Masuk「いらっしゃいませー」
コンビニ店員のマニュアル通りの声と、明るすぎる照明がまぶしい。私は迷わず弁当コーナーへ直行した。棚には、売れ残った商品が寂しげに並んでいる。
「……あった」
私の狙いは彩り豊かなパスタでも、おしゃれなサラダボウルでもない。賞味期限が迫り、黄色い値引きシールが貼られた幕の内弁当だ。『30%引き』。このシールの輝きだけが、今の私を癒やしてくれる。
手に取った弁当はずっしりと重い。 煮物、揚げ物、焼き魚。そこに華やかさやおしゃれさはない。 徹底的に茶色い。
実を言うと、これくらいのおかずなら自分でも作れる。 なんなら、ここにある弁当より美味しく作る自信だってある。 私の実家は定食屋だし、4人きょうだいの長女として弟と妹たちの胃袋を支えてきた料理スキルはあるのだ。
でも自分のためだけにキッチンに立つ気力は、1ミリも湧いてこない。
「誰か」のためなら手間暇かけて出汁も取るけれど、「私」のためだけに火を使うなんて、なんだか申し訳ない気がしてしまう。 脇役のエネルギー補給に、手作り料理なんて贅沢だ。今の私には、この冷えた揚げ物がお似合いなのだ。隣には、鮮やかな赤や緑の野菜が入った「1/2日分の野菜が摂れるパスタ」が定価で並んでいる。 一瞬迷うが、私の手は自然と安い方を選んでいた。
ついでにアルコールコーナーへ。ここでも選ぶのは、一番安い糖質オフの発泡酒だ。健康に気を使っているわけではない。単に安いからだ。安くて酔えれば、宅飲みのお酒はそれでいい。
レジで無機質に会計を済ませ、店を出る。夜風が冷たい。ビニール袋の持ち手が、疲れた指に食い込んだ。
ふと、視線を感じて顔を上げた。駅前の巨大な街頭ビジョンがキラキラと輝かしい光を放っている。そこに、この世のものとは思えないほど整った顔が映し出されていた。
『Noix(ノア)ニューシングル、本日発売』
綺更津(きさらづ)レン。アイドルグループ『Noix』の不動のセンターだ。
「顔面国宝」「氷の絶対王者」「生きる彫刻」。 数々の異名を持つ彼は、画面の中で完璧な微笑みを浮かべていた。「……っ、尊い……」
思わず、呻くような声が漏れる。 語彙力が死滅して、それ以外の感想が出てこない。
夜の21時。それは、信徒にとって最も神聖な礼拝の時間だ。 私はお風呂を済ませて身を清めてから、部屋着の中でも一番綺麗な「正装」に着替えた。 テレビの前に座布団を敷いて正座する。その視線の先、部屋の隅にあるカラーボックスの上には、私の信仰の対象が鎮座している。 あの一角は名付けて、「レンくん神棚」。 最新のアクリルスタンドを筆頭に、厳選された缶バッジ、ファンクラブ限定のポストカード。 そして中央には、彼が愛用している香水『CielBlue(シエル・ブルー)』のボトル(未開封の観賞用)が祀られている。私はパンパン、と柏手を打ち、深く一礼した。「どうか今日も、世界が平和でありますように。レンくんの喉の調子がすこぶる良いものでありますように」 祈りを捧げ、リモコンの電源ボタンを押す。画面が明るくなり、生放送の音楽番組『ミュージック・アワー』のロゴが踊った。『今夜のトップバッターは、Noix(ノア)!』 司会者の声と共に、スタジオの照明が落ちる。鼓膜を震わせる、重厚なイントロが流れ始めた。無数のレーザー光線が交錯し、その中心に彼らが浮かび上がった。「……っ」 息を呑む。センターに立つのは、綺更津レン。今日の衣装は、氷の結晶を模したような青白いスーツだった。カメラを見据えるその瞳は、絶対零度のアイスブルー。唇の端をわずかに歪め、不敵に笑う。『――愛なんて、氷のように溶けて消える』 歌い出しのワンフレーズで、スタジオの空気が凍りついたように張り詰めた。完璧なピッチ。ダンスは指先の角度まで完璧に計算され尽くしている。汗さえもダイヤモンドの粉末のようにきらめき、彼の美しさを引き立てる演出にしかなっていない。(……同じ人、なんだよね?) 脳がバグを起こして、処理を拒否する。 昨日、この安物ラグの上で膝を抱えていた男と、画面の中で数百万人の視線を釘付けにしている「王」が、同一人物だなんて。 生物としての格が違いすぎる。あれはきっと、神様がうっかりシステムエラーを起こして、私
『――愛なんて、氷のように溶けて消える』 唇から紡がれる歌声はクリスタルのように硬質で、透明だった。 聴く者の心臓を直接握りつぶすような、甘く危険なハイトーンボイス。 顎を伝う汗さえきらびやかだ。 照明を弾いてきらめくそれは、もはや演出のための宝石か聖水にしか見えなかった。 呼吸をするのと同じように色気を撒き散らし、画面の向こうの数億人を殺しにかかっている。「…………」 昨日の、涙目で雑炊をかきこんでいた「迷い猫」はどこにもいない。 膝を抱えて「帰りたくない」と甘えてきた幼児もいない。 そこにいるのは、完璧にパッケージングされた商品としての「綺更津レン」だった。(遠い) あまりにも遠すぎる。画面の中の彼と、吊革に捕まっている私。やっぱり、私たちは別の世界に住む生き物なのだ。昨夜の出来事は、次元の裂け目がうっかり開いてしまっただけのエラーに過ぎない。もう二度と起きない奇跡だろう。 私はそっとブラウザを閉じ、スマホを鞄の奥底にしまった。◇「おはよーございまーす」 始業10分前のオフィスで、いつものようにタイムカードを切り、自分のデスクに向かう。給湯室の方から、キャピキャピとした声が聞こえてきた。 昨夜私に残業を押し付けた、後輩のキラキラ女子だ。お仲間の子たちと女子トークをしている。「ねえ昨日の番組見た!? レン様マジ尊かったんだけど~!」「見た見た! あの流し目ヤバくない? 見つめられただけで倒れるかと思った」「あんな完璧な人、絶対トイレとか行かないよね。てか霞食べて生きてそう」 彼女たちの会話が、鼓膜を素通りしていく。 トイレも行くし、お腹も鳴るし、必死な顔で雑炊も食べるよ。そう言いたくなる口を、ぐっと引き結んだ。「あ、小日向さーん! おはよーございます!」 私に気づいた後輩が、手を振ってくる。「小日向さんも見ました? 昨日のレン様!」「あ、うん。見たよ。…&he
何だか泣きたくなる。国民的アイドルがなけなしの小銭を置いていくなんて。その不器用さがひどく愛おしく、同時に胸を締め付ける。 私は小銭の山から、500円玉を1枚だけつまみ上げた。ひんやりとした金属の感触がする。銀色の硬貨は朝の光を受けて、鈍く光っていた。「……安すぎますよ、命の値段」 誰に言うでもなく呟いて、私はその500円玉をギュッと握りしめた。◇ 私は痛む体をぐーんと伸ばして、シャワーを浴びることにした。 髪や肌に染み付いた『CielBlue』の残り香を、安物のボディソープで洗い流していく。これは儀式だ。夢から覚め、現実に戻るための通過儀礼。 シャワーから上がったら、鏡の前でいつものメイクをする。派手すぎず、地味すぎず。誰の印象にも残らない「総務部の小日向さん」の顔を作る。 そうして出来上がったのは、モブの顔だ。いつもながらプロのモブ顔である。「あれは夢。全部、私の都合のいい妄想」 鏡の中の自分に言い聞かせる。推しをゴミ捨て場で拾って、ご飯を食べさせて、手を握って寝た? そんな小説みたいな展開、あるわけがない。疲れていたんだ、私。 アパートを出て駅へ向かった。満員電車に揺られながら、周囲を見渡す。 疲れ切った顔のサラリーマン。参考書を広げる学生。スマホをいじるOL。この車両の誰も、私が昨夜「国宝」にご飯を作ってあげたなんて信じないだろう。私自身でさえ、もう信じられなくなってきている。 スマホを取り出し、惰性でニュースアプリを開いた。トップニュースに見慣れた名前がある。『Noix(ノア)綺更津レン、新曲MV公開! 圧倒的な美で世界を魅了』 タップすると、動画が再生される。 重厚なイントロが鼓膜を震わせる。 画面の中の世界は氷で作られた城のように青白く、冷たく輝いていた。 その中心に彼がいる。―― 綺更津レン。 カメラを見据えるその瞳は、絶対零度のアイスブルーだ。 昨夜、潤んだ瞳で私を見上げていた男と同一人物だなんて、誰が信じるだろうか。そこにあるのは「媚び」など微塵もない、見る者すべてをひれ伏させる王者の眼差しだった。 長い手足が、鞭のようにしなやかに空気を切り裂く。 指先の動きひとつ、髪の揺れ方ひとつに至るまで、すべてが緻密に計算された芸術品であるかのよう。激しいビートに乗っているのに、彼の周りだけ重力が仕事をしていないみた
チュン、チュン。爽やかな小鳥のさえずりで目が覚めた カァー、ガァー。と、言いたいところだけど、実際は近所のカラスのダミ声で目が覚めた。私の日常なんて、こんなものだ。「……んぐっ」 目を開けようとして、首にグキッと痛みが走る。バキバキと音がしそうなほど凝り固まった体を起こすと、腰からも悲鳴が上がった。 無理もない。フローリングの床に体育座りをしたまま、壁にもたれて寝ていたのだから。「……あ」 ぼやけた視界が焦点を結ぶ。 目の前の安物ラグの上には、誰もいない。 私が彼にかけてあげたタオルケットが、不器用に、でも丁寧に畳んで置かれているだけだ。「……いない」 当たり前だ。シンデレラの魔法は12時で解けるし、かぐや姫だって月へ帰る。国宝級アイドルが、築30年の木造アパートに永住するわけがない。 ふぅ、と息を吐いた。ほっとしたような。胸のど真ん中に、ぽっかりと穴が空いたような。形容しがたい喪失感が胸をかすめる。 でも、夢じゃなかった。6畳一間の空気には、確かに昨夜の香水――『CielBlue(シエル・ブルー)』の香りが残っている。甘く切なく、どこか寂しげなトップノート。それが私の生活、日常と混ざり合って、何とも言えない非日常の余韻を醸し出していた。◇ よろよろと立ち上がり、ローテーブルを見る。そこには空っぽになった土鍋と、綺麗に舐めとられたような茶碗が置かれていた。 そして、メモ帳の切れ端とおぼしき紙切れと、小銭の山があった。 紙切れを拾い上げる。乱雑に破り取られたメモ紙の裏面に、ボールペンで走り書きがされていた。『助かった。レン』「美味しかった」でも「ありがとう」でもなく、「助かった」。 その一言が、彼の切実な本音を物語っている。字は達筆だが、線が少し歪んでいた。書く時に手が震えていたのかもしれない。 私はその横の小銭たちを見た。500円玉が1枚と、100円玉が数枚。あとは10円玉や1円玉がじゃらじゃらと積まれていた。ざっと数えても、1000円に届くかどうかだ。(……これたぶん、全財産だ) 察してしまった。彼は昨日、どこぞのパーティー会場からボロボロになって逃げ出してきたのだ。バッグを持っている様子はなく、財布も持っていなかっただろう。 ポケットに入っていた小銭、それが彼の手持ちの全てだった。「無銭飲食はしない」という彼のプ
「……はぁ」 私は観念して、その場にしゃがみ込む。「分かりました。追い出しませんから」「……ほんと?」「本当です。今日はもう遅いですし、電車もないですし」 言い訳を並べ立てると、彼は安堵したようにふにゃりと笑った。その笑顔は、テレビで見る営業スマイルの百億倍、無防備で破壊的だった。 そのまま、彼は電池が切れたように横倒しになった。安物のラグの上に、高級スーツのまま転がる。ものの数秒で、スースーと規則正しい寝息が聞こえ始めた。 よほど疲れていたのだろう、気絶するように深い眠りへ落ちている。 でも――私のスカートを握った左手だけは、決して離そうとしなかった。◇「……どうしよう、これ」 私は、動くに動けなくなっていた。スカートを掴まれたまま、体育座りをする。 目の前には、世界が恋する綺更津レンの寝顔。 スーツは汚れだらけ、涙の跡も目立つ。 それでも、やっぱり。悔しいくらいに美しい。 長い睫毛が頬に影を落としている。形の良い唇が、わずかに開いていた。 無防備すぎる。ここがもしセキュリティ万全の高級マンションならまだしも、鍵も心もとないボロアパートだぞ? 不審者とか来たらどうするんだ。危機感なさすぎじゃないか。 というか、不審者は実質的に私か。(推しが、私の部屋で、私のスカートを握りしめて爆睡している……) 改めて状況を整理しようとして、脳が処理落ちする。これは無理だ、現実味がなさすぎた。 でも、太ももに伝わる彼の手の体温は、確かに熱い。 明日の朝、彼が起きたらどうなるんだろう。正気に戻って、「訴えてやる」とか言われたらどうしよう。あるいは、全部忘れて帰っていくのだろうか。 不安がないと言えば嘘になる。でも、それ以上に。彼が私の作ったご飯を食べて、私のそばで安心して眠っている。その事実が、たまらなく愛おしくて、誇らしかった。「……おやすみなさい、レンくん」 小声で囁く。返事の代わりに、彼が握った手に力を込め、身じろぎをして私の膝に額を押し付けてきた。温かい。生きている重みだ。 睡魔が、私にも忍び寄ってくる。このままここで寝るわけにはいかないけれど。あと5分だけ。あと5分だけ、この奇跡のような時間に浸っていたい。 私は膝の上の「国宝」を見守りながら、壁にもたれて目を閉じた。
カチン。スプーンが空の器に当たる、乾いた音がした。「……ふぅ」 レンくんは深く長く息を吐き出した。鍋の中には2人分の雑炊が入っていたはずだ。それを米粒一つ残さずきれいに平らげている。 満腹中枢が刺激されたせいだろうか。急激な血糖値の上昇が、彼を襲ったようだ。 さっきまで張り詰めていた糸が切れたように、まぶたが重く下がってくる。トロンとした目つき。警戒心剥き出しだった野生動物が、日向ぼっこをする猫のような顔になっている。 私は先ほどと同じように、昔拾った子猫を思い出していた。 あの子も最初は警戒心をむき出しにして、ごはんをあげたらガツガツ食べて。お腹がいっぱいになったら、眠ってしまったっけ。「お茶、入れますね」 私は立ち上がろうとした。食器を片付けて、温かいほうじ茶でも入れてあげよう。そう思って、一歩踏み出した瞬間だった。 クイクイ。何かに引っ張られて足が止まる。「え?」 見下ろすと、彼の手が伸びていた。骨張った長い指が、私の履いているフレアスカートの裾を掴んでいる。 ギュッ、と。シワになるほど強く。「あの……?」「……やだ」 小さな駄々っ子のような声がした。 それは確かにテレビの向こうで聞き慣れた彼の声なのに、ひどく幼く頼りない。「レンくん? あの、そろそろ帰らないと……マネージャーさんとか、心配してますよね?」「帰る」という単語を出した途端、彼が過剰に反応した。首を、ブンブンと横に振る。子供か。いや、今の彼は完全に幼児退行している。 何故こうなったのかは分からないが、切実な事情がありそうなことだけは分かった。 スカートを掴む手にさらに力がこもる。指の関節が白くなっているのが見えた。「……帰りたくない」 潤んだ瞳が私を見上げた。国宝級イケメンの幼気な上目遣い。その破壊力たるや、核弾頭クラスだ。「まだ、ここにいたい」 ズキューン。私の脳内で、何かが撃ち抜かれる音がした。さっきまで「触るな」「放っておけ」と威嚇していた男が、今は「捨てないで」と懇願している。このギャップ。この落差。これを「萌え」と言わずして何と言う!? 私の理性に残っていた「通報」というボタンが粉砕され、代わりに「保護」という巨大なスタンプが押された。