塩対応の国宝級アイドルは、私の手料理がないと生きていけないらしい のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

15 チャプター

1:雲の上の推し

「ごめーん、小日向(こひなた)さん! 急にデート入っちゃって!」 木曜日の19時過ぎ。 華やいだ空気が漂うオフィスに、甘ったるい声が響いた。  声の主は、営業部のマドンナ的存在である後輩女子。 彼女は合わせる手と申し訳なさそうな顔を作りながら、それでもデスクの上には既にブランド物のバッグが乗っている。「この入力、お願いできるかな? 小日向さんって、ほんと『お母さん』みたいに頼りになるし!」 お母さん。 その四文字が、私――小日向紬(こひなた・つむぎ)に地味なダメージを与える。私はまだ24歳だ。そりゃあ24歳でちゃんと結婚して子供がいる人もいるけど、私は独身、彼氏もいない。それなのに、社内での扱いは完全に「熟練のオカン」になっている。「分かりました。置いておいてください」 私は作り慣れた営業スマイルを貼り付ける。 口角を上げ、目は細め、相手に一切の罪悪感を抱かせないプロのモブの顔だ。 笑顔であっても華やかさのない、ごく地味な顔。「えっ、いいの!? やったあ! やっぱ小日向さん神! ありがとう!」「楽しんできてくださいね」「うん! 行ってきまーす!」 後輩はフローラル系の香水の匂いを撒き散らしながら、軽やかな足取りでオフィスを出て行った。自動ドアが閉まる音がして、オフィスに静寂が戻る。 はあ、と息を吐く。 ため息ではない。呼吸を整えただけだ。 私は4人きょうだいの長女だった。 共働きの両親に代わって、弟や妹の面倒を見るのは私の役目。 オムツを替え、離乳食を食べさせ、喧嘩の仲裁をし、宿題を見てやる。誰かの世話を焼くことは、私にとって呼吸と同じくらい当たり前の習性になっていた。「……さてと」 積み上げられた伝票の山を引き寄せる。人の世話が嫌いなわけじゃない。誰かの役に立つこと自体は、むしろ好きなほうだ。 ただ、たまに。ほんの少しだけ。 自分が「便利な脇役」として消費されることに、心が乾いてひび割れる音がする。「やるか」 私はキーボードに指を走らせた。カチャカチャという無機質な音だけが、誰もいないオフィスに虚しく響いた。◇「お疲れ様でしたー……」 誰に言うでもなく呟いて、タイムカードを切る。時刻は22時を回っていた。もちろん残業代は出る。それが唯一の救いだ。 駅前の大通りは、まだ金曜日の熱気に浮かれていた。 居酒屋のキャッチ、
last update最終更新日 : 2025-12-01
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2

「いらっしゃいませー」 コンビニ店員のマニュアル通りの声と、明るすぎる照明がまぶしい。私は迷わず弁当コーナーへ直行した。棚には、売れ残った商品が寂しげに並んでいる。「……あった」 私の狙いは彩り豊かなパスタでも、おしゃれなサラダボウルでもない。賞味期限が迫り、黄色い値引きシールが貼られた幕の内弁当だ。『30%引き』。このシールの輝きだけが、今の私を癒やしてくれる。 手に取った弁当はずっしりと重い。 煮物、揚げ物、焼き魚。そこに華やかさやおしゃれさはない。 徹底的に茶色い。 実を言うと、これくらいのおかずなら自分でも作れる。 なんなら、ここにある弁当より美味しく作る自信だってある。 私の実家は定食屋だし、4人きょうだいの長女として弟と妹たちの胃袋を支えてきた料理スキルはあるのだ。 でも自分のためだけにキッチンに立つ気力は、1ミリも湧いてこない。「誰か」のためなら手間暇かけて出汁も取るけれど、「私」のためだけに火を使うなんて、なんだか申し訳ない気がしてしまう。 脇役のエネルギー補給に、手作り料理なんて贅沢だ。今の私には、この冷えた揚げ物がお似合いなのだ。 隣には、鮮やかな赤や緑の野菜が入った「1/2日分の野菜が摂れるパスタ」が定価で並んでいる。 一瞬迷うが、私の手は自然と安い方を選んでいた。 ついでにアルコールコーナーへ。ここでも選ぶのは、一番安い糖質オフの発泡酒だ。健康に気を使っているわけではない。単に安いからだ。安くて酔えれば、宅飲みのお酒はそれでいい。 レジで無機質に会計を済ませ、店を出る。夜風が冷たい。ビニール袋の持ち手が、疲れた指に食い込んだ。 ふと、視線を感じて顔を上げた。駅前の巨大な街頭ビジョンがキラキラと輝かしい光を放っている。そこに、この世のものとは思えないほど整った顔が映し出されていた。『Noix(ノア)ニューシングル、本日発売』 綺更津(きさらづ)レン。アイドルグループ『Noix』の不動のセンターだ。「顔面国宝」「氷の絶対王者」「生きる彫刻」。 数々の異名を持つ彼は、画面の中で完璧な微笑みを浮かべていた。「……っ、尊い……」 思わず、呻くような声が漏れる。 語彙力が死滅して、それ以外の感想が出てこない。
last update最終更新日 : 2025-12-01
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3

 ああ、レン様は今日も今日とて顔が良い。この世の奇跡だ。汗の一滴さえダイヤモンドに見えるその肌は、陶器のように滑らかで、同じホモ・サピエンスだとは到底思えない。たぶん、彼は普通のタンパク質とかじゃなくて霞(かすみ)か何かを食べて生きているに違いない。 彼が地上に存在してくれているだけで、大気中の二酸化炭素濃度が下がって空気が浄化されている気がする。 私は反射的に、コンビニ袋を持ったまま直立不動の姿勢をとった。そして周囲に人がいないことを確認してから、画面に向かって小さく一礼する。「ありがとうございます。今日も生きていてくれて、ありがとうございます」  神への感謝。これが私の日課だ。私の人生は茶色くて地味だけれど、彼と同じ時代に生まれ、同じ国の空気を吸えている。それだけで、明日も会社に行く理由になる。「はぁ……。巨大モニターでレン様の姿を見られて、ラッキーだった」 ふと、私は手元のコンビニ袋を見下ろす。中には、冷え切った30%引きの茶色い弁当。画面の中の彼は、光り輝くステージ衣装。「……帰ろ」 天と地、月とスッポン。アイドルとモブ。 推しは推すものであって、交わるものじゃない。そんな絶対的な真理を再確認して、私は夜風の中に身を縮めた。◇ 私が住んでいるのは、「メゾン・フルール」という名前負けも甚だしい築三十年の木造アパートだ。最寄り駅から徒歩15分。商店街を抜け、住宅街の路地裏に入ったところにある。(やれやれ。安らぎの我が家までもう少しだわ。といっても、誰もいないけど) 街灯がチカチカと明滅する薄暗いゴミ集積所の前を通る。黄色いカラス除けネットが乱雑にめくれ上がっていた。 そして、その横に。 黒い、巨大なゴミ袋のようなものが転がっている。「……え」 眉をひそめる。今日は燃えるゴミの日じゃない。ましてや粗大ゴミの日でもない。マナー違反だ。 総務部員としての職業病か、あるいは長女としての正義感か。 私は舌打ちしたい気分を抑え、注意書きの紙を貼ってやろうかと近づいた。 近づいて気づいた。 違う。ゴミ袋じゃない。「……人?」 心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。(まさか死体? 事件!? 家のこんな近くで、やめてよ) 私はコンビニ袋を握りしめたまま、後ずさりそうになる足を叱咤した。 よく見ると、それは男だった。場違いなほど仕立ての
last update最終更新日 : 2025-12-01
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4

 その男はノーネクタイで、胸元がだらしなく開いている。足元には、泥だらけになった革靴。 まるで、どこかのパーティー会場からそのまま逃げ出してきたような。「あの、もしもし?」 恐る恐る声をかける。返事はない。ただ、浅く速い呼吸音だけが聞こえる。死体ではない、生きている。 近づくと、奇妙な匂いが鼻をついた。ゴミ捨て場特有の生ゴミの腐敗臭、それに混じって、脳が痺れるような甘く官能的な香りが漂ってくる。(これ、香水の匂い? けっこう高級なやつじゃない? 何だかどこかで覚えがあるような……) 場違いな香りに頭が混乱してしまう。 私は改めて目の前の彼を見た。 泥だらけの顔に、雨に濡れたように張り付いた前髪。 男が、うめき声を上げてわずかに顔を動かした。街灯の頼りない明かりが、その横顔を照らし出す。「……え?」 時が止まるというのは、こういうことか。閉じた瞼を縁取る睫毛は、泥に汚れた頬に影を落とすほど長く、濃密だ。鼻筋は、神様が定規で引いたとしか思えない完璧なラインを描いている。血の気の引いた唇でさえ、花弁のように優美な形を保っていた。 肌には泥がこびりついているはずなのに、その下にある皮膚は驚くほど白く、陶磁器のような滑らかさを主張している。汚れているのに、薄汚くない。むしろ、その汚れさえも「退廃的な美」を演出するメイクアップのように見えた。ゴミ捨て場という最底辺のロケーションが、逆に彼の人間離れした造形美を際立たせる舞台装置になってしまっている。 ついさっき、街頭ビジョンで見上げたばかりの「国宝」。 綺更津レンが、そこに落ちていた。「き、綺更津……レン……?」 国民的アイドル。今をときめくスーパースターで、雲の上の存在。 そんな彼がなぜ、私の家のゴミ捨て場の隣で、ボロ雑巾のように転がっているのか。「……っ、う……」 彼は苦しげに眉を寄せ、自分の首元をかきむしるような仕草をした。(助けなきゃ) とっさに思った。 でも、どうやって? 救急車? いや、アイドルだぞ。スキャンダルになる。警察? もっとダメだ。 しこうがぐるぐる回って、答えが出てこない。 手元の茶色い弁当と、目の前の泥だらけの国宝を見比べる。 拾うべきか。 通報すべきか。 あるいは、見なかったことにして逃げるべきか。 どうしたらいいの!?
last update最終更新日 : 2025-12-01
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5:拾った猫は狂暴です

「……お、重い……っ!」 私の腰が悲鳴を上げている。背中にあるのは、ただの成人男性の肉体ではない。日本のGDPに貢献し、数百万人の情緒を支える「国家予算規模の聖遺物」だ。 彼はぐったりとして、半ば意識を失っていた。そのままにしておけるはずはなく、また、救急車や警察を呼んでいいのか判断できなかった。 意識を取り戻すまで介抱して、穏便にお帰りいただこう。それが最善手だと思ったのだ。 それにしても、もしここで手を滑らせて、彼の顔に傷でもつけたらどうなる? 私の全財産どころか、内臓をすべて売り払っても賠償金には届かないだろう。「はぁ、はぁ……」 なんとか玄関を通過し、リビングの安物ラグの上に転がす。というか丁寧に置く余裕がなかった。どすん、と鈍い音がして、私の寿命が3年ほど縮む。「……う、あ……」 その時、彼が苦しげに身をよじった。泥だらけの高級スーツ、その襟元を彼自身の爪が乱暴に掻きむしる。まるで見えない鎖か何かに首を絞められているかのように。「……はっ、ぁ……外せ……」 うわ言が、私の鼓膜を震わせる。「……もう、いいだろ……笑えねぇよ、親父……」 親父? 確か、レンくんの実家は由緒ある資産家だったはずだ。パーティー会場から逃げてきたような服装と、この悲痛な拒絶。ただの体調不良じゃない。もっと根深い、精神的な何かだ。 彼の爪が、白磁のような首の皮膚に食い込もうとする。まずい。国宝に傷がつく!「ダメです!」 私は反射的に、彼の手首を掴んでいた。熱い。火傷しそうなほど体温が高い。そして、ふわりと鼻を掠める香り。生ゴミの臭いじゃない。爽やかで、でもどこか寂しげな深く甘い香り。(これ……『CielBlue(シエル・ブルー)』だ……!) ファンクラブ会報のQ&Aコーナーで、「愛用の香水は?」という質問に彼が答えていた銘柄。知識として知っていた情報が、現実の嗅覚情報として脳に雪崩れ込んでくる。 私は身近に彼を感じたくて、デパートの香水店で同じ香水を買った。かなりなお値段だったが、推しの匂いに包まれる幸せには代えられない。今でもあの香水瓶は、私のレンくん神棚に鎮座している。 そうして実感した。本物だ。ここにいるのは、本物の綺更津レンだ。 事態の重さにめまいがする。でも手は止められない。私は震える指先で、固く締められたネクタイの結び目に触れた。推
last update最終更新日 : 2025-12-02
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6

 それから数分後。彼の長い睫毛が、微かに揺れた。「……ん……」 ゆっくりと瞼が持ち上がる。そこにあるのは、テレビや雑誌で何度も見てきた、吸い込まれそうなアイスブルーの瞳ではない。焦点の合わない、虚ろなガラス玉のような目だった。 彼は数秒かけて、古い木造アパートの天井のシミと、見知らぬ女(私)を視界に入れた。 その瞬間。バネ仕掛けの人形のように、彼は飛び起きた。「ッ!?」 ズザザッ、と背中で床を滑るようにして壁際まで下がる。その動きは人間というより、野生動物のそれだ。 さすがアイドルグループ・ノアのリーダー、身体能力が高い。「誰だ」 声が低い。テレビで聞く甘いウィスパーボイスではない。喉の奥から絞り出すような、警戒心剥き出しの唸り声が響いた。「……マスコミか? 写真撮ったのか?」 鋭い眼光に射抜かれて、私はヒッと息を呑む。 部屋を見回す彼の目は、隠しカメラを探しているようだ。私だって探したい。ドッキリの看板を持った人が出てきてくれないだろうか。『モニタリング』でしたー、と言ってくれれば、どんなに楽か。 でも、狭い六畳一間には私と彼しかいない。 改めて彼の顔を見る。左目の下、涙袋のあたり小さなホクロが見える。メイクじゃ描けない絶妙な位置にあるそれを確認した瞬間、私の脳内で最終審判が下った。(本物だ……生レンくんだ……)「と、とと、撮ってません! 滅相もない!」 挙動不審な敬語で、ブンブンと首と手を振る。「ゴミ捨て場に落ちてたのを、拾っただけです……」「……ゴミ捨て場?」 彼は怪訝そうに眉を寄せて、自分の泥だらけの服を見た。状況を理解したのか、舌打ちをする。その仕草さえ、映画のワンシーンのように様になっている。 睨まれているのに、恐怖よりも「生で見ても作画崩壊していない」という事実に感動してしまう自分が憎い。「病院は嫌だ。警察も呼ぶな」 彼は膝を抱え、壁に背中を押し付けたまま言った。「……放っておけ」 拒絶の言葉。でも、私は見てしまった。膝を抱える彼の指先が、小刻みに痙攣しているのを。唇はカサカサに乾き、顔色は紙のように白い。虚勢を張っているのが、痛いほど分かる。 それに彼は、とっさに「病院」と言った。具合が悪い自覚があるのだろう。それなのに助けを拒んでいる。 その姿に、既視感を覚えた。 あれは私がまだ小学生だった
last update最終更新日 : 2025-12-02
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7

『グゥゥゥゥ――……』 その時。緊迫した空気を切り裂くように、間の抜けた音が鳴り響いた。それは、アイドルの尊厳に関わる盛大なお腹の虫の音だった。「……ッ」 レンくんが、カッと顔を赤くして腹を押さえる。 あ、可愛い。いや、そんなことを思っている場合じゃない。空腹だ。それも、極限状態の。 何か食べさせないと。でも、冷蔵庫の中身は空っぽに近い。あるのは、さっき買ってきたアレだけだ。 私は手に持ったままだったビニール袋から、コンビニ弁当を取り出した。黄色い値引きシールが、蛍光灯の下で恥ずかしげに主張している。(こんな添加物まみれの茶色い弁当、国宝の体に入れていいわけがない!) ファンの良心が叫ぶ。彼は霞を食べて生きているはずなのだ。あるいは、オーガニックの野菜とか、高級なフルーツとか。少なくとも、揚げ物メインの30%引き弁当ではない。 でも今すぐにカロリーを摂取させないと、彼は倒れるかもしれない。背に腹は代えられない。「……あの、これ。冷えてますけど、お口に合うか分かりませんが……」 恐る恐る、弁当を差し出す。 彼は弁当を一瞥した。そして汚物を見るような目で顔をしかめ、口元を手で覆った。吐き気を堪えるような仕草だ。「いらない」「えっ」「……そんな不味そうなもの、食えるか」 吐き捨てるような言葉。私は弁当を引っ込めた。怒りはない。むしろ、深い安堵のため息が出た。(ですよね! 知ってました! レン様が割引弁当なんて食べるわけない!) 彼がこの弁当をガツガツ食べていたら、それはそれで解釈違いでショック死していたかもしれない。彼の高貴な味覚が正常に働いていることに、謎の感動すら覚える。同時に、私の内なる「オカン」が腕まくりをした。「不味そうなものをお出しして、すみませんでした!」 私は勢いよく頭を下げる。「すぐに、温かくて消化にいいものを作りますから! ちょっと待っててください!」「は? いや、いらな……」 彼の拒否を聞き流し、私はキッチンへ走った。もっとマシなものを献上せねばならない。これは、神への供物作りだ。◇ 私はキッチンに立った。狭い一口コンロのキッチンだが、ここは私の城だ。 エプロンをつける時間も惜しい。(まずはお米。炊きたての御飯は、日本人の心のふるさとだもの) 米を研ぐ。シャカシャカというリズミカルな音が、焦る
last update最終更新日 : 2025-12-02
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8

 小鍋に水を入れ、昆布を浸した。沸騰直前で取り出す。実家の定食屋仕込みの、黄金色の出汁が出来上がった。 トントントン、とネギを刻む軽快な音が響く。鶏肉は小さく切って、生姜と一緒に煮込む。 ふわりと湯気が立ち上った。出汁の優しい香りが、狭い部屋に満ちていく。 ちらりとリビングを見ると、膝を抱えていたレンくんの肩から、少しだけ力が抜けているのが見えた。鼻が、ヒクヒクと動いている。やっぱり猫だ。「お待たせしました」 15分ほどで、卵雑炊が出来上がった。ローテーブルに鍋ごと置いて、茶碗によそう。湯気と共に、ネギと出汁の香りが彼の顔を包み込んだ。 それでも、彼はまだ警戒していた。箸を手に取ろうとしない。「いらない。……食べられない」 頑なだ。もしかして、毒が入っていると思っているのだろうか。いやそれ以前に、彼は「食べる」という行為そのものを恐れているように見える。「毒なんて入ってません」 私は自分のスプーンを取り出し、雑炊をひとすくいした。「私の実家、定食屋なんです。味だけは保証しますから」 そう言って、彼の目の前でぱくりと食べる。熱々の出汁が、五臓六腑に染み渡る。自分で言うのもなんだが、完璧な塩加減だ。 思わず笑みがこぼれた。「ほら、美味しい」 スプーンを置いて、彼を見る。彼は私の口元と、湯気の立つ茶碗を交互に見ていた。 やがて、観念したように震える手でスプーンを握った。 泥だらけの高級スーツや、数百万の高級時計をした手首。それらが、庶民的な雑炊と強烈な不協和音を奏でている。 彼は背中を丸め、おそるおそるスプーンを口に運んだ。 最初の一口。それは、毒見のような慎重さだった。(……どうだ?) 私は固唾をのんで見守る。口に入れた瞬間、彼の動きが止まった。長い睫毛が伏せられ、表情が見えない。吐き出すか? 怒るか? 次の瞬間。彼の手から、カチャンとスプーンが滑り落ちた。「……っ」 拒絶反応ではない。彼の顔が、くしゃりと歪む。それは、痛みに耐えるような、あるいは何かが決壊したような表情だった。「死ぬ気がないなら食べてください。食べる気力があるなら、生きていけますから」 私が努めて事務的に言うと、彼は小さく頷いた。 一口、雑炊を口に入れる。そして。 ポロリ、と。その美しい瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。「……あ……」 推しが
last update最終更新日 : 2025-12-02
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9:涙の完食

「……味が、する」 ぽつり、と。涙を流したまま、レンくんが呟いた。「……あったかい。こんなの、久しぶりだ」 その声は、迷子が母親を見つけたときのように頼りなかった。 私の心臓が早鐘を打つ。良かった。不味すぎて泣いたわけじゃなかった。熱すぎて舌を火傷したわけでもなかった。 ホッとして膝の力が抜ける。と、同時に。 彼が右腕を持ち上げた。何十万円、いや、ヘタしたら百万円はくだらないであろう高級スーツの袖口を、ぐいっと目元に押し当てる。あろうことか、あふれ出る涙をその上質な生地で乱暴に拭い始めたのだ。「ひっ……!」 短い悲鳴が喉の奥で潰れる。 やめて! そのジャケット、シルク混ですよね!? 水分厳禁ですよね!? クリーニング代だけで、私の家賃2ヶ月分は軽く吹っ飛びますけど!? 私の貧乏性な脳みそが警鐘を鳴らすが、彼は止まらない。ゴシゴシと、親の敵のように目元を擦る。アイドルの顔も、高級ブランドの服も、今の彼にとってはティッシュペーパー以下の価値しかないらしい。◇ ひとしきり涙を拭うと、何かのスイッチが入ったようだった。レンくんは再びスプーンを握りしめ、雑炊に向き直った。 カチャ、カチャ。 食器とスプーンが触れ合う、小さな音だけが響く。彼は猛烈な勢いで食べていた。けれど決して汚くはない。口いっぱいに頬張るような真似はせず、一口ずつ、確実に、喉の奥へと流し込んでいく。 背中は丸まり、余裕などこれっぽっちもないはずなのに。スプーンを運ぶ手つきには、品の良さが滲んでいる。それが余計に今の「余裕のなさ」を際立たせていた。「……っ、ふ……」 熱いのだろう。時折、小さく息を吐きながら、彼はひたすらに手を動かす。まるで冷え切った身体の芯に、熱という燃料をくべる作業のように。一滴の出汁さえこぼすまいとするその姿は、食事というよりもっと切実な「救済」を求めているように見えた。(テレビの中の彼は、いつも完璧な笑顔だったのに) カメラの前の彼は、涼しい顔で歌い、踊っていた。ファンの歓声を浴びて、キラキラと輝いていた。でもその内側はずっと、こんなにも飢えていたのだろうか。誰にも言えずに、空っぽの胃袋と心とを抱えて。 胸の奥がぎゅっと締め付けられる。「国宝」の仮面が剥がれ落ちた、一人の青年の姿。あまりの必死さに見てはいけないものを見ている気がして、私はそっと目
last update最終更新日 : 2025-12-03
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10

 カチン。スプーンが空の器に当たる、乾いた音がした。「……ふぅ」 レンくんは深く長く息を吐き出した。鍋の中には2人分の雑炊が入っていたはずだ。それを米粒一つ残さずきれいに平らげている。 満腹中枢が刺激されたせいだろうか。急激な血糖値の上昇が、彼を襲ったようだ。 さっきまで張り詰めていた糸が切れたように、まぶたが重く下がってくる。トロンとした目つき。警戒心剥き出しだった野生動物が、日向ぼっこをする猫のような顔になっている。 私は先ほどと同じように、昔拾った子猫を思い出していた。 あの子も最初は警戒心をむき出しにして、ごはんをあげたらガツガツ食べて。お腹がいっぱいになったら、眠ってしまったっけ。「お茶、入れますね」 私は立ち上がろうとした。食器を片付けて、温かいほうじ茶でも入れてあげよう。そう思って、一歩踏み出した瞬間だった。 クイクイ。何かに引っ張られて足が止まる。「え?」 見下ろすと、彼の手が伸びていた。骨張った長い指が、私の履いているフレアスカートの裾を掴んでいる。 ギュッ、と。シワになるほど強く。「あの……?」「……やだ」 小さな駄々っ子のような声がした。 それは確かにテレビの向こうで聞き慣れた彼の声なのに、ひどく幼く頼りない。「レンくん? あの、そろそろ帰らないと……マネージャーさんとか、心配してますよね?」「帰る」という単語を出した途端、彼が過剰に反応した。首を、ブンブンと横に振る。子供か。いや、今の彼は完全に幼児退行している。 何故こうなったのかは分からないが、切実な事情がありそうなことだけは分かった。 スカートを掴む手にさらに力がこもる。指の関節が白くなっているのが見えた。「……帰りたくない」 潤んだ瞳が私を見上げた。国宝級イケメンの幼気な上目遣い。その破壊力たるや、核弾頭クラスだ。「まだ、ここにいたい」 ズキューン。私の脳内で、何かが撃ち抜かれる音がした。さっきまで「触るな」「放っておけ」と威嚇していた男が、今は「捨てないで」と懇願している。このギャップ。この落差。これを「萌え」と言わずして何と言う!? 私の理性に残っていた「通報」というボタンが粉砕され、代わりに「保護」という巨大なスタンプが押された。
last update最終更新日 : 2025-12-03
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