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第9話

Author: 談棲
「……」

菫は司のカフスボタンを留め終わると、何も言わずに振り返り、そのまま足早に歩き去った。顔には何の感情も浮かんでいなかった。

司はただ、彼女の後ろ姿を黙って見送る。

その後、二人は並んで古川家の披露宴が行われるホテルへ向かった。

司は菫を連れて、元気な中年夫婦のもとに歩み寄る。「おじさま、おばさま」

古川夫人は振り向き、彼を見て目を輝かせたが、わざとらしく笑った。「あら、どなたかしら?一瞬分からなかったわ」

司は口元を吊り上げる。「俺みたいな顔、一度見たら忘れないでしょう。それでも分からないなんて、年取った証拠ですね」

古川夫人は彼を軽く叩く真似をした。「生意気言うんじゃないわよ。あとで美穂に言いつけてやるから!」

「ところで、娘さんがいるなんて聞いてありませんよ?どこで拾ったんですか?」

司は、親しい相手にはこういう調子で話す男だった。菫は隣で二人のやり取りを見ていたが、まさかその矛先が自分に向かうとは思ってもみなかった。

古川夫人は冗談めかして言う。「あなたに狙われたら困るから、黙ってたのよ」

司は菫を前に押し出す。「そんな心配無用ですよ。俺にはちゃんと妻がいますから。菫、挨拶して」

菫は笑顔を作るしかなかった。「おばさま、おじさま」

古川夫人は驚きながら、彼女の周りをぐるりと見回す。「まあ、奥さんまで連れて来るなんて珍しいこと。この私の顔も立つわね」

それは本当に珍しいことだった。

司はこれまで、ビジネスの席でもプライベートの集まりでも菫を連れて来ることはなかった。結婚式を挙げたとはいえ、彼が既婚者で、その妻が菫だと知る人はほんのわずかしかいなかった。

秋日通りであの女を見つけるまでは、菫は理由も分からず、司が一人で動くのを好むだけだと思っていた。

だが、あの女の存在を知ってから気づいたのだ。司は一度も彼女を「妻」として認めず、社交の場に連れて行くこともなかったのだと。

菫は空気を読むのが得意で、相手が望まないなら無理に関わろうとしない。主催者に挨拶を済ませると、司に声をかけた。「ちょっと歩いてくるわ」

「ああ」

彼女は振り返らずに歩き去った。二人でいる姿をなるべく人に見られないようにするためだった。

菫は新郎新婦の姿を見に行った。

新婦は優しく美しく、新郎は上品で端正な顔立ち。二人の瞳には互いへの深い愛情が映り、その幸せそうな雰囲気は、誰が見ても祝福したくなるほどだった。

菫はグラスを手に、新婦のもとへ歩み寄る。「ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに」

新婦は笑顔でグラスを合わせた。「ありがとうございます」

菫はそのまま離れようとしたが、後ろのウェイターとぶつかり、体勢を崩して新婦の背中に倒れそうになった。

その瞬間、腰を力強い腕に支えられる。慌てて顔を上げると、司の目と真正面からぶつかった。

彼は低い声で叱りつける。「気をつけろ!新婦は妊娠してるんだ。人の子どもをまた駄目にする気か?」

菫の耳の奥でキーンと音が鳴り、鼓膜が裂けるような衝撃が走った。

睫毛を震わせ、彼を見つめたまま喉が詰まる。「……私って、そんな鬼みたいな女なの?子どもを駄目にするのが好きだとでも?」

司は動きを止めた。自分がそんな言葉を口にしたとは思っていなかったのだろう。

「新婦が妊娠してるから、ぶつからないか心配しただけだ」

「分かったわ。気をつける」

菫は短く答え、足早に去って行った。

司は奥歯を噛み、低く悪態をつく。「クソ……」

その後頭部をパシンと叩かれ、古川夫人が不機嫌そうに言った。「私の娘の披露宴で、誰に向かって悪態ついてるの?」

司は苦笑いを浮かべる。「自分に言っただけですよ。いいでしょう」

「自分に?それはまた珍しいわね」古川夫人は彼を軽く睨み、菫が去った方角に目をやった。

「どうしてあんなに急いで行ったの?私、奥さんと話したかったのに。美穂がいつも褒めてるのよ」

「母さんから他に何を聞いてるんです?」司は気のない声で相槌を打つ。「別居?俺の浮気?夫婦仲が悪い?仲裁したいなら直接言ってください」

彼は通りかかったウェイターからカクテルを取り、「どうせ言われても聞きませんけど」と一気に飲み干した。

古川夫人は呆れたように首を振る。「あなたはその顔に感謝するのね。じゃなきゃ、とっくに追い出してるわ。浮気男が一番嫌いだから」

司は口角を上げたが、笑みは冷たかった。「誰が誰を裏切ったのかは、まだ分かりませんけどね」

菫は会場を抜け、階段を下り、庭園を通り抜けてさらに奥へ進んだ。

足早に歩き、夜風が髪を揺らす。それでも立ち止まらず、ずっと歩き続ける。やがて、ハイヒールが敷石の隙間に挟まり、前のめりに倒れそうになった。

慌てて手を伸ばして壁を支える。ざらついた壁面が手のひらを擦り、ようやく体が止まった。

掌を見ると、擦り傷ができ、赤い血がにじんでいた。

視線が揺らぐ。

よく言われるように、咄嗟に口にした言葉は、心の奥底で繰り返し考えていた本音であることが多い。

やはり司から憎んでいるのだと思った。

一年前の出来事は、二人の間に埋め込まれた時限爆弾だった。

生活の中でその話題に触れるたび、平静の下に隠された対立が爆発してしまう。

菫は俯き、感情を抑え込もうとする。

だが、木陰の向こうで庭園をうろつく三人の男が、彼女に気づいていたことを知らなかった。「おい、兄貴、この女じゃねぇか?」

「25歳くらい、青いドレス……間違いねぇ。電話にも出ねぇし、こいつで決まりだ。行くぞ、捕まえろ」

三人は菫に向かってまっすぐ歩いてきた。

菫は息を整え、会場へ戻ろうとした瞬間、腕を掴まれた。「俺たちがどんだけ探したと思ってんだ?ここに隠れてやがったのか!」

引き戻され、振り向くと、見知らぬ三人の男が立っていた。菫は呆然と声を漏らす。「……何?」

リーダー格の坊主頭の男が、チンピラじみた声で吐き捨てた。「自分で受けた仕事なのに、ホテル着いてからトイレ行くふりして逃げやがって。ナメてんのか?今日は逃がさねぇぞ!さっさと来い!」

菫は数歩引きずられ、言葉の意味が分からず戸惑う。「人違いでしょ?私はあなたたちなんて知らない!」

「まだ白ばっくれるのか!お前だよ!さっさと上に行くぞ、飯窪さんが待ってんだ!」

菫は勢いよく手を振り払い、数歩下がって声を張る。「人違いよ!飯窪さんなんて知らない!私は結婚式に来ただけで、あなたたちとは関係ない!」

坊主頭は、もう彼女がドタキャンしたと決めつけていて、話を聞こうともしない。「連れて行け!」

菫は踵を返して走った。

だが、数歩も行かないうちに子分二人に捕まり、無理やりエレベーターへと引きずり込まれる。

帝都の五つ星ホテルで、こんな目に遭うなんて思いもしなかった。

「離して!離せ!」必死に抵抗し、両手でエレベーターのドアにしがみつく。頭の中はパニックで、ただ一つ――上に行かされてはダメだ。取り返しのつかないことになる。

「誰か!助けて!」彼女は声を張り上げた。

しかしここはホテル裏の庭。スタッフも客もおらず、天井画の神々だけが黙って見下ろしている。叫び声は誰にも届かなかった。

坊主頭が彼女の膝裏を蹴りつける。菫は膝から崩れ落ちる。「早く連れ込め!」

子分二人が前後から彼女を抱え上げ、坊主頭は何度も閉扉ボタンを押した。

「んっ……んんっ……!」

扉が閉まりかけたその時、鏡に映った乱れた髪と青ざめた顔。そして、彼女は司を見た。

菫の目に喜びが溢れ、首をひねって、塞がれた手に思い切り噛みつく。

子分が悲鳴を上げる。菫は叫んだ。「司!司!司――!」

坊主頭が慌てて彼女の口を塞ぐ。エレベーターの扉は完全に閉まった。

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