濱海市中央病院の診察室――吉川杏奈(よしかわ あんな)は血まみれの姿で、看護師が手の甲に点滴の針を刺す様子を、どこか他人事のように眺めていた。痛みはもう、麻痺して感じない。「すみません!通ります!」濃密な血の匂いと、鼻をつくガソリンの臭いが混じり合う。ストレッチャーが目の前を通り過ぎていった。横たわる人のありえない方向に曲がった脚にはフロントガラスの破片が突き刺さり、衣服は赤黒く染まっている。。次々と運び込まれる患者、絶え間ない慟哭……ふと指を曲げると、掌の皺の間に白い粉末が残っていた。エアバッグが開いた時の名残だ。「ご家族の方は?どなたか、ご家族の方!」まるでその場にいる全員が、杏奈の答えを待っているかのように、ふいに周囲が静まり返った。けれど、思い通りにいかないのが人生というものだ。「吉川様、他の方に比べれば軽傷ですが、事故ですので。ご家族に連絡して、念のため精密検査を受けられた方が……」杏奈は看護師の気遣わしげな言葉に頷き、携帯を取り出す。通話ボタンを押した。しかし、聞こえてきた声に心は冷たく沈んでいく。「杏奈様。社長は会議中で、今はお電話に出られません。ご用件を承りましょうか?」吉川蒼介(よしかわ そうすけ)の秘書だった。結婚は公表できない、秘密にしなければと、蒼介は確かに言っていた。だから結婚して七年が経っても、秘書は彼女を「奥様」ではなく、「杏奈様」としか呼ばない。口を開こうとした瞬間、受話器の向こうから、場違いなほど明るい女性の声が飛び込んできた。「ねえ小林さん、蒼介は準備できた?そろそろ出ないと。小春ちゃん、下で待ちくたびれてるわよ」「はい、藤本様。すぐ社長にお伝えします」受話器を手で覆ったのだろうが、その声は残酷なほどはっきりと聞こえた。「藤本様」……藤本紗里(ふじもと さり)のことだ。蒼介の憧れの人。特別秘書の小林洸平(こばやし こうへい)は、二人への態度が雲泥の差だった。一方には即座に取り次ぎ、もう一方には会議中で時間がないと告げる。杏奈は自嘲気味に唇を歪めた。そうか。蒼介の周りの人間は、とっくに彼の嘘のつき方を心得ているのだ。憧れの人は彼のすぐ傍にいて、妻である「杏奈様」は愚かにも、まだ彼が来てくれると期待していたなんて。聞き慣れた低い
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