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未完の夜

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-09-26 17:00:47

窓の外は、いつの間にか雨が完全に上がっていた。濡れたアスファルトに街灯の光が滲み、ぼんやりとした橙色の輪が連なっている。その淡い光は、カーテン越しに部屋へと滲み込み、ランプの柔らかな明かりと混ざり合って、ゆるやかな陰影を作っていた。

リビングのテーブルには、半分ほど残ったワインのボトルと、空になったグラスが二つ並んでいる。瑛はそのひとつを手に取り、ゆっくりと最後の一口を口へ運んだ。グラスの縁に触れた唇がわずかに赤く染まり、微かなアルコールの香りが空気に溶けて広がる。

湊は、隣に座る瑛の動きを視界の端で追っていた。自分の手元にもまだ少し残った赤ワインがあり、指先でグラスの脚をゆっくり回すと、液面が小さく渦を描く。その揺れを見つめながら、心の中も同じように渦を巻いていることに気づく。

さっきの「契約じゃないなら…」という言葉。結局続きを言えなかったその一言が、舌の奥にまだ残っている気がした。まるで、飲み込んだはずのものが胸の奥で形を保ったまま動かずにいるようだった。

「…」

言葉は出ない。ただ、呼吸の音と、時計の秒針が小さく刻む音だけが部屋を満たしていた。外の静けさが増すほど、室内の沈黙も重みを増していく。

瑛は何も問わず、ただ視線を前に向けたまま、手を伸ばして湊の肩に軽く触れた。その動作はあまりに自然で、声もかけずに置かれた掌から、かすかな熱がじんわりと伝わってくる。

湊は一瞬だけ身を固くしたが、すぐに力を抜いた。拒む理由も、応える言葉も見つからない。ただ、その温もりを肩越しに感じながら、視線をグラスへ落とす。アルコールの香りと、瑛の微かな体温が混ざり合い、呼吸が少し浅くなる。

今、この瞬間に何かを言ってしまえば、きっと後戻りできない。けれど、黙ったままでも、胸の奥の熱は消えずに燻り続ける。

グラスの中の赤を、湊は静かに口へ運んだ。舌の上に広がる渋みと甘さが、酔いで少し鈍った感覚に柔らかく溶けていく。喉を通ったあとの余韻が、胸の中の熱と混じり合っていくようだった。

隣から伝わる瑛の呼吸はゆっくりで、安定している。自分とは違って、迷いや揺れを感じさせないそのリズムに、わずかな安心と、同時に言いようのない距離感を覚える。
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