婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた

婚約者を奪った妹が泣き崩れた夜、御曹司は私に跪いた

last updateDernière mise à jour : 2026-07-26
Par:  花柳響Mis à jour à l'instant
Langue: Japanese
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「誰かに決められるのは、もう終わりです。今度は、私があなたを選びます」 私の婚約披露宴だったはずなのに、婚約者の隣にあったのは妹・莉々花の名前だった。父も継母も婚約者も、私に「姉なら譲れ」と迫り、母の形見の指輪まで奪おうとする。 そのとき現れたのは、冷徹と恐れられる御曹司・鷹宮征臣。彼は大勢の前で私に跪き、愛の言葉ではなく一通の契約書を差し出した。 「俺と婚約してほしい」 利害から始まったはずの関係。けれど彼だけは、私の代わりに答えを決めず、「君が選べ」と待ってくれた。 奪われた名前、母の遺した秘密、家族が隠してきた嘘。 これは、すべてを譲ってきた私が、自分の未来と愛を選び直す物語。

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58
第1話 席次表にない婚約者の隣
 私の婚約者の隣に、妹の名前があった。  白鳥家と有馬家の婚約披露宴。  その席次表の中央に印字されていたのは、有馬悠真様。そして、その隣には、私ではなく――白鳥莉々花様。  一瞬、息の仕方を忘れた。  昨日まで、父から渡された進行表にも、招待状にも、私と悠真の名前が並んでいた。  その進行表を最後に直したのは、私だ。来賓の肩書き、祝辞の順番、有馬家側の役員席、父が気にしていた取引先の席の距離。夜中まで何度も確認して、悠真から届いた「澪に任せておけば安心だね」という短いメッセージに、少しだけ救われた気になっていた。  安心だと言った人は、私が整えた舞台の真ん中で、別の女の隣に立とうとしている。しかも、その別の女は妹だった。血のつながりは半分もない。けれど、白鳥家ではいつも、莉々花の涙の方が私の努力より重かった。  白鳥澪と有馬悠真。  少なくとも、私に渡された紙の上では、私は今日、婚約者としてこの会場に立つはずだった。  なのに、今、私の名前は二つ隣に押しやられている。  誰かが慌てて空けた余白みたいな席に。  祝福されるはずだった女が、最初から邪魔者として置かれていた。 「お姉様、どうかなさいました? お顔が少し、怖いです」  後ろから、甘い声が落ちてきた。  振り返る前に、香水の匂いで莉々花だと分かった。砂糖を焦がしたような甘さ。昔から、彼女が泣く前にはこの匂いがした。  莉々花は白いドレスを着ていた。  招待客の娘が着るには白すぎる。胸元のレースも、腰のリボンも、まるで花嫁の予行練習みたいだった。 「……そのドレス、ずいぶん白いのね」  からからに乾いた口から出た声は、聞きたかったことからはだいぶ離れていた。どうして、とも、何をしているの、とも言えないまま、私は白いレースだけを見ていた。  莉々花は袖口をつまみ、少し首を傾げた。 「瀬里奈さんが選んでくださったんです。お姉様の青いドレスに、いちばん映えるようにって」  合う、という言葉が、妙に引っかかった。  私のドレスは淡い青だ。亡くなった母が好きだった色に近い。今日だけは、どうしてもその色にしたかった。  莉々花の白は、その青を隣に置いて薄めるための白に見えた。 「澪」  父の声がした。  白鳥清隆。私の父であり、今日の主催者でもある人が、会場の入口近くで
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第2話 母の指輪に触れるな
 その二つの名前が、天井の高いバンケットルームに広がった。席次表は、ただの印刷ミスではなくなった。  拍手が起きるまで、短い間があった。  誰かが咳払いをした。グラスの底がテーブルに触れる小さな音。隣の席の夫人が、確認するように席次表へ目を落とす。  私は、左手を動かせなかった。  薬指にはめた母の指輪が、照明を受けて細く光っている。今日のために磨いたわけではない。布で少し拭いただけだ。それでも、母の指輪はいつも妙にまっすぐだった。 「本日、白鳥家と有馬家は、新たに――」  司会者の声が続く。  新たに。  便利な言葉だと思った。古い約束を床に落としても、新しいリボンを結べば祝福に見える。  悠真が壇上へ進んだ。莉々花の手を取って。  私が歩くものだと聞かされていた赤い絨毯の上を、白いドレスの裾が滑る。莉々花は一度だけこちらを見た。目元は潤んでいるのに、唇の端だけが上がっていた。 「澪」  父が低く呼んだ。  声に促されて、足を動かした。壇上に近づくたび、招待客の視線が肌に貼りつく。頬の温度だけが上がり、指先は冷えていった。  悠真はマイクを持った。 「突然の発表になり、驚かせてしまったかと思います。ですが、これが両家にとって最善だと判断しました」  驚かせてしまった。  そう言えば、裏切ったことにはならないのだろうか。 「ですが、家同士の将来を考えた結果、僕は莉々花さんを選ぶべきだと――」  莉々花さん。  私を呼ぶ時の悠真は、いつも澪だった。仕事の話をする時だけ、白鳥さんになる。今、彼の声は丁寧すぎて、どこにも私の知っている温度がない。 「お姉様」  莉々花がマイクを持たずに私へ近づいてきた。泣きそうな顔で、それでも涙は落とさない。涙を落とす場所を探しているように見えた。 「ごめんなさい。でも、私……悠真さんを好きになってしまったんです。止められなかったの」  途中で声を切る。  会場の何人かが、気の毒そうに莉々花を見た。  私ではなく。 「澪」  父が壇上の下から言った。 「白鳥家のためだ。姉なら譲れ。ここで家の恥をさらすな」  会場の前列で、瀬里奈さんが目を伏せた。止めるためではない。これから始まる茶番を、より痛ましく見せるための角度だった。継母はいつもそうだ。大きな声では命じない。父が怒り、莉々花
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第3話 妹が見ていた男
 会場の視線が、扉へ流れた。  黒いスーツの男が立っていた。  背が高い、というだけなら他にもいる。財界のパーティーには、見栄えのする人間はいくらでも集まる。けれど、その人は入ってきただけで、場の温度を一段下げた。  鷹宮征臣。  誰かが小さく名前を口にした。  鷹宮ホールディングスの副社長。二十八歳。冷たい、容赦がない、取引で笑わない。噂だけなら何度も聞いたことがある。  本人を間近で見るのは、初めてだった。  征臣は会場のざわめきを気にする様子もなく、まっすぐこちらへ歩いてくる。磨かれた靴音が、赤い絨毯の上で妙に乾いて聞こえた。  莉々花の指が、私の手前で止まっている。  さっきまで泣きそうに震えていたその指は、今は別の理由で震えていた。 「鷹宮様……来てくださったんですね」  莉々花の声は、私が聞いたことのないほど細かった。  甘える時の声ではない。泣いて許されようとする声でもない。ずっと欲しかったものを、急に目の前に置かれた子どもの声だ。  悠真の腕を掴んだまま、莉々花は征臣だけを見ている。  その目は、婚約者を見る目ではなかった。壇上で祝福される女の目でもない。もっと露骨で、もっと飢えていた。昔、莉々花がショーケースの前で限定品の人形を見ていた時と同じ目。欲しい。どうしても欲しい。自分のものにならないなら、誰かの手から落としてでも欲しい。  悠真の横顔が硬くなる。彼もようやく気づいたのだろう。莉々花が自分を選んだのではなく、自分を踏み台にして別の誰かへ届こうとしていることに。  悠真が、その視線に気づいた。  彼の顔から、婚約者らしい柔らかさが少しずつ消えていく。  今さら何を傷ついているのだろう、と思った。けれど、そんな感想が浮かぶくらいには、まだ私は冷静らしい。  征臣は壇上に上がらなかった。  赤い絨毯の途中で足を止め、まず私の左手を見た。母の指輪。その次に、莉々花の伸ばしかけた指。  最後に、悠真へ視線を移す。 「有馬さん」 「鷹宮副社長。これは、白鳥家と有馬家の内々のことで――」 「その説明は求めていない」  短い一言で、悠真の声が止まった。  父が硬い顔で近づいてくる。 「鷹宮君、突然どういうつもりだ。今日は白鳥家の大切な――」 「白鳥家の大切な席で、白鳥澪さんの顔を人前で潰しているように
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第4話 君が選べ
 片膝をついた男を見下ろす経験など、一生ないと思っていた。  しかも、その男が鷹宮征臣なら、なおさらだ。  会場のざわめきは遠い。すぐ近くにあるのは、征臣の黒い髪と、私の左手に残る母の指輪の冷たさだけだった。  征臣はポケットから薄い封筒を取り出した。  白い封筒。封はされていない。中から出てきた書類の端に、鷹宮ホールディングスの名が小さく印字されている。  契約書、という文字が見えた。  膝をつく姿と契約書という文字が、どうしても同じ画面に収まらない。頭の奥が一拍遅れて、これは夢ではないのだと理解した。  膝をついていても、この人は御曹司ではなく企業人なのだ。プロポーズに花束ではなく契約書を出すあたり、噂よりだいぶ実務的というか、少しずれている。  笑える状況ではないのに、詰めていた息がかすかに漏れた。あまりにも場違いで、だからこそ現実に引き戻された。 「白鳥澪さん。君に提案がある」  征臣は、書類を両手で差し出した。  差し出し方は丁寧だった。けれど声は甘くない。低く、短く、逃げ道をふさぐような響きがある。 「俺と婚約してほしい」  莉々花が小さく声を漏らした。  悠真が彼女を見る。彼女は気づかない。  父の顔色が変わった。 「鷹宮君、悪い冗談はやめたまえ」 「冗談で、鷹宮の契約書を作らせるほど暇ではない」 「白鳥家には順序というものがある。勝手に割り込むな」 「その順序で、白鳥澪さんを押しのけた。見過ごす理由にはならない」  押しのけた。そんなはっきりした言葉を、誰かが私の代わりに口にしたことはなかった。白鳥家では、それにも別の名前がつく。調整。配慮。家族のため。角が立たないように。けれど征臣は、きれいな布をかぶせなかった。  父の頬がかすかに引きつる。彼は、私が傷ついたことではなく、傷つけた側として見られることを恐れていた。  父が言葉に詰まる。  それだけでは終わらなかった。  征臣は膝をついたまま、少し視線を父へ向けた。 「ここで起きたことは、鷹宮側でも残す。消したり、差し替えたりはしないでもらう」  父の眉が動いた。 「すべて?」 「席次表。司会進行表。招待客名簿。先ほどの発言。母君の形見に手を伸ばした場面。すべて含めてだ」  莉々花の指が、反射のように自分の胸元へ戻った。  さっきまで母の指
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第5話 壊された母の部屋
 契約書には署名しなかった。  少なくとも、あの場では。  会場を出る時、背中にいくつもの視線が刺さった。気の毒そうなもの、好奇心に濡れたもの、計算しているもの。どれも似たような重さで、ドレスの背中に貼りついてくる。  征臣は隣を歩いていた。  私の腕を取らない。肩にも触れない。ただ、父が近づこうとすると一歩だけ前に出る。その距離の取り方が、かえって落ち着かなかった。 「白鳥邸へ戻ります。母の部屋だけは、今夜中に見ておきます」  ホテルのエントランスで言うと、征臣がこちらを見た。 「今からか」 「母の部屋を、見ておきたいんです」 「一人で行くつもりか」 「一人で行けと言われ続けてきましたから。慣れています」  少し皮肉が混ざった。  征臣の口元は動かなかった。ただ、カフスに触れた指が止まる。 「車は出す。契約とは別だ」 「まだ契約には署名していません。借りを増やしたくないだけです」 「借りにしなくていい。同行が嫌なら、車だけ使え。このまま一人で帰らせるつもりはない」  父は怒っていた。  ホテルの裏口に用意された車までの短い廊下で、「白鳥家の顔に泥を塗った」と三回言った。数えてしまうあたり、自分でも嫌になる。  瀬里奈さんは父の少し後ろを歩いていた。莉々花はそのさらに後ろで、悠真の袖を掴んだまま俯いている。誰も、私へ謝らなかった。謝るどころか、まるで私が披露宴を壊した加害者であるかのように、足音だけが冷たく響く。 「澪さん、今ならまだ間に合うわ。あなたが一言、取り乱しましたと言えば済むの」  瀬里奈さんが柔らかく言った。 「皆さんの前で少し取り乱しました、と言ってくれればいいの。莉々花も傷ついているのよ。あなたが意地を張るほど、あの子が可哀想になるわ。ね、澪さん」  可哀想。便利な盾だった。莉々花はいつもその後ろから、私のものへ手を伸ばした。 「荷物をまとめて出ていくなら勝手にしろ。ただし、白鳥家のものは一つも持ち出すな。お前の感傷まで家の財産にするな」  父の声は乾いていた。  白鳥家のもの。  母の部屋まで、その中に入るのだろうか。  車窓に流れる街の明かりを見ながら、左手を握った。指輪の丸い感触だけが、手の中に残る。  白鳥邸に着いた時、玄関の照明は明るすぎるほど明るかった。  玄関脇には、莉々花のため
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第6話 銀鈴の少年
 火のついた紙は、思ったより静かに燃える。  叫び声をあげるわけでも、助けを求めるわけでもない。ただ端から黒くなり、赤い筋を内側へ進ませていく。  母の帳簿も、同じだった。  暖炉の前に膝をついた時、ドレスの裾が床の埃を払った。青い布に灰がつく。あとで落ちるだろうか。そんなことを考えている自分が、少しずれている。  手を伸ばした。 「澪さん」  背後で征臣の声がした。  低い声なのに、初めて焦りが混じっていた。  止められるより早く、帳簿の背を掴む。熱が指先に噛みついた。 「っ」  声を飲み込む。  痛い。かなり痛い。けれど離したら、母の字が燃える。  帳簿を引き抜くと、黒い灰が散った。表紙の端は焦げ、数ページが波打っている。中身は、まだ読める。  征臣が私の手首を取った。  強くはない。逃げられるだけの隙がある握り方だった。 「手を見せてくれ」  その言い方に、体が少しこわばった。 「……頼む。火傷の具合を見たい」  手首を掴む力は、さっきより少しだけ緩んでいた。逃げようと思えば逃げられる。その隙があるせいで、かえって動けなかった。 「先に、これを安全な場所へ置かせて。お願いします」 「本音を言えば、手当てが先だ」 「忠告なら受け止めます。けれど、先に帳簿を置かせてください」 「燃えたら、戻らないからか」 「私の手は治ります。でも、母の字は戻りません」  征臣が言葉を切った。  目が合う。  怒っているのではない。たぶん、何かを言いたいのに、順番を間違えないようにしている顔だった。  私は帳簿を胸に抱えた。 「母が残したものです」  口にしてから、腕の中の帳簿が急に重くなった。机の跡、床に伏せられた肖像画、焦げた紙の匂い。ひとつずつ消されていくたび、母がこの部屋にいた時間まで薄くされていく。白いベッドカバーの中に、母の名前まで塗り込められるのは、もう嫌だった。  征臣の手の力が、ふっと抜ける。 「車に救急箱がある。君が手を差し出すまで、触れない」 「……少し、意地の悪い言い方でしたね」 「その帳簿も持っていく。君の手から奪うわけじゃない」 「私の手で持っていきます」  廊下に出ると、使用人たちは壁際に避けた。誰も止めない。止めるには、帳簿の焦げた匂いがはっきりしすぎていた。  玄関で、父と瀬里
last updateDernière mise à jour : 2026-07-02
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第7話 鷹宮家の鍵①
 鷹宮邸は、思っていたより静かな家だった。  静かすぎて、最初は落ち着かなかった。白鳥邸では、父が廊下の向こうで咳をするだけで使用人の足音が変わる。莉々花が部屋にこもると、瀬里奈さんのため息が食卓に落ちる。静けさまで、誰の機嫌を読むべきか教えてきた。  鷹宮邸の玄関には、それがない。磨かれた床を踏む自分の足音だけが響く。ここにいていいのか、と耳元で囁くのは家ではなく、私の中に残った白鳥家の声だった。  都心から少し離れた高台にある。門は大きい。建物も大きい。けれど、白鳥邸のように人の気配で満ちてはいなかった。  白鳥邸はいつも、誰かの機嫌を読ませる家だった。  廊下の花瓶の向き、食卓の椅子の位置、瀬里奈さんのハンカチの色。すべてが、今日は何を譲るべきかを知らせてくる。  鷹宮邸の玄関には、そういう圧がなかった。  ただ、磨かれた床が少し冷たい。  それだけだった。 「客室は用意してある。鍵は君が持つ。朝食の時間も、合わなければずらせる」  征臣は歩きながら言った。  手当てを終えた私の右手には、薄い包帯が巻かれている。冷却ジェルの匂いがまだ残っていた。 「……ありがとうございます。まだ、少し変な感じですけど」 「礼は不要だ。君が無事なら、それでいい」 「じゃあ、ちゃんと言います。助かりました。……これなら受け取れますか」  征臣がこちらを見る。少し言葉を探している顔だった。仕事ではきっと、探す前に結論を出す人なのだろう。 「それも、少し困る。……嬉しくないわけじゃない」 「困る?」 「礼を言われるために連れてきたわけではない。だが、助かったと言われると、否定するのも違う」 「……白鳥家では、そういう時に条件がつきました」  口にしてから、少し言いすぎたと思った。けれど征臣は眉をひそめただけだった。  彼は廊下の途中で足を止めた。先を急がせるでもなく、私の歩幅が追いつくまで待つ。 「無理に隣へ引きずる気はない」  短い言葉だった。  けれど、そこで半歩だけ距離を置いたことの方が、言葉より先に胸に届いた。 「では、なぜ契約を」 「白鳥家に、君をあのまま連れ戻させないためだ」  所有物。その言葉は通知書より少し早く胸に届いた。父の声で聞けば腹が立つ言葉なのに、征臣の口から出ると、ようやく名前をつけられた傷のように聞こえ
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第8話 鷹宮家の鍵②
「ドレスと靴は手配できる。急がないなら、明日、落ち着く色だけ教えてくれ」 「今は、大丈夫です。服より、温かいものがいいです。たぶん」  思ったより早く断ってしまった。  征臣の眉が少し動く。 「温かいもの?」 「今、必要なのは服じゃありません。机と、お茶。できれば、甘くないものを」 「甘くないものなら、用意できる」 「そこは得意そうですね」 「紅茶より、書類の方が得意だ」 「今は紅茶でお願いします」  抱えていた帳簿に目を落とす。  焦げた表紙。母の字。青い封筒。  これが燃えかけた夜に、絹のドレスを選ぶ気にはなれなかった。  征臣は黙った。すぐに服の話へ戻さないその沈黙だけで、今は少し呼吸ができた。  そして、上着の内ポケットから小さな鍵を取り出した。  銀色の古い鍵だった。 「帳簿室の鍵だ」 「帳簿室?」 「鷹宮家の古い資料を保管している。白鳥家、有馬家、東都商事に関わるものも一部ある」  鍵は、私の包帯を避けるように左手の上へ置かれた。  重い。  ドレスや宝石より、ずっと重い。 「どうして、私に?」 「破棄された席次表で、差し替えに気づいた。契約書の署名欄から、有馬家の動きが予定より早まっていることも読んでいた」 「……そこまで見ていたんですか」 「見ていた。君が何を見て、何を飲み込んだのか」  声が出なかった。  あの会場で、私を見ていた人はたくさんいた。父も、悠真も、莉々花も、招待客も。けれど、誰も私が何を見ていたのかまでは見ていなかった。  席次表の隅。  契約書の署名欄。  悠真のタイピン。  莉々花の指。  父の視線。  私はずっと、泣き崩れる代わりに、それらを拾っていた。  泣いたら負けると思ったわけではない。ただ、泣いた瞬間に、また誰かの都合のいい物語にされる気がした。 「……それだけで、私をここへ連れてきたんですか」 「それだけではない」  征臣はすぐに答えた。  早すぎる答えだった。  けれど、雑ではなかった。 「でも、理由の一つではある」 「理由の一つ」  繰り返すと、鍵の冷たさが少しだけ強くなった。  一つ。  つまり、まだ他にもある。  聞いていいのか迷った。今の私には、答えを受け取るだけの余裕があるのかも分からない。 「君は、あの場で誰かを潰
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第9話 鷹宮家の鍵③
 白鳥家では、私の仕事はいつも誰かの成果の下に隠された。父の判断、有馬家との提携、莉々花の華やかな席。その裏で、数字を合わせた手だけが私のものだった。  だから、真正面から仕事と言われると、少し困る。  褒められた気がするのに、悔しくもあった。  征臣はカフスに触れた。  迷った時の癖なのかもしれない。彼にも、迷う瞬間があるのだと、少しだけ意外に思った。 「だが、君が読めるものを、読めないふりにさせる気もない」  鍵の冷たさが、左手のひらに沈む。  美しいと言われるより、守ると言われるより、その言葉の方が困った。  困ったのに、指を閉じた。 「……全部は、まだ言わないんですね」  口にしてから、自分でも驚いた。  征臣は私を見た。 「今言えば、君は俺を信じる理由にしてしまう」 「それは、困りますか」 「……困るな。俺の事情に引っぱられず、君自身が納得して決めてほしい」  また、ずるい言い方をする。  突き放しているようで、選ぶ場所だけは残してくる。  私は鍵を握ったまま、小さく息を吐いた。 「……では、見ます。自分で」  征臣は小さく頷いた。 「ただし、勝手に結論を渡さないでください」  征臣はすぐには答えなかった。私の包帯ではなく、握った鍵へ視線を落とす。 「危ないと思ったら、先に伝える」  そこで一度、言葉を切った。 「その時は、一緒に考えよう」  その言葉は、少しだけ胸の内側に残った。  信じるには早すぎる。  けれど、疑うだけで受け取らないには、手の中の鍵が重すぎた。  ノックの音がした。  年配の執事が扉の外で頭を下げる。 「征臣様。白鳥家より、至急の書面が届いております」  差し出された封筒には、白鳥家の家紋が押されていた。  表には、硬い文字でこう書かれている。  封筒の角は、わざと強く押さえられたように折れていた。白鳥家の封蝋はない。急いで出した書面というより、怒りを見せるために雑に扱われた紙だった。父は私の前で声を荒げたが、紙の上でも同じことをする人だったのだと知る。  執事は目を伏せたまま、封筒を差し出している。鷹宮家の人間ですら、この文面が失礼だと分かっている。その事実に、少しだけ救われ、同じだけ惨めになった。  母の遺産を盗んだ娘を返せ。  その一文だけで、父の苛立ちと莉
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第10話 契約婚約の条件①
 征臣は封筒を、私の前へ静かに置いた。  私はそれを受け取った。逃げるためではなく、逃げないために。  封を切る音が、客室の中で妙に大きく聞こえた。  中身は一枚の通知書だった。母の遺品、帳簿、指輪、その他白鳥家に属する財産を不当に持ち出したため、速やかに返還を求める。そんな内容が、丁寧な言葉で並んでいる。  丁寧な文章の下に、もう一枚、手書きのメモが挟まっていた。父の字ではない。丸みのある、柔らかく見せるために整えた字。  お姉様が意地を張ると、皆が困ります。莉々花は怒っていません。戻ってきて、ちゃんと謝ってください。  謝ってください。  私が、何を。  メモの端には、薄い香水の匂いが残っていた。砂糖を焦がしたような甘さ。紙にまで自分の匂いをつけるところが、莉々花らしかった。  丁寧な言葉ほど、時々よく切れる。  最後に父の署名があった。  白鳥清隆。  署名の癖は昔と同じだ。鳥の字の最後の払いだけが少し長い。母が「見栄っ張りの払いね」と笑っていたことを思い出す。  便箋を机に置いた。 「鷹宮さん」 「征臣で構わない。……君にだけは、そう呼ばれたい」  さらりと言われて、唇だけが先に動きかけた。返す言葉は喉の手前で止まり、代わりに頬の内側だけが熱くなった。  この状況で呼び方の指定を入れてくるあたり、やっぱり少しずれている。けれど、不思議と嫌ではなかった。 「……征臣さん」  名前にさんをつけるだけで、会話の距離が測れなくなる。  征臣は何も言わずに待っていた。 「契約の話をしてもいいですか」 「先に聞かせてくれ。譲りたくないものは何だ」  そう聞かれて、息が一瞬、止まった。条件を聞かれると思っていた。けれど、譲らないものを聞かれるとは思わなかった。 「母の遺品は、私の手元に置きます」  言い切ってから、私は膝の上の帳簿に指を添えた。包帯の端が紙の角に触れる。左手の指輪はまだそこにあり、冷たい輪郭だけがやけにはっきりしていた。  征臣はすぐに頷きかけて、途中で動きを止めた。差し出しかけた手を引き、封筒の横へ置く。  そのわずかな間に、私は息を吐いた。 「……今、少し、疑うつもりでした」 「……そう思わせたか」  征臣は目を伏せた。さっきまで私の手元に寄っていた書類を、机の端へ少し戻す。 「悪い。少し急
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