LOGINシステムエンジニアの啓太郎は仕事で疲れきっている中、マンションの隣室に住む引きこもり青年・裕貴と知り合う。 生意気で、小悪魔のようでありながら、妙に愛情深いところもある裕貴に食事の面倒を見てもらっているうちに親交を深め、そこで啓太郎は、裕貴の内面にも次第に立ち入ることになる。 裕貴と特別な関係となった啓太郎の前に、裕貴の兄・博人が姿を見せるが、兄弟の間には誰にも言えない秘密があり――。
View More今週もよく働いている――。
エレベーターの中で半分眠りながら、
明らかに自分たちは働きすぎなのだ、と声も高らかに啓太郎は主張したい。
「……会社じゃ、口が裂けても言えねーけどな」
パソコンのモニターを睨みつけながら独り言を言う癖が染み付いてしまったのか、一人でいるとつい気を抜き、思ったことを声に出してしまう。
今取りかかっている本体構築がようやく今日出来たので、明日からは在庫情報に関する構築の手伝いにまわり、検索プログラムの構築については、外注先に進捗度を電話で問い合わせなければならない。
眠気を上回る空腹と疲労に苛まれながらも、啓太郎の頭の中ではずっと、明日の仕事がグルグルと駆け巡り続けていた。心なしか脳みそが熱い。もっとも、脳みそが沸騰する前に、おそらく神経が焼き切れるだろう。啓太郎は、ソフトウェア開発会社に勤めるSE(システム・エンジニア)だ。とはいっても、開発会社にいることはほとんどなく、大半は、ソフト開発を依頼してきた会社に出向いて常駐している。
現在常駐しているのはサービス系企業で、毎日、ショッピングサイトのオープンを目指して、ひたすらシステム構築の日々だ。二十八歳にしては、SEとして評価され、信頼もされているが、それだけに任される仕事の規模がでかい。そのうえ、よその会社に出向くという勤務形態のため、周囲は「お客様」ばかりの環境で、神経と気をつかう毎日だ。
生活に潤いが欲しいとまでは言わないが、せめて睡眠欲と食欲ぐらいはまともに満たせる生活であってほしいと啓太郎は祈っている。ついでに性欲も。実は啓太郎がマンションの自分の部屋に戻るのは、三日ぶりだ。常駐先の会社のビル近くにあるサウナでシャワーを済ませ、デパートでワイシャツや下着を買い込む日々も、さすがに今日は限界を迎えた。
仕事がキリのいいところにきたので、とにかく無理して帰宅したのだ。エレベーターの扉が開き、前のめりとなって降りる。啓太郎は足を引きずるようにして歩いていたが、ある異変に気づいて足を止める。
共用通路で一人の人間が、箱のようなものを抱えようとして四苦八苦していた。啓太郎の部屋がある五階には六世帯が入っており、大半が朝出かけ、夕方や夜帰宅するという、いわゆる一般的な時間帯で生活をしている住人がほとんどだ。例外は、啓太郎の隣の部屋の住人だった。そもそも、角部屋に住むその人物を見かけたことすらない。
とにかく、宅配業者がよく訪れるわりには、本人が出かける気配を感じたことがないのだ。非常に静かに暮らしているため、部屋から物音が伝わってくることもない。啓太郎も人に誇れるほど不規則な暮らしをしているが、隣人は夜中でも明け方でも、室内の明かりが消えたことはなかった。
なんの仕事をしていて、老若男女どんな人物が暮らしているのかすら、すべてが謎の住人。その住人が、とうとう啓太郎の前に姿を現したのだ。
幽霊じゃないのよな? と自分に対して念押ししながら、啓太郎は目を凝らす。蛍光灯の明かりの下で隣人はどうやら、部屋の前に置かれた発泡スチロールの箱や段ボール箱を部屋に運び入れようと奮闘しているらしい。
「ということは、社会人か? そんなふうには見えないけど。まだ学生みたいだ」 「どっちでもない、というところかな」 裕貴と名乗った青年の言葉に、しまった、と啓太郎は眉をひそめる。地雷を踏んだと思ったのだ。 しかし当の裕貴は、淡々とした調子で続ける。「ほぼ一日中、この部屋に閉じこもってる。さっき、あんたに運んでもらった箱だって、外に出るのが嫌だから、食材をまとめて注文して配達してもらってる。まあ、引きこもりってやつかな」 はあ、と声を洩らすしかなかった。その状態に近い人間とは仕事の関係で話したことはあるが、こうして実際に会うのは初めてだ。 テレビなどで観ていた先入観か、もっと鬱屈して、とにかく暗くて会話が成り立たない人間が引きこもるものだと思っていたが、裕貴のイメージは微妙に違う。確かに陽気とは言いがたいが、こうして啓太郎と会話が成り立っている。「……だったら、俺を部屋に入れてよかったのか? 嫌なもんじゃないか。自分の空間に他人が入り込むっていうのは」 「何言ってるんだ。おれは部屋に来ていいなんて一言も言わなかったのに、あんたが一方的に押しかけてきたんだろ」 「いや、迷惑なら帰るが……」 「別にいい。あんたのベランダでのぼやきを聞いたら、哀れに思えたから」 引きこもっている人間にまで同情される自分は一体なんなんだ――。 一瞬、泣き笑いたいような心境になった啓太郎だが、皿に料理が盛られる気配を感じると、どうでもよくなった。「自分一人だと思ったから、大したものは作れなかったけど」 そう言って裕貴がテーブルの上に並べたのは、茶碗に山盛りのご飯に、たっぷりの野菜とともに盛られた牛肉の味噌炒め、すり身団子の入ったスープだった。「すげー……」 多少まともなものが食べられればいいと思っていたが、まとも以上だ。完璧すぎる食事だ。 さっそく箸を手にして、牛肉の味噌炒めを口に運ぶ。甘みのある味噌の味が舌の上に広がり、とにかく美味かった。 勢いよく掻き込み始めると、裕貴は自分の分をトレーにのせて隣の部屋に向かおうとする。「おい、一緒に食わないのか?」 「他人と向き合って食事するのは苦手なんだ。気にせず食べたらいいよ。おれはこっちの部屋で食べるから。……そろそろ、パーティーメンバーも集まった頃だと思うし」 謎の言葉を最後に呟いてから、裕貴は隣の
「こんなことなら、会社帰りに無理してでも、焼肉食ってくりゃよかった。カルビ……、カルビ食いたい。ああ、ハラミもいいな。にんにくたっぷりの。それにロース――」 考えるだけでヨダレが出そうになるが、余計に腹が減っただけの気もする。焼肉のことを考えたせいだけではなく、啓太郎の食欲を刺激するいい匂いがしているのだ。肉の焼ける香ばしい匂いだ。 どこから漂ってくる匂いかと思えば、どうやら隣の部屋かららしい。「……世の中間違ってるよな。部屋に帰る暇もないぐらい忙しく働いている俺が、メシも食えずに空しく煙草を吸って気を紛らわせているのに、気楽そうな学生みたいな奴が、悠々と肉を焼いて食ってるなんて。……というか、俺の人生ってなんだ。手料理を作って待ってくれている彼女すらいないんだぞ」「――あんた、うるさい」 啓太郎の独り言が盛り上がってきたところで突然、冷ややかな声が割って入ってきた。驚いた啓太郎が声がしたほうを見ると、隣の部屋との仕切りの横から、さきほどの青年がひょっこりと顔だけ出していた。きれいな顔にあるのは、いかにも迷惑そうな表情だ。 思わず青年の顔をじっと凝視した啓太郎だが、すぐにあることに気づく。「もしかして……、さっきからずっと聞いていた、とか……?」「フードデリバリーで料理を注文してから云々に始まって、焼肉でカルビやハラミが食いたいという言葉に続き、隣の奴が肉を焼いているのが気に食わない、という発言までのこと? あっ、彼女もいないんだよね」「……丸聞こえじゃねーか」 決まりが悪くて、啓太郎は吸いかけの煙草を灰皿で揉み消す。つい言い訳のように説明していた。「数日ぶりに部屋に帰ってみたら、冷蔵庫の中が空っぽだったんだ。食いに行こうにも、一度部屋に入って着替えると、億劫でな。それで、こうやって煙草を吸いながらぼやいて、どうしようかと考えてたんだ」「だったら、お裾分けしようか? さっき荷物を玄関に運び入れてくれたお礼に。もっとも、焼肉じゃないから、無理にとは言わないけど」 すぐにできる、という言葉が決定的だった。啓太郎は即答する。「食う」 それだけ言って部屋に戻ると、啓太郎は玄関に向かう。もどかしくサンダルを履いて飛び出し、隣の部屋のインターホンを鳴らす。少し間を置いて、顔をしかめた青年がドアを開けた。「……すぐできるとは言ったけど、さすがにま
他人と話したがらない若者の相手は慣れていた。啓太郎の勤める開発会社に入ってくるプログラマーの中には、意外と多いタイプだ。 青年があっさりドアを閉める姿を見送ってから、啓太郎もアタッシェケースを取り上げて自分の部屋に帰る。 三日ぶりの我が家は――悲惨だった。 男の一人暮らしはこんなものだと思いながらも、物で溢れて散らかったダイニングを見ると、やはりげんなりする。 なんとなく空気が澱んでいるように感じた啓太郎は、空気清浄機のスイッチを入れて、スーツからラフな格好へと着替えた。 ゆっくりと風呂に浸かるのも魅力的だが、今の自分なら、確実に脳貧血を起こせる嫌な自信があった啓太郎は、とりあえず血糖値を上げることにする。つまり、メシだ。 さっそく冷蔵庫の前に屈み込んでドアを開けたが、すぐに啓太郎はがっくりと肩を落とすことになる。 見事に冷蔵庫の中が空っぽだったのだ。「そうだった……」 家を空ける前、仕事で数日泊まり込む事態を想定して、冷蔵庫は空にしてしまったのだ。もちろん、風呂上がりに愉しみにしていたビールもない。あまりに疲れていたため、帰りにコンビニに立ち寄ることを忘れていた。 いつまでも空の冷蔵庫の中を恨みがましく眺めているわけにもいかず、大きく息を吐き出してから冷蔵庫のドアを閉める。 立ち上がり、テーブルの上に置いた財布に手を伸ばそうとしたが、啓太郎は一声唸ってためらった。「――面倒だ」 マンションから五分ほど歩けば、弁当屋に定食屋、コンビニにスーパーといった店が立ち並び、気力さえあれば食べることにはまったく困らないのだが、今の啓太郎にはそこまで出かける気力が欠けていた。 冷蔵庫が空という想定外の出来事に直面して、完全に気が抜けてしまった。 仕方なく、財布の横に置いた煙草とライター、それに灰皿を手に取り、ベランダへと出る。とりあえず煙草でも吸って落ち着けば、多少は空腹も紛れて外に出る気になるかと、啓太郎は自分自身に期待したのだ。 煙草に火をつけ咥えると、ベランダの手すりにもたれかかる。すでに日が落ちた辺りは薄暗いが、少し視線を遠くにやれば、ネオンがまぶしい。どの店も、会社帰りのサラリーマンやOL、学生たちで、これからにぎわうのだ。 こうして見れば、どの店もすぐ側だと実感できるが、いざ自分の足で歩くとなれば、これがなか
初めて知ったが、隣人は二十代前半ぐらいに見える青年だった。少々肌寒くなってきた時期のため、トレーナーの上からやたら大きなカーディガンを羽織ってはいるが、痩せた体つきなのが見て取れる。無駄に長身の啓太郎ほどでないにしても、身長はあるようだ。 不揃いに伸びた髪が動くたびに揺れ、その拍子に隠れた顔が露わになる。ドキリとするほど、きれいな顔立ちをしていた。不健康に顔色は青白いが、だからこそ、繊細な目鼻立ちが映えて見える。 青年は不機嫌そうに唇を曲げ、ドアにぶつかりながらなんとか箱を一つ部屋に運び入れる。このとき啓太郎と目が合ったが、青年は露骨に顔を背け、作業を続ける。 都会での生活なんてこんなものだと思いながら、啓太郎が自分の部屋に向かおうとしたとき、重々しい音がする。見ると、青年が発泡スチロールの箱を足元に落としたところだった。蓋が外れて中が見えたが、ぎっしりと食品が詰まっている。 青年は落ち着いた動作で屈み、蓋を閉め直してから、また苦労して箱を持ち上げようとしていたが、頼りない足取りに見ていられなくなる。啓太郎は持っていたアタッシェケースを置いてから、青年に歩み寄った。「手伝おうか?」 パッと顔を上げた青年が、不審そうに啓太郎を見る。長い前髪の間から、涼しげな切れ長の目が覗いており、改めて、青年の顔立ちのよさに感嘆させられる。これで服装さえきちんとしていれば、モデルだと名乗られても信じるかもしれない。 啓太郎はそんなことを考えながら、できるだけ感じのいい笑顔を浮かべ続ける。「俺、隣の部屋に住んでるんだ。だから怪しい者じゃない」 自分の部屋を指さして見せたが、信じているのかいないのか、青年の表情が変わることはない。 啓太郎は、自分の外見が他人に不快さや警戒心を与えるものではないと把握している。 ほどほどにハンサムで気安い雰囲気を漂わせ、これに穏やかな笑顔を付け加えると、さらに好感度が増す。これでも大学時代は女の子たちにもてたのだ。 あの頃が、人生のピークだった――。 思わずそんなことを考えた次の瞬間には、猛烈な空しさが啓太郎に押し寄せてくる。人目がなければ、ひっそりと涙を流していたかもしれない。 青年がじっと見つめているのに気づき、啓太郎は我に返る。慌てて他の箱を持ち上げた。見た目よりずっと重い。だが、足元がふらつくほどではない。