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外傷センター ドクターE
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Author: 6jay

1話. 辞令より先に来た患者

Author: 6jay
last update publish date: 2026-10-21 19:34:15

「今、血圧はいくつだと言いました?」

藤崎絵里は、キャリーケースの持ち手から手を離した。

ナースステーションの前で受話器を握っていた男性が、人差し指でモニターを示した。転院搬送を知らせる画面に、患者の年齢と損傷部位が表示されている。

田島達夫、52歳。港湾作業中の圧挫傷。右血胸。右の肺と胸壁の間に血がたまっている状態だった。

「出発時は90を超えていたそうですが、今は70台だそうです」

「胸腔ドレーンから出た量は?」

「出発前に1リットルを少し超えて、その後も出続けていると」

午後5時12分。初日の勤務を始めて、まだ40分もたっていなかった。

外傷初療室のほうで呼び出し音が鳴った。男性は電話の向こうに到着時刻をもう一度尋ね、別の看護師が保温装置の電源を入れる。絵里は脱いであった白衣を椅子の背にかけた。

「フェローの藤崎絵里です。今日からこちらで勤務します」

「ああ、本院からいらした」

相手の視線が、名札とキャリーケースの間を行き来した。

本院からいらした。

辞令を受け取ったときも、採用の書類を提出したときも聞いた言葉だった。そのあとに何が続くのか、絵里にはだいたいわかっている。

上司に逆らった。事故の経緯報告書の提出を拒んだ。挙げ句、青凪にまで飛ばされた。

署名欄を空けたまま報告書を返してから、2週間で派遣の辞令が出た。自分が確認してもいない事実の下に、名前を書くわけにはいかなかった。

青凪に着いてみれば、噂のほうが先に来ていた。絵里はキャリーケースを見る男性の視線をやり過ごし、患者情報の画面に向き直った。

「高瀬真紀先生には連絡しましたか?」

「今からお電話します。患者さんが着いたら、外傷チームのコールもお願いします」

「それはもうかけてあります」

絵里は短くうなずき、高瀬の番号を押した。

電話はすぐにつながった。

「田島達夫さんの件で、私も初療室に向かいます」

『救急科の佐伯遥先生が先に診てる。私も今、下りてるところ。藤崎先生は腹部の評価からお願い』

「はい」

『初日なんだから、器具の場所がわからなければすぐ聞いて。探して時間を使わないこと』

通話を終え、絵里はスニーカーの紐を確かめた。キャリーケースをどこに置こうかと一瞬迷うと、看護師が奥を指した。

「それは私が片づけておきます」

「ありがとうございます」

扉が開いた。

ストレッチャーを押す救急隊員の袖口が濡れていた。患者の体からは、海水の匂いより濃い鉄の匂いがした。右胸から伸びる管が排液容器につながり、中の赤い液体がストレッチャーの動きに合わせて傾いた。

「田島達夫さん。港の設備を整備中、積み荷と手すりの間に挟まれています」

救急隊員の瀬戸悠真が申し送りを始めた。

「近隣の病院で胸腔ドレーンを挿入し、輸血を開始しています。搬送中に血圧が再び低下。質問には答えますが、返答が短くなっています」

絵里は患者をベッドに移す側についた。全員で体を移動させると、切り開かれた作業着の下から右脇腹のあざが現れた。肋骨の下まで続いている。

佐伯が患者の頭側に入った。

「田島さん。青凪病院です。声、聞こえますか?」

患者が口を開いた。酸素マスクの内側がうっすら曇った。

「さ……むい」

「温めますね。今、どこがいちばん痛いですか?」

胸へ向かいかけた手が、途中で落ちた。

絵里は瀬戸を振り返った。

「お腹の様子はどうでした?」

「最初は脇腹も痛いと。搬送中は、息が苦しいという訴えが増えていました」

「圧迫されたのは右胸だけですか?」

「作業班長の話では、上半身全体です。抜け出すとき、骨盤のあたりは引っかからなかったそうです」

佐伯が気道確保の準備を進める間、看護師たちは患者確認、採血、輸血の準備を分担していた。1人が時刻を声に出して告げる。絵里はベッド脇の超音波装置を引き寄せた。

ゼリーを塗った探触子が脇腹に触れると、患者の腹に力が入った。

「田島さん、お腹も確認します」

肝臓の輪郭と右の腎臓の間に、暗い空間が映った。絵里は角度を変えた。1つの画面だけで結論を出さず、別の位置からも確かめる。骨盤内にも液体が見えた。

その間に高瀬真紀が入ってきた。手術帽の縁から、髪を束ねていた跡が少しのぞいていた。

「腹部は?」

「腹腔内に液体があります。右上腹部と骨盤内です」

高瀬が自分の目で画面を確かめた。

「搬送元の記録を見せて」

絵里は受け取った紙を広げた。初回の超音波では腹部の評価が十分にはできなかった、と記されていた。胸部の処置後にいったん上がった血圧が再び低下し、詳しい検査より転院搬送を優先した経過も残っている。

腹部の評価は終わっていない。絵里は紙を指す手を止め、患者の脇腹と、超音波に映る液体をもう一度見た。胸から出る血の量だけを見て済ませるわけにはいかなかった。

「腹部の出血も併せて考える必要があります」

「同感。胸部外科は?」

佐伯が短く答えた。

「一条先生が上がってくるところです」

一条先生。

まさか、あの一条教授だろうか。絵里は患者の脈拍を見て、考えを切り上げた。

血圧は輸血に一時反応したものの、再び下がっていた。患者の指先は冷たい。胸から流れ出た血だけで説明しようとするには、腹部の所見が引っかかった。

「CT室に連絡しますか?」

専攻医が尋ねた。患者の状態を再確認していた高瀬が首を横に振った。

「今は検査室まで連れていけない。先に手術室の準備を確認して」

絵里が電話を取った。外傷専用の手術室の1つは、別の患者の処置を終え、片づけが済みかけていた。麻酔チームも器械担当のスタッフも入れる、と返事があった。

その報告を受け、高瀬は腹部の緊急手術の準備を指示した。佐伯は意識と呼吸がさらに悪くなる前に、気道を確保すると決めた。

役割が決まると、人の動きが同じ方向へまとまっていった。

絵里はいったん患者のそばからよけた。瀬戸が、引き渡す持ち物の袋を持っていた。携帯電話と鍵、半分に折れた作業場の入構証。手袋は片方しかなかった。

「ご家族には連絡がついていますか?」

「奥さんがこちらへ向かっています。患者さんの携帯で私が話をして、病院にも番号をお伝えしました」

「お疲れさまでした」

瀬戸は立ち去る前に、もう一度患者を見た。

「さっきまでは、ちゃんと話してたんですけどね」

瀬戸は患者が見える扉の前で、しばらく足を動かせずにいた。

絵里は袋を受け取る看護師にうなずき、ベッドへ戻った。佐伯が気道に管を入れる気管挿管を終え、呼吸状態を確認していた。患者の声に代わり、機械が送り込む息の音が聞こえた。

高瀬が絵里を呼んだ。

「藤崎先生。腹部では何を想定してる?」

「損傷の位置からは肝出血の可能性があります。ただ、超音波だけでは臓器損傷までは確定できません。開けて確認する必要があります」

「胸部の出血が先に止まったら?」

「そこで血圧が反応しても、腹部を見なくていいとは言えません。液体貯留があり、これまでの輸血への反応も持続していません」

高瀬は、絵里が示した腹部の所見をもう一度確かめた。

「腹部を見てくれたおかげで、両方の準備ができる。手術に入って、私と一緒に見よう」

絵里は患者の腕のリストバンドを見直した。田島達夫。名前を覚えた。初めての病院で最初の手術をする緊張より、この人が次の場所まで持ちこたえなければ、という思いのほうが近くにあった。

自動ドアが開いた。

「まず、排液量の推移を教えてください」

低く、よく通る声だった。

絵里は顔を上げた。濃紺のスクラブを着た男が、白衣も羽織らず入ってきた。目で挨拶するより先に、排液容器をのぞき込む。看護師が容器を見せ、搬送後に増えた量を付け加えた。

一条怜司だった。

3週間前の研究会で、絵里が発表した夜間緊急手術の症例に、最後まで質問を重ねてきた人。

応援の人員がいないなら、方針を変えるべきだったのではないかと言った。絵里は、方針を変えている間も待てない患者がいると答えた。そのあとのやり取りは、結局、互いにいい顔のまま終わらなかった。

彼の視線が名札に一瞬とどまった。

「藤崎絵里先生?」

絵里は挨拶の代わりに、超音波の画面を指した。

「腹部にも出血が疑われます」

「確認しました」

怜司は画面を見て、高瀬が説明する現在の状態を聞いた。絵里の名札にとどまった視線は、もう患者に戻っていた。彼女も超音波の画面から手を離さなかった。

けれど、絵里の中では済んでいなかった。次に彼が何を言うか、もう聞こえた気がした。

――待てなかったという言葉で、判断を正当化してはいけません。

あの日聞いた言葉が頭をよぎった。

怜司が患者のそばに寄り、尋ねた。

「腹部は誰が入りますか?」

「私と藤崎先生」

高瀬の答えに短くうなずき、彼は絵里をまっすぐ見た。

「腹部の評価から聞かせてください」

マスクの中に、絵里の熱い息がこもった。

また自分の判断を追い詰められるのではないかと、用意していた言葉があった。絵里はまず、それを捨てた。輸血でいったん上がった血圧が再び下がっていく画面が、2人の間にあった。

「胸部の出血だけを見て、終わりにはできません」

彼女は超音波に映った液体を指した。

「搬送を受けたときから、何が変わったか。そこからお話しします」

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