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109:朝の戦場

last update Date de publication: 2026-01-15 06:47:43

 幽霊騒動から少しの時間が経過した。

 しかし黒崎隼人のアーク・リゾーツ社では、次なる問題が起こっていたのである。

 午前8時、アーク・リゾーツが誇る国内最高峰の旗艦ホテル、『グランド・アーク東京』。

 このホテルの顔であるメインダイニング『オーロラ』の前には、優雅さとは程遠い光景が広がっていた。

 朝食ビュッフェでの出来事だ。

「いつまで待たせるんだ!」

「15分も並んでるのよ? どうなってるの」

「飛行機の時間に遅れちゃうわ」

 怒声こそ飛んでいないものの、ロビーには客たちの苛立ちがあちこちでささやかれ、充満していた。

 入り口から伸びた行列は優美な螺旋階段の下まで達している。

 視察に訪れた隼人は、その光景を見て眉間に深いしわを刻んだ。

「……なんだ、この有様は」

 彼は腕時計を見た。ピークタイムとはいえこれは異常だ。出迎えた総料理長が、コックコートの襟を正しながら弁明する。

「申し

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   351:甘言の正体

     社長室に満ちてるのは淹れたてのコーヒーの香りではなく、プリントアウトされたばかりのインクの乾いた匂いだった。 室内のエアコンは規則的な送風音を立てている。窓の外には陽光に照らされた東京の街並みが広がっているが、部屋の中の空気は緊張感に包まれていた。 小夜子はグレーのスーツの膝に手を置き、デスクの向こう側に立つ翔吾の言葉に耳を傾けていた。 彼女の隣では、隼人が腕を組んだままタブレットの画面を見つめている。「黒崎社長、総支配人。グラン・ヘリックスが過去3年間に買収した六つのホテルチェーンについて、詳細な追跡調査のデータがまとまりました」 翔吾は手元の資料を1枚めくり、指先で紙の端を弾いた。パラリという乾いた音が鳴る。「結論から申し上げますと、御子柴氏がメディアで語った『基本給2倍』という甘い言葉は、買収を成立させるための半年間限定の撒き餌に過ぎません」 翔吾の眼鏡が、頭上のダウンライトを反射して光る。 彼は手元のタブレットを操作し、大型モニターにグラフを映し出した。「買収後、最初の半年間は確かに基本給が引き上げられます。しかし7ヶ月目に入ると『AIシステム導入による業務効率化』を理由に、大規模な人員整理が始まります。過去の事例では、買収時の従業員の約8割が1年以内にリストラ、あるいは過酷な配置転換による自主退職へと追い込まれていました」 モニターの棒グラフが、1年目以降に急激に右肩下がりになっている。「残った2割のスタッフはどうなるのですか?」 小夜子が尋ねると、翔吾は手元の資料を小夜子の前に差し出した。「外資系基準の完全な成果主義に移行します。客室稼働率や単価アップのノルマが各個人に課せられ、未達の場合は容赦なく減給されます。結果として残った2割のスタッフの大半も、買収前を下回る待遇で働かされているのが実態です。充実した福利厚生も、適用されるのはごく一部の幹部候補のみでした」 小夜子は提示された資料の文字列を目で追った。そこには数字という客観的な事実が並んでいる。 御子柴は、従業員の生活や人生を向上させる気など毛頭ない。 ホ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   350

     ――と。 コンコン、と控えめなノックの音が鳴ってドアが開いた。「黒崎社長、総支配人。失礼します」 翔吾が、手元のタブレットに視線を落としたまま部屋に入ってきた。「翔吾さん。現場の状況は把握していますか?」 小夜子が尋ねると、翔吾はタブレットから顔を上げ、こくりと頷いた。「ええ。ロッカールームのビラも、SNSの個別DMも確認済みです。実加さんも、鼻息を荒くして怒っていましたよ。全く、手回しが早くて嫌になりますね」 翔吾はデスクの上にタブレットを置いた。 画面には、おびただしい数のデータやグラフが表示されている。「ですが、ただ手をこまねいているわけではありません。あの甘い条件の裏付けを取るために、グラン・ヘリックスが過去3年間に手がけた買収事例を徹底的に調べています」「裏付け、とは? 何か見つかったのか?」 隼人が身を乗り出す。「基本給2倍、充実した福利厚生。彼らが本当にその約束を守っているのか、という実態調査です」 翔吾の目が、メガネの奥で鋭く光った。「投資ファンドが、無条件で人件費を倍にするような慈善事業を行うはずがありません。必ず数字のカラクリがあるはずです。例えば半年後にAI導入を理由にした大規模なリストラが待っているとか、成果報酬型への移行で実質的な賃下げが行われるとか。過去の事例をいくつか見ましたが、既に怪しいデータがいくつか散見されます」「なるほど。甘い毒の正体を、データで暴き出すということですね」 小夜子の言葉に、翔吾は「ええ」と頷いた。「感情的な説得では、お金の誘惑に勝てません。客観的なデータと事実をもって、彼らの約束が虚構であることを証明し、全従業員に突きつけます。そうすれば、疑心暗鬼に陥っているスタッフたちの目も覚めるはずです」「頼む、翔吾。一刻も早く、そのデータをまとめてくれ」 隼人の声に力が戻る。「承知しました。全力で取り組みます、黒崎社長」 翔吾が足早に部屋を出ていくと、社長室には再び静寂が戻った。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   349

    「うまい話には絶対裏があるに決まってるじゃないですか。だいたい、ウチのことなんて直接見たこともないくせに、何がスキルを高く評価、ですか。バカにしてるのかって話ですよ」「実加さん……」「ウチは絶対、あんなの信じません。ウチがここで働けてるのは、総支配人やみんなが、ウチや理玖のことをちゃんと見て、助けてくれたからです。お金なんかでウチの気持ちは動きませんからね!」 実加の迷いのない言葉に、小夜子は救われたような気持ちになった。 思わず微笑む。「ありがとうございます。実加さんがそう言ってくださると、本当に心強い」「へへっ。ウチはウチの仕事をするだけなんで。じゃ、水回りの掃除やってきます!」 実加は洗剤のボトルを手に、勢いよく客室の中へ戻っていった。 実加の後ろ姿を見送りながら、小夜子は小さく息を吐いた。 実加のようにきっぱりと拒絶できる者は、ごく少数だ。大半の従業員は、生活の不安と見えない恐怖にあおられて、アークリゾーツ社から心が離れかけている。(このままではいけない。何かしらの手を打たなければ) 現場の重い空気を肌で感じた小夜子は、急ぎ足で社長室へと引き返した。◇ 社長室に戻ると、隼人が窓際に立ち、腕を組んで外を見下ろしていた。 小夜子は執務デスクの横に立って、先ほど現場で見てきた状況を報告した。「SNSのダイレクトメッセージで、個別に特別オファーを出してきているようです。スタッフたちは完全に疑心暗鬼に陥り、互いの顔色をうかがって作業の連携も取れていません」「そうか。そこまでやるとはな……」 隼人は振り返り、重い足取りでソファに向かった。「スキャンダル騒動でこちらの体力を奪い、疲弊したところに甘い条件を提示して内部から崩壊させる。完全に計算し尽くされた手口だ」「スタッフたちを責めることはできません。家族の生活がかかっている方も多いのです。それに、いつまた炎上騒ぎに

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   348

     チーフの苛立った声に、若手スタッフが肩をすくめた。 小夜子が近づくと、彼らはサッと視線を逸らして気まずそうに作業に戻っていった。(空気がひどく張り詰めている。お互いの顔色を窺って、誰も本音を言えない状態) 小夜子は靴音を殺して廊下を進んだ。 開け放たれた客室の入り口から、数人の女性スタッフがヒソヒソと話す声が漏れ聞こえてくる。「ねえ、私の個人のSNSアカウントに、DMが来たの」「えっ、私も。グラン・ヘリックスの人事担当って名乗る人からでしょ?」「そう。うちのホテルのサービスレベルを高く評価してるから、新体制になったら部門のリーダー候補として特別待遇で迎えたいって。これ、本物なのかな」「私にもヘッドハンターから来たわよ。これ、1人ひとりのアカウントを特定して送ってきてるのよね。ちょっと怖くない?」「でも、そこまで熱意をもってスカウトしてくれるなら、ちょっと心が動く……」「うーん、確かに……」 小夜子はわずかに目を細めた。 物理的なビラ撒きだけではない。スタッフがプライベートで利用しているSNSアカウントにまで、個別に接触を図ってきているのだ。 メディアを使った大々的な宣伝で集団の意識を揺さぶり、ビラで内部に疑心暗鬼を生ませる。 さらにSNSのダイレクトメッセージで個人個人を追い詰める。(なんて執拗で、悪辣(あくらつ)な手口でしょうか。みんな、追い詰められてしまうわ)「ちょっと、そこのあんたたち! 手を動かしながら喋りなよ!」 フロアの奥から、張りのある元気な声が響いた。 山内実加だ。 彼女はゴミ袋をまとめた大きなカートを押しながら、小夜子の前までやってきた。「あ、師匠、じゃなくて総支配人! お疲れ様ッス!」「お疲れ様です、実加さん。理玖くんは保育園ですか?」「はい、今朝も元気に離乳食食べてから行きましたよ。それより、総支配人、ちょっとこれ見てください」 実

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   347

    「給料が倍になるなら、うちの子の塾代を諦めなくて済むかも。家のローンだって一気に返せるわ」 パートの女性が、ビラを両手で握りしめながら呟いた。「でも、これ誰が置いたんだ?」 若手のベルボーイの言葉に、場が静まり返った。「部外者がロッカールームに入れるわけないよな。カードキーがいるんだし」「……ってことは、スタッフの誰かがグラン・ヘリックスからお金をもらって配ったってこと?」「うそ、裏切り者がいるの?」 疑心暗鬼が、目に見えないヒビのように人々の間に広がっていく。 つい昨日まで笑顔で助け合っていた同僚の顔が、急に得体の知れないスパイのように見えてくる。 誰もが周囲を警戒し、探り合うような視線を交わし始めた。「ねえ、グラン・ヘリックスの傘下に入った方が、コンプライアンスもしっかりしてるんじゃない? この前のネットの炎上騒ぎみたいに、うちらがクレーム対応の盾にされることもなくなるかもよ」 誰かが発したその一言が、決定打だった。 先日のスキャンダル騒動で、現場のスタッフたちは連日鳴りやまない電話と心無いクレームの矢面に立たされていた。 いくら小夜子や隼人が盾になろうとしても、限度がある。物理的な疲労と精神的な摩耗は確実に彼らの心を削り取っていたのだ。『このままじゃ本当に身が持たない。外資の傘下に入るのも悪くないんじゃないか』 生活の安定を求める切実な願いと、現状への疲労感が漂う。 その2つが結びつき、ロッカールームの空気を重く濁ったものに変えていった。 小夜子はドアの手前で立ち止まり、ぐっと奥歯を噛みしめた。(彼らの不安はよく分かる) 先日の騒ぎで、社員たちに負担をかけてしまった負い目がある。 小夜子と隼人は戦い抜く気持ちでいるが、社員たちはそれぞれの考えがあるだろう。 無理に踏み込んでも、彼らをさらに萎縮させるだけだ。今はただ、事態を静観するしかなかった。◇

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   346

     画面の中で芝居がかった微笑みを浮かべる御子柴の顔を、小夜子は冷ややかに見つめた。 彼のような他者を数字や道具としか見ない人間にホテルを奪われれば、従業員たちはあっという間に使い捨てられるだろう。 テレビで公言した約束など、彼にとっては束縛にならないに違いない。 ふと、現在刑務所にいる父親の顔が脳裏をよぎった。 自分が継母から理不尽な労働を強いられ、罵倒されていても、ただ見て見ぬふりをしていた男だ。 父親は保身と自分の利益しか頭になく、家族すら守ろうとしなかった日和見主義を決め込んでいた。 御子柴と父はタイプこそ違う。 だが他者の人生や尊厳を全く省みないという意味で、同じ穴のむじなだった。(あんな無責任な人間に、私たちのサンクチュアリを渡すわけにはいきません) 小夜子の胸の奥で、静かだが強い怒りの火が燃え上がる。 今の彼女は、かつて白河家で虐げられていた無力な娘ではない。 愛する夫と共に、この場所を守り抜くという確固たる意志を持った総支配人だ。「この動画が、今朝からスタッフたちのスマホに次々と流れてきているようですね。皆が動揺するのも無理はありません」 小夜子は冷静な口調で隼人に告げた。「ああ。巧妙な世論誘導だ。圧倒的な資金力を誇示して、こちらの結束を崩しにかかっている。外から揺さぶりをかけて、内部の不満をあおる気だろう」 隼人も腕を組んだまま、険しい視線をモニターに向けていた。◇ その頃、ホテルの地下にある従業員用のロッカールームは、別の騒ぎに見舞われていた。(何かしら) 小夜子が状況を確認しようと近づくと、開け放たれたドアの隙間から声が漏れてくる。 出勤してきた清掃部門やレストランのスタッフたちが、金属製のロッカーを開けるなり次々と驚きの声を上げていた。「ちょっと、これ何」 女性スタッフの1人が、ロッカーの隙間から滑り落ちた1枚の紙を拾い上げた。 上質なコート紙にフルカラ

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