Share

第8話

Author: 談棲
もちろん、その考えはほんの一瞬だけだった。菫はすぐに正気に戻り、男を押しのけてベッドから身を起こした。

もし本当に子どもができたら、二人の関係はさらに複雑なものになってしまう。

一ノ瀬家の若奥さまである菫が、最後に見せた気遣いは――司の足をベッドに上げ、布団を掛けてやってから、自分は客室で眠ることだった。

翌朝。菫が目を覚まし、階下へ降りると、司はすでに身支度を整え、食卓で朝食を取っていた。

菫も席に着き、田中さんが料理を運んでくる。ひと口食べたところで、男が口を開いた。「見た感じ、先生は結構自制心があるみたいだな」

「どういう意味?」

司はゆったりとした声で答える。「昨日は俺が酔ってたのに、つけ込んで子どもを作ろうとはしなかっただろ」

田中さんは話題に気づくと、口元を押さえてクスクス笑い、そそくさと退室した。

司は味噌汁をすすり、微笑む。「まあ、やらなくて正解だな。そうじゃなきゃ、朝起きたときに慰謝料を請求してたかもな」

「……」

菫は淡々と返す。「科学的に言えば、本当に酔ってる男性は機能しないの。もし昨夜あなたが可能だったなら、それは酔ったふりをしてたってこと。つまり、あなたが私と一緒にいたかったってことよ。慰謝料?一ノ瀬さん、図々しいにも程があるわね」

明らかに言い返しているのに、司は口の端を上げ、だらけた笑みを浮かべた。「ほう?じゃあ先生が手を出さなかったのは、酔うと機能しないって知ってたからか?」

彼は身を乗り出した。「ってことは、もし俺が酔ってなかったら、本気で手を出すつもりだったってことか?」

昔から、口論で彼に勝てる人はいなかった。

菫は、こんな口喧嘩に付き合うのは無駄だと思った。

さっさとスープを飲み干し、立ち上がって病院へ向かおうとする。

数歩進んでから、ふと立ち止まり、振り返って言った。

「一ノ瀬さんがあの女を都内に置いておきたいなら、少しは行動を慎ませて。私の前で騒ぐのは別にいいけど、秋日通りでまた騒ぎを起こしたら……

小鳥遊さんは上品な人だし、子どももまだ小さいんだから、耐えられないでしょ」

司は彼女を見つめ、先ほどまでの興味深そうな色は消え、倦怠を滲ませた声で言った。

「新しい女だの古株だの……先生はどうしてそんなレッテル貼りが好きなんだ?」

菫は言葉の意味を測りかねたが、考えるのも面倒になり、そのまま靴を履き替えて病院へ向かった。

仕事の合間、ふと思い出して恵茉にメッセージを送った。昨夜、何時に帰宅したかを尋ねる。

昨夜、菫が司を連れて帰ったとき、恵茉はまだ盛り上がっていて、帰る気などなかった。雪菜にディスコを踊って、雪菜が怒って帰ろうとしても腕を放さず、「仲良くしよ」と言いながら無理やり酒を飲ませていた。

なんとも言えない光景だった。

しばらくして、恵茉から省略記号だけの返信が届く。

菫は軽く返す。【どうしたの?酔って何かやらかした?相手は誰?】

恵茉は本当に答えてきた。【はぁ……うっかり年下の子と寝ちゃってさ。お金で解決したけど、今ちょっと後悔してるのよ。名前も聞かなかったし、連絡先も交換してないし、もう会えないじゃない】

今度は菫が省略記号を返す番だった。

信じていない。この子は適当に言っているだけだろう。

メッセージを送り終えると、スマホを置いた。

医師の仕事は忙しい。診ても診ても終わらない患者、切っても切っても終わらない手術。次にスマホを手に取ったときには、もう夕方の退勤時間が近づいており、司からいくつかメッセージが届いていた。

【明日、土曜は休みだろ?一緒に帝都の結婚式に出席しろ】

おそらく返事が来ないので、断られたと思ったのだろう。さらに一文。【これは俺の妻としての義務だ】

菫は返信する。【一緒に行ってもいいけど、条件は離婚よ】

司からすぐに一言。【今は夫婦生活する暇はない】

また離婚の話を持ち出したら、夫婦生活を誘っているってことだ、と。

菫は息を呑んだ。

続けて司からもう一文。【病院の下にいる。急げ、のろま】

菫は多くの場合、「逆らわずに従う」人だった。争いや衝突が嫌いなのだ。怖いからではない。ただ、無駄に疲れるだけだから。

司と口論するか、それとも「もういいや」と従うか――彼女は後者を選んだ。

病院を出ると、案の定、司の愛車が路肩に停まっていた。

菫はまっすぐ前を向いたまま、車の横を通り過ぎる。

ちょうど退勤時間帯で、車はあまりにも目立つ。ケーニグセグOne:1――世界限定7台。同僚に乗るところを見られたら、噂のネタになるに違いない。

司がクスッと笑った気がした。

やがて車は彼女の横を通り過ぎ、角まで行ってから停車した。

菫は周囲を見回し、知り合いがいないのを確認してから、素早く車に乗り込む。

二人乗りの車内。

司は運転席で片手をハンドルに置き、もう片方の手を膝に置きながら、無造作に尋ねた。

「俺たち、不倫でもしてんのか?」

彼女が小心者であることを揶揄しているのだ。

菫はシートベルトを締めながら、「誰の結婚式?」

彼女だけが、こうして彼を無視できる。司は口の端を上げ、車を発進させた。「帝都の古川家。聞いたことあるか?」

「ない」

実際には知っていた。

古川夫人と美穂は大学の同級生で、美穂がよく話題にしていたのを耳にしていた。

だが、司が勝手に予定を決めたことが気に入らず、わざと反対の答えをしたのだ。

「知ってても知らなくても関係ない。明日、娘が嫁ぐそうでな。母さんが忙しいから、俺たちが行くことになった」

菫はしばらく黙ってから、「そう」とだけ答えた。

美穂が、また二人を仲直りさせようとしている。

そうでなければ、古川夫人との関係からして、美穂が何があっても自分で出席するはずだ。

司も暇なものだ。こんな役回りまで引き受けるなんて。

「免許証、持ってるか?」司が聞いた。

「持ってない」

「平気だ。空港で臨時証明を作ればいい」

それ以上、二人は話さなかった。

空港に着くと、司は本当に彼女を証明写真機の前に連れて行こうとした。

菫は無駄な手続きを避けるため、渋々カバンから免許証を取り出した。

司は鼻で笑った。「素直じゃないな」

飛行機が帝都に着陸したのは夜十時過ぎ。

迎えの車でホテルに向かうと、広々としたスイートルームで寝室が複数あった。菫は迷わず副寝室に入り、身支度を整えて眠った。

古川家の結婚式は盛大で、昼から夜まで華やかに続いた。翌朝九時。菫がドアを開けると、ドアノブにドレスが掛けられていた。

間違いなく、彼女のために用意されたものだった。

開けてみると深い青のシルク。自然な光沢とクラシックな美しさ。

アシンメトリーなワンショルダーデザインで、片側は肩を露出し、もう片側はハイネック。襟と肩には数百個のダイヤが散りばめられ、上品さと華やかさを兼ね備えていた。

袖を通すと、シルクが柔らかく体のラインに沿い、見事なシルエットを描く。サイズもぴったり。

こういうオーダーメイドのドレスは着る人のサイズに合わせるのだが、ブランド側が彼女のサイズを把握していたのか。それとも司が提供したのか。

おそらく、美穂だろう。

彼女が二人を同席させようとしたのだから、準備も抜かりないはずだ。

菫は化粧を整え、部屋を出る。

同時に、司も主寝室から現れ、袖口を整えているところだった。

ふと顔を上げ、彼女の装いを見て、眉を上げる。

満足げに口元を緩め、「これ、留めてくれ」と言った。

菫は近づき、宝石のカフスを受け取る。

至近距離で、ほのかな柑橘系の香りが漂う。彼の身につけた香水の香り――その匂いが、さらに彼を色気づかせていた。

菫は目を伏せ、カフスを留めながら、ふと四泊五日の島旅行を思い出した。

朝の波音。心地よく伸びをした自分。

起き上がろうとすると、彼に腰を抱かれ、再びベッドに押し戻される。

彼の布団には、いつも暖かく乾いた匂いがあった。彼は無精髭で軽く彼女の鎖骨を擦り、彼女の笑い声を聞くのが好きだった。

誰にも信じてもらえないだろう。

二人は、確かに愛し合っていた。

つい、一年前のことだった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 夜の不真面目   第100話

    菫の後頭部に、まるで鈍器で殴られたような衝撃が走り、しばらく頭の中が真っ白になった。つまり、司は小夜を郊外の別荘に連れて行って、自分が用意した料理を、彼女と一緒に食べたってこと……?このSNS投稿が意味しているのは、そういうことなのか。美幸が声を荒げて飛びかかってきた。「スマホ返しなさい!」菫は身をひねって避け、低い声で問いかける。「どうして小夜のラインを知ってるの?」美幸は苛立ちを隠さずに言い放った。「知ってる理由なんて、あんたには関係ないでしょ!」「答えて!」菫が突然声を張り上げ、美幸は思わずたじろぐ。その目の冷たさに押され、しぶしぶ口を開いた。「……彼女の娘さんが手術を受けた時、私が主治医だったの。急変した時にどうしたらいいかわからないから、連絡先を交換したいって言われて、ラインを教えただけよ」菫の顔色は青ざめ、瞳の奥に暗い影が広がっていく。美幸はその隙にスマホを取り返し、毒づいた。「頭がおかしい!人のこと気にする前に、自分の手術の腕を上げなさいよ。次はもう、人を死なせないで!」吐き捨てるように言うと、バッグを掴んで休憩室を飛び出した。「……」菫は足元が崩れるような感覚に襲われ、壁にもたれかかる。郊外の別荘は、一ノ瀬家の両親から贈られた新居だった。結婚してからずっと彼女の家として過ごし、司が一年間アメリカに行っていた間も、そこに住み続けてきた。この二年間、外でどれだけ疲れ果てても、心が壊れそうになっても、帰れば落ち着きを取り戻せたのは――それが、大火で霧ヶ峰の家を失い、両親を亡くして以来、初めて「自分の家」と思える場所だったから。幼い頃、一ノ瀬家の本宅で暮らしていた時、一ノ瀬家のお二人は本当に良くしてくれた。けれど、他人の家に身を寄せる子供には、どうしても「居候」という意識がつきまとう。本当の意味での帰属感は、そこにはなかった。別荘の名義は彼女だった。家具も自由に選べた。どれだけ遅く帰っても、鍵を開ければ必ず自分の居場所があった。それが彼女にとって最後の拠り所だった。なのに、司はどんな権利があって小夜をあそこに連れて行ったの?秋日通りにもう一軒あるのに、どうしてわざわざ自分の場所を汚すの?小夜がSNSに堂々と投稿したのは、宣言?挑発?それとも見せつけ?菫は唇を噛みしめ、

  • 夜の不真面目   第99話

    手術室は、死んだような静けさに包まれていた。誰も何が起きたのか分からなかった。手術は成功していたはずだし、心臓も再び拍動を始めていたのに。菫はしばらく呆然と立ち尽くしたあと、口を開いた。「……プロタミンアレルギーかもしれない。私の先輩が同じ状況に遭遇したことがあって、その時も患者さんは亡くなった」他の医師がため息をついた。「もし本当にプロタミンアレルギーなら、どうしようもない」心臓を取り出して腫瘍を切除するには人工心肺が必要で、人工心肺を使うにはプロタミンでヘパリンを中和しなければならない。だがプロタミンは他の薬剤と違い、術前にアレルギーの有無を検査するのはほぼ不可能だ。つまり、この患者は手術台に上がった時点で、すでに結末が決まっていたのかもしれない。菫は一歩下がり、他の医師たちと共に遺体に三度、頭を下げた。一人が創部を縫合し、一人が手術記録一式を封緘して保管し、もう一人が家族へ状況を説明しに向かった。菫は休憩室に戻り、椅子に腰を下ろしたまま、しばらく何も考えられなかった。外科医なら誰もが、自分の手術台で患者が亡くなる経験を持つ。だからこそ家族に伝える言葉はいつも同じだ――手術にはリスクがあり、百パーセントの成功率など存在しない。まして心臓にメスを入れるのだから、と。それでも。菫はこういう事態に直面するたび、胸が重く、苦しくなり、なかなか気持ちの整理がつかなかった。顔を両手で覆った。気分は極端に落ち込んでいた。そこへ美幸が入ってきた。手術室を出る時に手を洗ってきたはずなのに、休憩室に来るとさらに消毒液をワンプッシュして、神経質に手のひらをこすり合わせる。「……いつも遺体の縫合は私ばっかり!縁起悪いし、地位が低いからって押し付けられて!汚い仕事もきつい仕事も、全部私の役目。手当も出ないのに死人に触らなきゃいけないなんて、もう硬直してるのよ!」菫は冷たい目で彼女を見た。美幸は苛立った声を上げる。「何よ、その目!誰が好き好んで死人に触るもんか!次はあんたが縫えばいいじゃない!失敗して後始末を押し付けないでよ!」「プロタミンアレルギーが不可抗力だって医学の常識すら知らないなら、名札外して帰りなさい。患者を傷つける前に」「プロタミンアレルギーかどうかは剖検を待たないと分からないでしょ!もしあな

  • 夜の不真面目   第98話

    「……」隆志は、この息子は本当に人を殴りたくさせる、とつくづく思った。大半のゴルファーは、何十年やってもアルバトロスには一度も縁がない。実力と運、さらに天の巡り合わせがすべて噛み合った時にだけ訪れる、ほとんど奇跡みたいな幸運だからだ。だからこそ、アルバトロスを出した者はゴルフ場のスタッフ全員に祝儀を渡す――そんな暗黙のルールがある。めでたいことは皆で分かち合うものだ。実業界の大物たちも、それを喜んで実践し、惜しみなく金を撒いてきた。だが、この息子にかかると、その究極の幸運さえも迷惑ごとのように変わってしまう。司がキャディに言うのが聞こえた。「そのボール、拾ってきれいに洗って、アルコールで拭いて、箱に入れておいてくれ」隆志は、ますます理解できなくなった。年を取って若者の考えが分からなくなったのか、と問いかける。「今度は何をするつもりだ?」「人に贈る」「誰にだ」司は答えず、逆に言い返した。「横田さんは一生ゴルフをしてもアルバトロスを出せなかったのに、どうして今日の午後で出せると思う?早く休ませてあげた方がいい」隆志は怒りのあまり笑った。「横田さんは徳も高く、都内の財界でも重鎮だ。お前みたいな若造の相手をしているのは、向こうが買いかぶっているからだ。お前が不機嫌になる筋合いなんかない」司は、今ごろ菫が家で自分のために料理を作っている姿を思い浮かべ、口元を緩めた。しかしすぐに消して、だるそうに答える。「不機嫌じゃない。ただ、時間の選び方がよくないだけだ」そうでなければ、エプロン姿の菫を台所で見られたのに。「何の時間が悪い?」隆志は眉をひそめた。「話すときは最後まで言え」司は遠くに立つ足取りのしっかりした老人を見やり、どう見ても二時間では終わらないと感じて、ふと口にした。「父さんが高血圧の発作を装って救急搬送ってことにして、横田さんには切り上げてもらないか」隆志は言葉を失った。午後五時半。菫は手の込んだ料理をいくつか作り終え、保温しておいた。あとは司が帰ってきたら野菜を炒めるだけで、すぐに食卓につける。気づけば、五品に汁物まで用意していて、午後を丸ごと費やしてしまっていた。最初に約束したときは、ここまで本気になるつもりじゃなかったのに。スマホが鳴り、司からだと思って画面をのぞいた。だが

  • 夜の不真面目   第97話

    菫はこの話をこれ以上聞きたくなくて、スマホを取り出した。「夜にこの料理を作りたいんだけど、火加減ってどう見ればいいの?」「ちょっと見せてくださいな。あら、これは簡単ですよ」田中さんの説明はとても分かりやすかった。けれど菫は上の空で、気づけば話題がいつの間にか司のことに戻っていた。「そういえば、司さんが私に相談してきたこともありましたね。奥さんのお誕生日にケーキを作りたいっておっしゃって。どうしたらスポンジをふわふわにできるかって、すごく真剣に聞かれたんですよ」菫はハッとした。「……なんのケーキ?」「え?司さんが作ったケーキですよ。お忘れになったんですか?」菫にはそんな覚えがない。田中さんは目を丸くした。「去年の奥さんの誕生日ですよ。その日も司さんが私にお休みをくれましたので、てっきりお二人で特別に祝いするのかと思ったんですけど、違ったんですか?おかしいですねえ。司さん、本当に時間をかけて作ってたですよ。六号の小さなケーキに果物を山ほど盛りつけて……奥さんは果物がお好きだからって。でも多すぎると崩れるもんだから、午後いっぱい悪戦苦闘して、やっと一つ形になったのに……どうして渡さなかったんでしょうね」菫の瞳がかすかに揺れる。「去年の誕生日って、彼は急に出張になったんじゃ……」彼女ははっきり覚えていた。その日、恵茉の誘いを断ってまで彼と過ごすつもりでいたのに、彼から届いたのは【プロジェクトにトラブルが出て出張に行く。戻ったら埋め合わせする】というメッセージだった。結局彼は一週間も帰らず、戻ってから外食で埋め合わせをしてくれた。もし本当にケーキを作っていたのなら、どうして自分に渡してくれなかったの?思わず司へメッセージを打った。【私にケーキを作ってくれたことある?】送信した次の瞬間、彼女は慌てて取り消す。司は通知に気づいて開いたものの何もなく、ただ【?】と返した。菫は唇を結び、問いかけた。【いつ帰ってくるの?】【四時か五時頃かな】【うん】今夜、直接確かめよう。昼食を作り終えると田中さんはすぐ帰った。お邪魔してはいけないと気を遣ったのだろう。午後、菫は台所で下ごしらえを始めた。肉は漬け込みが必要で、スープも時間をかけて煮込まないと味が染みない。最初は気楽に済ませるつもりだったのに、

  • 夜の不真面目   第96話

    生理が終わったばかりで、そろそろ排卵期。妊娠しやすい。菫は小さくうなずいた。「さっさと済ませましょ」司は買ってきた食材を冷蔵庫にしまいながら、からかうように言った。「さっさとは無理だな」「……」下ネタっぽく聞こえて、菫は口をつぐんだ。代わりに尋ねる。「今夜の夕飯、どうする?」少し考えてから付け加える。「それとも、今すぐあの料理を作って、お返ししようか?」司は冷蔵庫の扉を閉め、体を預けながら彼女を見た。彼女は早く取引を片づけたい様子だった。「また急ぎでか?そうはいかないな。今日は俺が作る」作りたいなら勝手にどうぞ、と菫は思う。彼女はしゃがんで灰色のたんぽぽを抱き上げ、そのまま浴室へ向かった。たんぽぽはお風呂が嫌いで、洗面器の中で暴れ回り、菫は水浸しになった。洗い終わったあとペット用ドライヤーボックスに入れ、服も濡れてしまったので、ついでにシャワーを浴びた。浴室を出て階下に降りると、いい匂いが漂ってきた。司が顔を上げ、ちらりと視線をよこす。「ちょうどできた。食べに来い」菫は席に着いた。テーブルには牛ステーキ。ミニトマトとブロッコリーが彩りを添え、横のガラスボウルには洗ったばかりのいちごが盛られている。手を伸ばしていちごを取ろうとした瞬間、司に手の甲を軽く叩かれた。「先にステーキだ」菫は無言でナイフとフォークを取り、一切れ口に運ぶ。外は香ばしく、中は肉汁がじゅわっと広がる。司の腕前は確かだった。久しく忘れていた味が、一口で鮮明によみがえる。菫はわずかに手を止め、静かに咀嚼を続けた。司は先に食べ終えても、席を立たず、彼女を待っていた。何を考えているのか分からなかったが、菫はあえて尋ねなかった。食卓は最後まで言葉少なだった。二人はスーパーや車の中でのことが、まだ胸に引っかかっていた。彼女が食べ終わった頃、司が口を開いた。「明日の午前は父さんと年配の方に会って、そのままゴルフだ。昼はゴルフ場で食べるから、夕飯を作っておいてくれ」「分かった」司はまだ彼女を見ていた。「昼はどうする?」「自分でなんとかする」構う必要はない、ということだ。菫は自分の食器を下げて洗い場に立った。司は幼い頃から周囲に甘やかされて育ったせいか、冷たくされても平気な性格ではない。むっ

  • 夜の不真面目   第95話

    「司……!」触れさせまいとすればするほど、彼はますますキスしたくなった。舌先で強引に唇をこじ開け、歯の隙間に割り込み、荒々しく攻め立てる。内も外も自分の痕跡で埋め尽くし、どれだけ抵抗されても俺のこと以外考えられなくしてやりたい――そんな衝動に突き動かされていた。この体勢では菫には力の逃がしどころがなく、完全に彼に押さえ込まれ、ただ激しいキスを受けるしかなかった。焦りと怒りに駆られ、彼女は彼の腕を強くつねる。司の喉から冷ややかな笑いがもれ、彼女の無力さをあざ笑うように筋肉を緊張させ、もうつねらせない。「……」菫は目尻を赤く染め、拳を握りしめて彼の背を叩く。それをまるでマッサージでもされているかのように受け取った司は、喉を鳴らして彼女の腰を抱き寄せ、さらに深く、貪るように口づける。心臓が爆発しそうなほどに追い詰められ、菫は思い切って歯を合わせ、彼の舌を噛み切ってやろうとした――だが司は先に気づき、すっと舌を引くと、逆に彼女の下唇を強く噛み、血がにじむ。「っ……!」痛みに突き動かされ、菫は彼を突き飛ばす。ちょうど手を離した司から逃れ、助手席に飛び戻った。唇を押さえ、肩で息をしながら頬が熱を帯びる。怒りなのか、それとも別の感情かがわからない。司は落ち着き払ってティッシュを取り、口元の血を拭うと、挑発的に言い放った。「どんなにあいつのことをいいと思っても、どんなに結婚したいと思っても、結局お前には思うだけしかできない」菫は荒い息のまま、強く唇を結んで睨み返す。司は鬱憤を晴らしたようにミネラルウォーターを開け、一口飲んでから無造作に告げた。「まだ睨むなら、またキスしてやるぞ」なおも菫は睨み続ける。もし勝てるなら、とっくに手を出していたはずだった。舌を噛み切り損ねたことが、今は何より悔しい。普段の菫は滅多に怒らず、たいていのことには「まあ、どうでもいい」と流す。だが司だけは別だった。幼い頃から、彼は幾通りものやり方で彼女の感情を大きく揺さぶってきた。まるで巨石のように、姿を現すたび彼女の心の湖に大きな波紋を立ててしまうのだ。いまも、食い殺しそうな視線を向ける彼女を見て、司は冷ややかに笑い、首筋を押さえ、顔をぐっと引き寄せる。「そんなに俺とキスしたいなら、素直に言えよ。回りくどい

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status