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第632話

Author: 青山米子
それまでどこか気の抜けた表情をしていた慎也の顔つきが、一瞬にして恐ろしいほど険しく、昏いものへと変わる。

「何があった」何事にも動じない慎也が、唯一冷静でいられなくなるのが、この甥と姪に関わることだった。特に、彼らの身に何かあった時となれば、尚更だ。

「先ほど、坊ちゃまが海外で尾白家の者共に待ち伏せされ……お車が制御不能となり、崖から転落された、と!」

執事の言葉が終わるか終わらないかのうちに、慎也の手にあったグラスが、バキリと音を立てて砕け散った。

ただでさえ昏く沈んでいた彼の表情は、もはや凄まじい殺気を帯びて見る者を震え上がらせるほどだった。

全身から放たれるどす黒いオーラと殺意は、執事を立っているのもやっとという状態にまで追い詰めていた。

だが、一葉には、その強烈な殺気は感じられなかった。旭の車が崖から落ちた、と聞いた瞬間、頭の中でキーンという音が鳴り響き、目の前が真っ白になった。

何を考えればいいのか、何も考えたくはなかった。

この数年で、旭はもう一葉にとってかけがえのない家族になっていた。こんなことが起きるなんて、到底受け入れられない。

もう二度と、彼に会えなくなるかもしれない。

その恐怖で、足から力が抜け、体はくずおれそうになった。

それを、慎也が咄嗟に支えてくれた。

「心配するな、俺がすぐに状況を確認しに行く。お前が考えているような、最悪の事態とは限らない。……今は何も考えるな。お前は妊婦なんだぞ。何よりも自分の体の安全を第一に考えろ」

一葉は、思わず顔を上げて慎也を見つめた。

どんな時も、何が起ころうとも、この人はいつもこうして落ち着き払っていて、人の心を安らかにしてくれる。

まるで、何者にも打ち負かされることのない、鋼鉄の巨人のようだ。

一葉の視線に気づくと、慎也の眼差しはさらに優しさを増した。「……怖がるな。旭くんは、絶対に死んだりしない」

崖から落ちたのよ、崖よ!そんなことで、どうして無事でいられるというの。

喉元まで出かかった言葉を、彼女は必死に飲み込んだ。

でも、もしかしたら、崖の下は水かもしれない。もしかしたら、崖はそれほど高くないのかもしれない。

今は、良い方に考えるべきだ。物事は、良い方に考えれば良い結果が訪れるし、悪い方に考えれば悪い結果が引き寄せられるというではないか。

だから、一葉はその
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