Se connecter「誰かに決められるのは、もう終わりです。今度は、私があなたを選びます」 私の婚約披露宴だったはずなのに、婚約者の隣にあったのは妹・莉々花の名前だった。父も継母も婚約者も、私に「姉なら譲れ」と迫り、母の形見の指輪まで奪おうとする。 そのとき現れたのは、冷徹と恐れられる御曹司・鷹宮征臣。彼は大勢の前で私に跪き、愛の言葉ではなく一通の契約書を差し出した。 「俺と婚約してほしい」 利害から始まったはずの関係。けれど彼だけは、私の代わりに答えを決めず、「君が選べ」と待ってくれた。 奪われた名前、母の遺した秘密、家族が隠してきた嘘。 これは、すべてを譲ってきた私が、自分の未来と愛を選び直す物語。
Voir plusホテルスタッフの確認票には、まだ薬剤名はなかった。 異臭あり。簡易試験で鎮静作用を持つ成分の反応。ただし、正式鑑定までは断定不可。 慎重な言葉ばかりだった。それでも、母の診断書の余白に残った略号と、最初の二文字が重なって見えた。 似ているだけかもしれない。だからこそ、今ここで犯人も薬剤名も決めつけてはいけない。紙に残った不完全な文字を、私は診断ではなく照合すべき手掛かりとして見た。「……白鳥さん?」 グラスを持ちかけていた夫人が、椅子に座り直した。膝の上に置いた手が、小刻みに動いている。さっきまで私を諭す側にいた人の視線が、今はグラスの縁から離れない。「この名前に、心当たりがおありですか」 ホテルスタッフに聞かれ、私はすぐには答えなかった。 言えば、母の死をこの場に出すことになる。言わなければ、グラスの中身はただの疑いで終わる。 莉々花は泣いていた。ハンカチを目元に当てて、肩を震わせている。けれど、袖口だけはテーブルの下へ隠したままだった。「お姉様、怖いです。そんな紙を出して、私を犯人みたいに」「犯人とは言っていません」「でも、そう見せたいんでしょう」 声の震えが、少し早い。 私は診断書の写しをテーブルに置いた。余白の文字が、照明の下で薄く浮く。母の名前が人前にさらされるのが嫌で、左手でそっと隠した。「この名前は、母の診断書の余白にありました」 夫人たちの表情が変わった。 さっきまで私を責めるために整えられていた視線が、一斉に紙へ落ちる。 瀬里奈だけが笑っていた。「偶然でしょう。澪さん、お母様のことで過敏になっているのね」「偶然なら、調べて終わりです」「調べる?」「グラスと、莉々花さんの袖口と、会場の映像を」 莉々花の涙が止まった。 一瞬。目元を押さえていたハンカチの下で、息だけが止まる。 夫人の一人が、そっとスマートフォンを伏せた。録音していたのかもしれないし、誰かに送ろうとしていたのかもしれない。画面の光が消えるだけで、さっきまでの
「でしたら、私がいただきますわ。疑われたままでは莉々花さんもお気の毒ですもの」 夫人の指がグラスに近づいた瞬間、体の奥が冷えた。疑いを晴らすために誰かが飲む。そんな形で終わらせれば、また本当に見なければならないものだけが消える。 口の中が乾いた。けれど水に手を伸ばせば、目の前の話から逃げたみたいになる。私は唇を湿らせるだけで、冷めたカップから目を離さなかった。 止める声より先に、泡がグラスの中で大きく弾けた。 「待ってください」 声は、思ったより低く出た。 夫人の手が止まる。グラスの縁は、まだ唇に触れていない。泡だけが細く弾けて、甘い匂いがこちらへ流れてきた。 莉々花が小さく笑う。 「お姉様、そこまでなさると失礼ですよ。せっかく皆さまが」 「失礼で済むなら、あとで謝ります」 私は夫人の手元を見た。グラスの脚。右にずれていた位置。底についた水滴の輪。 「そのグラスは、私の前に置かれていたものです」 「それが何だと言うの」 瀬里奈が柔らかく口を挟んだ。声だけは優しい。けれど、扇子を持つ指が少し硬い。 「澪さん。人前で騒ぐ癖は、そろそろ直しましょうね」 「私はまだ、声も上げていません」 テーブルの空気が薄くなる。 征臣はいない。今日、彼を同席させなかったのは私だ。莉々花が私を一人で来たと思うなら、その油断も見ておきたかった。 でも、一人ではない。 私はバッグから小さな透明袋を出した。薬箱の中に入っていた予備の保管袋。使うかどうか迷って、持ってきていたものだった。 「そのグラスには触れないでください。念のため、ホテル側に調べてもらいます」 夫人の顔から色が引いた。 「何か入っているとでも?」 「まだ分かりません。だから、調べます」 分かりません、と言うのは怖い。言い切るより、ずっと心もとない。でも、分からないものを分かったふりで飲む方が怖い。 莉々花が椅子を引いた。 「ひどい。私が何かしたって言いたいんですか」 「言っていません」 「言ってるのと同じです」
秘書が持ってきた封筒は、角が少し擦れていた。 母の死亡診断書の写し。 私は巻き直された包帯で封を押さえ、左手で中身を抜いた。「ここ」 余白に薄い鉛筆の跡がある。消されていたが、末尾の数文字だけ残っていた。 さっき嗅いだ薬の名前までは分からない。それでも、病院の正式な記載とは違うことは分かった。「母は、本当に病気だけで亡くなったんでしょうか」 征臣は紙を覗き込まなかった。「調べてみよう」「結果は、私にも見せてください」 征臣は診断書の写しを閉じず、私の前へ戻した。 短い返事に、胸の奥の硬さが少し緩んだ。 数日後、白鳥家と親しい夫人たちの茶会へ出席した。表向きは慈善ガラの反省会。ホテルラウンジの奥には白い花が並び、テーブルにはスパークリングワインが用意されている。 征臣は同席していない。私が断ったからだ。莉々花が私を一人だと思って何をするのか、見ておきたかった。 ただし、本当に一人で来たわけではない。ホテルの責任者には席と時刻を知らせ、ラウンジの映像を消さないよう依頼した。飲み物には口をつけない。異変があれば隣室の警備担当と提携医へ連絡する。征臣には、その条件ならと渋い顔で折れてもらった。 以前の私なら、そこまで準備する自分を疑ったと思う。妹を信じられない冷たい姉なのではないか、と。 今は、疑うことと断定することを分けて考えられる。母の診断書を見たあとでは、何も起こらないことへ期待するだけでは済まなかった。私が警戒を解けば、莉々花は安心する。その安心の中で、また誰かの言葉や持ち物が消える。 私はバッグの中の小さな保管袋へ触れた。診断書の写しも入っている。紙一枚で母の死を決めつけるつもりはない。けれど、目の前の違和感をまた家族の言葉で消されるつもりもなかった。薬箱に入っていた袋を一枚、持ってきている。使わずに終わるなら、それがいちばんいい。「お姉様、飲まれないんですか?」 莉々花が小首を傾げた。「あとで飲むわ」 私の前のグラスだけが、指一本分ほど右へずれている。脚の下には、置かれたばかりにしては広すぎる水滴の輪があっ
征臣はすぐには触れなかった。 向かいの椅子を引き、薬箱を自分の側へ寄せる。金具の触れ合う音が、やけに大きく聞こえた。 私は差し出した手を引きたくなり、膝の上の左手でスカートをつまんだ。 消毒綿の袋が開く。 冷たい綿が傷へ触れた途端、指先が跳ねた。「痛いか」「少しだけ」 征臣の手が止まる。「そのままで。……止めないでください」 征臣は返事をせず、触れる力だけをさらに軽くした。 包帯を外した傷は、赤黒く細い線を残していた。大げさに騒ぐほどではない。けれど、触れられるたびに、暖炉の熱と焦げた紙の匂いが戻る。 征臣の親指が、私の手首へ近づきかけて止まった。さっき伝えたわけでもないのに、そこには触れない。私が手を引かなかったことを確認してから、傷の周りだけを拭いていく。 礼を言おうとして、やめた。今ここで必要なのは、彼の行動を褒めることではない気がした。 その慎重さが、かえって落ち着かない。「そんなにゆっくりでなくても」「急いで痛ませる理由はない」 返し方は相変わらず愛想がない。それが少しおかしくて、張りつめていた指から力が抜けた。 征臣は私が笑った理由を聞かなかった。 包帯を巻く間、二人とも黙っていた。ロビーを行き交う人の靴音だけが聞こえる。沈黙は気まずかったが、何か正しい言葉を言わなければならない空気よりは楽だった。聞かれないまま、消毒綿の冷たさだけを感じていられる。白鳥家では、傷を見せれば誰かが勝手に大きな意味をつけた。可哀想な娘。面倒な娘。家の恥。 征臣は傷だけを見ている。 それでも、薬の匂いが鼻先をかすめた瞬間、別の景色が開いた。 母の病室。白いカーテン。窓際の花。看護師ではない誰かが、枕元で小さな薬袋を開けていた。 息が止まる。「澪」 呼ばれて、浅く吸った。「その薬……」「軟膏か」「違います。似ているだけかもしれないけど」 征臣は消毒綿を傷から離した。「どこで