椎名一夏はゆっくりと目をあけた。目に飛び込んできたのは、真っ白な光景。消毒液の匂いが鼻を強く刺した。 ぼんやりとした意識の中で、彼女は自分に似た女性が目の前に立っていることに気づいた。 その女性の隣には、4、5歳ほどの男の子が立っていて、彼の目元は一夏の夫にそっくりだった 一夏は一瞬で目を覚まし、思わず尋ねた。「あなたたちは誰ですか?」 彼女は無意識に手を伸ばして、その二人を指さした。目覚めたばかりで、声はかすれていた。 その声に反応して、病室にいた他の人々が彼女の病床の周りに集まった。 彼らの顔には驚きと喜びが溢れていた。 一夏が顔を上げると、見慣れた顔があった。夫の相川諒、自分の両親、そして義母もいた。 諒は目に涙を浮かべ、彼女を優しく抱きしめ、震える声で言った。 「5年だよ、5年。一夏、やっと目を覚ましたんだな」 両親と義母もその場に立ちつくし、涙をこらえきれない様子だった。 だが、この温かな雰囲気の中で、突然その小さな男の子が走り寄ってきた。手に持っていたおもちゃを一夏に向かって投げつけ、大声で叫んだ。 「悪い女、悪い女!お前が僕のパパを奪ったんだ……!」
View More番外——諒について一夏と離婚して以来、諒はまるで魂を失った人形のように日々を過ごしていた。一瞬たりとも一夏のことを忘れる日はなく、二人が共に過ごした日々を何度も思い返していた。初めて一夏に出会ったのは、高校時代。同じ学校に通い、家も近かったため、よく一緒に登下校していた。あの頃の諒は成績が振るわず、自分に自信を持てずにいた。そんな彼を、一夏は毎日放課後に捕まえて一緒に宿題をし、苦手な箇所を教え、試験前には復習まで付き合ってくれたのだ。その後、自信に満ちた一夏を見て、諒は彼女を目標にし、一歩ずつ近づき、やがて二人は同じ大学に合格した。受験が終わったその夏休みは、二人にとって最も幸福な時間だった。諒は一夏に告白し、一夏はそれを受け入れた。彼は一夏の誕生日に手作りのケーキを用意した。見た目はあまり良くなかったが、一夏は最後まできれいに食べてくれた。一夏が目を閉じて願い事をすると、諒はそっと耳元で囁いた。「俺の彼女になってくれる?」一夏は驚いたように目を開け、恥ずかしそうに小さく頷いた。喜びに満ちた諒は、彼女の額に軽く口づけをし、どんな願いをしたのか尋ねた。まさか教えてくれるとは思っていなかったが、一夏は笑って答えた。「諒とずっと一緒にいられますように。別れませんようにって」諒は嬉しさのあまり、彼女の頭を撫でながら言った。「そんなこと、直接言っちゃダメだよ。願い事は口に出すと叶わないって、みんな言うだろ?」一夏は慌てて口を押さえた。「だって、諒が聞くから……」諒は彼女を強く抱きしめ、「大丈夫、その願いは必ず叶う。ほら、俺たちは今、こうして一緒にいるだろう?」と微笑む。一夏は安心し、残りのケーキも完食した。「初めて作ったのにこんなに美味しいなんて、すごい」と褒めた。諒は照れくさそうに鼻をかき、「これから毎年、君の誕生日には俺がケーキを作るよ」と言った。「じゃあ、私はそのたびに同じ願い事をする。一年に一度、真剣にお願いすれば、神様もきっと守ってくれるはずよね」一夏は瞳を輝かせ、期待に満ちた笑顔を見せた。今、病室でその日々を思い返す諒の胸は、苦く締めつけられる。一夏が海に身を投げたという知らせを聞いたとき、彼の目から光が完全に消えた。翌日、諒は突然と姿を消し、誰も行
一夏が決意を固めたその日、窓から差し込む日の光が、テーブルの上に置かれた、昨夜おばあさんが残してくれたうどんの椀を照らしていた。一夏の目にはうっすらと涙が滲む。ゆっくりと腰を下ろし、箸でうどんをすくって口へ運ぶ。一晩置かれたうどんは、もう出来立ての美味しさを失っていた。それでも、一夏は一口一口、噛みしめるように食べた。これはおばあさんの愛情そのもの——だからこそ、絶対に残さず食べきらなければならない。最後の一口まで、そして汁までも飲み干す。まるで、このうどんの味とおばあさんの優しさを、永遠に心に閉じ込めようとしているかのようだった。食事を終えると、一夏は弁護士を訪ね、遺言を正式に作成した。全財産をおばあさんに遺すという内容だ。手続きを終えた後、彼女はゆっくりと、しかし確固たる足取りで海辺へ向かった。幼い頃、両親に連れられて海へ遊びに行くのが大好きだった。あの頃の一夏にとって、海は果てしなく広がり、自由の象徴であった。今、数え切れないほどの痛みと葛藤を経た彼女は、この大きな海の中で、本当の自由を手に入れたいと願った。一歩、また一歩と海に入っていく。水は足首を覆い、膝を越え、腰を越え……やがて胸元まで達し、彼女はさらに深く進み、大海原と一つになろうとした。その瞬間——目の前に笑顔の父と母が現れ、家の玄関で学校帰りの彼女を待っていた。若かりし日の諒は、照れくさそうに笑いながら手を振り、「早くおいで」と呼びかけていた。数日後、おばあさんはいつものようにテレビを見ながら食事をしていた。画面には、最近毎日のように流れている行方不明者のニュースが映し出される。「椎名一夏」という名前を聞いた瞬間、おばあさんの手から箸が「カラン」と音を立てて落ちた。慌てて近所の人にも確認を取り、ようやく確信する——自分のそばにいたあの娘こそ、椎名家が必死に探していた一夏だったのだ。知らせを受けた和一と梓は、すぐに南の街へ駆けつけた。そして、一夏が残した手紙を読み、二人の頬に涙が滝のように流れ落ちた。「これは弁護士さんから預かった手紙でね……一夏ちゃんがご両親に渡してほしいって言ってたんだけど、誰なのかわからなくて置いたままだったのさ」おばあさんは震える声で説明した。「昨日、テレビであのニュースを見
その夜、皆で囲む食卓は和やかで、笑い声が絶えなかった。隣人たちは、一夏の料理の腕前を褒めそやす。一夏は心から笑みを浮かべた。——こんなふうに誰かに認められた満足感を味わうのは、本当に久しぶりだった。しかし、箸を伸ばそうとした瞬間、視界が急にぼやけ、周囲の景色が霞んだ。手に持った箸が「カシャン」と音を立て、何の前触れもなくテーブルに落ちた。突然の異変に、場は凍りついた。次の瞬間、一夏は意識を失ったかのように、手づかみで料理を掴み、機械的に口へと押し込んだ。口いっぱいに詰め込み、もう入らなくなると——「オエッ」と吐き出し、食べ物を全て吐き戻してしまった。隣人たちは痛ましい表情を浮かべ、慌てて席を立ち、一夏を介抱する。一夏はふいに正気に戻り、戸惑いの眼差しで彼らを見回した。「……あなたたちは、誰ですか?」皆は呆然とし、顔を見合わせるしかなかった。仕方なく、まずは一夏をベッドに寝かせた。その後、一夏の病状はますます不安定になっていった。思考がはっきりしている時は普通に会話できるが、発作が起きると誰のこともわからなくなり、生活が混乱に陥った。そんな日々を支えてくれたのは、近所の若夫婦と優しいおばあさんだった。やがて若夫婦は仕事の都合で引っ越してしまい、一夏は二度と彼らに会うことはなかった。けれど、おばあさんは以前と変わらず、一夏の家を訪れ、自家製の漬物を持ってきては、本当の孫娘のように接してくれた。一夏が正気の時には、手料理を振る舞っておばあさんを招き、二人で食卓を囲んだ。こうして「祖母と孫」のような関係で穏やかな日々が続いた——だが、一夏のアルツハイマーが発作を起こすたび、その平穏は破られる。ある日、おばあさんがいつものように訪ねると、一夏は失禁でズボンを濡らしていた。おばあさんは心配そうにため息をついた。「この子は……どうしてこんなにも可哀想なことになってしまったのかねぇ」一夏はきょとんとした顔で、濡れたズボンに目を落とし、自分の体から漂う臭いに気づくと、急に情緒が乱れた。手当たり次第に物を掴み叩きつけ、狂ったように暴れ出す。その混乱の中で、おばあさんは避けきれずに怪我を負った。だが彼女は気にも留めず、一夏の手を優しく撫でながら、いつもと同じように微笑んだ。「怖がら
一夏はすぐに諒と離婚の手続きを済ませた。市役所を出たその瞬間、彼女は迷いなく、スマホに残っていた諒との病院での録音を削除した。——もうこれ以上、過去に囚われても意味がない。煩わしいだけだ。別れ際、諒は名残惜しそうに目を細め、「最後に一度だけでも、一緒に食事を……」と恐る恐る提案したが、一夏はきっぱりと断った。これから先、二人はもう赤の他人なのだ。家に戻ると、一夏は静かにソファに腰を下ろし、両親から星奈と諒の近況を聞いた。星奈は警察に連行された後、「司法妨害」の容疑で即座に捜査が始まった。その調査で明らかになったのは――諒と出会ったのは偶然ではなく、彼女は以前から諒と一夏を知っていたため、わざと近づいたのだった。目的は、一夏の代わりになることだった。真実を知った諒は精神的に崩壊し、病に伏してしまった。星奈は拘置されたまま、裁判の判決を待っている。彩香は文弘と二人きりで暮らしているが、家の大黒柱を失い、生活は苦しいものだという。「文弘も不憫な子だわ……あんな母親に当たってしまって」梓は思わずため息をつき、和一は黙ったまま眉をひそめ、何か考え込んでいるようだった。両親の表情に同情が浮かんでいるのを見て、一夏の胸には複雑な感情が広がる。——もしかして、ふとした時に、彼らはまだ星奈のことを思い出し、哀れに感じたりするのだろうか。このところ、和一と梓は一夏に手厚く接し、昔のように何もかも彼女の思い通りにしてくれた。だが、一夏は知っている。あの日々にはもう戻れない。微妙な隔たりが、確かに残っている。ふと、医者の言葉を思い出す。「記憶は戻っていても、病状が回復しているとは限りません。アルツハイマーは予測不能で、いつ再発するか分かりません。常に自分の状態に注意してください」深く考えた末、一夏は大胆な決断を下した。家を出て、誰も自分を知らない場所で、新たに人生を始める――しかし、家を出てもすぐに自分が誰かを忘れてしまい、結局パトロール中の警察官に保護され、家まで送られてしまった。心配で気が気でなかった和一と梓は、一夏が無事に戻ってくると、抱きしめて離さなかった。「一夏、あなたはママのたった一人の娘だよ。もう勝手に出かけないで」梓は泣きながら訴える。和一も急いで言葉を重ねた。「辛い気持
二日続けて、和一と梓、それに彩香が見舞いに来た。しかし一夏は誰の声にも応えることはなかった。車椅子に座ったまま、窓の外をぼんやりと見つめる——いったい何を考えているのか、誰にもわからない。実は、一夏の記憶はすでに戻っていた。だが、そのことは誰にも話していない。目覚めてからの些細な出来事が、無意識に頭をよぎるたび、涙が止めどなくあふれる。——五年間の昏睡から目覚めたあの日、彼女は心の底から家族の温もりを期待していた。けれど現実は残酷だった。『身代わり』への偏愛が、胸を静かに、深く裂いていく。再び事故に遭い、記憶を失って目覚めたあと、家族は大事にしてくれた。だが、もう心の中では何もかもが静かに変わってしまった。彼女はもう、両親に可愛がられる娘でもなく、夫の心にとって唯一無二の存在でもなく、姑の目に映る従順で賢い嫁でもなかった。失われた五年の間に、別の誰かがその居場所をすっかり占めてしまっていたのだ。良くも悪くも、その人は皆の心の中にしっかり居場所を作ってしまった。——そんな状況で、自分は何事もなかったようにこの家族と暮らしていけるのだろうか?諒は「やり直したい」と言った。けれど一夏は知っている。彼は、自分が思っていたほど自分を愛してはいない。本当に愛しているなら、どうして替え玉を探し、子どもまで作るのか——。どうしても、そんな夫を受け入れることはできなかった。退院の日、一夏はついに口を開いた。だが口から出た言葉は、諒がもっとも聞きたくなかったものだった。「諒……私たち、離婚しましょう」その日、和一と梓、彩香も来ていた。みんな荷物を整理しながら、あちこち動き回っていた。荷物をまとめていた諒の手が、その言葉を聞いた瞬間、ピタリと止まった。顔色が一気に青ざめる。「……本当に、もう、チャンスはないのか?」諒はゆっくりと、一夏のそばに跪いた。その瞳は、深い悲しみと懇願で濡れている。「……記憶が戻ったの」冷えた声で告げる一夏の瞳には、一片の温もりもなかった。数日前、ようやく見せた笑顔は、もうそこにはない。諒は言葉を失い、うつむいた。まるで全ての力を失ったかのように。しばらくして、ようやく絞り出すように言った。「……それが君の望みなら、わかった」
諒の顔色は、一瞬で真っ青になった。口を開こうとしたが、喉に何かが詰まったようで、言葉が出てこない。一夏はその様子をじっと見つめ、胸の奥で「ドクン」と嫌な音がした。全身に嫌な予感が走る。それでも、わずかな期待を胸に、諒の答えを待った。「……実は……文弘は、俺と星奈の子なんだ」その瞬間、「カラン」と高い音が響く。一夏の手からフォークが滑り落ち、床に転がったのだ。目を見開き、信じられないという表情で固まる。頬に浮かんでいた微笑みは、冷たい風に吹き消されるように、一瞬で消え去った。「一夏、これには……事情があったんだ。お願いだから聞いてくれ!」諒は慌てて一夏のそばに駆け寄り、抱きしめようとするが、一夏は強く突き放した。「母さんは、星奈を私の『代わり』だって言ってた……でも、まさかその『代わり』に同居させて、子どもまで産ませるなんて……諒、それは重婚よ。犯罪なのよ!」冷え切った視線を諒に向け、一言一言を噛みしめるように吐き出す。「……一夏、落ち着いて。あの時、俺は本当に壊れかけていたんだ。君が事故に遭ってから、俺は何もかも失った気がして……君にそっくりな星奈を見て、つい彼女を君の代わりだと思い込んでしまった。それで……あんなことに……でも今は違う。君も見ただろう、俺はもう彼女と縁を切ったんだ!」諒は必死に弁解し、両手で一夏の肩を掴み、真正面から目を合わせようとした。だが、一夏の胸に広がっているのは、嫌悪だけだった。諒の顔も声も、吐き気を催すほどに不快だった。諒が何か言いかけた瞬間、「パパ!」という高い声が割り込む。文弘だった。彩香に手を引かれ、病室に入ってきたのだ。文弘の顔に、星奈の面影を見つけた一夏は、思わず皮肉げに笑った。「子どもまで作って……それでも言い訳をするつもり?」事故の日の記憶、星奈の卑劣な企み——すべてが胸を締めつける。二度も同じ男に騙された自分が、哀れで仕方なかった。「文弘がどうしてもパパに会いたいって……仕方なく連れてきたのよ」彩香は病室の張りつめた空気に気づき、困ったように言った。文弘は彩香の手を振り払い、諒に駆け寄って服の裾をぎゅっと掴む。「パパ、遊びに行こうよ!」返事がないと、くるりと振り返り、一夏を睨みつけた。「悪い女! ママを警察に
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