパーティーには、見栄えのする人間はいくらでも集まる。けれど、その人は入ってきただけで、場の温度を一段下げた。  鷹宮征臣。  誰かが小さく名前を口にした。  鷹宮ホールディングスの副社長。二十八歳。冷たい、容赦がない、取引で笑わない。噂だけなら何度も聞いたことがある。  本人を間近で見るのは、初めてだった。  征臣は会場のざわめきを気にする様子もなく、まっすぐこちらへ歩いてくる。磨かれた靴音が、赤い絨毯の上で妙に乾いて聞こえた。  莉々花の指が、私の手前で止まっている。  さっきまで泣きそうに震えていたその指は、今は別の理由で震えていた。 「鷹宮様……来てくださったんですね」  莉々花の声は、私が聞いたことのないほど細かった。  甘える時の声ではない。泣いて許されようとする声でもない。ずっと欲しかったものを、急に目の前に置かれた子どもの声だ。  悠真の腕を掴んだまま、莉々花は征臣だけを見ている。  その目は、婚約者を見る目ではなかった。壇上で祝福される女の目でもない。もっと露骨で、もっと飢えていた。昔、莉々花がショーケースの前で限定品の人形を見ていた時と同じ目。欲しい。どうしても欲しい。自分のものにならないなら、誰かの手から落としてでも欲しい。  悠真の横顔が硬くなる。彼もようやく気づいたのだろう。莉々花が自分を選んだのではなく、自分を踏み台にして別の誰かへ届こうとしていることに。  悠真が、その視線に気づいた。  彼の顔から、婚約者らしい柔らかさが少しずつ消えていく。  今さら何を傷ついているのだろう、と思った。けれど、そんな感想が浮かぶくらいには、まだ私は冷静らしい。  征臣は壇上に上がらなかった。  赤い絨毯の途中で足を止め、まず私の左手を見た。母の指輪。その次に、莉々花の伸ばしかけた指。  最後に、悠真へ視線を移す。 「有馬さん」 「鷹宮副社長。これは、白鳥家と有馬家の内々のことで――」 「その説明は求めていない」  短い一言で、悠真の声が止まった。  父が硬い顔で近づいてくる。 「鷹宮君、突然どういうつもりだ。今日は白鳥家の大切な――」 「白鳥家の大切な席で、白鳥澪さんの顔を人前で潰しているように
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第4話 君が選べ
 片膝をついた男を見下ろす経験など、一生ないと思っていた。  しかも、その男が鷹宮征臣なら、なおさらだ。  会場のざわめきは遠い。すぐ近くにあるのは、征臣の黒い髪と、私の左手に残る母の指輪の冷たさだけだった。  征臣はポケットから薄い封筒を取り出した。  白い封筒。封はされていない。中から出てきた書類の端に、鷹宮ホールディングスの名が小さく印字されている。  契約書、という文字が見えた。  膝をつく姿と契約書という文字が、どうしても同じ画面に収まらない。頭の奥が一拍遅れて、これは夢ではないのだと理解した。  膝をついていても、この人は御曹司ではなく企業人なのだ。プロポーズに花束ではなく契約書を出すあたり、噂よりだいぶ実務的というか、少しずれている。  笑える状況ではないのに、詰めていた息がかすかに漏れた。あまりにも場違いで、だからこそ現実に引き戻された。 「白鳥澪さん。君に提案がある」  征臣は、書類を両手で差し出した。  差し出し方は丁寧だった。けれど声は甘くない。低く、短く、逃げ道をふさぐような響きがある。 「俺と婚約してほしい」  莉々花が小さく声を漏らした。  悠真が彼女を見る。彼女は気づかない。  父の顔色が変わった。 「鷹宮君、悪い冗談はやめたまえ」 「冗談で、鷹宮の契約書を作らせるほど暇ではない」 「白鳥家には順序というものがある。勝手に割り込むな」 「その順序で、白鳥澪さんを押しのけた。見過ごす理由にはならない」  押しのけた。そんなはっきりした言葉を、誰かが私の代わりに口にしたことはなかった。白鳥家では、それにも別の名前がつく。調整。配慮。家族のため。角が立たないように。けれど征臣は、きれいな布をかぶせなかった。  父の頬がかすかに引きつる。彼は、私が傷ついたことではなく、傷つけた側として見られることを恐れていた。  父が言葉に詰まる。  それだけでは終わらなかった。  征臣は膝をついたまま、少し視線を父へ向けた。 「ここで起きたことは、鷹宮側でも残す。消したり、差し替えたりはしないでもらう」  父の眉が動いた。 「すべて?」 「席次表。司会進行表。招待客名簿。先ほどの発言。母君の形見に手を伸ばした場面。すべて含めてだ」  莉々花の指が、反射のように自分の胸元へ戻った。  さっきまで母の指
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第5話 壊された母の部屋
 契約書には署名しなかった。  少なくとも、あの場では。  会場を出る時、背中にいくつもの視線が刺さった。気の毒そうなもの、好奇心に濡れたもの、計算しているもの。どれも似たような重さで、ドレスの背中に貼りついてくる。  征臣は隣を歩いていた。  私の腕を取らない。肩にも触れない。ただ、父が近づこうとすると一歩だけ前に出る。その距離の取り方が、かえって落ち着かなかった。 「白鳥邸へ戻ります。母の部屋だけは、今夜中に見ておきます」  ホテルのエントランスで言うと、征臣がこちらを見た。 「今からか」 「母の部屋を、見ておきたいんです」 「一人で行くつもりか」 「一人で行けと言われ続けてきましたから。慣れています」  少し皮肉が混ざった。  征臣の口元は動かなかった。ただ、カフスに触れた指が止まる。 「車は出す。契約とは別だ」 「まだ契約には署名していません。借りを増やしたくないだけです」 「借りにしなくていい。同行が嫌なら、車だけ使え。このまま一人で帰らせるつもりはない」  父は怒っていた。  ホテルの裏口に用意された車までの短い廊下で、「白鳥家の顔に泥を塗った」と三回言った。数えてしまうあたり、自分でも嫌になる。  瀬里奈さんは父の少し後ろを歩いていた。莉々花はそのさらに後ろで、悠真の袖を掴んだまま俯いている。誰も、私へ謝らなかった。謝るどころか、まるで私が披露宴を壊した加害者であるかのように、足音だけが冷たく響く。 「澪さん、今ならまだ間に合うわ。あなたが一言、取り乱しましたと言えば済むの」  瀬里奈さんが柔らかく言った。 「皆さんの前で少し取り乱しました、と言ってくれればいいの。莉々花も傷ついているのよ。あなたが意地を張るほど、あの子が可哀想になるわ。ね、澪さん」  可哀想。便利な盾だった。莉々花はいつもその後ろから、私のものへ手を伸ばした。 「荷物をまとめて出ていくなら勝手にしろ。ただし、白鳥家のものは一つも持ち出すな。お前の感傷まで家の財産にするな」  父の声は乾いていた。  白鳥家のもの。  母の部屋まで、その中に入るのだろうか。  車窓に流れる街の明かりを見ながら、左手を握った。指輪の丸い感触だけが、手の中に残る。  白鳥邸に着いた時、玄関の照明は明るすぎるほど明るかった。  玄関脇には、莉々花のため
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第6話 銀鈴の少年
 火のついた紙は、思ったより静かに燃えていた。  私は暖炉の前へ膝をつき、帳簿の背を掴んだ。熱が指に噛みつく。 「っ……」 「澪さん」  征臣の声に初めて焦りが混じった。彼は私の腕を引く代わりに、火かき棒で帳簿を掻き出す。床へ落ちた火をコートで叩き消した。  焦げた紙と灰が舞う。 「手を見せて」 「帳簿を先に」 「帳簿はもう燃えていない。先に手を冷やそう」  低い声に押され、右手を差し出した。指の付け根が赤くなっている。  征臣はハンカチを水で濡らし、触れる前に一度止まった。 「少し冷たいが、これを巻いておこう」  私は頷いた。  冷たい布が熱を奪う。痛みより、帳簿の焦げた角から目を離せなかった。  数ページは黒く崩れたが、中央の大部分は残っている。寄付先、送金額、日付。母の細い字が、煙の向こうから浮かび上がった。ところどころ赤い線が引かれ、余白には小さな鈴の印がある。 「母は、何かを調べていたんだと思います」 「俺もそう見ている」 「知っていたんですか」  返事はなかった。その沈黙の向こうに、会場で差し出された契約書の理由がぼんやり見えた。  火傷した指が脈打つたび、怒りが遅れて込み上げた。母が何年も書き残したものは、誰かにとって数分で燃やしていい紙でしかなかった。 「誰かが、今夜処分するつもりだった」 「披露宴で家が空く時間を知っていた人間だろう」  瀬里奈さんの字が浮かんだ。けれど、今は断定できない。  征臣が窓を開けると、夜気が煙を外へ押し出した。私は灰のついたページを一枚ずつ確かめる。数字は途中で途切れ、寄付先の欄だけが何度も書き直されていた。母が何を守ろうとしたのか、紙の傷からでも分かる気がした。  帳簿を開くと、焦げたページの間から小さな銀色が転がった。  鈴だった。  すすを拭うと、側面に小さな鳥の刻印が現れる。  鈴を持ち上げると、かすかな音がした。幼い日の温室で、雨音に混じって聞いたものと同じだった。少年は怪我をしていて、私は大人を呼びに走った。名前を聞く前に離れ、それきりになった。母の刺繍図案にも、同じ形の鳥があった。飾りではなく、何かを区別する印として何度も描かれていたものだ。  帳簿の余白に残る鈴の印と、目の前の銀鈴。偶然だと片づけるには、同じ形が重なりすぎている。  幼い頃、庭の温
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第7話 鷹宮家の鍵①
 鷹宮邸は、思っていたより静かな家だった。  静かすぎて、最初は落ち着かなかった。白鳥邸の静けさは、誰かが怒る前の沈黙だった。廊下の向こうで父が咳をすれば、使用人の足音が変わる。莉々花が部屋にこもれば、瀬里奈さんのため息が食卓に落ちる。あの家では、静けささえ誰かの味方をしていた。  鷹宮邸では、私が歩いても誰も廊下の角から様子を見に来なかった。自分の靴音だけが大きくて、何度か歩幅を小さくした。  都心から少し離れた高台にある。門は大きい。建物も大きい。けれど、白鳥邸のように人の気配で満ちてはいなかった。  白鳥邸はいつも、誰かの機嫌を読ませる家だった。  廊下の花瓶の向き、食卓の椅子の位置、瀬里奈さんのハンカチの色。すべてが、今日は何を譲るべきかを知らせてくる。  鷹宮邸の玄関には、そういう圧がなかった。  ただ、磨かれた床が冷たく、靴音だけが高い天井へ返った。 「客室は用意してある。鍵は君が持つ。朝食の時間も、合わなければずらせる」  征臣は歩きながら言った。  手当てを終えた私の右手には、薄い包帯が巻かれている。冷却ジェルの匂いがまだ残っていた。 「……ありがとうございます。まだ、少し変な感じですけど」 「慣れないだろうな。今夜はゆっくり休んでくれ」 「助かりました」  征臣は足を止め、こちらを見た。 「そうか。それならよかった」  それだけ言うと、また歩き出した。  何を考えているのかは、まだよく分からない。それでも、ほっとしたような返事だった。 「……白鳥家では、そういう時に条件がつきました」  口にしてから、少し言いすぎたと思った。けれど征臣は眉をひそめただけだった。  彼は廊下の途中で足を止め、私の歩幅が追いつくまで待った。 「急がなくていい」  私は、彼が残したわずかな距離を見た。  触れずに待ってくれたことの方が、言葉より先に胸へ届いた。 「では、なぜ契約を」 「君を白鳥家の所有物として扱わせないためだ」  所有物。その言葉は、思ったよりまっすぐ胸に届いた。父の声で聞けば腹が立つ言葉なのに、征臣の口から出ると、ようやく名前をつけられた傷のように聞こえた。 「ずいぶん不器用な説明ですね」  征臣は少し眉を寄せた。 「痛みが強くなったら、言ってくれ」 「話をそらしましたね」 「……今は、それ以
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第8話 鷹宮家の鍵②
「ドレスと靴は手配できる。急がないなら、明日、落ち着く色だけ教えてくれ」 「今は、大丈夫です。服より、温かいものがいいです。たぶん」  口が先に断っていた。  征臣の眉が少し動く。 「温かいもの?」 「机と、お茶をお願いします。甘くないものを」  征臣は執事へ目を向けた。 「机と、甘くない茶を」  少し間を置いて、征臣の視線が私へ戻る。 「紅茶は、あまり自信がない」 「それでも、お願いします」  抱えていた帳簿に目を落とす。  焦げた表紙。母の字。青い封筒。  これが燃えかけた夜に、絹のドレスを選ぶ気にはなれなかった。  征臣は黙った。すぐに服の話へ戻さないその沈黙だけで、今は少し呼吸ができた。  そして、上着の内ポケットから小さな鍵を取り出した。  銀色の古い鍵だった。 「帳簿室の鍵だ」 「帳簿室?」 「鷹宮家の古い資料がある。白鳥家や有馬家のものも、いくつか混じっている」  征臣は、包帯を避けて私の左手へ鍵を置いた。  重い。  ドレスや宝石より、ずっと重い。 「どうして、私に?」 「捨てられた席次表を見て、差し替えに気づいた。契約書の署名欄も見た」 「……そこまで?」 「君が、ずっと何かを確かめていたからな」  声が出なかった。  あの会場で、私を見ていた人はたくさんいた。父も、悠真も、莉々花も、招待客も。けれど、誰も私が何を見ていたのかまでは見ていなかった。  席次表の隅。  契約書の署名欄。  悠真のタイピン。  莉々花の指。  父の視線。  私はずっと、泣き崩れる代わりに、それらを拾っていた。  泣きそうになるたび、近くの誰かの顔が先に目に入った。ここで泣けば父は困った顔をし、莉々花はもっと泣く。そう考えると、涙の方が引っ込んだ。 「……それだけで、私をここへ連れてきたんですか」 「それだけではない」  征臣は答えたあと、わずかに目を伏せた。  言い切ってから、言葉を選び直しているようだった。 「でも、理由の一つではある」 「理由の一つ」  繰り返すと、鍵の冷たさが掌へ深く沈んだ。  一つ。  つまり、まだ他にもある。  聞いていいのか迷った。今の私には、答えを受け取るだけの余裕があるのかも分からない。 「あの場でも、君は席次表を見ていた」 「……ほかに、見るも
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第9話 鷹宮家の鍵③
 白鳥家では、私の仕事はいつも誰かの成果の下に隠された。父の判断、有馬家との提携、莉々花の華やかな席。その裏で、数字を合わせた手だけが私のものだった。  だから、真正面から仕事と言われると、少し困る。  褒められた気がするのに、悔しくもあった。  征臣は窓の外へ視線を逃がした。  迷った時の癖なのかもしれない。彼にも、迷う瞬間があるのだと、意外だった。 「だが、君が読めるものを、読めないふりにさせる気もない」  鍵の冷たさが、左手のひらに沈む。  美しいと言われるより、守ると言われるより、その言葉の方が困った。  困ったのに、指を閉じた。 「……全部は、まだ言わないんですね」  口にしてから、自分でも驚いた。  征臣は私を見た。 「今話したら、君はたぶん、その事情まで含めて俺を見る。……今は、それをしたくない」 「私が、それで判断するのが?」  征臣はカフスに触れ、少し間を置いた。 「……困る。俺の事情で決めてほしくない」  私は鍵を握ったまま、小さく息を吐いた。 「……では、見ます。自分で」  征臣は小さく頷いた。 「ただ……私より先に、答えまで決めないでください」  征臣はすぐには答えず、握った鍵へ視線を落とした。 「危ないと思ったら止める。……その前に言う」 「そのあとで、私にも考えさせてください」  征臣は一度だけ頷いた。  それで安心できるほど、まだ彼を知らない。私は鍵を返さず、掌の中で向きを変えた。  信じるには早すぎる。  けれど、疑うだけで受け取らないには、手の中の鍵が重すぎた。  ノックの音がした。  年配の執事が扉の外で頭を下げる。 「征臣様。白鳥家より、至急の書面が届いております」  差し出された封筒には、白鳥家の家紋が押されていた。  表には、硬い文字でこう書かれている。  封筒の角は強く折れていた。白鳥家の封蝋はない。急いだのか、途中で握り潰したのかは分からない。私は折れ目を指で伸ばしかけ、やめた。  執事は目を伏せたまま、封筒を差し出している。鷹宮家の人間ですら、この文面が失礼だと分かっている。その事実に、わずかに救われ、同じだけ惨めになった。  母の遺産を盗んだ娘を返せ。  通知書を読み直す。盗んだ、娘、返せ。言葉を追うほど、父の声と瀬里奈さんの声が重なって聞こえた。
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第10話 契約婚約の条件①
 征臣は封筒を、私の前へ静かに置いた。  私はそれを受け取った。封筒は指先に頼りないほど薄かった。  封を切る音が、客室の中で妙に大きく聞こえた。  中身は一枚の通知書だった。母の遺品、帳簿、指輪、その他白鳥家に属する財産を不当に持ち出したため、速やかに返還を求める。そんな内容が、丁寧な言葉で並んでいる。  丁寧な文章の下に、もう一枚、手書きのメモが挟まっていた。父の字ではない。丸みのある、柔らかく見せるために整えた字。  お姉様が意地を張ると、皆が困ります。莉々花は怒っていません。戻ってきてください。  皆の前で、ちゃんと謝ってください。  私が、何を。  メモの端には、薄い香水の匂いが残っていた。砂糖を焦がしたような甘さ。紙にまで自分の匂いをつけるところが、莉々花らしかった。  読み終えても、紙を伏せる気になれなかった。  最後に父の署名があった。  白鳥清隆。  署名の癖は昔と同じだ。鳥の字の最後の払いだけが少し長い。母が「見栄っ張りの払いね」と笑っていたことを思い出す。  便箋を机に置いた。 「鷹宮さん」 「征臣と呼んでくれ。……君には、そう呼ばれたい」  さらりと言われて、唇だけが先に動きかけた。返す言葉は喉の手前で止まり、代わりに頬の内側だけが熱くなった。  この状況で呼び方の指定を入れてくるあたり、やっぱり少しずれている。けれど、不思議と嫌ではなかった。 「……征臣さん」  名前にさんをつけるだけで、会話の距離が測れなくなる。 「契約の話をしてもいいですか」 「先に聞かせてくれ。譲りたくないものは何だ」  そう聞かれて、息が止まった。条件を聞かれると思っていた。けれど、譲らないものを聞かれるとは思わなかった。 「母の遺品は、私の手元に置きます」  言い切ってから、私は膝の上の帳簿に指を添えた。包帯の端が紙の角に触れる。左手の指輪はまだそこにあり、冷たい輪郭だけがやけにはっきりしていた。  征臣は頷きかけたが、私の手元へ伸ばしかけた手を引き、封筒の横へ置いた。  そのわずかな間に、私は息を吐いた。 「……今、少し、疑うつもりでした」 「……そう思わせたか」  征臣は目を伏せた。さっきまで私の手元に寄っていた書類を、机の端へ戻す。 「悪い。急ぎすぎた」  彼はそれ以上、言葉を重ねなかった。ただ、
last updateLast Updated : 2026-07-03
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