吐く息が白い。比喩ではない。文字通り、白い霧がパソコンの液晶画面にかかって、打ち込んだばかりの文字を曇らせていく。 白河小夜子(しらかわ・さよこ)は画面の曇りを手で払って、かじかんで感覚のなくなった指先を口元に寄せた。「はぁーっ……」 温かい呼気を吹きかける。一瞬だけ指先に血が通う感覚が戻り、ジンとした痛みが走った。(よし、まだ動く) 小夜子は着古したフリースの袖をまくり上げ、再びキーボードに向かった。現在時刻は午前4時。場所は、名門・白河家の広大な敷地の片隅にある「離れ」。 かつて物置として使われていた粗末な小屋が、小夜子の生活スペースだ。隙間風が容赦なく吹き込む室内は、外気と変わらない冷え込みようである。 暖房器具はあるにはあるが、義母によって電源コードを没収されていた。「電気代の無駄よ。どうせパソコンの熱で温まるんでしょう?」 そんな無茶苦茶な理屈を押し付けられて、早5年。 父である白河家当主の愛人の子として生まれ、母の死とともにこの家に引き取られて10年。 義母と義姉、父からの不当な扱いは年を追うごとに増すばかりだった。 中学までは義務教育だからと、かろうじて学校に通わせてもらえた。 けれど高校に行くのは許されなかった。 今は亡き恩人、この家の執事であった藤堂がこっそりと、私費を使って通信制の高校に入れてくれたため、高卒の資格だけは取ることができた。 親切にしてくれたのは藤堂だけだ。その彼が亡くなってしまった現在、この家に小夜子の味方は一人もいなかった。 人間は環境に適応する生き物だと言うが、小夜子はひどく冷え込む空気の中で、驚くほどの速度でタイピングを続けていた。 というのも、手を止めたら凍えるからだ。画面に並ぶのは、難解なフランス語と専門用語。『ホスピタリティの根源における「主と客」の非対称性について』 これが、今回の論文のタイトルである。小夜子は机の脇に積み上げられた分厚い洋書――『欧州ホテル産業の歴史』――をめくり、該当箇所を翻訳しながら引用していく。(19世紀のパリにおけるサービス規範……ここ、使えるわね) ふと、暗い窓ガラスに自分の姿が映り込んだ。そこにいるのは、精彩を欠いた影のような女だった。 手入れを知らない黒髪は、艶こそ失われているものの、夜の闇を溶かしたように細くしなやかに背中へ流れている。
Terakhir Diperbarui : 2025-12-01 Baca selengkapnya