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第397話

Author: 青山米子
彼が何かしら口実をつけて来ないことは、一葉も半ば予期していた。だが、いざその言葉を現実に突きつけられると、やはり失望を禁じ得なかった。

一葉は、一度信じた相手を、とことん信じてしまう性分だった。

この二年間の付き合いで、彼を心からの友人として、善良な人間として、確かに信じていたのだ。

それなのに……

その思いが、再び彼女を茫然とさせた。もう、誰も信じられない。

この世の何を信じればいいのか。何が真実で、何が偽りなのか。

なぜ、あれほど善良に見えた人間が、こんなことができるのだろう。

一葉は、しばらく黙り込んだ。

電話の向こうで、源がしびれを切らして「どうしてもと言うなら、今からそっちへ行く」と言い出しかけた、まさにその時だった。

彼女が口を開いた。その声には、不快な響きは一切含まれていなかった。「分かったわ。あなたは仕事に集中して。終わったらまた電話をちょうだい。工場のことは大事だものね」

一葉のその言葉に、源は明らかに安堵のため息を漏らした。「ああ、分かった!待っててくれ。終わり次第、すぐに駆けつけるから!」

「ええ」一葉はそう相槌を打つと、電話を切って、車の窓の外に視線をやった。

「慎也さん、あなたの部下に頼んで、彼と……あの女の『いいところ』を、何枚か撮ってきてもらえない?

籍を入れるって約束したのに、今さら破談にするには……それなりの理由が必要だから」

慎也は、面白そうに口の端を上げた。「承知した」

帰りの道すがら。

車が静かに夜の闇を走り続ける中、不意に慎也が一葉に視線を向けた。「旭くんの祖父にあれほど追い詰められていたというのに、なぜ俺に相談しなかった。よりにもよって、どこかの男と籍を入れるなどという方法を選ぶとはな」

一葉は本来、他人に胸の内を明かすような性格ではない。だが、つい先ほど慎也に厄介な頼みごとをした手前、無下にすることもできなかった。「……旭くんのお祖父さんを安心させたいって気持ちもあったけど。それ以上に……これを機に、深水言吾との関係を完全に断ち切りたかった、っていうのが本音かな」

その答えを聞いて、慎也はしばし沈黙した。

「……旭くんの祖父の件は、もう心配する必要はない。だが、深水言吾との関係を断ち切りたいというのなら、結婚という選択肢が消えたわけじゃない。

旭くんを選べ。

旭くんを選べば、あい
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