「ごめーん、小日向(こひなた)さん! 急にデート入っちゃって!」 木曜日の19時過ぎ。 華やいだ空気が漂うオフィスに、甘ったるい声が響いた。 声の主は、営業部のマドンナ的存在である後輩女子。 彼女は合わせる手と申し訳なさそうな顔を作りながら、それでもデスクの上には既にブランド物のバッグが乗っている。「この入力、お願いできるかな? 小日向さんって、ほんと『お母さん』みたいに頼りになるし!」 お母さん。 その四文字が、私――小日向紬(こひなた・つむぎ)に地味なダメージを与える。私はまだ24歳だ。そりゃあ24歳でちゃんと結婚して子供がいる人もいるけど、私は独身、彼氏もいない。それなのに、社内での扱いは完全に「熟練のオカン」になっている。「分かりました。置いておいてください」 私は作り慣れた営業スマイルを貼り付ける。 口角を上げ、目は細め、相手に一切の罪悪感を抱かせないプロのモブの顔だ。 笑顔であっても華やかさのない、ごく地味な顔。「えっ、いいの!? やったあ! やっぱ小日向さん神! ありがとう!」「楽しんできてくださいね」「うん! 行ってきまーす!」 後輩はフローラル系の香水の匂いを撒き散らしながら、軽やかな足取りでオフィスを出て行った。自動ドアが閉まる音がして、オフィスに静寂が戻る。 はあ、と息を吐く。 ため息ではない。呼吸を整えただけだ。 私は4人きょうだいの長女だった。 共働きの両親に代わって、弟や妹の面倒を見るのは私の役目。 オムツを替え、離乳食を食べさせ、喧嘩の仲裁をし、宿題を見てやる。誰かの世話を焼くことは、私にとって呼吸と同じくらい当たり前の習性になっていた。「……さてと」 積み上げられた伝票の山を引き寄せる。人の世話が嫌いなわけじゃない。誰かの役に立つこと自体は、むしろ好きなほうだ。 ただ、たまに。ほんの少しだけ。 自分が「便利な脇役」として消費されることに、心が乾いてひび割れる音がする。「やるか」 私はキーボードに指を走らせた。カチャカチャという無機質な音だけが、誰もいないオフィスに虚しく響いた。◇「お疲れ様でしたー……」 誰に言うでもなく呟いて、タイムカードを切る。時刻は22時を回っていた。もちろん残業代は出る。それが唯一の救いだ。 駅前の大通りは、まだ金曜日の熱気に浮かれていた。 居酒屋のキャッチ、
最終更新日 : 2025-12-01 続きを読む