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第6話

Auteur: 白石 澪
「世の中に『椎名』って名字の人なんていくらでもいるだろ。いい加減、無茶を言うのはやめてくれないか?」

諒の表情には、次第に苛立ちが浮かび、声にももはや優しさが消えていく。

一夏は悟った――彼はもう、誰が何と言おうと星奈を悪く言われるのを許さない。完全に、彼女に心を奪われているのだ。

自分のすべてを、あんな偽物に奪われたのだと思うと、ただただ滑稽だった。

これ以上何を言っても無駄だと分かり、彼女は疲れ切ったように手を振った。

「……もう、疲れた」

その時、諒の視線がふと一夏の手に止まった。

掴み取るようにその手を握り、裂けた爪と血の跡を見て、諒は眉をひそめた。

「これ……どうしたんだ? そんなにうっかり怪我して……」

そう言うや否や、諒は一夏の手を引き、洗面台へと連れて行った。

傷口の周りにこびりついた血を、できるだけ優しく洗い流す諒。

一夏が思わず「……っ」と息を呑むと、彼はすぐに顔を上げた。

「痛むのか?」

彼女は首を振った。

――その不器用なまでの必死さに、ふと昔の面影と重なった。

大学時代、何度も怪我をしては、慌てふためく諒に医務室へ引っ張られた。

校医に「大げさね」と笑われても、彼は気にも留めなかった――そんな記憶が鮮やかに蘇った。

胸の奥がふっと温かくなり、彼が薬を塗り、包帯を巻く手元をただ見つめた。

――あの頃の諒が、ほんの少しだけ戻ってきたような気がした。

手当てを終えると、諒は「水に触れるなよ」と念を押しながら、一夏の手を引いてリビングへ戻った。

その感触に、一夏はまたあの頃を思い出す――彼の背中に守られながら歩く、あの確かな安心感を。

「……覚えてるか?大学の頃」

諒がぽつりと口を開いた。

「君、よく怪我してたよな。そのたびに医務室に連れて行って、先生に笑われてさ」

「もちろん覚えてる。さっき私も思い出してたところ。まさか同じこと言うなんて」

昏睡から目覚めて以来、初めて一夏の顔に笑みが浮かんだ。

それは過去の温もりを懐かしむ、優しい笑みだった。

その笑みに、諒の心が揺らいだ。

抑えきれず、彼は一夏の唇にそっと口づけを落とした。

一夏は目を見開き、言葉を失った。

懐かしい感触と香りに、徐々に肩の力が抜け、胸の奥に甘い温もりが広がった。

彼の腕の中に身を委ね、抱きしめ返した。

――まるで時が戻ったように。自分は諒にとって一番大事な人で、両親に愛され、彩香に大切にされる嫁だった頃に。

……だが、次の瞬間、「星奈」という名が頭を過った。

冷たい水を浴びせられたように、温もりが消えた。

一夏は勢いよく諒を突き放し、声を荒げた。

「離して!」

諒は目を見開き、信じられないという表情を浮かべた。

一夏は何も言わず、ただ目を閉じて静かに立ち尽くしていた。

諒は沈黙を破るように一歩近づき、再び抱きしめ、低く囁いた。

「……一夏。今夜だけでいい、ここにいてくれないか」

「……一緒にいてくれるの?」

一夏は諦めきれず、久しぶりにその腕に縋るように抱きつき、見上げた。瞳には淡い期待が宿っていた。

だが、諒は答えなかった。

――この五年間、彼の隣には常に星奈がいた。彼はもう慣れていた。

その逡巡の色を読み取った瞬間、一夏の心は氷の底へ沈んだ。

温もりは一瞬で砕け、耐えきれずに涙があふれた。

「……出て行って!」

彼女は諒を力いっぱい突き飛ばした。

諒は低い頭をさらに下げ、まるで罪を犯した子供のように、ただその場に立ち尽くしていた。

「……言ったでしょ! 出て行って!」

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