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夫と別れた途端、夫と息子が土下座で戻ってきてくれと言い出した

夫と別れた途端、夫と息子が土下座で戻ってきてくれと言い出した

By:  バナナCompleted
Language: Japanese
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会社の忘年会で、夫と女性秘書が肩を寄せ合いながら、楽しそうにピアノを連弾していた。 二人が手をつないで壇上から降りてくると、息子まで嬉しそうに駆け寄っていく。 「蛍さん、すごいね!なんでもできるんだ。蛍さんが僕のママだったらよかったのに」 目の前の、仲睦まじい三人を眺めながら―― 私は静かに、心の底で決めた。 もう、いい。 捨てるべきものは、ちゃんと捨てないと。

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Chapter 1

第1話

会社の忘年会で、夫と女性秘書が肩を寄せ合いながら、楽しそうにピアノを連弾していた。

二人が手をつないで壇上から降りてくると、息子まで嬉しそうに駆け寄っていく。

「蛍さん、すごいね!なんでもできるんだ。蛍さんが僕のママだったらよかったのに」

目の前の、仲睦まじい三人を眺めながら――

私は静かに、心の底で決めた。

もう、いい。

捨てるべきものは、ちゃんと捨てないと。

時野一真(ときの かずま)が息子の言葉に頷きかけた瞬間、私は大股で前へ歩き出し、彼のスーツに付いたマイクを思い切り引きちぎった。

キィィン――と耳を刺すような音が会場中に響き、さっきまでの賑やかさが一気に凍りつく。

すぐに、ひそひそとした声が飛び交い始めた。

「社長の面子を潰すなんて……奥さん、身の程知らずじゃない?」

「いや、でも社長もどうなの。愛人まで連れてきて、息子まで一緒って……」

ざわつく会場に反比例するように、一真の顔色はみるみる険しくなる。

彼は素早く忘年会のお開きを宣言し、来賓たちを帰らせた。

ただし、夏目蛍(なつめ ほたる)だけは残したまま。

真紅のイブニングドレスを纏う蛍は、一真の隣に堂々と立っている。

その姿は、一真がずっと昔に亡くした初恋の人・辛島悦子(からしま えつこ)に瓜二つだった。

息子の時野颯太(ときの そうた)はといえば、蛍の前にすっと立ちふさがり、私が彼女に何かするのでは、とでも言いたげにこちらを睨んでいる。

本当に、微笑ましい。まるで、彼ら三人が本物の家族みたいだ。

一真は片手で蛍の肩を軽く叩きながら、苛立ちを隠そうともせず私を睨めつけた。

「みんなの前で何してんだよ。そんなに蛍が気に入らないのか。

西の別荘に住まわせる。お前とは会わせない。

安心しろよ。おばあ様には約束したんだ。時野家の妻の座は、お前のものだって」

私が黙っていると、颯太まで怒鳴ってきた。「あっち行ってよ!ママなんか蛍さんに全然かなわない!蛍さんのほうがずっといいもん!蛍さんが僕のママだったらよかった!」

夫と息子が、まるで敵を見るような目で私を見ている。

私は何か言おうとしても、喉が詰まって声が出ない。

その様子を、蛍は余裕の笑みを浮かべて眺めていた。「奥様、私と一真さん、本気で愛し合ってるの。正妻の座を奪ったりはしないから、どうか安心して」

その瞬間、ふっと、どうしようもなく疲れが押し寄せた。

――もう、この人たちと関わりたくない。

私は手首のブレスレットを外し、一真へ差し出した。「これ……返すわ」

一真は一瞬きょとんとしたが、すぐに不機嫌そうに受け取り、振り返って蛍の手首にはめてやった。「君にやるよ」

そして、私を嘲るような目で見下ろす。

「さすがだな、千尋。時野家に小さい頃から育てられただけあって、物分かりがいいじゃないか。

時野家の宝を何の躊躇もなく返したとはな」

私の無表情を見て、一真は鼻で笑った。「そこまで従順なくせに、なんで今日みたいな真似した?

まだ礼儀が分かってないみたいだな。後でマナーの先生でも呼んで、叩き込んでもらうか」

私の返事なんて待たず、一真は蛍の手を引いて歩き出す。

そして、ふと立ち止まった。

左手の結婚指輪を静かに外すと、ためらいもなく床へ放り投げる。「これも、もういらない」

指輪はカラン、と乾いた音を立てて床に落ち、コロコロと転がって会場の隅へ消えた。

あの指輪は、私が選んだものだった。一真はとても気に入って、ずっと外さなかったのに。

今は、こんな簡単に捨ててしまえるんだ。

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第1話
会社の忘年会で、夫と女性秘書が肩を寄せ合いながら、楽しそうにピアノを連弾していた。二人が手をつないで壇上から降りてくると、息子まで嬉しそうに駆け寄っていく。「蛍さん、すごいね!なんでもできるんだ。蛍さんが僕のママだったらよかったのに」目の前の、仲睦まじい三人を眺めながら――私は静かに、心の底で決めた。もう、いい。捨てるべきものは、ちゃんと捨てないと。時野一真(ときの かずま)が息子の言葉に頷きかけた瞬間、私は大股で前へ歩き出し、彼のスーツに付いたマイクを思い切り引きちぎった。キィィン――と耳を刺すような音が会場中に響き、さっきまでの賑やかさが一気に凍りつく。すぐに、ひそひそとした声が飛び交い始めた。「社長の面子を潰すなんて……奥さん、身の程知らずじゃない?」「いや、でも社長もどうなの。愛人まで連れてきて、息子まで一緒って……」ざわつく会場に反比例するように、一真の顔色はみるみる険しくなる。彼は素早く忘年会のお開きを宣言し、来賓たちを帰らせた。ただし、夏目蛍(なつめ ほたる)だけは残したまま。真紅のイブニングドレスを纏う蛍は、一真の隣に堂々と立っている。その姿は、一真がずっと昔に亡くした初恋の人・辛島悦子(からしま えつこ)に瓜二つだった。息子の時野颯太(ときの そうた)はといえば、蛍の前にすっと立ちふさがり、私が彼女に何かするのでは、とでも言いたげにこちらを睨んでいる。本当に、微笑ましい。まるで、彼ら三人が本物の家族みたいだ。一真は片手で蛍の肩を軽く叩きながら、苛立ちを隠そうともせず私を睨めつけた。「みんなの前で何してんだよ。そんなに蛍が気に入らないのか。西の別荘に住まわせる。お前とは会わせない。安心しろよ。おばあ様には約束したんだ。時野家の妻の座は、お前のものだって」私が黙っていると、颯太まで怒鳴ってきた。「あっち行ってよ!ママなんか蛍さんに全然かなわない!蛍さんのほうがずっといいもん!蛍さんが僕のママだったらよかった!」夫と息子が、まるで敵を見るような目で私を見ている。私は何か言おうとしても、喉が詰まって声が出ない。その様子を、蛍は余裕の笑みを浮かべて眺めていた。「奥様、私と一真さん、本気で愛し合ってるの。正妻の座を奪ったりはしないから、どうか安心して」そ
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第2話
一真は蛍を連れて会場を出ていった。颯太も当然のように、二人の後を追いかけていく。私は彼らを止めなかった。ただ会場の隅に落ちていた指輪を拾い上げ、そのままゴミ箱へ落とす。スタッフに片付けを任せ、私はひとり車を走らせて家へ戻った。家に着くと、まず派手なドレスを脱いだ。白いシャツに着替え、クローゼットからスーツケースを取り出して、淡々と荷物を詰め始める。普通の夫婦なら、離婚を考える時には財産分与だの、慰謝料だの、親権だの、いろいろ整理するべきことがある。でも私たちの場合、問題は颯太だけだった。あの盛大だった時野家の結婚式で、当の二人が婚姻届を出していなかったなんて――誰が想像できただろう。五年経った今でも、あの日一真が言い放った言葉が頭から離れない。「千尋。俺の心も、戸籍も、全部悦子のものなんだ。結婚式の日、後悔するぞ」その時の一真は、どこか意地の悪い笑みを浮かべていた。私はただの当てつけだと思っていた。まさか本当に、式当日に悦子の遺影を抱えて現れるなんて、思いもしなかった。一真は私を見下ろしながら、嘲るように言った。「千尋。俺と結婚したいなら、悦子の遺影と一緒に誓えよ。俺の人生で妻になれるのは悦子だけだ。お前じゃない」胸の奥が冷たく締めつけられて、息をするのさえ苦しかった。それでも私は一真を諦めきれなくて、式を挙げ、颯太を産んだ。仕方なかった。相手は一真だったから。十五年間、私のそばにいた一真だったから。結婚してからの数年間、確かに仲良く過ごせた時期もあった。私はまた期待してしまった。――いつか彼が私をちゃんと見てくれるんじゃないか、と。でも結局のところ、一真はあっさりと私を切り捨てた。もういい。一真も、颯太も、私には要らない。スーツケースを引いて家を出た時、時野家の屋敷はひっそりと静まり返っていた。まるで時野おばあ様が私を引き取って、時野家に連れてきたあの夜のように。十五歳の一真が、本から顔を上げて、目を輝かせながら言った。「この本、すごく面白いよ。一緒に読まない?」でも今の私は、もうあの頃のように誰かに迎えられることはなかった。
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第3話
長い旅を経て、私はようやく懐かしい草原に辿り着いた。牧民の家を借りて、しばらくここで暮らすことにした。故郷を離れていた時間が長すぎたせいか、この地域の方言はすっかり忘れてしまっていて、聞き取るのも一苦労だった。幸い、隣に住んでいるのも他の地域から来た人で、ある日道に迷った時、彼が助けてくれた。翌日、私はお礼にお菓子を作って持っていった。「千尋さん、これめちゃくちゃ美味しいね。本格的だよ」江崎蓮(えざき れん)が口いっぱいに頬張りながら、忙しそうに動くリスみたいで、私は思わず笑ってしまった。話しているうちに、蓮がドキュメンタリー撮影のために来ているカメラマンだと分かった。その瞬間、胸が少し弾んだ。写真は、私も大好きだから。蓮は学生のように見えて、全身から青春感が溢れている。本当なら、私だってまだ二十五歳なのに、この数年間は一真と颯太中心の生活ばかりで、自分がずっと年を重ねたように感じていた。気持ちを整えるために、時間があれば草原を馬で走ったり、花を摘んで庭に飾ったりする。質素だけど、ここは私だけの小さな世界で、とても満たされた気持ちになれた。午後、蓮と山の上でタイムラプスを撮る約束をした。山道は歩いて登らなければならない。機材を分担して持とうとした私に、蓮は慌てて背中に隠すようにしながら笑った。「千尋さんに重いものを持たせるわけないでしょ。女性に荷物なんて持たせられないよ」その一言に、私は過去のことを思い出した。一真と一緒にいた頃、彼はいつも大股で先を歩いて、私は後ろからついていくだけだった。鞄を持って、水を渡して、黙って従うだけ。颯太も大きくなるにつれて、一真と同じようになった。時々、一真は私を馬鹿にした。「そんなものもまともに持てないのか?悦子ならこんなことにならない。千尋、お前は本当に使えないな」颯太まで真似して言った。「ママって、ほんと役に立たないよね」思い出した途端、視界がじんわり滲んだ。その変化に気づいたのか、機材をセットし終えた蓮がふと振り向いた。「千尋さん、この星空、見てごらん。嬉しい時も苦しい時も関係なく、いつだってこうして光って、俺たちを慰めてくれるんだ。いつかさ、きっとこの星空の下で、生まれ変われるよ」私は顔を上げ、広い空に流れる天の川を見つめた。蓮の
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第4話
颯太は一瞬固まり、それから泣き叫び始めた。「ママなんか最低だ!ママを替えるって冗談で言っただけなのに、子供相手に本気にするなんて!やっぱりママなんか蛍さんに全然敵わない!もう二度と相手にしない!」私は何も言い返さず、電話を切ってその番号をブロックした。蓮は心配そうにこちらを見たけれど、何も聞かずにそっとしておいてくれた。私は彼に微笑みかけ、草の上へそのまま横になる。時野家にいた頃は、何から何まで完璧でいなければならず、一挙一動に気を張り詰めていた。毎日のように叱られ、「時野家の恥になるな」と言われ続けた。少しでも不出来なところがあると、一真から冷たい嘲笑が飛んできた。「千尋、もう少し常識をわきまえろ。俺の家に恥をかかせるな。お前は悦子には到底及ばない」かつてはそんな言葉に深く傷ついて、胸の内で血を流していた。でも今は、もう気にならない。ようやくあの華やかな牢獄から抜け出して、もっと広い世界を見て、自分の夢を取り戻すことができたから。深夜、私は深い眠りに落ち、目が覚めるとテントの中だった。寝袋にしっかり包まれている。外へ出ると、蓮はすでにカメラの前に立ち、真剣な表情で朝日が闇を払う瞬間を狙っていた。「千尋さん、動かないで!」驚いた私は、髪を整えていた手を思わず止める。次の瞬間、蓮は興奮した様子で私を連写し始めた。まさか私をモデルにしているなんて――少し呆れてしまう。撮り終えると、私は硬くなった腰を押さえた。同じ姿勢が長く続いたせいで、古い痛みがぶり返してきたのだ。しゃがみ込みたいほど痛む。その時、不意に一真の言葉が頭をよぎる。「いい加減にしろ。俺が悦子の墓参りに行こうとすると、お前はいつも腰が痛いと言う。わざとだろ。立てないほど痛いんじゃなかったのか?なのに仕事はできるのか?千尋、お前は嘘ばかりだな」一真の冷たい顔と、初めて出会った頃の優しい笑顔が重なって見えた。私は手を伸ばして病院へ連れて行ってほしいと頼んだ。でも一真はその手を払いのけ、容赦なく背を向けて去っていった。蓮も同じようにするんじゃないか――そんな不安がよぎって、痛いとは言い出せなかった。家に戻った途端、私はソファに倒れ込んだ。気を紛らわせようとテレビをつけると、画面には一真のインタビューが映っ
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第5話
一真は、ずっと私の腰の怪我を嫌っていた。私が彼を守ろうとして負った傷だから。大学一年の頃、彼は悦子のために家出し、時野おじい様に脚を折られそうになった。私は咄嗟に彼の前へ飛び出し、振り上げられた椅子を代わりに受け止めた。意識が遠のく中、かすかに一真の声が聞こえた気がする。「千尋、目を覚ませよ!なんでそんな馬鹿なことするんだ。俺の代わりに罰を受けるなんて!心配するな。お前の腰は、俺が必ず治してやる」――けれど、一真はその約束を守ろうとしなかった。私が退院したその日の午前、一真は家を抜け出して、悦子と一緒に海外へ行ってしまった。彼を探して海外へ向かった時、一真は悦子の肩を揉みながら、私が見たことのない優しい眼差しを向けていた。私に気づくと、悦子は突然一真の襟を掴み、二人は激しくキスをした。その光景を前に、私は逃げるようにその場を離れた。……テレビのインタビューでは、記者が最近の離婚の噂について質問している。一真は表情ひとつ変えず、淡々とした声で答えた。「妻は最近、体調が優れないだけです。気晴らしに出かけていますが、すぐに戻ってきますよ」その口調は驚くほど断定的で、まるで私が彼から離れられないことを疑いもしないようだった。記者たちは羨ましそうに、ひそひそと声を潜めている。私は知っている。多くの人が、私は本当に「運のいい女」だと思っていることを。辺鄙な草原の少女が、両親が命を懸けて富豪の子供たちを救ったおかげで、幼い頃から時野家に引き取られ、一真のような天才と結婚できた。多くの人から見れば、私は何世代分もの福を積んだに違いない。でも、私だけが知っている。その代償は両親を失い、夫に無視され、実の息子に嫌われ、そして世間に陰で笑われ続けることだった。一真は毎週悦子の墓参りに行く。彼は義理の息子として、悦子の両親の世話まで自分でしていた。その影響で、颯太は「ママ」と呼ぶ前に、悦子の写真に向かって「悦子さん」と呼ぶようになった。悦子はもうこの世にいないのに、私の生活のあらゆる場所に、いつも彼女がいた。……テレビを消そうとした、その時。蓮がそっと私の顔を包み、流れた涙を指先で拭った。「千尋さん、泣かないで。君をちゃんと大切にして、愛してくれる人……きっと出会えるよ」その
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第6話
私は一真のことを考えるのをやめ、心を整えて蓮のドキュメンタリー撮影を手伝った。幼い頃から撮影が好きだった。今、やり直すチャンスを手に入れたのだから、もう一度夢を追いかけてみたい。夕方まで編集作業を続け、ようやくパソコンを閉じる。夕食を取ろうと箸を手にした瞬間、隣に住む蓮のことがふと頭をよぎった。あの日の、あの真剣な横顔――それは、一真が仕事に没頭して食事を忘れていた頃と似ていた。すぐに頭を振ってその考えを追い払い、私は隣の家のドアをノックした。「ご飯食べた?作りすぎちゃって……よかったら一緒にどう?」蓮の目がぱっと輝き、両手でお腹を押さえながら声を上げた。「覚えててくれて助かった!もうお腹ペコペコだったよ!」それから数日間、蓮と私は暗黙の習慣ができた。彼は毎日私の家で夕飯を食べ、食後は洗い物や家事まで手伝ってくれる。そんな蓮の何気ない行動が、少しずつ私の空っぽだった心をあたためていった。ある日、以前応募していた写真が浜崎市の企業に選ばれ、面談の連絡が届いた。出発する日の早朝、私は蓮に挨拶しようと家を出る。すると、蓮の家の前に黒い車が何台も停まっていた。黒服のボディーガードたちが玄関前に立ち並んでいる。蓮は玄関で彼らと向かい合っていて、私に気づいたら、ぱっと目を輝かせた。「千尋さん!」私が戸惑いながら近づくと、蓮は私の手を掴んで家の中へ引き込んだ。そこで私は浜崎市へ向かうことを告げた。「草原は本当に素敵だけど……あの日あなたが言ってくれたこと、やっぱり正しかった。自分に新しい人生をあげたいから、一度浜崎市に戻ることにしたの」一真も颯太も浜崎市にいる。でも、私は小さい頃からあの場所で育った。過去の人たちのために、自分の過去すべてを捨てる必要はない。私が話し終えると、蓮は顎に手を当て、いたずらっぽく笑った。「ちょうどいいじゃん。俺の実家も浜崎市なんだ。一緒に行こうよ、千尋さん」こうして私は蓮と一緒に車に乗り込んだ。一真に会うかもしれないという不安は、蓮の道中のおしゃべりのおかげで、少しずつ薄れていった。浜崎市での仕事は順調だった。ただ、仕事の都合でしばらく滞在する必要がある。住む場所を見つけたばかりの頃、蓮が大きな荷物を抱えて私の部屋のドアをノックしてきた。「千尋さん、
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第7話
浜崎市に戻ってからの日々は、想像以上に穏やかだった。メディアの邪魔もなく、会社の面倒な仕事もない。時野家からの電話も、一度もかかってこない。ようやく、私と時野家は「他人」になれたのだ。世間の注目は今や蛍に移り、戻ってこない社長夫人の私は、自然と彼らの視界から消えていった。ニュースに次々と映る二人の親しげな写真を見て、私は思わず皮肉な笑みを浮かべた。やっと分かったことがある。一真は表で見せていたほどには、悦子を愛してはいなかった。写真の中の一真は、女性が胸に飛び込んでくるのを許し、混雑した会場で肩を抱き、機嫌の悪い颯太を蛍の腕に渡している。最後の一枚では、彼はしゃがんで女性の唇についたソースを指で丁寧に拭き取っていた。もし本物の愛なら、どうして似た顔ひとつで簡単に移ってしまうのだろう。つまり一真は、誰のことも愛したことがないのだ。ネット上でも騒がしく、みんなが好き勝手に推測していた。堂々と蛍と出入りしているということは、私はもう捨てられたのか、と。蓮がそっと近づき、私のスマホ画面をちらりとのぞくと、軽く鼻を鳴らした。「千尋さん、こんなおじさんチェックしてるの?もしかして俺じゃ魅力足りない?」おじさん?一真はまだ三十歳。さすがにおじさん扱いは気の毒かもしれない。でも、蓮がこんなふうに言うのを聞いたら、私はつい笑ってしまった。私が笑い終えるのを待って、蓮は深い眼差しを向けた。「千尋さん、この人のことで泣いてたよね。時野グループの時野一真……俺、会ったことある。ってことはさ、千尋さんってニュースに出てた逃げた社長夫人なんだ。じゃあ今の俺って、千尋さんが外で囲ってる愛人ってこと?」「ちょっと!」私は軽く彼の腕を叩いた。「愛人なんかじゃないわよ。変なこと言わないで!」蓮はわざと痛がるふりをして、ふらりと私の肩に身を預ける。笑いながら、悪戯っぽく囁いた。「でもさ……千尋さんの愛人になれるなら、俺は結構嬉しいけど?」蓮の吐息が首筋にかかり、ぞくりと体が震えた。気づけば私は、蓮の腕の中にすっぽりと収まっていた。蓮は澄んだ瞳で私をじっと見つめ、静かに問いかける。「千尋さん。俺は愛のために愛人にまでなったんだよ?いつ、正式に恋人にしてくれる?」
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第8話
手の中の、出来たばかりの婚姻届受理証明書を見つめながら私は一瞬、頭がついていかなかった。さっき蓮があの言葉を言った後、急に落ち込んだ顔で私に助けを求めてきたのだ。「母さんがさ、カメラマンの夢を叶える条件は『今すぐ結婚すること』なんだって。でも俺の周りには千尋さんしかいないんだよ。メスの蚊すら寄ってこないのに。でも千尋さんはすぐに離婚できないし、急に相手も見つからないし……どうしたらいい?」蓮は恨めしそうな目で私を見上げた。その表情に気を取られ、私はつい、自分が一真と婚姻届を出していないことを、ぽろりと口にしてしまった。十五年も共に暮らし、昼も夜もすべてを共有してきたからだろう。一真は、とっくに忘れていたのだ。私たちを繋ぐのは颯太だけで、正式な結婚証明書すら存在していないという事実を。蓮はその話を聞くなり、すぐに私を市役所へ連れて行った。昔の私は、ずっと夢見ていた。いつか、一真と入籍する日が来るのだと。けれど、まさか自分が本当に婚姻届を提出する側になるなんて。そしてその相手が、一真ではない。……結婚という後押しもあったのか、蓮のタイムラプス写真展は家族の全面協力であっという間に開催された。私が会場に着いた頃には、写真展はもう終わりに近づいていた。それでも、中にはまだ多くの人が残っていた。その中に、一真と颯太そっくりの父子の姿が見えた。この時間なら、もう家で蛍と一緒にいるはず。ここにいるわけがない。首を小さく振り、私は会場へ足を踏み入れた。蓮の作品は、どれも息を呑むほど美しかった。さらに驚いたのはその中に、私の写真がたくさんあったことだ。絵を描く私。馬に乗って地平線へ駆けていく私。朝日が昇る瞬間、柔らかな光の中で髪を整えている私。それらの写真は特別な展示室にまとめられ、「最愛の人」と題されていた。胸が妙にざわついて、私はそっと立ち去ろうとした。しかし、その瞬間。誰かに手首を強く掴まれた。「千尋。いつまでふざけてるつもりだ?」
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第9話
聞き覚えのある声に、私は一瞬で冷や汗がにじんだ。一真だ。さっき見間違いじゃなかった。本当に、一真と颯太がここにいる。いつも冷淡なはずの一真の目に、今ははっきりと怒りが浮かんでいた。「千尋、どこまで逃げるつもりだ?半年以上も姿を消して、俺と息子のことを一度でも考えたか?お前は俺の嫁だぞ。少しは時野家の人間らしく振る舞え」言うほどに一真は興奮し、掴まれた手首がズキズキと痛んだ。振りほどこうと数歩下がった瞬間、颯太が慕わしそうな顔で私の足にしがみついてくる。「写真の人、ママなの?ママが前からこんなに綺麗だったら、僕、蛍さんをママにしたいなんて言わなかったよ。今すぐパパと僕と一緒に家に帰れば許してあげる。じゃないと……」颯太が言い終える前に、蓮が飛び込んできて私を引き離した。蓮は、私の手首に残った赤い痕を見ると、拳を握りしめ、そのまま一真の顔へ殴りかかった。「時野一真。俺のところで騒ぎ起こすなんて、正気かよ!」裕福に育った一真は、蓮の相手になるはずもなく、一撃で地面に倒れ込んだ。私が助け起こさないまま立ち尽くしていると、一真の目に一瞬、暗い影が差した。でも彼はすぐに歯を食いしばり、蓮に怒鳴りつける。「さっき俺がその絵を買いたいと言った時、お前、非売品で『自分の妻のための作品』だと言ってただろ?よく見ろ。写真に映ってるのは俺の妻だ!」蓮は冷えた表情で腕を組み、一真を見下ろして嘲るように笑った。「お前の妻?時野社長、人の嫁を横取りするって、どういう神経だよ。それに千尋さんはお前の妻だって証拠は?」一真と颯太の顔が、はっきり青ざめた。二人ともよく分かっている。この何年も、私は時野家の中で透明人間だったことを。二人は、私を見ることすら面倒くさがっていた。だから私たちの写真など1枚も存在しない。自分が不利だと理解したのか、一真は蓮へ怒鳴り返した。「江崎蓮!お前が俺の妻を隠しておいて、まだ証明しろと言うのか?説明を求めたいのはこっちだ!」蓮は肩をすくめて笑い、懐から紙を取り出した。「説明なんて要らないだろ。お前らに証拠がなくても構わない。俺にはあるから。これ――俺と千尋さんが出した婚姻届の受理証明だ。千尋さんはもう、俺の正式な妻だ」一真は証明書を見つめ、しばらく固まっていた。ようやく
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第10話
その言葉を聞いて、颯太はわっと泣き出し、しゃくり上げながら手を伸ばしてきた。まるで私を心配させれば、元に戻れると思っているかのように。一真は苛立ったように舌打ちし、颯太の泣き声を一瞬で止めた。振り返った彼は、まっすぐ私を見つめ、私が駄々をこねている「証拠」を探すように目を細める。しばらくして、自信に満ちたその顔に初めて焦りの色が浮かんだ。虚勢を張るように、低い声で問い詰めてくる。「お前を手放すと思ったのか?千尋。お前は時野家が育てたんだ。死ぬまで時野家の人間として生きるんだよ」そう言って一真は私の手を掴み、大股で外へ連れ出そうとした。だが、二歩も行かないうちに、蓮のボディーガードたちが立ちはだかった。「時野社長。今日、俺の嫁を連れて行く気なら――拉致で警察に通報するよ。まさか、俺・江崎蓮に、自分の妻を守る力がないと思ってるのか?」私は呆然としてしまった。こんな状況、夢にも思わなかった。私が出て行けば、一真も颯太も喜ぶと思っていた。私が時野家を離れると言えば、二人はすぐに蛍を家に連れて帰ると信じていた。なのに、どうして。一真は衝動的な性格そのままに、状況を見るなりすぐ自分のボディーガードに指示を飛ばした。現場は混乱し、全員がまとめて警察へ連行された。蓮は眉骨を一真に擦られて傷つき、ずっと私の肩に凭れながら「痛い」と訴え続ける。一方、一真はさらにひどい怪我をしていて、顔中が青あざで、調停室の反対側で黙り込んでいた。そんな一真の様子を見て、蓮はこらえきれず笑った。「時野社長、年取っても行動が変わらないんだね。最初に手を出すなんて。俺と違って落ち着きがない。千尋さんには、俺みたいに若くて冷静な方が似合うよ」私はテーブルの下で蓮の太ももをつつき、警察署で余計なことを言わないよう牽制した。だが、逆に蓮に手を握られてしまう。蓮は私の手をゆっくりと持ち上げ、一真の目の前で私の指の間へ一本ずつ自分の指を差し込み、しっかりと絡めた。そのゆったりした動作に、一真の怒りは一気に燃え上がる。しかし動く前に、警察官に「座ってください」と制される。防衛側だった私と蓮は、すぐに釈放された。出る前、私は真っ赤になった一真の目を見つめ、静かに言った。「時野一真。時野家が私を十五年育ててくれたのは
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